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 その少女は、小走りに庭を走ってきた。
 サッカーグラウンドの半分ほどもある遠野家の前庭は、噴水や植え込みなど
で美しく整えられている。その中を、わずかにウェーブの懸かった髪の長い少
女が、大きなスポーツバッグを小脇に抱えて走る。

 ジャッジャッと玉砂利を蹴立てて走る音が、微かな噴水の音しかない庭に響
く。中国風の詰め襟の上着とスパッツ姿で、ほっそりした脚はまだ女性らしさ
を感じない。鼻梁の通った顔は眼がおおきく、はきはきとした躍動的な若い美
しさに満ちていた。

 走るお子さま――有間都古であった。

「いらっしゃいましたね……」
「ああ……」

 遠野邸のポーチで待ちかまえている琥珀と志貴が、ひそひそと言い交わす。
 小一年ほど合わなかった少女の姿を眼にする志貴は、微かに口元がにやつく
のを抑えられない。ともするとにへっと笑い崩れそうになる志貴の顔を、不満
そうに見つめる視線があった。

「……何をにやけて居るんですか、兄さん」
「え?おれ?にやけている?本当?」

 ジト眼で志貴を見つめる秋葉は、はぐらかすような志貴の答えにぷっと頬を
膨らませる。
 秋葉は最初、都古がやってくることに難色を示していた。親族嫌いの私が何
故、と志貴と琥珀に食ってかかったが、有間家はあまり迷惑を掛けている家柄
ではなく、むしろ志貴養育の八年間の貸しもある以上、秋葉としても強い態度
に出にくいところがあった。

 さらに、都古は罪のない小学生の女の子である。それをやってくるのを嫌う
高校生の秋葉、というのは如何にも大人げない話であった。
 反論、というよりも拗ねたような抗弁をする秋葉をなんとか志貴と琥珀が宥
めたが、止めを撃ったのは翡翠であった。

『秋葉さま、都古さまの寝室の支度は終わりました』

 もはや滞在を既成事実として扱う翡翠の口調に、思わず鼻白んでしまった秋
葉はそこで渋々ながら都古の来訪を認めることになった。

 そして土曜の午後、志貴と秋葉はこうやって都古を迎えるために玄関口まで
来ていた。どちらかというと、当主として応接間に控えていたい秋葉を無理矢
理志貴が連れだした様な形であったが……

 それゆえに、秋葉はむすっと機嫌を害している様子であった。
 その内心、志貴の『妹』である自分よりも『妹』らしい少女の存在に、嫉妬
していることを隠すかのような――

 秋葉はじろり、と志貴の顔を一瞥すると一言。

「兄さん。兄さんは有間の人間ではないのです。遠野家の人間として恥ずかし
くないように一族の人間に接して下さい。お分かりですか?」
「遠野らしい……いや、分かったからそんな顔するなって、秋葉」
「あはっ、秋葉様も志貴さんも、都古ちゃんに聞こえてしまいますよー」

 そう言われて志貴は秋葉から、足音高く走り寄ってくる都古に身体を向ける。
 門に入ってくるころは小走りだった都古の足取りは、すでに全力疾走に近い
速度になっていた。髪を風に舞わせて走ってくる都古――

 志貴は腕を広げて、おもむろに微笑んで――

「志貴お兄ちゃん!」

 ドグゥ!とものすごい音がした。

 その瞬間を、琥珀と秋葉は見つめていた。
 琥珀はいつもの笑みがその瞬間、凍り付いた。
 内心「お兄ちゃん、とは……」と苦く思った秋葉も、顔を引きつらせる。

 その音を聞いた志貴は、耳から聞こえなかったことを悟った。
 それは、身体の中心から骨と肉を伝って耳、と言うか脊髄を揺さぶる――

「ゲホォッ!」

 志貴の肺が意に反して空気を吐き出し、声にならない息となる。
 なぜなら、全力で走り込んできた都古のスポーツバックと肘と肩と頭……そ
れが志貴の胸に炸裂してからであった。
 全力を込めてのタックル。おまけにぶつかる瞬間にご丁寧にも踏み込みまで
入っていた。

 どちらかというと、中国拳法の八極拳のような一撃。
 それをまともに食らってしまった志貴は、いきなりふっ飛びかける意識の中
で呻く。

 ――忘れてた……

 少し会わないうちに都古のタックル癖をすっかり忘れていしまった志貴のミ
スであった。
 ただ、仰向けにここで倒れるのは志貴のなけなしのプライドが許さなかった。
両膝に渾身の力を込めて身体を保ち、ともすれば血を吐きそうな気がする胸を
押さえて笑顔を作り、効いていないとばかりに穏やかな声で……

「お、お久しぶり、都古ちゃん。迷わなかった?」
「ううん、全然。坂の上の遠野様のお屋敷だから、迷うはずがないよー」

 志貴の胸の中に抱きつく都古は、にこにこ笑いながら志貴の顔を見上げた。
 前にあったときよりは、志貴には背が伸びたような気がする。育ち盛りのお
子さまだから当然のことであったが、志貴には意外にも思えた。

「……大きくなったな?」
「うん、クラスの女の子で5番目。志貴お兄ちゃんも元気?身体大丈夫?」

 よく倒れる志貴の事を間近で見ていた少女の言葉に、志貴は苦笑する。
 先輩とかといろいろ会ったけど、昔よりは良くなった――そう思った志貴で
あったが、その辺は曖昧に笑って堪えなかった。

 ただそのかわり、「お兄ちゃん」と都古が喋るたびに、自分の背後で歯軋り
が鳴る様な気がしていた。相変わらず意識が飛びそうな痛みの中で首だけ振り
返ると……

 そこには、ごく冷静な顔をしながらも、眼だけが怒っている秋葉が居た。
 琥珀もその傍らで、一撃以来引きつったような笑顔で志貴を見つめている。

 ――そうだよな、うん、やっぱり驚くか

 志貴はぽんと都古の背中をたたくと、この館を表から裏から支配する二人の
女性の前に、少女を押し出す。
 都古は顔を見上げたまま首を傾げていたが、女性の冷ややかとも言える視線
を受けると――

「都古ちゃん、挨拶を」
「あ、うん……この度はこちらにお世話になります、有間都古ともうします。
 有間の家の突然の事で些かご迷惑をお掛けいたします。至らぬ身ではありま
すが何卒よろしくお願いいたします」

 小学生らしからぬ、落ち着いた挨拶であった。
 さすがに茶道の家元としての有間の家柄が偲ばれる礼儀の正しさであった。
 秋葉も礼儀正しく振る舞われて悪く思わないだけに、ごく余裕を持って応える。

「ようこそ、遠野にいらっしゃい。都古ちゃん」
「はい!秋葉お姉さん」

 その時、秋葉は何とも言えない不思議な顔をした。
 「遠野先輩」と姓を呼ばれることはあっても、「秋葉お姉さん」と名前に姉
と付けて呼ばれるのは生まれて初めてであり、秋葉は誰のことを呼ばれたのか
分からないような困惑の色を一瞬浮かべる。だが、すぐに自分のことだと悟る
と、小恥ずかしいようなくすぐったいような思いに駆られ、それを隠すかのよ
うについ、と傍らの琥珀に目線を移す。

 そこでは琥珀は、人の悪い笑みを秋葉だけには見せていた。
 曰わく――秋葉さまの負けですねー、と。

 一言だけで秋葉の動揺を誘った都古の言葉を、秋葉も認めない訳にはいかな
かった。渋々志貴を見つめると、こちらは唐変木そのもののきょとんとした顔
をしている。

 ――まったく兄さんは何も分かってない……

 つい愚痴り掛けた口を秋葉はきゅっと引き結ぶと手短に琥珀と、遅れてポー
チに現れた翡翠に命じる。

「翡翠?都古さんの荷物をお預かりしてお部屋に案内して。琥珀は応接間でお
茶の準備を」
「かしこまりました、秋葉さま。それでは都古さま、こちらに……」
「うん、あ、ありがとう……」

 生まれて初めて見るメイドに、気後れしてしまう都古の肩を志貴は軽く叩く。

「じゃ、先に翡翠と部屋に、都古ちゃん。下で待っているから」
「あ、志貴お兄ちゃん……うん、じゃねっ!」

 一抱えもあるスポーツバッグを翡翠に渡すと、それを軽々と手に取り翡翠は
都古を案内して館に招き入れる。昔の俺もあんな感じだったな……と志貴は懐
かしくも思ったが――

 秋葉が一人ぷりぷりと一人でやり場のない怒りを空中に放ちながらその場を
去ると、志貴は遅れたようにその場に――跪いた。
 今までずっと無理をしていたダメージに堪えかね、巨木が雷に撃たれてしば
ししてから燃え燻って倒れるように……

「ぐぇほ、げほ、グハ……」
「あー、大丈夫ですか?志貴さん?」

 膝を突いてうずくまる志貴の背中に、心配そうに琥珀が呼びかける。
 背中を丸めて痛みに堪える志貴であったが、それでも手だけをだしてひらひ
らと振り、「心配ない」と言いたそうな志貴であったが……言いたいことと身
体の様子は正反対であった。

「都古ちゃんって、あんな風に凄いタックルをするんですね?」
「忘れていた俺が悪い……大丈夫、折れてないから……」

 志貴は小声で喋ると、なんとか首だけを上げて答えた。だがそれが限界らし
く、しゃがみ込んだ姿勢のまま動かなくなる。
 琥珀は小首を傾げてしばし志貴を見つめていたがそっと一言声を掛ける。

「……志貴さん、湿布、いりますかー?」
「貰えれば有り難い……」

 こうして、小さな台風の様な少女が遠野邸に上陸した――

                                      《つづく》