テレビがついている情景


 寒さに体が震えて、ふと目を覚ますと、そこには裸の志貴さんがわたしの胸にうずもれて寝ていました。
 今さっきまでの熱く蕩けるような逢瀬を思い出し、ちょっと頬を赤らめちゃいます。
 こんな乱れたままなのに、疲れてつい寝てしまったようですね。

 志貴さんもこんな姿のままでは、風邪をひいちゃいますよ。

 そっとその顔をのぞき込む。
 そこには、静かに眠る、愛しい人の顔があり、
 その口元
 その眉
 その鼻梁
 その眼鏡
 その瞼
思わず見入ってしまいます。
つい、つんとつついてみます。
何の反応もありません。
 またつついてみます。

 翡翠ちゃんのいうとおり、まるで彫像のように寝ていますねー。
 翡翠ちゃんたら、いいなー。

 愛しい人の髪を撫でてみます。
 それは柔らかく、ふさふさで犬を連想させます。

 いつもこんな志貴さんを見ているなんて……ずるいですよね。

 また撫でてみます。

   なんて愛おしい人――。

 わたしはがらんどうで、中には何もなかったんですよね。
 空っぽな箱で――。
 逃れるために箱になったんですよ。
 中に何も入れなければ、壊れることがありませんし。
 痛さも、感じなければまったく痛みなどありませんし――。
 だから耐えられたんですよ。
 槙久様も、四季様も、耐えられました。
 あんなつまない行為も耐えられました。
 ぐにゃぐにゃなあれを勃たせて、ただ中に入れて、しごいて、果てさせるだけ。
 そのくせ汚れて、殴られて、くわえさせられて、入れられて――ただ痛いだけ。

 だから四季様と秋葉様を対峙されたというのに。
 この遠野という檻から逃れるために。
 だから秋葉様に血を吸わせて、遠野寄りにさせたのに。
 すべては潰えちゃいました。
 この人のために。

 空っぽになったわたしはどうしたらよいのか、わからなくなったんですよ。
 でも――
 この人は、わたしにも中身があるとを示してくれました。
 そこにいるわたしを見てくれたんです。
 わたしが一番大好きなこの『琥珀』だけでなく、その下に隠れていた、本当の『琥珀』をも見つけだし、手を差しのばしてくれました。
 八年前。
 窓からただ眺めるだけだったわたしに手を伸ばしたように。

 あの手はわたしを出してくれる手だったんですね。

 そっとその手に触れます。
 ごつごつした男の手。
 固い手。
 無骨な手。

槙久様や四季様とそんなに変わらない男性の手なのに、ただ触れるだけで――。

 照れちゃいますね。

 その親指を、その人差し指を、その中指を、その薬指を、その小指を――順々に丹念に愛おしげに撫でまわしました。

 ふと、この人の子供ならば、と思います。

 でも――怖い。
 子供時代に虐待を受けた者は自分の子供を虐待してしまうんでよね。
 子供に対する接し方が虐待しか知らないから――
 だから怖くて――。
 だから志貴さんには悪いですけど、外に出してもらいました。
 避妊具があればいいのですけど――。
 今度はちゃんと用意しておかないといけませんね。

 秋葉様にワザとわかるようにして、槙久様から解放されるようにし向けたのは、初潮を迎えたからです。
 子供ができてしまうから。
 それが怖かったから。
 だからワザとわかるようにしむけて。
 でも、本当に解放されたのかどうか、わかりません。
 愛しい人との逢瀬を迎えても、ついあのときのことが蘇ってしまう。
 もういいというのに。
 もう終わったというのに。
 なのに、蘇ってしまう。
 呪縛されてしまう。
 まだ、縛られたまま。
 でも。

 また愛しい人の寝姿を見ます。

 この人はそれがわかっていて、だからこんなにも優しく愛してくれます。
 なんて人。
 なんていう人。
 そう思うだけで――
 視界がぼやけてしまいます。
 たぶん――泣いているのでしょうね。
 あの時も泣かなかったわたしが
 たすかったあと
 この人を見て
 ――泣いてしまう

 愛しています

 告白なんてできません。
 とても怖くて。
――そして幸せで。
 ようやく慣れたいつもの日常が壊れそうで、無くなってしまいそうで。
 だから、告白などできません。
 求め合うような激しい逢瀬でも、ただその愛撫だけが、わたしへの伝言。
 志貴さんの愛の言葉。
 わたしもそれを受け入れます。
 愛していますって。
 こんなメロドラマのようなことがあるなんて――。
 言葉ではなく、行為で伝え合う恋文。
 なんて――なんて恥ずかしい行為で、
 でも言葉でない分、信じてもよくて。
 だからこの人は、優しくそして激しく、そして狂おしいほどに抱きしめてくれます。
 思いを込めて抱きしめてくれるたびに、この檻から出ていったことを実感させてくれる、
 あのやさしい愛撫が。
 あの激しい抱擁が。
 そして
 あのやさしい瞳が――。


 なんて――狂おしいほど愛おしい人。


 ふと思いついて、顔をのぞき込みます。
 またつんとつつく。
 ぷにぶにと頬をつつき、鼻をつまみ、唇をひっぱります。

 起きませんね。

 確認をとるとわたしはいそいそと用意を始めます。

 これは無防備に寝ている志貴さんが悪いんですねからね。

 わたしは志貴さんにイタズラをします。
 悪戯。
 戯れ。
 でも、これも――志貴さんへの恋文。
 言葉ではなく行為で伝える愛の囁きなんですよ。
 ――でもちょっと困った顔をした志貴さんって可愛いんですよね。

 その顔を思い出すと、顔が変化したのを感じました。
 その変化は――。
 わたしは自分の顔がどう変わり、どう動いたのかを知り、そっと愛しい人に囁きます。
 
 ――志貴さま

照れちゃいますけど、聞いていないからいいですよね。

 ――ほら見てください、わたし……笑えていますか。
 あの、あはーという作られたものではありませんけど。
 でもこれは確かに笑いだと思います。
 これは志貴さん、あなたがくれたものなんですよ。
 …………
 ……





 「……」
 声がする。いつもの翡翠の声ではなくこれは――。

「あれ、琥珀さん」

自分でもすっとんきょうな声だと思う。

「ようやく起きましたねー、志貴さん」

琥珀さんは、イタズラ好きな笑みを浮かべている。

「でもタイヘンですよー」
「え、大変って……」

 こういう顔をした琥珀さんは絶対なにかたくらんでいる。

「ほら」

そういってカーテンを開けると、まぶしい太陽が燦々と降り注いでいた。

「もう朝ですよ」

 いい天気だなって……朝……あさ……アサ……!

そこにはくすくすと笑う琥珀さんがいて、

「もうとっくに翡翠ちゃんが起こしてくれる時間ですかねー」

なんてことを言う。

あたりを見回し確認する。
ここは琥珀さんの部屋。
あのあと、なんていうか自分への解放感で、つい寝入ってしまったようで……。
 貧血が起きたときのような、あの不安定なイヤな感じがする。

「顔が真っ青ですよー」

いえ、解説してくれなくて結構です、琥珀さん。
いそいで戻らないと――。でもどうやって、いやそれより時間は――。
早く起きたことにすれば、翡翠にも秋葉にも言い訳が成り立つ。

「……琥珀さん、今何時ですか」

 おそるおそる聞いてみる。

「はい、午前7時32分ですよー」

と指さす。
そこにはテレビがついていて、朝のニュースをやっている。
株価暴落について、コメンティーナーが話をしている。
 遠野グループの株は大丈夫なんだろうか――ってそんなことを考えている暇はない。

 そこには、7:32、という致命的な数字が刻まれていた――今7:33に変わる。

 神様!

 「さぁいそいで秋葉様のところにいって、翡翠ちゃんとはすれ違ったことにしないと――」

その言葉に急いで居間に向かう。

 居間に入ると、秋葉はいつものとおり紅茶をたしなんでいた。
 その横には翡翠がいて――いつもの情景がある。

「お、おはよう秋葉」

 おそるおそる声をかけてみる。

「おはようございます、兄さ――」
「!」

秋葉と翡翠はこちらを見ると硬直する。
 バレているのか――。
 なんて言い訳しようかと考えていると。

「兄さん、その姿はいったい――」

――え?

「志貴様、お戯れはやめた方がよいかと――」

――なに?

ふたりがなにを言っているのかわからない。

きょろきょろとあたりを見渡す。
 服はいつものだし、スボンのチャックがおりているわけでもない。
 …………
 ………
 ……
 わからない。

翡翠は急いで近づいてくると、コンパクトを取り出す。さすが女の子のたしなみ。
 そして鏡で映された自分の顔は――。

  

それはばっちりと化粧した自分の顔があった。
 マスカラ、アイシャドウ、チーク、ルージュ……わざと女装しているかのような顔。
 髪には蒼いリボンがかわいらしくつけられていて、わざわざカールまでされている!

「兄さん!」

秋葉の声がカン高くなる。

「遠野家の長男としての自覚が少々欠けているようですね」

「いや、これは――」

 すると、琥珀さんが入ってきてくれる。
助けを求めようと、視線を向けると、
彼女は俺をみて、わざと目をまん丸にして、驚いた振りをする。

 ――やられた。

 罠にはまった。
 もしこの化粧のこと言い訳すると、琥珀さんとの逢瀬があったことまでいわなくてはならず、そんなことを言えば――。
「兄さんは!」とか「志貴様、不潔です」とか言われるのがオチで――。
 だから何もいえなくなった。

「兄さん!」

そのキツい秋葉の声に思わずソファーに腰掛ける。

 くどくどと説教を始める秋葉に対して、ただうなづき、返事をするだけな俺。

 頭のリボンをとる。
 とそれは青色で。
 それはいつも琥珀さんがつけているものと同じで
 ちらりと、琥珀さんを見ると。
 白いリボンをつけた彼女が微笑んで立っていた。
 ――あぁ
 思わず目が細まる。
 あのリボンだということがわかる。
 すると、

「秋葉様ー、学校に遅刻してしまいますよ。さ、急がないとー」

と琥珀さんが時計を指し示す。
 その時刻は秋葉にとってもかなり危険な時刻で――。
 驚き立ち上がった秋葉にすばやく鞄を手渡す琥珀さん。そのタイミングはさすがです。
 そして、

「いってらっしゃいませ」

と深々とお辞儀をする。
 秋葉は鞄と時計と琥珀さんを交互に見て、

「話の続きは帰ってきてからですからね」

と出かけてしまう。

「あはー、大変でしたねー、志貴さん」

 なにか言おうと思って、やめて、かぶりをふる。
 そんな様子にくすくすと笑う琥珀さん。

 ――降参です、かないませんとも、えぇ。

「さぁさ志貴さん、もう時間ぎりぎり、遅刻寸前ですよー」

その言葉にガタと立ち上がる俺。するとトーストと牛乳を差し出す。そのタイミングはさすがです、琥珀さん。

 「ありがと、琥珀さん」

そういって受け取るとそのまま翡翠から鞄を受け取り、出かける。
後ろで翡翠が何か言っているが、気にしていられない。気にしない。

 ――学校まで走って……もつかな俺?

 そんな日常的なひとコマ。
 テレビがある、テレビがついているというのは、普通の家庭ではとても一般的な情景。
 テレビという素晴らしく猥雑な文明の利器。
 日常のささいなひとコマを演出してくれるもの。
 そう――これは遠野家のささいな日常のひとコマ。
 テレビが演出してくれる猥雑なもの。

 琥珀さんが、彼女が望んだ情景。
 秋葉がいて、翡翠がいて、俺がいて、そして――。
 そして琥珀さんがいるという、
 猥雑でうるさく、そして代わり映えのしない日常。
 でも――。
 とても大切な時間。

 ――でも琥珀さん。

つい思う。

 ――秋葉に怒られるのは日常でなくていいですから、平穏をください。
 ――情けをかけてください、琥珀さん。

 でも、それが遠野家の日常。
 それが、テレビというものが演出してくれる情景。
 そういうもの。




18th. April. 2002
#016
25th. April. 2002 Ver. 1.1

back / index / postscript