「…………」

 風呂桶に浸りながら、金髪の少女はぶくぶく泡を漏らしている。
 口までお湯に浸かって、ぶくぶくと。それは彼女なりの悩みの表現であった。
 湯気の立ちこめる風呂場には、ふぁーん、と静かに鳴る換気扇の音。窓の外
は夕暮れに染まって僅かに光が弱い。その中で水面に浸るセイバーは、自らの
思考に閉じこもる。

「……………………」

 困ったことになりました、シロウ、と。
 お湯の中でセイバーは呟いた。だが、それは泡になるばかり。
 遠坂凛の半ば強引と言える決定によって、この家に残されたのはセイバーと
美綴綾子だけ。家主はツインテールのマスターによって拉致されてしまった。

 そこで、この家で美綴と過ごすことになったセイバーであったが……正直の
所、彼女はどうして良いのか困り果てている。
 ただ、それを考えない為にも道場でひたすらに美綴と手合いを重ねていた。

「……………………彼女は、得難い相手ですが」

 やっと顔を上げて、小さくセイバーは呟く。 
 薙刀、竹刀、小太刀と大竹刀の逆二刀と美綴はさまざまな手段でセイバーと
の稽古を繰り返していた。セイバーにとっても美綴ほどの武芸の相手と手合わ
せが出来るのは、願ってもないことであった。

 こと剣にかけては藤村大河が美綴綾子よりは秀でているが、多種多芸であり
それぞれの完成度の高さでは美綴綾子は優れている。なので日が傾くまで、存
分に稽古に耽れた。士郎を稽古する時とは違う悦びを感じていたのもまた彼女
の事実である。

 その後、どちらが先に風呂を使うかで譲り合いになり、折れたセイバーが先
に使うことになった。私の方が汗掻いているからお先にどうぞ、と笑う美綴に
はセイバーは清々しい好意を覚えたが――

「……………………」

 そこで、またセイバーは困惑の中に立ち止まる。
 美綴綾子、というのは嫌いになれない人物だ。腕が立ち公平で快活毅然とし
て、もし自分が未だ王であれば騎士の円卓に彼女を推挙することは間違いない。
セイバーは太鼓判を押す人物だが、今の自分の境遇と、美綴のことを考えれば――

 友人として、接するべきなのであろう。
 彼女は凛とシロウとの共有の友人であり、自分もまた交友関係を結ぶのが然
るべきなのであろう、と。でも彼女との稽古の中で、心騒ぐのを禁じきれなか
った。

 ――戦いに昂奮を覚えるな、と。

 戦うことに昂奮を覚え、それに溺れれば身を誤る。美綴との稽古にそんな気
の迷いを感じているのかと、セイバーは感じていた。だが、剣を振るう腕と頭
脳は普段通りに冴えている。
 ならば、この心騒ぎは自分は美綴綾子をどう感じているのかに起因している
のだ、と。彼女はそんな、嫌いになれない女性だ、だから私は彼女を好きにな
ってもいいのではないのか――

「…………なにを、私は」

 お湯を掬い、ざばざばと顔を洗うセイバー。
 彼女の中で叱咤する様に独語する。彼女は女性で、好きになると言っても友
人という意味だ。そんな女である私が女である美綴を好きになったと言ってど
うにでもなるものではない。いやむしろそれでいいのだ、私がシロウを横恋慕
して凛の気を損ねるようなことをしてはならないのだから――

「……………」

 違う、と。
 手で顔を覆い、セイバーは湯船の中で震える。

 ――そんなつもりはない。シロウを好きになることは許されない、だからそ
の代償として誰かを恋求める、それは卑劣で汚らわしい行為だ。そうすれば表
向きは波風は立たない、だがそんな代償はきっとその誰かを不幸にする――か
つて嫌になるほどに味わった、人の道の愚かさ。

 それに、美綴綾子を、衛宮士郎を据えるというのか。
 違う、そうではない、そうではなく私は――

「………はいるよ、セイバーさん」

 がらっと、風呂場のドアが開いた。
 湯気の向こうに現れた人影に、セイバーははっとする。目を凝らさなくても
それが誰だかは自明である――自明であるからこそ、セイバーは風呂桶の中で
体を硬くする。

「な……美綴さん、その、まだ私は入ってます!」
「もちろん知ってるよ。一緒に入ろうと思って」

 その声に驚きや照れがなくて、まるで暖簾を潜ってくるように自然だった。
 タオルで軽く体を隠して入ってくる美綴に、セイバーは一瞬魅入ってしまう。
なだらかな肩に筋肉の上にうっすらと脂肪の乗った、綺麗な体。あれほど激し
く撃ち合った相手の体がこんなに女性らしかったと――

「……………ああ……」

 だが、すぐに目を逸らしてぼちゃん、と風呂桶の中に隠れるセイバーだった。
 真っ赤になるのはお湯に茹だったせいではなく、乱れた心で美綴を見つめて
しまったこと。それを羞じるセイバーに、美綴ははにかみながらお風呂椅子に
腰掛ける。

「あはは、赤くなってるね、セイバーさん。女の子同士でお風呂はいるの、初
めて?」
「は……はい、その……」

 セイバーはちらちらと美綴に視線を向けようとするが、定まらない。
 そもそも二人で風呂にはいるという行為自体慣れないのに、相手は先程まで
手合わせをしていた彼女であった。それに、ざっくりとした厚手の綿生地の道
着ではわからなかった体のしなやかさが、匂う様に感じる。

 ……ああ、何故、あのように、と。
 セイバーの視線は肩から首筋に、そして筋肉を感じる肩と、ふくよかに実る
胸に向けられる。如何にも女性らしい曲線を見て、自分の控えめな胸を撫でて
みる。
 
「ん? どうしたの? セイバーさん」

 自分の体に向けられた視線を察したのか、美綴が衒いなく訊ねる。
 だがセイバーは胸を押さえたまま、風呂桶の中で体を小さくしていた。胸に
だけコンプレックスがあるのではないが、それでも――その声を聞くと体をく
つろげられない。

 ん?と首を傾げて風呂を覗き込むと、面白いモノを見つけた様に笑う。

「あ――――あー、気にしてるの? 胸」
「なっ、あっ、そ、そんなことはありません! その、不躾に美綴殿の体を眺
めてしまい真に申し訳なく思っただけで」

 慌てて答えるが、セイバーの言葉には落ち着きがない。
 ふむふむ、と自分の胸を見下ろす美綴。カランから手桶にお湯が満たされ
ると、タオルを浸してボディーソープで泡を立て始めた。

「いいってば、女の子同士なんだし、見ても減るものじゃないから」
「……そうなのでしょうか。いやでも、胸のことは私は気負いはありません」

 あくまで胸に拘り、お湯の中で膝を抱いて体を硬くするセイバー。
 なぜそんなに警戒するのか。肌に一糸まとわないことが不安なのか、それと
も彼女と共にあまり広くない浴室にいるのかが、それとも彼女、美綴に覚える
感情が純粋ではないからか。

 ふるっと、体が震えるのをセイバーは感じた。

「でもね、セイバーさんくらいの控えめなのが良いと思うけどな」
「……そうなのでしょうか?」
「こういうコトやってると大きくて得したって思うことは少ないよ。理想を言
えば少年の体を大きくしてほんの少し胸があればいいかな、ってくらい。そう
いう意味だとセイバーさんは理想ではあるね」

 くっと、力瘤を作る様に腕を見せてみる美綴。
 肩から腕に流れる、筋肉とそれをカバーする滑らかな肌。それにセイバーの
緑の瞳は吸い付けられる。
 あ、でも、と美綴はそんなセイバーに苦笑して見せる。

「私がこういうことばっかりやってると思われると困るけど。
 普通に女の子してるときはやっぱり胸は大きい方がいいよ。あーあ、間桐く
らい胸があればいいなー、って思うこともあるけど」

 くすくす、と可笑しそうに笑って、体を拭い始める美綴。
 ボディーソープの香りが湯気の中に溶け込む。その中に、仄かな美綴の汗の
香りを感じる。
 この強い香りは、道場の中で感じていた。二人とも日が暮れるまでほとんど
休みも取らずに稽古をしていたのだ、セイバーも汗ばんでいたし、美綴は背中
が汗でくっつくほどだった。
 そして、その清々しくもある香りに、どこかセイバーは心騒ぎを感じていた。
いや、感じる方が可笑しいのに、何故――と独語する。

「ま、遠坂も胸じゃ私に負けてるからねー」
「………それは意外です、いやでも、確かに凛は……」
「ん、まぁでも遠坂に追い越される日も近いかな。大きくしてくれる奴はいる
んだし」

 あははは、とそんな自分の言葉に笑う美綴に、セイバーは困った瞳を向ける。
 何故追い越されるのか、と――だがそれは凛の相手であるシロウのことだと
気が付くと、ますます身の置き所がなさそうに身を小さくするばかりであった。

「最近、遠坂の奴も付き合いが悪くてね、衛宮は弓道部辞めてから付き合いな
んか何処にくっついてるのかわからない奴だったんだけど、二人で春からいち
ゃいちゃいちゃいちゃと……あーあ、ああいうの見ると私も相手が欲しいなぁ、
って思ったりも」

 朗らかに、そんなやっかみまで含めて士郎と凛のことを話す、泡にまみれた
美綴。
 セイバーは、遠坂の、衛宮の名前が出るたびに小さく体を震わせた。迷う心
に人から聞かされる主の名は、心に響く鞭音の様で。

 ――今頃は、シロウも凛もふたりとも仲睦まじく。

 そういう関係であることは百も承知であるし、そうでなければ自らが現世に
居られないことを知っている。かつて指に掴めなかった本当の自分の在り方を
知るために残って、あの二人を見つめて仕えようと初めて、望んだ。
 だが、それにどこか嫉妬を感じてしまう――真っ直ぐな衛宮士郎を愛する、
遠坂凛の華麗な姿に。

「セイバーさんは」
「………………………」

 自らの世界に沈みかけたセイバーは、美綴の声に顔を上げる。
 目の前の美綴綾子の細い瞳は、邪念がない。自分に向けての濁りのない好意
を向けている。それに、自らの迷いが瞳に現れてしまい、息が詰まる様な感じ
がする。

「いろいろ大変だろうねぇ、あの二人につきあうの」
「……そんなことはありません、私はシロウにも凛にも世話になっています。
私はここにあり続ける限り、あの二人に尽くさねばならない」

 それは美綴に対する答えではなく、己に対する叱咤の響きを帯びている。
 美綴の細い眉が動いた。水面を見つめて、強く言うセイバーの姿に違和感を
覚えたのか。
 ごしごし、と背中を洗う手を止めずに、話を続ける。

「尽くす、か……わからないな、私。尽くすことも尽くされたこともないから」
「美綴殿……これは物の喩え、です。挺身と忠誠の限りを尽くせ、という時代
ではないことは私も心得てはいます。
 それに、美綴殿ほどの方であれば、尽くす者は幸せでしょう」

 かつての自分は、尽くされるに価したのであろうか。
 数え切れない昼と夜の狭間で、その疑問は胸を焦がした。ない、と言えば騎
士達が哀れであり、ある、と言えば残された荒廃はいかなる因果だったのか。
 そんなセイバーの内心の苦しみを知ってか知らずか、美綴はごしごしと洗い
ながら言う。

「……不思議だね、セイバーさんを話してるとおじいさんと話してるみたいな
感じがする」
「――え?」
「あ、じじむさいって意味じゃないからな?
 私の世代と祖父の世代じゃやっぱり物の考え方が違って、おまけに美綴家は
因果なことに代々の武士で武道家で軍人だったりするから、大戦中は名物士官
だったっておじいさんのね、ぴっと背中に一本入った感じがセイバーさんから
するんだ」

 あーでも、そういうのは弟のあいつで終わりだなー、と笑う美綴。

「私、知りたいなぁ、セイバーさんのこと。どういうところに生まれて、どん
な風に育ったのかって。イギリスだったよね? セイバーさんのお国は」
「は……まぁ、イングランドというかブリタニアですが……」
「うーん、やっぱり現代日本は駄目なのかなー、いっそ弟もセイバーさんの故
郷に留学にだして鍛え直して貰うかなー。あ、そういえば遠坂も衛宮も留学と
か言ってたな」

 うんうん、と頷く美綴。
 何の気なしに連想で思いついた言葉であったに違いないのに、その名前がセ
イバーの耳に入ると、震える。ずっと浸かり続けるお湯に、体どころか頭の芯
まで茹で上げられる。
 その中で、シロウや凛のことはもう考えるな、と理性が細い悲鳴を上げる。

 あの二人は、あの二人で助け合い、補い合っていく。
 であれば、私は何に縋ればいいのだろう。暗い道を行くのに杖が欲しいわけ
ではない、だが、遠くにもしあの二人が補い合い消えていけば、無明暗夜の中
を私は何を頼りに――

 ――ならば、この、毅然とした彼女に縋ることは弱さの罪にはならないのか、と。

「…………」
「セイバーさん、私ね」

 つと、声色を変えて美綴が語りだす。
 タオルを手桶に着け、カランで流しながら。セイバーは顔を上げて、上気し
た頬で美綴を眺めた。彼女の横顔が、どこか美しい物を探すように遠くを見つ
めている様に――

 とくん、と胸の中で鼓動が鳴る。
 なぜ、そんな美綴の顔に心騒ぎを感じるのか。いや、あの横顔がどこかで見
た――

「恥ずかしいからまぁ聞き流して欲しいんだけど、私、セイバーさんに一目惚
れだった」

 ――一目惚れだった、と。
 その言葉にセイバーはただ聞き入るだけで、瞠目も動揺もしない。ただ、あ
りのままに正直に美綴が口にした言葉なんだと、感じることは出来る。
 そう、ですか。そんな小さな呟きがセイバーから漏れるが、美綴には伝わら
ない。

「衛宮の奴がセイバーさんを最初に連れてきた時にはね、眩いくらいの可愛い
娘だな、って目が離せなかった。それに道場に正座しているのもすごく静かで、
外人さんなのにすごく稽古を積んでるな、って分かって……」

 タオルを濯ぎ、ソープを洗い流す。
 そして手桶にカランからお湯を注ぎ続ける。その間にも、美綴は語り、セイ
バーを見つめては居なかった。

「その後に路地裏で襲われて入院したりして、しばらくセイバーさんに会えな
くて。でも退院した後にまだセイバーさんが衛宮の家に居候していると知って、
嬉しかった。あの時に見たセイバーさんはあんまりにも静かすぎて、何時ふっ
と居なくなっても不思議じゃなさそうで」

 聖杯戦争のことか――とセイバーは思う。
 思い返せば、彼女はライダーの犠牲者であった。あの時はライダーの見境の
ない襲撃と、キャスターの無差別な吸引、そして英雄王の異形の聖杯降臨と、
どれかに罹災すれば命を失ってもおかしくはなかった。

 だが、そんなことよりも消えてしまうことが不思議ではない――それを察し
ていた美綴に息を飲む思いだった。聖杯を穿った自分は、凛の意識と己の願い
によって未だにこの世にあるのは、むしろあり得ない奇蹟なのだ、と―― 。

 だが、そのようなことを事細かに聞かせる訳にはいかない。
 そうですか、と話を促す様に頷くのが、セイバーの出来る唯一のことであった。

 手桶にお湯を満たすと、美綴は俯き加減で手に取る。
 その姿に、ひどく逡巡に満ちた物をセイバーは感じていた。泡にまみれた肢
体をむしろ抱きしめてやりたいほどの、いや、自分こそ本当は抱きしめられた
いのに、己の肩を己で押さえるのが精一杯であるのに。

「だから、嬉しかったから遠坂や衛宮に聞いたさ、セイバーさんってどんな人
って。
 でもねぇ、あの二人の言うことはどうも要を得ないし隠してるみたいでね…
…だったらセイバーさんに直にいろいろ聞きたかったし、それにセイバーさん
は出来る、と思ったから」

 さばっ、と。
 美綴は手桶で体を流す。泡の下に隠れた滑らかな美綴の肌が現れる。
 また――その曲線にセイバーは目を奪われている。どうしてか、なぜ、あん
なに美綴綾子の肌は優しそうなのかと。そんな自問は彼女の中にあるばかりで、
思念を惑わす。

 またお湯を汲むのを、セイバーは黙って見続ける。

「だから、無理して衛宮と遠坂にセイバーさんと手合わせさせろってねじ込ん
でね。
 衛宮はなんか困ってたけど、面白がってたのは遠坂だったな。ははーん綾子、
セイバーに惚れたのねって……参ったね、遠坂の奴の目を誤魔化すのはなかな
か出来ないってことか」

(続く)