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 ずっと笑って
                    阿羅本 景

「……久しぶりに倒れたな、お前。ここのところお前がぶっ倒れなかったから、
こーいう事態があることを忘れてたな、いや、久しぶり久しぶり」

 俺の腕を掴んで肩に掛ける有彦が、何となしに嬉しそうな声で言う。
 抜かせ――と思うが、頭の中に黒い犬が居座ってぐるぐる駆け回るような俺
の今の体調だと、百言いたいことがあっても一も言えるかどうかが怪しい。お
まけのこの黒い犬は所構わず俺の中に噛みつき、頭蓋骨の中がしくしくと痛む。

 こうやって肩を貸されて歩くのも辛く、その場で膝を折ってしゃがみ込んで
しまいたくなるような虚脱感。だが、有彦に肩を貸されても負ぶわれるという
のだけは避けたかった。小学生の頃はともかく、高校二年にまでなってそんな
みっともない真似はされたくない。後輩の目にも背負われる俺はどういう目で
見られるかと思うと……

 ――うー、気分悪ぅ。

「なんだ、最近お前調子よかったみたいだけど、なんか不摂生でもしたのか?」

 不摂生……有間の家でも遠野の家でも、あまり縁のない言葉だった。
 特に遠野家になると、俺の世話をしてくれる翡翠もいるから早々無茶な生活
習慣というものも出来ない。もっとも今翡翠が料理しているから、それが体調
不良の原因かも知れないけども……

 いや、原因というのは一つしか考えられない。
 最近……琥珀さんとセックスをしていないこと。

 琥珀さんは妹の翡翠と同じ共感能力者で、幼い頃の事件で魂を半分しか持っ
ていない俺の欠陥を補うべく、その共感の力で俺を支えてくれている。だが、
その共感の力を媒介するのは……何の因果か性行為そのものであり、琥珀さん
が毎週末やってくる事に身体を交えるのであった。

 だけども、琥珀さんが信州から先週やってこれなかった。
 集中豪雨があって単線の鉄道線路が痛めつけられて、運休になっているとい
う。それが悪いことに先週末に重なって、琥珀さんはやってこれなかった。
 電話ではお互いの無事を確認できたけども、琥珀さんのいない夜というのは
なんとも味気なく、独り寝の寂しさに涙したものだった。

 だが、それがこんな風に祟るとは……

「……なんだ、遠野、お前死体みたいだな、今日は」

 縁起でもないことを言う有彦に言い返せない自分が悔しい。口を開くと出て
くるのはうーとかあーとかいう情けないうめき声ばかり。
 しかし、ここまでの体力の衰えがあるというのは情けない。昔より身体は悪
くなっているような気がする……それだけ、俺は琥珀さんの共感の力に頼り切っ
た身体になってしまったと言うことか。

 しかしそれは仕方がない。俺の魂は秋葉が己の血を押さえ込むのに注ぎ込ま
れていて、俺はすっからかんの所を琥珀さんによって生かされている様なもの
だった。まさか一週間半そこいらでこんなに情けない事態になるとは。

 忸怩たる思いの俺は、鉛の詰め込まれたような頭を持ち上げる。そして、錆
び付いた顎の関節を動かして、なんとか口を開く。情けない、今の俺はまった
く有彦の言うとおり生きている死体みたいなものだ。

「……すまん。有彦」
「なんだ、俺とお前の仲だ。気にしちゃいない……もしお前に少しでもお返し
しようとか思う殊勝な心がけがあったなら……」

 有彦がにやり、と笑ったような気がした。

「お前の妹の秋葉ちゃんを俺に紹介してくれるとかな!」
「断る」

 ぐえ!

 その瞬間俺は有彦に手を離されて、糸のもつれたマリオネットのように崩れ
落ちた。
 俺のぼやけた視界の中でどんどん床が近くなっていって、あああ、校舎の床っ
て硬くて痛そうだなぁ、と思う。でも俺の身体は思うに任せなくて……

「お、悪い悪い、手が滑った」
 
 俺の身体の落下はストップして、空中で止まる。有彦が俺の腕をつかみ取っ
ていたからだった。そして何事もなかったかのようにこいつは俺の身体を担
ぎ直す。
 まったく俺が無抵抗な病人だとおもってやりたい放題気象台……

 だが、命の危険を察したのか、俺の身体は有彦に口答えするぐらいの体力を
ひねり出してくる。ようやく俺は有彦に一矢報いようと口を開いた。

「病人虐待はんたーい」
「お前さん、病人である自覚があるんならこーゆー風に突然ぶっ倒れてに他人
に迷惑を掛けずにベッドで寝てろ。で、何で俺を秋葉ちゃんに紹介するのが嫌
なんだ」
「……お前を義弟、と呼ぶのがイヤ」
「……俺はお前をお義兄さんと呼びたくて呼びたくて堪らないんだけどな。な
るほど家族と本人の志向の不一致か、これは幸せな家族を築く上での重大な問
題……」

 ……うう、有彦の声がガンガンと耳元から頭の中で……喋っている内容も俺
の仲の頭痛を倍加させる。俺は脚を引きずり、息する空気も粘りけがあって辛
い中でなんとか言い返そうとする。

「じゃぁ、俺が一子さんと結婚してお前を『やぁ!義弟の有彦くん!』と呼ぶ
のをお前は……」
「……なるほど、それはイヤだな。うむ、これは解決すべき課題だな……とこ
ろで遠野」

 階段をもつれる脚で下っていき、保健室のある1Fに降りたときに、有彦が
尋ねてくる。
 もう少しで楽になれるのか、と思っていた俺は、うぁ、と生返事を返す。

「保険室の保護教諭、替わったの知ってるか?」
「へぇ……それは初耳」

 その通りだった。今まで保護教諭というと三〇がらみの愛想のいいおばちゃ
んの先生で、俺は何度も顔を合わせていたが、ここのところ調子が良くて保
健室を訪れることはなかった。だから、替わったとしても顔を合わせる機会
がそもそも無かったわけだから……
 有彦は俺の答えに、やれやれと首を振っている。

「まったく全校一二を誇る保健室の主である遠野が情けないことを……」
「嬉しくない称号だ、それは……で、どんな先生なんだ?」

 俺は俯いて床を眺めながら、脚を引きずって歩く。まったくこの体調の悪さ
は不甲斐ない。
 俺の何気ない質問に、有彦はふーん、と軽く鼻を鳴らした後に、ふっふっふっ
ふと薄気味悪く笑う。あいつの顔に人の悪い笑いが浮かんでいる、と思うと顔を
上げて眺める気にもなれない。

「ははぁ、流石遠野だ、若いおねーさんにはいつも興味津々とはねぇ」
「……冤罪だ、それは。若いおねーさんであることも今知ったんだぞ……で、
名前は?」
「えーっと、なんて言ったっけな……まぁとにかく綺麗な人でな、ここ数週間
は男子生徒の話題の中心だったんだが、その辺は唐変木のお前が知る由もないか」

 ……なるほど、世間ではそんなことがあったのか、と思わず頷いてしまう俺。
もっとも俺には琥珀さんがいるわけであって、喩え保健の先生が絶世の美女で
あってもあまり関係のないこと……まぁ、嫌われないようには努力しないと。

「さて、着いたぞ遠野。失礼しまーす!」

 有彦が俺を担ぎながら、がらりと保健室の引き戸を開く。
 その中には嗅ぎなれた、エーテルのつんとした匂いの漂う空気が……しなかった。
 何故か不思議なふわり、と漂うお香の香り。

 ……この香り、どこかで嗅いだことがある。記憶の中に微かに染み込んだ香
りだった。一体どこで嗅いだのか……啓子さんの着物の香りでも、琥珀さんの
肌の香りでもなく、ひどく忘れがたい記憶に結びついた……

「2年の乾でーす、遠野が倒れたんでベッドを借りに来ました」
「あらまぁ……遠野、くん?」

 その声は、俺には忘れがたい声だった。
 俺は頭を上げてその声の主を見つめようとしたが――出来なかった。気分の
悪さで指一本を動かすのも億劫だったこともあるし、それ以上に……まるでだ
るまさんがころんだをするように、身動きしてはいけないという理由のない思
いに駆られる。
 いや、それは……この人に今会うとは思っていなかった動揺か、それともほ
ろ苦い青春の思い出か。

 俺の視界の中にあるのは、白衣の裾とシックなタイトスカート、そこから伸
びるすらりとしたストッキングの脚とパンプスだった。それ以上は、凍り付い
たような俺には見えない……。

 ひゅー、と細く有彦が口笛を吹いたような気がした。

「そうです、遠野です、この学校一の病弱男。先生は初めてでしたよね、ええ
と……」
「時南よ、乾くん。遠野くんの気分が悪いの……そう、じゃぁ奥のベッドに……」

 ああ、その名前。もはや間違えようがない。
 柔らかい女性の声を聞くと、有彦は俺をカーテンの奥のベッドに引きずって
いく。ベッドは数は少ないけども、ここを使う生徒はあまり多くないから……
俺は有彦になすがままに連れていかれ、ベッドに腰掛けさせられた。

 俺はベッドに座り込んで、項垂れたままどうしたらいいか――わからない。

「……時南先生、じゃぁ遠野を連れてきましたんで……そうそう、こいつはし
ばらく寝ていると直ると思いますから、その時には連れ戻しに来ますよ」
「そう……乾くんは、遠野くんのことをよく知ってるのね?」

 先生はそう、ほんの少し甘く聞いた。有彦はしばし逡巡したみたいだったけ
ども、この具合の悪い俺を見たのだろうか?
 はぁ、と溜息一つ呉れて有彦は愚痴る。

「まぁ、こいつの保護者みたいなものですから」
「ふふふっ、そうね……じゃぁ、遠野くんの看護は私がするわ、ありがとう、
乾くん」
「どういたしまして。いやいや、先生みたいな女性に誉められるのでしたら遠
野の野郎は一人や二人、楽勝ですよ」

 有彦の奴は、鼻歌混じりにスキップして保健室から去っていく。
 美人にいい顔をされればあいつとしてもご機嫌なんだろう。現金な奴だ……
 なんで俺がこの先生の顔を見ないで美人だと言いきれるかと言えば、それは――
この先生の顔を俺はよく知っているからだった。
 
 俺は俯いたままで、掠れる声で尋ねる。

「朱鷺恵さん……どうして……」


                                      《つづく》