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「ふい〜」

 体を洗い、ためて置いたお湯をかぶり、改めて生き返った気分になる。一日の
汗を流すのは気持ちがいい。

「それにしても……」

 ふと、浴室を見渡す。
 広い。
 通常の家の浴室に比べて、かなり広いと思う。ちょっと低価格の旅館だった
らこれくらいでは?と思わせるほどだ。明らかに一人で入るのには大きすぎる。
家族風呂だろうか?

「まぁ、大きいに越した事はないか」

 他人の家の事だし、きっと建てた人あたりが風呂好きなんだろう。そう勝手
に合点して、シャンプーに手を伸ばす。ガシガシと、適当に洗ってると、ガラ
リと向こうの戸を開ける音。


「どう?湯加減大丈夫?」
「あっ、はい。問題ないです」
「タオル、ここに置いておくね」
「はい」

 ……正直、ビックリした。まさかガラス戸隔てた向こうに朱鷺恵さんが来る
とは。向こうは心遣いのつもりだろうけど、こっちとしてはドキドキものだった。

「これ、洗濯しておくね」
「あ……」

 不覚。脱いだものをそのまま脱衣所に置いておいてしまった。シャツはともか
く、下着は……何だか悲しくなった。

「このお風呂、広いですね」

 矛先を変えて、朱鷺恵さんに聞いてみる。

「ん?まぁね。私としては少々落ち着かないけど、お父さんは気に入ってるみたいね」
「へぇ、先生は風呂好きなんですか?」
「そうじゃないわよ。妾さんと一緒に入るのには広い方が都合いい、って言ってたわ」
「え……?」

 妾。あまりなじみのない言葉だけど、「一緒に入る」というところから大体
想像がつく。……なんだかあのヤブ医者の顔が浮かんでくる気がした。ナニを
ここでやらかしてるんだ。

「はぁ……」

 どう返したらいいか解らず、生返事をする。
 しばらく、頭をガシガシやる。どうもまだ気配があるらしく、落ち着かない。

「……私も、入ろうかなぁ」

 ふと、隣からそんな声がする。

「いいお湯ですよ。すぐ出ますから冷めないうちにどうぞ」
「うん、じゃぁ、そうするね」

 シャワーを取り出して、蛇口を捻る。一瞬の冷水の後、お湯に変わったとこ
ろで頭を洗い流す。ジャーッ、と言う噴射音が耳を支配している。目をつぶり、
頭を下げていたために

 そのドアを開ける音に
 近寄る気配に
 気付く事が出来なかった。

「ん……?」

 妙に涼しい風を感じ、頭を流し終わったところで横を見て、思わず硬直してしまった。
 朱鷺恵さんが、そこにいた。しかもバスタオル一枚。

「な、ななっ!!?」

あわてて縮こまる。とりあえず自分の大事な部分を隠し、事なきを得たかに見えた。

「志貴君、一緒には〜いろっ」

朱鷺恵さんは何のお構いなしにやってくる。

「ちょ、ちょっと!」

動けないでいる俺をみて、きょとんとしている。

「だって、今どうぞって……」

 さも当たり前のように答える。

「そりゃ、俺の後にどうぞって意味ですよ!」

 前を隠しながら何とも間抜けな反論。

「でも、広いんだから一緒に入ろうよ」

 ダメだ、こっちの言い分が通じない。正直参ってしまった。動こうにも、そ
うじーっと見られちゃ動けない。前を隠そうにも湯船の脇にある手ぬぐいまで
は手が届かない。広さを恨めしく思った一瞬だった。
 そんな俺をよそに、朱鷺恵さんが後ろに回ってくる

「折角だから、背中流してあげるね」
「い、いいですよ、さっき自分でやりましたから」

 慌てて反論するが、聞いてくれない。

「背中って自分じゃ届かないところもあるのよ。洗ってあげるからじっとしてね」

 そう言って浴槽からお湯をすくい、背中をスポンジで洗い始めた。

 動かないでね、と言われなくても硬直してしまって全く動けない。今はなん
とか、チャンスをうかがって脱出するしかなかった。

「志貴君、背中広いんだね〜」
「そりゃぁ、まぁ……男ですから」

 背中を洗ってくれる感触が気持ちいい。そんな不用心な事を考えながらつい
答えてしまう。

「なんか、さっきまで子供だと思ってたけど、やっぱり男の人なんだね」

 そう言われて、ちょっと誇らしげと同時に、ドキッとなる。
 が、そんな悠長な心は、一瞬で破壊された。
 むにゅっと、背中に感触。先程までとは違う、背中全体を押される感じ。

「やっぱり広いなぁ。もうずっと昔からお父さんとも一緒に入ってないし……」

 朱鷺恵さんがぴったりと、俺の背中に体を寄せていた。
 思考が氷りついた。背中に感じる感触は、タオル越しに……胸の感触。その
柔らかさに、全てがぶっ飛びそうだった。

「……あ」

 後ろから首に両腕が回る。抱きかかえられるようにして朱鷺恵さんが俺を包
み込んでいた。俺の顔の真横に、朱鷺恵さんの顔。こっちを向いているようだ
が、俺は目も合わせられず、正面を見つめるばかり。

「志貴君、気持ちいい?」

 その声が、俺のすぐ耳元で聞こえる。甘い囁きのように聞こえ、力が抜けていく。

「ふふっ」

 朱鷺恵さんは無邪気に体を背中にこすりつけてくる。当てられた膨らみの動
く感触が僅かな神経を辿って、強烈に俺の脳を刺激する。

「ちょっと……」

 声にならない。ぐらりと、押されて前にのめる。その時

「あ……」

 朱鷺恵さんの声色が変わる。驚きの混じった感じ。

「志貴君、興奮してる?」
「あっ……」

 今まで閉じていた足が、気付けば開いていた。そして……

「男の人って、興奮すると大きくなるんだよね」

 と、朱鷺恵さんの視線がその中心……俺のペニスに注がれていた。目を離せ
ない、って感じで見ている気配。両腕が少し強ばっていた。
 呆けてしまった俺も、慌てて足を閉じようとしていた。が、それより早く

「えいっ」

 朱鷺恵さんが俺のペニスを握りしめた。

「あ…」

 どちらからともなく声が漏れた。朱鷺恵さんは少し驚いたような声。俺は…
尻尾を捕まれてしまったかのようなか細い声、と言うより、体を走り抜ける未
知の感覚に、自然に声が出てしまっていた。

 朱鷺恵さんに触れられた瞬間の記憶がなかった。まるで、フラッシュを目の
前で数十個たかれたような感覚だった。今までに何度も、自分でこうやって慰
めた事があった。その時だって満足できる感覚ではあったはずだ。それなのに…
 誰か。
 それも、「想像の中で慰めて貰っていた」人が触るだけで、こんなに…

 が、俺の思考はそこで止められた。

 ビクン、と大きく反応し、更に膨れあがるペニスの感覚を手で感じ、頬に感
じる朱鷺恵さんの吐息の種類が変わった気がした。少し潤むような声で

「志貴君の、凄い…」

 朱鷺恵さんはそう呟くと、後ろから手探りで俺のペニスをゆっくりと手でな
ぞり出した。相変わらず背中に押しつけられる胸の感触があるが、そんなもの
が些細な事にしか思えないほど、手の動きは強烈に俺の感覚をそこに集中させ、
同時に麻痺させていた。

 きゅ、しゅ…

 朱鷺恵さんは陰茎の部分に泡だらけの手を巻き付け、大きさを測るように手
を上下させていた。慈しむような、優しい感覚。とにかく、キモチイイのかも
分からないほど陶酔麻痺の感覚で、体は硬直し抗う事が出来なくなっていた。

「こうなってるんだ…」

 その手がゆっくり下に、俺の陰嚢を指先が撫でる。
 一瞬、ぞくりとした感覚に思わず声が出そうになる。しかし、声を出そうと
息を吐いた瞬間に、出してしまいそうだった。鳥肌が立つ感覚に歯を食いしば
り、耐える。しかしそれは陰嚢を引き締めさせ、ペニスをビクンと反らす形と
なって俺に反抗し、逆に朱鷺恵さんに快感の表れを示してしまっていた。

「志貴君、感じてるんだ…」

 朱鷺恵さんの声が耳元で聞こえる。なのに、意識がやられそうな俺には遠く
にしか聞こえない。言葉も返せない俺を見て、肯定と取ったのか、ぼうとした
視界に映る鏡越しに朱鷺恵さんが可愛く笑って、愛撫を再開する。

「男の人って、こうするんでしょ?」

しゅっ、しゅ

 朱鷺恵さんの細い腕が、俺のペニスをしごきだした。先程までの緩やかな感
覚とは違う、的確な上下運動。

「…!?」

 一気に、深みに沈められそうになる。頂上へ上り詰められそうになる。自分
では幾回もそうしないととてもこんな感覚にならないのに、朱鷺恵さんに僅か
擦られただけで果ててしまう。
 それでも耐えた。奥歯が砕けそうになるほど噛み、残る理性を総動員する。
 尚も朱鷺恵さんは俺自身に刺激を与え続ける。

「志貴君、気持ちいい?」

 朱鷺恵さんは聞いてくる。

 これは拷問だ。
 本当は今すぐにでもぶちまけてしまいたいのに、出してはいけないという僅
かな正気が、それを許さない。
 憧れていた女性の愛撫…それは本来ならば夢にまで見た行為なのに、その愛
撫で今ここで果ててしまうのは、俺の中のナニカを崩壊させてしまう。

「志貴君、我慢してるの?」

 朱鷺恵さんの手の動きが緩慢になる。漸く悪戯にも飽きて終わるのかと、安
堵の息をつけると思った瞬間だった。

「でも、ここはどうなのかな?」

 そう言って、離れると思っていた手の平は、ペニスの先端を優しく撫でた。

「…!」

 その不意打ちは、気を抜いていた俺にはあまりに強烈すぎた。残されていた
僅かな理性は、あっけなく崩壊した。

 どくっ、どくん!
 今までずっとため込んでしまっていたものが、堰を切って鉄砲水のように弾け出す。
 陰嚢の奥底からビクンビクンと、白濁が朱鷺恵さんの手を汚す。

「ああっ…」

意識が飛びそうな中、口を出た声。それは、遂に放出してしまった充足と、出
してしまった後悔と、特別な存在だった朱鷺恵さんへの懺悔とが入り交じる声
だった。

 波のように、俺のペニスはその放出を繰り返しては跳ね、そしてゆっくりと
その動きを引いていった。今までに出した事もないような、とてつもない量の
精液を放出し尽くして、漸く射精は終わった。

「……」

 朱鷺恵さんはその間、驚いたように俺の放出を受け止めていた。やがてそれ
が終わると、ゆっくりと手を持ち上げ、自分の手に絡み付く精液に、しばらく
見呆けていた。が、やがてそれが何で、どうしてそうなったのかを理解したみ
たいだった。

「あ…ごめんね…」

 少しだけ声がうわずりながら、でも明るく振る舞って朱鷺恵さんはシャワー
に手をかけた。蛇口を捻って湯を出し、自分の手と、俺の股間に浴びせる。
 その間、互いは互いを見ていなかった。共に無言の罪悪感から、その作業は
淡々と進んだ。
 俺の中で色々な意識がグルグル回る。それは何なのか、全く収拾のつかない
モノ。ただ一つだけ分かる事は、その方向が全て「負」を向いている事だけだった。

 やがて、キュッと蛇口を閉める音。後ろに屈み込んでいた朱鷺恵さんが立ち上がる。

「そ、それじゃ、のぼせたりしないでね」

 そう言い残して、足早に浴室を後にしていった。

 残された俺はどうする事も出来ず、動けずにいた。
 ドウスル……ドウシヨウ……ドウシヨウ……
 そんな答えも出ない考えにもならぬ音句が、自分の中で連呼されるだけだった。

 朱鷺恵さんが脱衣場を出る音が聞こえた後、俺はゆらりと立ち上がった。そ
のまま浴槽に沈み込む。
 のぼせる頭が、思考を朦朧にする、
 さっきまでの、強烈な感覚。忘れようにも、こびりついてしまった快感。

「ダメだ……」

 なにがだめなのか。どうしてだめなのか。
 熱い湯船でがたがたと震える。ビクビクと小さくなる。
 最悪のシナリオが、待ち受けていた。

 どうする事も出来ず、浴槽を出て、引きこもるようにあてがわれた部屋に戻
るしかなかった。

 眠れなかった。
 目を閉じると、あの情景を思い出してしまいそうで。
 あの感覚が、俺に戻ってきそうで。
 夢の中に、出てきそうで。

 いっそのこと、夢でなじって欲しかった。不潔で変態で最低ね、と。でも、
体がそれを許さない。びっしょりと汗をかき、それでも布団を被ったままで、
俺は時間の感覚を失って震えた。
 
 夜がコワイ。
 物音一つも立てずに、怯えながら、過ぎ去るのを待ち続けた。

 どれくらいそうしたか、ふと隙間から覗く光を感じる。朝だ。
 時計の針は、6時を指してる。
 逃げてしまおうと、思った。
 俺は朱鷺恵さんに気付かれぬよう、部屋を、家を後にした。


 昨日の公園で、腰を下ろす。ラジオ体操の子供が、元気に動き回っている。
 対照的に、俺は動く気力もなかった。本当に精気を抜かれてしまった。ふと
浮かび苦笑する。

 どうしたらいいんだ……
 近い時系列の「これから」と、ずっと続くであろう「これから」

 全て忘れられるなら、最初からやっている。できない、そんな自分である事
は悲しいほど解りすぎていた。
 彷徨う事もなく、時間だけが過ぎていく。

 気付けば、闇。
 眠っていたのか、気を失っていたのか、自分でも解らなかった。変な汗で体
中が気持ち悪い。
 結局。
 何も浮かばなかった。
 
 意識だけはくやしいくらいにはっきりしている。ディパックを掴み、立ち上
がった。

「あ」

 ふと、その軽さに改めて気が付く。それもそうだ、一番かさばっていたもの
が無かったから。

「服、置いてきちゃったか……」

 自らの不注意に嫌悪する。

「取りに戻る……のか?」

 そうひとりごちる。乾家にはたかだか1日で戻れそうもない。ましてや有馬
の家にもだ。それは自分の意固地なのかも知れないが。
 一瞬、時南の家に戻ろうとする自分に嫌悪する。戻ると言う事は、何かを期
待している自分がいる事を意味していた。
 何を。
 解っているのに、それを認めたくない自分がいる。

 「……ままよ」

 きっと朝のように、気付かれない内に出ていけばいい。そう思って歩を進め
る俺がいた。


 昨日と、同じ目の前の景色。
 今更ながら躊躇する。よく考えなくても、勝手に上がって出ていくのは泥棒
の仕業以外の何者でもない。思考の浅さに頭が痛くなる。考えも纏まらないま
ま、最後の曲がり角を曲がった時だった。

「あっ……」

 そこに、彼女がいた。普段着にサンダル、腕を後ろ手に組んで下を見つめ、
足下の地面を軽く蹴る仕草。
 考えが甘かった。「何とかなる」なんて考え方は、全く役にも立っていなかった。
 思わず、足が止まる。ザリッという、自己の存在を示してしまうような音。

「あっ……志貴君、おかえり」

 少し静かな声。でも、なんて事ないように、朱鷺恵さんはいつもの笑顔だった。
 動けない俺のかわりに、こちらまで歩み寄ってくる。

「どこ行ってたの?朝起きたらいなくなっちゃってて、心配したんだから」
「戻ってくると思ってたのに、なかなか帰ってこなかったから、こうして外で
ずっと待ってたのよ」
「食事も、お風呂も用意してあるわ。さっ、戻りましょう」

 俺の力無く垂れ下がった右手を掴み、引っ張ろうとする。

「……志貴君?」

 正直、どうしていいのか解らなかった。
 顔も、行動も。

「ほら、ね」
「……はい」

 引かれるまま、俺は木偶のように歩いていた。どうにでもなれとも思えず、
かといってどうする事も出来ず、門をくぐっていた。

                                      《つづく》