(9)

秋葉に近づいていたアルクェイドは、その言葉にびくりと体を震わせると身動きを止めてしまう。その言葉の意味がわかったのか……いや、秋葉の口調から彼女の今の心理を察したのだろう。
別にアルクェイドが鋭いわけではない。気づかない志貴が鈍感すぎるだけだ。

「どうしたの。ほどいてくれるんじゃなかったの? それとも、こんなに汚れている私に近寄るのが嫌なの?」

まるで世間話をするような穏やかな口調で、穏やかではない言葉を秋葉は吐く。
対するアルクェイドはぶんぶんと首を横に振ると、精液塗れの秋葉に近寄り手首と足首を縛っていた布切れを解いた。

「秋葉さまっ!」

縛めを解かれた手を軽く振っていると、血相を変えた琥珀が近寄ってくる。
アルクェイドは秋葉自身の拘束と一緒に琥珀と翡翠にかけた魅了も解いたようだ。
妹の翡翠の方は、どういうわけか床に崩れて虚ろな表情なまま、何かぶつぶつと、うわ言を言っている。

近寄ってきた琥珀の表情は真剣だった。いつもの演技臭さ──感情ではなく思考を優先するため、ほんのわずかだが現れるタイムラグがまるでない。
どういうわけか心情と表情が完全に同期しているように見える。秋葉は彼女を侍女にして長いが、こんなことは今まで一度も見たことがない。
琥珀は、白い粘液で汚れた秋葉の顔を自分のハンカチで拭きつつ尋ねてきた。

「秋葉さま……痛かったですか」
「ええ」
「苦しかったですか?」
「ええ」
「気持ち悪かったですか?」
「ええ」
「そう……そう、ですよね」

一人納得したような琥珀は辛そうな顔をした。当事者の秋葉よりも──まるで自分が辱めを受けたかのように。ハンカチを動かしていた手を止めた彼女は秋葉の瞳をじっと見つめたままぽつりと言う。

「無理矢理は辛いですよね」

彼女を労るような真剣な顔を見れば、その裏側で「なんて、面白いことをしてくれたんでしょう、志貴さんって!」という心の底からの愉悦に耐えているとは誰も気づくまい。

「……」

琥珀を見返す秋葉の視線は、泣きそうだった。彼女がもっとも頼りにする琥珀に優しくされて、秋葉の気は削がれはじめている。
先程まではあった激しい感情が目にみえてどんどん失われいく。
それは琥珀にとって都合が悪い現象だ。
このまま泣き寝入りをして、なあなあで終わられては、琥珀が楽しくはない。
自分の応対が失敗であることを悟った琥珀は、再び秋葉を奮い起こすべく言葉を繰った。

「わたしは、まだ良かったのかもしれません。好きでも嫌いでも無い人たちだったから。でも、秋葉さまは──志貴さんをずっとお慕いしてましたのに」

自分とは違うということをさり気なく琥珀は強調した。
その指摘に、秋葉の目は見開かれ、一時は消沈しかけていた目に再び強い光を取り戻す。

「たしかに、好きでも嫌いでも無いなら、恨まないわね。それこそ犬にでも噛まれたと思って忘れようと努力することもできるわ」

秋葉は目だけ動かして、琥珀を見る。柔らかな表情の琥珀に対し、秋葉の眼光は鷹のように鋭さを取り戻した。
琥珀は自分の策の成功に微笑みたくなったものの、演技力を総動員して驚いた顔をしてみせる。

「けど──。私はこの事を忘れるつもりも、諦めるつもりも、ましてや許すつもりはないわ」

視線を琥珀から、少し離れたところに座っている志貴の元へと向けた。そして、琥珀の肩を借りて立ち上がる。
激しい責めで腰に力が入らないのか、その足はふらついている。それでも背筋を伸ばし、強引に歩いて行く。
歩くたび、前と後ろの秘所からぼたぼたと精の残滓が落ちて行くが、それも気にしない。
まるで何事もなかったかのような面持ちで、秋葉は志貴の前に立つ。

「満足でしたか、遠野志貴?」

「兄さん」ではなく、フルネームで彼に呼びかけた。微笑みすらも浮かべながら。
その変化に、秋葉の纏う怒気に気づきもせず、志貴はいつものように調子良く答えた。

「ああ、今日は床の上だったけど、今度はベッドの上で──」

言葉の最中、ぱぁんと乾いた音が部屋中に響いた。
それは、秋葉の平手だった。

「今度? そんなものはありませんよ。二度とね」

何が起こったのか理解できずに痛む頬を押さえている志貴に、秋葉は相変わらず上品かつにこやかに話し掛ける。表面だけを取り繕う社交の話術の定石通りに。

「出て行きなさい。遠野志貴」
「な、なんで……」

志貴の方は一方的な憤怒を受けて茫然としている。
秋葉の癇癪は今に始まったことではないが、今までのものとは怒りの質もレベルもまるで違う。

彼は……この期に及んでも、なぜにそれほどまでの怒りをぶつけられるのかまるで心当たりがなかった。
そう、本当に志貴は悪気がなかったのである。

呆気にとられている志貴に秋葉は静かに語りかけた。

「遠野志貴。あなた、八年前に私に言った言葉を覚えてますか?」
「え? そんな昔のこと……覚えているわけないだろう?」
「ならば、あなたは私の『兄さん』ではありません。出て行きなさい」
「何だよ。いきなり。帰ってこいって言ったのは秋葉じゃないか?」
「ええ、そうです。それには責任を感じています。だから、あなたの好きなように抱かれたのじゃないですか」
「……え?」

そんな理由で秋葉が言いなりになっていたなど、志貴にとってはまるで想像外の出来事であったようだ。

「殿方は乙女の純潔を好まれるのでしょう? 前も口も、そして後ろも差し上げたのだから、迷惑料としては十分ではないのかしら?」
「ちょ、ちょっと待てよ。おまえは俺のことが好きじゃなかったのか?」
「ええ、好きでしたよ。志貴は志貴でも七夜志貴──『私の兄さん』のことが。でも、どうやらあなたは私の兄さんじゃないみたいですね、遠野志貴。それがこんなに早くわかっただけでも良かったですわ。勘違いに気づくための授業料だと思えば──純潔など安いもの」

腕を組み、強い口調と眼光で志貴を見据えるその姿は、処女を散らされた乙女ではない。全裸、それも精液塗れの姿ながら、威厳という名のプレッシャーで志貴を押し潰さんとしている。

「七夜志貴も遠野志貴も同じ俺だぞ!」
「違うわ。私に取っては違うの。他の誰が『同じ』と証明しようとも、私が違うと思えば『違う』のよ。そしてこの家の法を司るのは私。私の言葉は絶対です」
「そんな、無茶苦茶な……」
「あら、『あなたは変わった』って、別れる時の常套句じゃない? 私はね。七夜志貴の行動と心を愛したの。彼の志の欠片もない、顔と体だけが同じな遠野志貴を愛せるほど、軽い女じゃないのよ!」

志貴に答える言葉などない。
彼は秋葉の言っていることがまるでわからないようだ。おそらく、彼の目から秋葉は逆ギレを起こしているとしか見えないのだろう。

「出て行きなさい。遠野志貴。私は、私が愛した彼と同じ姿をした別の生物を間近においても平気なほど神経が太くないの。一生食べるに困らないだけのお金はあげるわ。だから──」

敵を前にした虎のような猛々しさで秋葉言う。

「二度と、私の前にその顔を出すことは許しません!」

それが、秋葉が志貴に投げた最後の言葉だった。

以後、彼が何と言おうが、事態を知った彼の親代わりだった有間の夫婦が来ようが、頑として耳を貸すことはついになかった。

結局、志貴は遠野の家を去り、束の間の擬似家族は終りを迎える。
後に残ったのは、弱みの欠片もなく、当主としての威厳を強めた秋葉。男性恐怖症がさらに悪化し、再び引き篭もり状態に入ってしまった翡翠。そして妙に楽しげな琥珀であった。
片や、志貴はというと──。

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夜の街を学生服姿の少年が歩いている。
どこか力無い足取りで。
彼は、ふいに胸を押さえると苦しげに呻いた。

「ぐぅあっ。はぁはぁっ……」

荒い息を押えつつ助けを呼ぼうにも付近に人影はほとんどない。謎の猟奇殺人事件の影響だろうか?
胸を掻き毟りながら、少年は助けを求めて重い体を鞭打ち這って行く。
視界の端に灯りが見えた。今や少なくなっている電話ボックスの灯りだ。さらに幸いなことに、ボックスの中には人影があった。

「た、たす……け……」

蚊のなくような声で叫ぶと、ボックスの扉が開き人が出てきた。
出てきたのは偶然だろう。あの声が聞こえるわけがない。
だから、彼はもう一度助けを呼ぼうと口を開こうとした。すると──。

「あれ? あなた、もしかして──」

人影の方が先に話し掛けてきた。二人の距離はせいぜい十メートル。夜とはいえ気づいてもおかしくない。

「あ、やっぱり遠野くんだ。ちょうど、今、電話であなたのことを話していたんだよ。偶然ってあるものだよね」

若い女の声が志貴の耳に入る。
以前、どこかで聞いた声だが、どうにも思い出せない。顔を見ようとしても逆光になっているためかよくわからない。

だが、この際相手が誰であろうと構わない。
今までよくあった貧血とはレベルが違うのだ。まるで、命が擦り減って行くような感覚──。
この苦痛と恐怖から助けてくれるのなら悪魔だろうが鬼だろうが構わなかった。

「はや…く。きゅう…きゅうしゃ…を」

混濁しはじめた意識の中で、電話ボックスを指差しながら懸命に彼は頼む。

「うわ。電話の通りの症状だね。急がないと──。え? 救急車。駄目だよそんなんじゃ遠野くんの病気は治らないんだよ」
「……え?」

どうやら、彼女は志貴を知っているらしい。
彼は、働かなくなっていく頭で必死にこの女を思い出そうとしていた。

「大丈夫だよ。遠野くん。ピンチの時は助けてあげるから! 大丈夫! わたしに任せて」
「ありが…と…う」
「お礼なんていいよ。わたしも助けてもらったんだし」

助けた?
そんなに親しい女性がいたろうか? 志貴は朦朧とした頭脳を手繰るか何もひっかかるものがなかった。

「あれ? 嫌だな。もしかして、遠野くん、わたしのことわからないの?」

その言葉はやはりどこかで聞いたことがあるように思える。
だが、体が鉛のように重く、頭も働かない。
薄れゆく意識の中で、彼は最後にこう呟いた。

「……わからない」

と──。

(To Be Continued....)