「なんだよ、あの演奏はよ」 舞台袖におりた途端、イラついたかのように、厚志がいう。 せっかくいい気分で、お祭りだったあの感じが消えてしまって、残るはザラつ感覚だけ。 義雄も則武も気まずそうだ。 ボクはうなだれるばかり。 ボクのせいで失敗したから――あんな熱くなれるサイコーの時なんてめったにこない。なのにボクが潰してしまった。 「……あの件の腹いせかよ」 その一言にかっとなる。 「違う!」 「ふん、どーだか」 その一言で、もやもやとしたもの、ドロドロとしたものが、奥底から背筋をきしませて昇ってくる。 目の前が赤くなる。視界が狭くなり、暗転し、そして――。 「……あ」 ボクは呆然としていた。 厚志を叩いていた。 思いっきり。 ほんの瞬間だというのに、ボクの息はあがっていて、肩で息していた。 「――!」 厚志の目がつり上がり、そしてボクを殴りつけた。 ボクは簡単に倒れる。 痛みはなかった。 ただ、ぐわんぐわんしている。 顔がぱんぱんに腫れ上がったかのように。 耳が遠くて聞こえない。 義雄が厚志を止めている。 則武がボクに近づいてくる。 耳の奥になにかがつまったかのようだ。 割れたノイズだけが耳に届く。 ボクは則武を押しのけていた。 畜生、ちくしょう、チクショウ。 頭の中で同じフレーズがぐるぐるまわっている。 手と足がバラバラに動く。 右に動きたいのか、左に動きたいのか――それさえもわからない。 目の前が暗く赤い。 どうなったのかわからない。 ただボクは叫んでいた、と思う。 なにか口走ったと思う。 その言葉に近づいてきた則武の動きも止まる。 ボクは則武を押しのけて、走った。 どこでもいい。ここではない場所へといきたかったからだ。 もうそんな衝動しか、ボクの中になかった。 気がつくと公園。 ……こういう時に公園にくるってお約束なのかな……。 胡乱な頭で考えてみる。 まぁどうでもよいことだった。 それが映画やコミックのすり込みでも、ボクが公園にいる事実には変わりない。 体中、汗でびっしょりだった。 もう夏も近いというのに、夜の冷え込みはまだ厳しい。 このまでは風邪をひくな、なんて考えていると。 「先客か?」 と声がした。 振り返ると、そこに――2ブロックの蒼い髪のあの子がいた。 あの退屈だといわんばかりの冷めた視線で、ボクを狂わせたあの子が――。 また、かあっと血が上り始める。 この子があんな視線を向けなければ。 あの時、この子が気にならなければ。 この子がライブハウスにこなければ。 そうすれば、サイコーはサイコーのままで終わったというのに。 思わず、見ず知らずの人に罵声をいうところだった。 口を開きかけた時、 「痛そーだな」 こっちの思いを知って知らずか、のんきそうにボクの顔をのぞき込んで、声をかけてくる。 そういえば左頬が熱い。ジンジンしている。 「ほら」 その子はハンカチを取り出し、渡してくれる。 きょとんとしているボクに、やれやれとした顔をして、水飲み場で濡らしてきてくれる。 「ほら」 ……え、えっと……。 まだきょとんとしているボクに、やれやれとした顔をして、濡れたハンカチをそっと左頬にあててくれる。 心地よい冷たさだった。 熱く腫れた頬に気持ちよい刺激。 思わず、ほぉっと体の中の熱を逃がすかのように、深くため息をつく。 「……ゴメン」 ボクは謝った。 今度は相手がきょとんとする。 でもボクは謝り続けた。 「……ゴメン」 ボクは謝りたかった。殴った厚志に、止めようとしてくれた義雄に、せっかくボクを起こそうとした則武に――そして目の前の子に。 ボクは自分の不満を爆発してしまっただけなんだ。 この子が退屈そうな――そう醒めた目でボクが勝手に醒めただけで。 みんな一生懸命、演奏していたのに。 ボクが醒めたという理由で、そうしてしまった。 ボクが演奏を放棄したんだ。 目の前の子は頬をぽりぽりと掻いたあと、目を細めて、ちょっとだけ口元を上げて笑った。 そしてただ謝るボクの手を引いて、ベンチまで案内してくれる。 「まぁ座りな」 その子は日本茶のペットボトルを開ける。 そしておいしそうに飲む。 その子は、ただ俯いて黙っているボクの横にいて、一緒にベンチに腰掛けてくれた。 遠くから、街の喧噪。 車の音。 にぎやかなテレビの音声。 でもこの公園までは届かない。 なんとか届いても何の意味もなさない、ざわめきのひとつと化してしまう。 あるのは黒々とした緑とベンチと街灯と、ボクたち二人だけ。 その子は、ただ座って、空を見上げたり、お茶を飲んだり、目を閉じたりしている。 ボクはただ押し黙っているだけ――。 でもその子といる沈黙は心地よくて。 暖かくて。 あんなに沈黙はイタくて嫌いだったというのに。 安心できて。 そして、静かだった。 しばしの心地よい沈黙。 するとその子はボクの肩を軽く二度ほど、ここにいるよ、と優しく叩いてくれる。 顔を上げてみると、視界がにじむ。 ボクは泣いていたんだ。 どうやらその子はボクが泣いていることに気づき、肩を叩いてくれたんだと思う。 見ず知らずの人の親切ほど身に沁みるものはない――あぁ確かにそうだ。 涙はあふれ出る。 でも止まらない。 恥ずかしい。 涙どころかしゃっくりもでる。 顔はたぶんぐちゃぐちゃだ。 ボクは低く嗚咽をあげて鳴き始めた。 涙を流すなんて――。 でも気持ちよかった。 その子の叩き方があんまりにも、ボクの心に沁みて――。 その優しい沈黙が、心にうれしくて――。 その子が、泣いていいよ、と意味で叩いてくれたのだと気づいたのは、それから数日後のことだった。 「……ボクはヤなヤツだ」 「そうか?」 「あぁ自分の気分で演奏をヤめたりして……」 「ふぅん」 「なのに、ボクはバンドのみんなに八つ当たりして」 「――で喧嘩か?」 「うん」 「……」 「……」 「あの時、キミはボクを見ていたね」 「あぁ」 「なぜ?」 「お前さんだけだったんだ」 「……何が?」 「でも他のメンバーは違っていてさ」 「……」 「あれじゃ……やりたいことできなかったろ?」 厚志のラブソングが思い浮かぶ。 あの甘ったるい詩。 ボクも好きなあのメロディ。 義雄のドラムのビート、則武の奏でる音。 嫌いならば一緒にやっていない。 ボクは首をふる。 「ふぅん」 「……」 「……」 「……」 「……でもさ」 その子は思い出したかのようにつぶやく。 「お前さんだけだったんだ」 「……なにが」 「ロックだったのは」 「……」 「……」 「ロックンロールっていうのはさ、ようは粋だよな。伊達っていてってもいい」 その子はそっと囁き始める。その目はボクを見ていない。どこか遠くの、なにかを見ていた。 「社会機構に対する反抗。反骨精神。レジスタンス――ようは自分たちの魂を弾かせる、というかなんていうか――そぅシャウトするっていうヤツ。だから歌謡じゃない」 「……」 「お前さんは、他のメンツと違って何かに反抗していた。それを歌っていた。 シャウトしていたんだ」 「ボクは歌ってないよ」 「お前さんの奏でるエレキが、さ」 ――まるでボクの心を読んでいるのかのようだった。 何も答えられない。言葉が喉に詰まってしゃべることができない。 その子の声だけがボクの耳に聞こえた。 「……女って、辛いよな」 ボクが厚志と対立していたこと――それはボクが女だっていうこと。 女だから、とか厚志は言いだした。 それが癪に障る。生まれたときの性別なんて変えられないというのに。厚志はボクに、女であることを、いちいち言う。 どうやら気があるらしい。ボクはそうじゃない。その気になれない。今まで楽しくやっていたバンドのメンバーをこじらせるようなマネをしたくない。 せっかくあのいいリズムで、言葉もなく、音どうしが紬ぎ出す、あの世界を知っているというのに――厚志の大バカ野郎は! しかもマスコットガールのような扱いを、まるでそこにいるだけでいい、みたいな――あんなヤツ。 だからボクは面と向かって言ってやった。 それからだ。 ぎくしゃくしだしたのは。 たぶん、義雄も、則武も、男だから、厚志よりだろう。あの態度を見ていると、厚志から何かいい含まれているようだ。 あぁ――女って損だ。なんで男に生まれなかったんだろうか――。 そうすれば……。 そうだったら……。 「でもさ」 その子はしゃべり始める。 「もう女だから、さ。それよりも、女の粋っていうか、伊達というか、意地っていうか――そういうもんを出して見ろよ」 女だから不利とか考えるんじゃなくてさ 女だからこそ、をさ。 でもそんなことを言われても何も思いつかなかった。 「……だからロックンロールなのさ」 顔を上げて、その子を見る。 その子は自信満々に笑っていた。 「そして、それがロックンロールなのさ」 「……でも」 ボクは弱気を漏らしてしまう。 「そんときは……Fuck You ! さ」 中指をたてる。 そしてウィンク。 もうそれしかないっていうほどの笑み。 その子の目は輝いている。 「……そうだね」 「な、Fuck you ! さ」 Fuck you ――糞っくらえ! それは罵声の言葉。 それは社会に対する反骨の狼煙。 シャウトする自分の魂。 ボクは演奏するのが好きさ――ファック・ユー!! 大好きさ――ファック・ユー!! 厚志なんて――ファック・ユー!! 女だから、なんて――ファック・ユー!! みんなみんな――ファック・ユー!! ボクは演奏するのが大好きで 女だからというヤツなんて、糞っくらえ、さ。 男とか女とかいう区別なんて、糞っくらえ、さ。 ボクはどこまでいっても、ボク、なのだから。 すとんと何かが落ちた。 笑いがこみ上げてくる。 ボクは笑った。 大声で笑い、そして叫んだ。 それは、ひさしぶりの笑いだったような気がする。 そしてボクはようやくその子と自己紹介――といっても蒼香という名前を聞く程度、そんなもんだけでいい――した。 そして色々話す。楽器のこと、ライブのこと、好きな歌手、音楽、テーマ、70年代のロックについて、そしてメタル、パンク。今はやりの歌、今脂のノっているバンド――とにかく自分の知っている音楽について、蒼香と語り合った。 時には歌を歌い、リズムをとり、意見を対立させ、お互い納得し、足踏みし――そして笑った。 そして白みはじめる夜空。もうすぐ朝である。 別れを告げる蒼香に、ボクができることといったら――。 「これ」 そういってピックを投げ渡す。 そのピックにはボクの名前、KAORUと書かれている。 「記念だ――Fuck you」 すると、また笑みを浮かべる。 「その意気だ、ロックンロール!」 そして蒼香は朝の雑踏へと消えていく。 それがボクが見た蒼香の最後の姿だった。 ◇ ◇ ◇ 蒼香は欠伸をしながら、寄宿舎の自分の部屋に戻ってくる。 「あ、おかえり〜」 羽居が挨拶する。 「もう急がないと遅刻だよ、蒼香ちゃん」 「つい始発まで話し込んじゃってな」 いそいそとベッドに入る。 もぅ授業だよ、と起こそうとする羽居に、 「寝る」とだけ告げて、布団を頭からかぶる。 「もぅ蒼香ちゃんたら、先生になんていえばいいのよ〜」 「Fuck you さ」 頭からクェッション・マークを出している羽居に対して、きしし、と意地の悪い笑みが布団から漏れる。 「ロックン・ロール、さ」 「もぅ蒼香ちゃんのいけずぅぅぅぅ」 羽居はばたばたと出ていく。どうやら授業に出かけたらしい。 蒼香は目を閉じて、うとうととする。 心地よいまどろみの中、今朝まで話していた女の子――薫――が最後に笑ったのを、思い出した。 そして彼女に向かって、 「それがロックンロール、さ」 とつぶやいた。 了
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