街に入っても人影はまばらだった。シエルがこの街にいた一月前の風景とそれほど変らない。
人気の無い繁華街をぼんやりと考え事をしながらシエルは歩いていた。
(秋葉さんはほとんど完調に近い……遠野くんがいる限り、調子が戻るはずはないのだけど。それにアルクェイドやメイドさんは遠野くんの話を明らかに避けていた。何より、あの女中さんの妙な態度。変ですね。吸血鬼のことを聞きに行って、遠野くんの情報ばかり入手するなんて。まさか、また彼は事件に関わっているのでしょうか?)

どん。

考えに夢中になっていると、ふいに角から現れた人影にぶつかってしまう。

「あ、ごめんなさいです」

そう言って、頭を下げた後、相手の顔を見ると──。

「と、遠野くん?」

今まさに考えていた当人の顔があった。だが、変だ。変すぎる。
彼はメガネをしてない。魔眼殺しを抑えるメガネを。あれをかけてなければ発狂してしまうというのに。
いや、それどころではない。死んだ魚のような目をしているのだ。それに何より、首に付いている噛み傷は何だと言うのだ? これでは、まるで──。
志貴は、茫然としているシエルから逃げるようにふらふらと千鳥足で歩いて行く。

「ま、待ってください。遠野くん!」

追いすがろうとするシエルと志貴の間に突然影が割って入った。

「何をするつもりかな? 先輩?」

赤い目をぎらつかせながら睨んでいる少女に、シエルは見覚えがあった。ツインテールの髪型をしたどこか幼い雰囲気を持った少女は、たしか志貴のクラスメイト。その名は──。

「弓塚さん……何で?」
「何でって、デートの最中だよ。邪魔すると馬に蹴られちゃうかもね」

くすくすと微笑みながら弓塚さつきは答える。そして、ぼうっと突っ立ている志貴の腕に抱き着き甘えて見せた。

「えへへ。今は遠野くんと身も心も一つなの。そうだ、先輩、その服キリスト教の神父さんだか牧師さんの服でしょ? ちょうどよかった。わたしたちに祝福を与えてくれませんか?」

笑顔のまま弓塚はそんなことを言う。その目つきからして、こちらが何者であるかを知った上での挑発のようだ。

「……何で、あなたが吸血鬼に……」
「知らないよ。そんなの」

シエルとしてもわけがわからない。もし、彼女が吸血鬼の犠牲になったとしても、自力で行動できるようになるには長い時間がかかるはずだった。それも、運が良いものという限定がつく。
一月かそれ以下で自律行動ができる吸血鬼が出来上がっては、埋葬機関が何人いても足りないだろう。
問題はそれだけではない。
シエルにとって、一番問題なのは──。

「まさか、あなた遠野くんを……」
「あ、誓いの口付けならもうしちゃったよ。ただ──唇じゃなくて、首筋だけどね」

笑顔に毒が混じる。口は笑っているが、目は笑っていない。余裕たっぷりの眼差しでシエルを見据えている。

「猟奇事件の犯人はあなたですか!?」
「そうだと言ったら、どうするのかな。先輩?」
「灰は、灰に還します!!」

シエルは右腕を振り上げる。いつのまに手にしていたのか三本の長剣が彼女の手から撃ち出され、弓塚の元へと迫った。
しかし弓塚は躱そうとはしない、相変わらず余裕の笑みを浮かべているだけ。
彼女の身に剣が接触しようとした瞬間。固い金属音と共に、シエルの長剣は宙に弾き飛ばされた。

「……くっ」

ナイフを右手に弓塚を守るように立つ志貴の姿にシエルは思わず呻く。
睨み合っている間に弾き飛ばされた長剣は地に落ち、魔術の作用で燃えている。その炎に照らされた志貴をシエルは改めて見直した。
身なりこそはこざっぱりとしているものの、血の気のまるでない白蝋の肌に、光の無い目……まるで死人だ。それもそのはず生ける死人たる「死者」なのだから。

「ありがとう、遠野くん。また助けてもらっちゃった」

その死人の首筋に弓塚は嬉しそうに抱き着く。

「何をふざけたことを言っているんです!? あなたが遠野くんのことを操っているだけでしょう!!」
「関係ないよ。遠野くんがわたしを守ってくれたのは事実だもの。やっぱり遠野くんって、頼りになるね……大好き」

死んだ顔をしている下僕の唇に主は軽く口付けをした。まるでシエルに見せつけるように。

「情けないとは思わないのですか! 自分の下僕を自分を好きなように操って満足なのですか! そんなの……ただの自慰ですよっ!?」

怒りと不快感をシエルは目の前の敵に叩きつけた。
だが、激昂を浴びせかけられても、勝者の笑みは崩れない。

「なんでかな? 先輩だってわたしの立場になればわかるよ。こんな体になって……一人ぼっちで辛くて苦しくても、遠野くんがいれば幸せなの。あはは、わからないかな?」
「わかりませんね。わたしも──元吸血鬼ですが」

あやつられていたとはいえ、八年前の自分の為した悪行、狂気の記憶を噛み締めながらシエルはそう吐き捨てた。

「ふぅん、そうなんだ。でも、わたしは幸せだよ。今までわたしのことを振り向いてもくれなかった遠野くんが、わたしのことだけを見てくれるのだもの」
「彼の意志とは関係ないでしょう!? 彼に好かれたいならそういう努力をして──」
「あはは。先輩は遠野くんをよく知らないから、そんなことを言えるんだね。わたしは中二の時からずっと遠野くんを見てきたの。だから、知っているんだよ。遠野くんは──自分のことしか興味ないってことを」

諭すような口調で弓塚は話す。

「ねえ、先輩。どんな鈍感な人でも何年も自分を見ていれば嫌でも気づくよね」
「それは、そうでしょうが」
「でも、遠野くんはまるで気づかなかった。わたし、こう見えてもクラスのアイドルだったんだよ。結構目立ってたはずなのに、遠野くんはわたしのこと全然覚えてなかったの」
「それを、恨んでいるのですか?」
「まさか? そんなので恨んだりしたら、勇気を出して声をかけたのに、すぐに忘れ去られたことを許しはしないって。丑の刻参りをしても足りないよ、きっと」

あははっと、まるで昨日見たテレビ番組の話をするように、気さくに笑いながら弓塚は語り続ける。

「最後に会った時ね。わたし、遠野くんと約束したんだ。『ピンチの時は助けてね』って。それで、その約束通りわたしが本当に苦しくて泣きそうな時、遠野くんは、わたしの前に現れたんだ」
「どうせ、偶然通りかっただけでしょう!! それをあなたは自分のエゴのために下僕にしたのでしょうがっ!?」
「違う、違う──」

手をぱたぱたと振りつつ、弓塚は事情を説明しはじめた。

「遠野くんが現れたのは偶然といえば偶然かもしれないね。でも、それはどうでも良いんだよ。大事なのはわたしの前に現れたってことだから。それと、下僕にしたのは遠野くんを助けるためなんだよ」
「助ける?」

その言葉がシエルにはどうにも引っかかった。アルクェイド、秋葉、翡翠、そして琥珀。今日会った四人の不審な言動は全て志貴絡みである。いったい、彼に何があったというのだ?
シエルは無言で弓塚を見つめ、先を話すように促した。

「だって、遠野くん死にそうだったんだよ。苦しそうにのた打ち回って。病院に連れて行こうかなって思ったのだけど、遠野くん家の女中さんから、遠野くんの病気はお医者さんじゃ治せないって教えられてたから」

その言葉からある事を察したシエルの顔は青くなる。
(切れた? 秋葉さんからの「命」の供給が?)
それは、志貴すらよく知らない、シエルと秋葉、そして彼の主治医代わりの琥珀しか知らない秘密。
志貴は、秋葉から命を分け与えられて生きていた。それは今まで秋葉が無意識にやっていたものだが、シエルがその仕組みを教えてしまった。
己の意志で与えることができるなら、当然、己の意志で止めることもできるはず……。
シエルが久しぶりに見た秋葉は志貴を嫌悪していた。一ヶ月前は、秋葉は志貴を盲目的に愛していたのに。

シエルが留守をしていた間に何かがあった。
その何かで、秋葉の愛情は揺らいだのだろう。
命を分け与えることは、言語を絶する苦痛を伴う。愛や恋などと言った奇麗事だけでは背負えないほどの、親が子供に与えるような盲目的な愛情でなければ無理なものだ。
その盲目さが秋葉には見えなかった。

「たしかに……原因が『それ』なら、遠野くんを助ける方法はありません……」

呻くように呟くシエルに、弓塚はうんうんと満足そうに頷きながら言葉を繰る。

「本当に、本当に苦しそうだったの。助かって良かった……。でも、偶然ってあるんだね。遠野くんの声が聞きたくて、遠野くんのお家に電話をかけてたら、その当人が目の前で倒れていたんだから」

それは彼にとって幸運だったのか不運だったのだろうか?
たしかに、もし偶然その場に弓塚がいなければ志貴は野垂れ死にをしていただろう。いかに吸血鬼とはいえ、完全に死んだ人間を復活させ下僕にすることはできない。
その意味で、彼は生きる機会を得られた。運が良ければそのうち「死者」から「吸血鬼」に格上げとなり意識も戻るかもしれない。そして、主たる弓塚を倒せば完全に自立できる。

しかし……。

「けど、けど……」

シエルは首を何度も振った。
それしか、それ以外に方法はなかったのだろうか?
たしかに、志貴は出会った時からまともじゃなかった。彼自身はその特異な目を他人との違いと思っていたようだが、それはたいした問題ではない。
問題なのは、自分一人の力では物理的に生きることもできないということなのだ。

「……ごめんなさい。遠野くん。わたしが、わたしがあなたの体のことをもっと詳しく教えていれば……」

虚ろな目をした志貴にシエルは頭を下げる。
もし、シエルの言う通り、事実を教えたからと言ったとしても、どうにもなるものでもなかった。
『あなたは秋葉さんの気分次第で簡単に死んでしまいます。秋葉さんのご機嫌を損ねないように』
とでも言えばよかったのだろうか?
言ったところで「はい、そうですか」と納得するとは思えないし、納得すればしたで、彼は一生秋葉の顔色を窺がって暮すしかない。それでは、今の弓塚の下僕という身分とたいして変らないではないか?
いや、意識ない分、今の方がマシだろう。

どんな悪魔が考えた筋書きかは知らないが、これは最善の手だ。
今までの負担がなくなり秋葉は反転衝動を恐れずに済む。
弓塚は想い人と一緒になれる。
そして、志貴は新たな飼主を見つけられた。

誰も困る者がいないではないか?

喩え、シエルが志貴の危急の場にいたところで、為す術はなかっただろう。
それを考えると、弓塚が開き直るのもわかる。
彼女は志貴を助けたのだ。いや、彼女以外助けられなかったというべきか?
それに何より、彼の危うさを知りつつ放っておいたシエルに弓塚を責める資格などないのだ。

それでも、それでもシエルは一言弓塚に言いたかった。

「あなたは、そんな遠野くんでも良いのですか?」
「どういうこと?」
「そんな、意志の無い。自分の思い通りに動く人形でも構わないというのですか!!」

シエルの舌鋒を受けた弓塚は目を見開いて、一瞬とぽかんとした顔をしたが、すぐににんまりと笑って答えた。

「構わないよ」
「どんな姿になっても、遠野くんは遠野くんということですか」
「それは違うな。むしろ逆」
「逆?」
「そう。わたしが遠野くんを好きになったのは、顔でも無ければ性格でも無いよ。ピンチの時にわたしを助けてくれたからなの。でも、遠野くんがこうなる前に助けてくれたのは、たったの一回だけ。けど、下僕になってからは何度何度もわたしを助けてくれたんだよ!」

そう言って屈託なく笑う弓塚。明らかに本心だ。
(ロールと言うわけですか……)
シエルは心の中でそう呟く。弓塚が愛したのは志貴本人なのか? それとも彼女が持つ白馬の王子様像に志貴を当てはめただけなのか? ロール、役割だとしたら、たしかに前の志貴より今の志貴が良いだろう。何しろ今の志貴は下僕だ。主人たる弓塚に絶対の忠誠を尽くす「役割」だけの存在。

それをとやかく言う気はない。
所詮、一皮捲れば人間は、誰でも自分に都合が良い相手を望んでいる。
そして、相手が自分の都合に合わなくなれば別れるだけだ。

それを考えると、なるほど、弓塚の言い分はもっともだ。今の彼の役割が弓塚の好意の対象であるなら、彼は捨てられることはないだろう。意識を取り戻さない限り、文字通り永遠の愛が続くこととなる。

(……あれ、もしかして……)
そこまで、考えてシエルはふと彼を捨てた相手のことを思い出した。
血縁も無い相手を「兄さん」と呼んでいた少女。
彼女も弓塚のように「兄さん」に特別な役割を求めていたとしたら?
そして、その期待に彼が応えられなかったとしたら?

「……遅かれ早かれ、こうなる運命だったのかもしれませんね」

主を守る忠実なるナイトとなった哀れな彼を見据えながらシエルは溜息を漏らした。
そして、何気ない動作でカソックの下に隠してあった長剣を取り出す。

「あれ、先輩。納得してくれたんじゃないんだ」
「納得はしましたよ。けど、それと『仕事』は別ですからね。あなた方二人、土に還さなくてはいけません」
「ふぅん。言っておくけど。わたしは強いよ。それに遠野くんは凄い技を持っているしね」
「なら、見せてもらいましょう。相手にとって不足無しです!」

三人の間に見る見る殺気が広がって行き──破裂した。

鋭い金属音と炸裂する炎が闇を切り裂き、夜の街は戦場と化す。

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その修羅場のすぐ側の物陰にふいに影が浮かんだ。

「あらあら、危なくなってきましたねー。では、帰りましょう。秋葉さまの引越しの作業の続きもやらないといけませんし」

一部始終をずっと見物していた影は、そう言うと動き出した。闇色のワンピースを着ているためか、遠目からだと、青いリボンを付けた赤毛の頭だけが宙に浮いているように見えた。
乱戦の場を眺める琥珀は得意の告白をはじめた。聞いてくれる者がいないのがちょっと残念に思えたが。

「これで、しばらくは遊べますかね? 秋葉さまもいなくなったら、わたし、やることがなくなっちゃいますからねー。それがとても心配でしたけど……シエルさんも期待通りの行動を取ってくれちゃって。みんな良い人ばかりですよねー。志貴さんの面白さには敵いませんが」

そこで言葉を区切ると琥珀は志貴の隣で戦っている弓塚を見ながら言葉を続けた。

「しかし、あの吸血鬼さん、本当に志貴さんのこと好きだったんですねえ」

苦節十年の前回の計画とは違い、予想もしなかったアクシデントから生まれた構想二日の急造の計画は面白いほど上手く行った。
これは運……というより協力者の弓塚のおかげであろう。彼女の『遠野くんを助ける方法がある』という策がなければ、ここまで事態を泥沼化できなかっただろうから。
当初は弓塚を薬漬けにして自分の言うことを聞かせようと思ったのだが……やはり役立つのはやる気のある協力者。
まさに、琥珀にとっては神様仏様弓塚様であった……今のところは、であるが。

「でも、吸血鬼さんも秋葉さまみたいに志貴さまに幻滅したりはしないでしょうか? ……って何、馬鹿なことを考えてるんでしょうね、わたしは。志貴さんはもうお人形ですから、飽きられない限り安泰でしたわね。うふふ、秋葉さまもああすれば良かったのに」

そして、不自然な動きで弓塚を守る志貴を見る。

「あれが、本当の人形なわけですか。どうやら、わたしは勘違いをしていたようですね。考える力があるわたしは『人』になってしまうわけですね。わたし程度で人形だと思っては本当のお人形さんに失礼ですし。ふふっ、ありがとうございます、志貴さん。すっごく勉強になりました。この感謝の気持ちが伝えられなくて、残念です。あはっ、あは、あはははははははー」

夜の闇にどこか病んだ笑い声が響く。その笑いは少し離れたところで起きている爆発音にかき消されてしまったが。
ひとしきり笑った後、琥珀はふぁっと軽くあくびをもらす。

「それじゃ、みなさん。お疲れ様でした。簡単に死んじゃ駄目ですよ。それじゃ『わたし』が面白くありませんから。では、また明日」

戦い続ける三人に人知れず挨拶をすると、とてとてと軽い足取りで琥珀は家路へと急ぐ。明日はもっと手早く仕事を済ませて、一晩中見物しようと考えながら。

こうして、一つの恋は終り。一つの恋は実った。
これは、ただ、それだけの話。

BAD END


(To Be Continued....)