(9) 秋葉に近づいていたアルクェイドは、その言葉にびくりと体を震わせると身動きを止めてしまう。その言葉の意味がわかったのか……いや、秋葉の口調から彼女の今の心理を察したのだろう。 「どうしたの。ほどいてくれるんじゃなかったの? それとも、こんなに汚れている私に近寄るのが嫌なの?」 まるで世間話をするような穏やかな口調で、穏やかではない言葉を秋葉は吐く。 「秋葉さまっ!」 縛めを解かれた手を軽く振っていると、血相を変えた琥珀が近寄ってくる。 近寄ってきた琥珀の表情は真剣だった。いつもの演技臭さ──感情ではなく思考を優先するため、ほんのわずかだが現れるタイムラグがまるでない。 「秋葉さま……痛かったですか」 一人納得したような琥珀は辛そうな顔をした。当事者の秋葉よりも──まるで自分が辱めを受けたかのように。ハンカチを動かしていた手を止めた彼女は秋葉の瞳をじっと見つめたままぽつりと言う。 「無理矢理は辛いですよね」 彼女を労るような真剣な顔を見れば、その裏側で「なんて、面白いことをしてくれたんでしょう、志貴さんって!」という心の底からの愉悦に耐えているとは誰も気づくまい。 「……」 琥珀を見返す秋葉の視線は、泣きそうだった。彼女がもっとも頼りにする琥珀に優しくされて、秋葉の気は削がれはじめている。 「わたしは、まだ良かったのかもしれません。好きでも嫌いでも無い人たちだったから。でも、秋葉さまは──志貴さんをずっとお慕いしてましたのに」 自分とは違うということをさり気なく琥珀は強調した。 「たしかに、好きでも嫌いでも無いなら、恨まないわね。それこそ犬にでも噛まれたと思って忘れようと努力することもできるわ」 秋葉は目だけ動かして、琥珀を見る。柔らかな表情の琥珀に対し、秋葉の眼光は鷹のように鋭さを取り戻した。 「けど──。私はこの事を忘れるつもりも、諦めるつもりも、ましてや許すつもりはないわ」 視線を琥珀から、少し離れたところに座っている志貴の元へと向けた。そして、琥珀の肩を借りて立ち上がる。 「満足でしたか、遠野志貴?」 「兄さん」ではなく、フルネームで彼に呼びかけた。微笑みすらも浮かべながら。 「ああ、今日は床の上だったけど、今度はベッドの上で──」 言葉の最中、ぱぁんと乾いた音が部屋中に響いた。 「今度? そんなものはありませんよ。二度とね」 何が起こったのか理解できずに痛む頬を押さえている志貴に、秋葉は相変わらず上品かつにこやかに話し掛ける。表面だけを取り繕う社交の話術の定石通りに。 「出て行きなさい。遠野志貴」 志貴の方は一方的な憤怒を受けて茫然としている。 彼は……この期に及んでも、なぜにそれほどまでの怒りをぶつけられるのかまるで心当たりがなかった。 呆気にとられている志貴に秋葉は静かに語りかけた。 「遠野志貴。あなた、八年前に私に言った言葉を覚えてますか?」 そんな理由で秋葉が言いなりになっていたなど、志貴にとってはまるで想像外の出来事であったようだ。 「殿方は乙女の純潔を好まれるのでしょう?
前も口も、そして後ろも差し上げたのだから、迷惑料としては十分ではないのかしら?」 腕を組み、強い口調と眼光で志貴を見据えるその姿は、処女を散らされた乙女ではない。全裸、それも精液塗れの姿ながら、威厳という名のプレッシャーで志貴を押し潰さんとしている。 「七夜志貴も遠野志貴も同じ俺だぞ!」 志貴に答える言葉などない。 「出て行きなさい。遠野志貴。私は、私が愛した彼と同じ姿をした別の生物を間近においても平気なほど神経が太くないの。一生食べるに困らないだけのお金はあげるわ。だから──」 敵を前にした虎のような猛々しさで秋葉言う。 「二度と、私の前にその顔を出すことは許しません!」 それが、秋葉が志貴に投げた最後の言葉だった。 以後、彼が何と言おうが、事態を知った彼の親代わりだった有間の夫婦が来ようが、頑として耳を貸すことはついになかった。 結局、志貴は遠野の家を去り、束の間の擬似家族は終りを迎える。 *********************************** 夜の街を学生服姿の少年が歩いている。 「ぐぅあっ。はぁはぁっ……」 荒い息を押えつつ助けを呼ぼうにも付近に人影はほとんどない。謎の猟奇殺人事件の影響だろうか? 「た、たす……け……」 蚊のなくような声で叫ぶと、ボックスの扉が開き人が出てきた。 「あれ? あなた、もしかして──」 人影の方が先に話し掛けてきた。二人の距離はせいぜい十メートル。夜とはいえ気づいてもおかしくない。 「あ、やっぱり遠野くんだ。ちょうど、今、電話であなたのことを話していたんだよ。偶然ってあるものだよね」 若い女の声が志貴の耳に入る。 だが、この際相手が誰であろうと構わない。 「はや…く。きゅう…きゅうしゃ…を」 混濁しはじめた意識の中で、電話ボックスを指差しながら懸命に彼は頼む。 「うわ。電話の通りの症状だね。急がないと──。え?
救急車。駄目だよそんなんじゃ遠野くんの病気は治らないんだよ」 どうやら、彼女は志貴を知っているらしい。 「大丈夫だよ。遠野くん。ピンチの時は助けてあげるから!
大丈夫! わたしに任せて」 助けた? 「あれ? 嫌だな。もしかして、遠野くん、わたしのことわからないの?」 その言葉はやはりどこかで聞いたことがあるように思える。 「……わからない」 と──。 (To Be Continued....) |