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 Something Especial

                       阿羅本 景



『はい、遠野でございます……あらまぁ、これはお久しぶりでございます……』

 学校帰りの志貴が翡翠と共に廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから琥
珀の声が聞こえた。持たなくても良いと言いながらも相変わらず志貴は鞄を翡
翠に奪われ、二階の己の部屋に向かう途中のことであった。

「……あれ?誰かからの電話かな?」
「…………」

 志貴がそう何気なく翡翠に話を振ってみるが、振られた澎の翡翠はそれを自
分に向けて話された言葉ではなく、志貴の独り言として取ったようであった。
ただ仏頂面で黙り込んでいる翡翠に顔を向けた志貴は、手応えのなさに拍子抜
けしてしまう。

「はい……まぁそれは……はい、はい、構いません、歓迎させていただきます
わ、啓子様」

 廊下の向こうの声がその名前を口にした途端に、志貴は脚を止めて振り返る。
 思わぬ所で思わぬ名前を聞いただけあって、志貴は驚きを隠しきれない顔
色であった。

「け……啓子サン?」
「……有間啓子様でしょうか?志貴さま」

 今度は翡翠も反応を示す。啓子、の名前には志貴のみならず。翡翠にも覚え
があったからであった。
 有間啓子。有間家の夫人で、ともすると志貴が「お母さん」と呼んでいたか
も知れない女性。

 ただ、志貴がその呼び方で決して啓子のことを呼ぶことはなかった。いや、
そう呼ぶことを恐れるかのように振る舞い、身近に暮らして情が移ることを嫌
うかのように有彦の家に逃げ込んでいた志貴であったのだから。
 ただ、遠野の家に戻ってその名を再び聞くと、幼い日の懐かしさと、胸が微
かに締め付けられるような悔恨を憶える志貴であった。

 ――せめて本心からでなくても、「母さん」と呼ぶべきだったのか

 今になってはそう思うが、昔の志貴にはそう思う余裕すらなかった。それは
置き去りにしてしまった秋葉や翡翠、そして琥珀との繋がりが「遠野」ではな
く「有間」という名になった時に薄れて消えてしまうことを心のどこかで危惧
していたからか……

 志貴の脚は、ふらりと琥珀の声の方に向かっていた。

「……志貴さま?そちらはお部屋の方ではございませんが?」

 翡翠が後ろから訝しげに聞くが、志貴はひらひらと軽く手を振って黙らせて
しまう。心ここにあらず、といった風情で志貴は歩き続ける。
 志貴の耳に、次第に琥珀の声が大きくなっていった。

「はい、はい……あらそうですか?志貴さまもお元気で……いえいえ、都古ちゃ
んですねー」

 また懐かしい名前を聞くな……と志貴は思った。
 妹みたいで、妹に結局なれなかった少女。歳は離れていた都古にとっては志
貴は兄以外の何でもなかったであろう。有間の家の名前は志貴の胸に甘く苦い
思いを思い出させる。

 志貴が廊下を曲がると、そこには電話台の上の古風なダイヤル電話を耳にし
た琥珀がいた。足音に気が付いて琥珀は振り返ると、相好を崩して受話器から
顔を離す。
 琥珀は送話口を手で押さえて、志貴に会釈をする。

「ただいま……琥珀さん」
「お帰りなさいませ、志貴さん。今丁度有間さまよりお電話がございまして……」
「めずらしいね、有間の家から電話があるだなんて」

 志貴に遅れて、鞄を抱えた翡翠が姿を現す。翡翠は表情を崩さずに志貴の後
ろにぴったりと控えていて、そのつかず離れずの光景を見て琥珀は思わず微笑
んでしまう。
 昔は翡翠ちゃんが志貴さんを引っぱっていたけども、今は逆なのね――そん
な何でもないはずの想いだったのに、彼女の中の古傷がしくりと痛む。

 ――あれは私じゃない、誰かの不幸な記憶

 琥珀は努めて表情を変えずに、手で蓋をした受話器を差し出す。差し出され
た方の志貴は首を傾げるが。翡翠は小声で志貴に囁きかける。

「志貴さま、良い機会です、啓子様とお話を……」
「え?俺……あああ、いいよ、啓子さんにはよろしく言っておいて」
「そんなことを言わずに志貴さん、はい!」

 無理に琥珀は志貴に受話器を押しつけて手を離す。手に受話器を握り込まさ
れてしまった志貴は眼を手元に注いだまま、どう行動をとったらいいのか分か
らず呆然としてしまう。
 そんな戯けた琥珀の挙動に、志貴の後ろに控える翡翠は眉根を寄せて声を上
げた。

「姉さん!志貴さまは結構だと仰った……」
「そんなに声を荒げないで、翡翠ちゃん。向こうに聞こえちゃうから」
「……でも、姉さん……」

 翡翠と琥珀が一瞬高めた声を抑えて言い合いをしようとする矢先に、志貴は
受話器を握り直した。そしてのろのろと耳に宛い、軽く深呼吸をすると……

「……お久しぶりです、啓子さん」
「あら、志貴くん……」

 おっとりとした女性の落ち着いた声であった。
 志貴の取って、記憶すべき母の声とでもいうべきであったが――理性はこの
声は母の声ではないと言おうとする。感覚と理性の齟齬に志貴は口を閉ざし、
しばし目を閉ざして落ち着こうとする。

「……遠野の家では元気ですごしているの?志貴くん」
「はい、おかげさまで……妹の秋葉とも、昔ほどではないにしても……うまく
やっています」

 志貴は出来る限り冷静に振る舞って言葉を選んでいく。
 翡翠と琥珀は、そんな緊張の色が浮かぶ志貴の顔を心配そうに、あるいは楽
しそうに見守っていた。志貴は次に翡翠や琥珀のことを話そうかと思ったが、
先に電話口の啓子が話し始める。

「そうそう、妹、といえば琥珀さんにもお話ししたんだけど、うちの都古を」
「都古ちゃんですか?元気……ですよね」

 志貴の記憶の中にある都古は、とにかく元気な少女であった。
 どん、と何も言わずに胸にぶつかってきた感覚すら懐かしい。女の子にして
は饒舌なほうではなく、むしろはにかむ様な女の子ではあったが

 ――懐かしいな、また逢いたいものだ……

「しばらくそちらに預けようと思って……琥珀さんに相談していたの」
「はぁ、なるほど……え?!」

 志貴は受話器を取り直し、感傷に浸り掛けていた己を現実に引きずり上げる。
 電話口の啓子は、都古を預けると言った……そちら、というのは間違いなく
遠野家のことだろう、それに琥珀にも相談したという。
 先ほどの琥珀の口調を思いだした志貴は、焦って受話器に顔を付けたまま琥
珀を凝視する。

 琥珀は、袖で口元を隠すようにして笑っていた。

「ちょ、ちょ、そ、それは本当?啓子さん?」
「ええ、あの人と私でしばらく旅行に出ることになって、都古もまだ学校があ
るから一緒にいけないから……近所の方にお預けするのも気が引けるから、志
貴くんのいる遠野家ならもしかして、と思って……」

 志貴は受話器を持って、凍り付いたように立ち尽くす。
 声もない志貴の様子を察しきれない電話の向こうの啓子は話を続ける。

「そちら様からなら都古の学校も通えるし……そう思ってお願いしようかと思っ
ていたの」
「はぁ……なるほど、でも秋葉が……」

 志貴は生返事をしながら言い淀む。秋葉は親族嫌いであり、当主になってか
らの第一の仕事はまず同居する一族を放逐することであったくらいだ。久我峰
や刀崎に比べれば有間家は縁の薄いほうであるが、そんな秋葉がこの話を首肯
するとも思いにくい。

 ちら、と翡翠を見ると、翡翠は電話から漏れ聞こえる程度では話の全貌が掴
めていない様で、きょとんとした眼で志貴を見つめている。一方の琥珀は、志
貴の目線を感じると胸を拳でとん、と叩いて見せた。

 秋葉様のことならばご心配なく、とでも言いたそうな琥珀の自信の現れだった。

「そう、それに都古も志貴くんに合いたがっているのよ」
「……本当ですか?啓子さん?」

 都古が志貴に会いたがっている――それは志貴には予想外の言葉であった。
 志貴の記憶では、都古が志貴を好きだとか嫌いだとか、明確な感情を感じる
ことは少なかった。むしろ懐かれていないな、ぐらいに感じていることがあっ
た……その為に、志貴はあまり有間家の中でうち解けていなかったのであるが。

 だが、逢いたがっているというのは――嫌いだからそう言うとは考えられない?
 いや、そんな――ことはない――わからない――

 志貴は言いようのない疑問に包まれたまま、耳に入ってくる言葉を頭で理解
することもなく生返事を電話に返していく。そして無意識下の行動で受話器を
琥珀に渡すと、焦点の合っていない目でぼんやりと廊下の天井を眺めていた。

 わからない
 でも、胸騒ぎがする……

「志貴さま……」
「ん?ああ、翡翠、なんでもない。ちょっとびっくりしちゃって……」

 翡翠の心配そうな瞳と声を感じた志貴は、首を下ろして翡翠に向いた。そし
て、訳もなく高揚する自分の中の鼓動を押さえつけると、努めて冷静に振る舞
おうとする。
 微かに震えかねない声を自制しながら、志貴は喋り始める。

「いや、都古ちゃんが来るって……ここに」
「有間、都古さまですか?有間家のご息女の……」
「そうよー、翡翠ちゃん」

 如才なく社交辞令を交えながら電話を置いた琥珀は、さも楽しそうにぴっと
指を立てて、驚きを浮かべている翡翠に話しかける。遠野家の関係以外は世間
が狭い翡翠であったが、そうであっても都古は未見の遠野家の親族であったの
だから、動揺は隠せないのだろう。

「さぁて、都古さまは明日からいらっしゃるということで……」
「え?そんなに早いの?」

 電話で話していたにもかかわらず話を碌に聞いていなかった志貴も驚き鋸絵
を上げる。

「翡翠ちゃん、明日昼までに寝室を一つ用意して?二階の客用寝室なら一人用
があったはず」
「はい、姉さん。すぐにでも準備に取りかかります」

 メイドとしての本領を露わにし、琥珀から指令を受けた翡翠はきりっと背を
伸ばして答える。志貴はそんな翡翠に、まだ動揺しながら言葉を掛けた。
 

「あー、俺の方は自分でやっておくから、客間の掃除は大変だろう?物置になっ
てたはずだし」
「いいえ、決して志貴さまのお世話も疎かには致しません。それが私の勤めです」
「そう、あー、じゃぁ頑張って……」

 気圧されてしまった志貴は、翡翠が一礼して去っていくのを手を振って見送る。
 翡翠が足早に去ったのを確認すると、志貴は踵を返し、僅かに恨むような顔
をして琥珀に向き直った。琥珀はまるでパーティーの前夜のように、うきうき
とした喜びに満ちて指折り何かを数えながら考えていた。

「琥珀さん……いいのか?秋葉に言わずに都古ちゃんのことをOKって言っち
ゃって」
「はい、秋葉さまはたしかにご親族の方はお好きではないのですが、それは斗
波様を初めとしたグループのお歴々ですから、都古さまなら大過ないとは思い
ますよー」
「そうかもしれないけどね……」

 志貴は言葉を濁らせながら、琥珀に食い下がる。
 志貴も悪いことをした、と琥珀を非難する気は無かった。だが、己が袖にし
た遠野家の家人を迎え入れることに心理的な抵抗があり、その心が如何にも思
い切りの悪い志貴の回りくどい言動を呼び寄せてしまう。

 未練だな……と気が付かない志貴ではないが、口に出さないと居られないよ
うな気にも襲われている。琥珀はそんな志貴の心の中もお見通しです、とばか
りに微笑んでいた。
 琥珀は袖に隠した手でぽん、と軽く志貴を叩く。

「それに、志貴さんも都古ちゃんの事ならば、きっと一肌脱いで下さると考え
てましたからー」
「そんな……まぁ、都古ちゃんは妹みたいな存在だったから、いろいろ協力す
るのは吝かじゃないけどね……でもまぁ……」
「ふふふ、志貴さん、せっかくのご対面の機会なのにー。本当は楽しみなんじゃ
ないですか?」

 琥珀の言葉は図星であった。う、と志貴は唸る。
 心理的な遠野家への憚りはあったが、志貴個人は――都古のことは嫌いでは
なかった。
 そんな都古と再会できることに、心の中で楽しみに思わない……事などあり得ない。

 ただ、志貴のポーズとしては有間家への決別を謳っているために、それを表
に出しづらいのであり、逆に指摘されると言い返す言葉がなかった。
 志貴の沈黙を己の勝利と取った琥珀はにんまりと得心の笑みを浮かべると、
肩を軽く回して唄うように話す。

「さて、秋葉さまの説得と、明日からのお世話のご用意、腕が鳴りますねー」
「ああ、秋葉には俺も手伝うよ……有間家は俺にとっても他人事じゃないから」

 ぼそぼそと歯切れ悪く琥珀の言葉を追う志貴。
 琥珀は人差し指を顎に当て、つと考えるような素振りをする。

「そうそう、志貴さん?ご存じでしたらお教えいただきたいのですが?」
「ん……何?琥珀さん?」
「都古ちゃんの好きな料理のメニューって、ご存じですか?」

 遠野家の台所を預かる料理人としての琥珀の、当然の問いであった。
 志貴は軽く腕を組んで口をヘの字に曲げて考えると、一言。

「――中華料理」
「なるほど、でしたら腕を振るって満漢全席といきましょう!」

                                      《つづく》