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スリッパとバスタオルを巻いただけの恰好で、晶はぺたぺたと廊下を進んでいた。
服を着ようと思ったのだけども、志貴が「先にお風呂を浴びた方がいいよ」
と言われたから、こういうしどけのないスタイルで歩いているのであった。
晶は左右をきょろきょろ見回して、志貴に言われた二階のバスルームを探す。
こんな恰好でうろうろすることは晶にとっては普段はないことであったが、
この誰もいない遠野邸でならいいかも……と、微かに思うところがあった。
誰もいない――晶は尊敬してはいるがまた一面では天敵とも言える、遠野秋
葉が一族の行事で出掛けているからであった。それも、お付きの琥珀と珍しく
も翡翠を伴って。
それは、志貴にとっては一つのチャンスであった。かねてから深い仲になっ
ている瀬尾 晶との関係を一気に深める好機――それも、寝室で。
志貴の望みに晶も応えて、こうして誰もいない遠野邸で二人の秘めやかな初
めての夜が繰り広げられていたのであった。
晶は誰もいない、明かりの落とした廊下の中を不安そうに歩いていた。そして、
を見つけて開くと、片手でドアの脇のスイッチを探し、薄暗い脱衣所を
照らし出そうとする。
カチリとスイッチの音が鳴り、硝子のシェード越しの柔らかい白熱灯の光が
満ちる。
「……お邪魔します……お風呂、使わさせていただきます」
誰もいない脱衣所にぺこりと頭を下げると、晶はおずおずと入る。
そして籐の駕籠に畳んだ服を入れると、晶の瞳には大きな洗面所の鏡が目に
入っていた。金の彫刻の縁飾りが施されており、これも金と琺瑯の白のまぶし
い洗面台と一体となった見事な調度であった。脱衣所すらこの装飾であり、む
しろ志貴の部屋の飾り気の無さこそがこの屋敷の中では例外的なのかも、と晶
には思えた。
そして、晶はその洗面台の前に立つ。鏡の中にある自分の顔を、晶は見つめる。
「女の子」から「女性」になった自分の顔は……あまり変わりがない様に思
える晶だった。短い髪は柔らかそうでも、顔が一段と色艶に満ちたわけではな
い。友達に明日会っても、きっと昨日と変わらないというだろうと……
「……遠野先輩は、あんなに大人っぽいのになぁ……私はこんなに子供っぽくて」
晶はふぅ、と息を吐くと洗面台に肘を付いて、己の顔をしげしげと見つめる。
そんな晶が考えていたのは、遠野秋葉の顔であった。2年上の高等部の先輩
であり、浅上女学園の学生の大立者であったが、晶とも接する機会は多かった。
志貴がらみでは怖い思いをすることもしばしであったが、晶はそんな秋葉の
瑞々しい女性としての充実振りを羨ましく思っていた。しっとりとして意志が
あって大人びた秋葉の毅然とした顔。
「……ああいう風に、私もなれるかな?」
晶は鏡の中に浮かんだ自分と、秋葉の顔にそう問うた。
そして――その瞬間、全てが凍り付いてしまった。
鏡の中の秋葉の顔は、すぅと目を細めて――笑っていた。
まるで夢魔が鏡越しに現れ出て、心に突き刺して邪悪に笑うかのように
晶は、鏡を見つめて動けなかった。
自分の顔の横には、間違いなく秋葉の顔が映っていた。それも顔だけではな
く、首から下の身体も。バスタオルを巻いて肩だけ出した晶の後ろに、外行き
のきちんとした洋服姿の秋葉の身体が半分重なっていて……
……それは、幻覚ではなかった。幻覚の方が有り難かったかもしれないが、
現実にこの鏡はは現として――遠野秋葉が、晶の背中に立っている事を意味し
ていた。
晶は口を開いて何かを言おうとするが、のどが絞められたように声が出ない。
ぱくぱく動く晶の口を鏡越しに秋葉は見ると、にやりと笑って……
「あら、瀬尾。いらっしゃい。来ているとは思わなかったわ」
鏡の中の鏡像はそう、遠野秋葉の冷ややかな声を吐き出していた。
そしてその声は――晶の背中の方から、間違いなく聞こえている。
もはや、疑うべくはなにもなく……晶の背中には秋葉が控えていると。
「せ、せ、せんぱい……」
硬くなった喉で何と過疎の言葉を吐き出すと、晶はさび付いた様に振り返る。
鏡の中にあった秋葉の顔が視界から消え、その代わりに……今度は疑いよう
のないすらりとした秋葉の姿が映る。
晶はその姿を見ると、膝が言うことを聞かなくなっているのがわかったが、
もはや身体は凍り付いてしまっている。目の前にあるのは静かな脅威を湛えた
秋葉の冷たい笑いがあるのだから――
「……その、先輩、ご、ごめんなさいっ!」
晶はぺたりとその場に座り込んでしまいたかったが、腰がゴツンと洗面台に
当たる。そして洗面台の上にタオル一枚で腰掛ける形になってしまった晶は、
頭を抱え込むようにして縮こまる。 秋葉はその様子を見つめていたが、晶の
謝罪の言葉を耳にして、ぴくり――と細い指先を動かした。
秋葉は表情を崩さず、問う。
「あら……私に謝ることが何かあって?瀬尾」
秋葉はす、と脚を一歩進める。
晶は視界の中の秋葉の姿が大きくなると、ますます身を縮こませる。そして
ちらと周りを見て逃げ道を探すが……洗面台に腰掛けてしまい、なおかつ目の
前を秋葉に塞がれ、脱衣所の入り口も遠い今の状況はまさに袋の鼠、という感
じであった。
「ひ、ひ、ひぃ……その……」
「貴女の口から何に対して謝るのかを言って貰わないと、私はその謝罪を受け
るわけにはいかないわ。そういう、曖昧になぁなぁで済ませてしまうのは嫌い
だから……そのことは知っているわよね?瀬尾」
秋葉が言い放つと、晶はこくこくと頷く。
だが、続く言葉がない。晶はもう一歩、晶に詰め寄る。
「せせ、先輩、その、今日はお出かけだと聞いたもので……」
しどろもどろになって何とか弁明の糸口を探そうとする晶の努力に対して、
秋葉が報いたのは冷笑において、であった。口元に手を当ててふん、と笑うと、
腰に手を当てて顎を上げ威圧的に構える。
その姿勢だけで、晶を萎縮させきってしまうには十分すぎるほどであった。
「ええ、でも用事は早めに終わったから……本当の予定では明日まで戻らない
ことになっていたけど。で、貴女は勝手に私の家に訪問したことを謝っているの?
それなら心配は要らないわ――瀬尾を招いたのは兄さんですから、もし非礼
があったとしても責任を負うべきは兄さんですから」
兄さん、の言葉にアクセントを置く秋葉と、その殊更の強い語調に縮み上がる晶。
頭を抱え込んでしまって言葉がない晶に業を煮やした秋葉は、すっと腕を伸
ばすと――晶の首筋と顎に、両手を添える。
そして、ぐいと顎を引き起こすと……
「あ……う……」
「謝るのだったら、人の目を見なさい。瀬尾」
秋葉の朱を宿しながらも黒く輝く瞳が、晶の眼を直に覗き込む。
身体を握られ、眼を覗き込まれて晶はまさに絶体絶命の境地に己が居ること
を悟った。秋葉の眼は鋭く、自分が一欠片でも嘘や偽りを巡らせようとしただ
けで用意にそれを見破るだろう。そして、そうなれば……首に掛かっている秋
葉の手は容赦すまいと。
殺されることはない、とは思いながらを晶は身体を震えるのを止められなかった。
洗面台に着いたままの手が震え、巻いて胸の所で止めたタオルがはらりと解
ける。白いタオルはゆっくりと晶の胸元から解けてこぼれる。
「……もしかして瀬尾が謝りたいのは、私の家の風呂を借りようとしたこと?」
「そ、その、それも……」
「ふっ、かまわなくってよ……この家の風呂場くらいなら、喜んで瀬尾になら
貸してあげますわ。もしご希望なら琥珀に身体を流させてもいいけども……」
秋葉は腕を動かさずに、晶の身体を見下ろす。
まだ膨らみきっていない線の細い身体。胸は秋葉と同じくらいで、その意味
では似ていなくもない。眼を下げると薄く柔らかい恥毛に被われた股間が脚の
隙間に見える。
秋葉は目の前の晶の身体を眼にして、微かに口元で笑う。
「……さて、そうなると瀬尾、貴女は何を謝りたいのか……あら?」
不意に秋葉の鼻が、くんくんと動く。
「血の――薫りがするわ」
《つづく》
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