「頑張れよ」 蒼香はすっと手を伸ばす。 それはどうみても最後の挨拶。それが終わってしまうと、蒼香はどこかに行ってしまう。 握手などしたくなかった。 でも蒼香は握手を求めている。 うん――いいだろう、蒼香がそれを求めているのならば。 ボクができるのは、それだけ。 ボクはそっと握手する。 小さな手だった。 よくよく考えれば、蒼香はボクよりも小さい。 頭一つ分ぐらい小さい。だからボクよりも小さくて当然。なのに、その小ささにボクは驚いていた。 そして蒼香は手を離す。 もうこれでおしまい、というように――。 「じゃあな」 蒼香はくるりと背を向け、手を振って去ろうとする。 「あぁ」ボクは声をかける。 「ロックンロールさ」 すると、顔だけをこちらに向けて、にやりと――格好良く笑う。 もうすぐ朝焼けを迎える、白々とした夜空に、蒼香は中指を立てる。 「忘れんなよ、Fuck Youだ」 ボクも中指をたてる。 「Fuck You、蒼香」 罵声なのに、それは励ましの言葉。 それが蒼香とボクの物語の最後のシーンだった。 Rockn' Roll ボクはその子が気になった。 いる場所はいつものライブハウス。 そこは、まぁそこは、なんというか――いつもどおり。 雑然かつ猥雑とした楽しさ。 薄暗く、煙草の紫煙とアルコール、そしてちょっと汗くさい。 そんないつものライブハウス。 壁はポスターを幾度となく貼っては剥がしたため汚れ、時折、記念にと自分たちのバンド名をスプレーで書いていく伝言板となっていて。 50名程度入ったらもう満席という、この狭さ。 利点はステージとの距離がないこと。まぁあったらライブハウスではなくなるという人もいるのだが。 こんなに狭いのに、スピーカを通じてヴォーカルはシャウトし、客は手をたたき、足踏みする。 天井についたスポットが天井や床やステージを様々な色――紅、紫、黄、白――に、安っぽく照らしていた。 そんなチープで、ありきたりな、いつものライブハウス。 そんないつものライブハウスで、 ボクは気になる子を見つけたということ。 その子を見た時、最初は男か、と思った。 でもその首筋の細さ、腰の細さから女だとわかった。 背は小さい。女としても小柄の方だ。 蒼い髪を2ブロックにしていて、ちょっとつり目気味で、スウェットパーカーを着ていた。 目はぼんやりとなにか虚ろで、退屈しているようであった。 手には日本茶のペットボトル。 口元にはシニカルな笑み。 ステージからちょっと離れた席にたった一人で座っていた。 片足を、あぐらでもかくかのように、もう一方の足の太股にのせていた。 最初は珍しいな、と思った。 まぁこんな狭いライブハウスは、ぶっちゃけた話、常連でもっているようなものだ。各々のライブハウスには各々のバンドがつき、定期的に演奏してくれる。そうなと、そのバンドの追っかけ――とまではいかないが、ファンがつき、客足が安定する。 ボクは今日ライブのあるバンドを思い出す。しか今回演奏するのは、すべて知っているバンドで、それらについているファンたちの顔を思い浮かべても、該当する者はいなかった。 (新しいファンかな) 次にその子に思ったことは、その程度。 そして気になったのはその髪。 蒼い髪は珍しいかった。 青はかなりいる。脱色してから染めると、原色っぽくかつ軽く明るい青になる。でも蒼となると――。 どうやって染めたんだろう? それとも生まれつき、かな? そんな疑問。 まぁそれがボクが見た次の印象である。 ボクはその子を無視して楽屋に入る。時間がなかった。ちょっと遅刻気味である。 ステージが狭い割には楽屋がいい――それがこのライブハウスの特徴で、だからこそ、ここが気に入るバンドも多い。たいていは演奏する3つないし4つのグループがたむろって居るような狭い部屋なのだが、ここはもう少しひろく、多少音合わせをしても、まぁ目をつぶってもらえる――そんな広さである。 「よぅ」 リーダーの厚志が手を挙げる。すでにメーキャップはできている。 赤く染めた髪をワックスで固めて、目元にはマスカラをこってりとぬってある。唇は真っ黒のルージュ。 (まぁ厚志が格好良いとも思うなら、いいか) ビジュアル系だからさ、と厚志は言うけど、ボクはあまりしたくない。 そりゃリーダーの厚志の言い分もわかるつもりだ。でもまずは演奏のテクとか、歌とか詩とか、なんかそういったものがコアだと思うんだ。まずはソレが大事だと思うんだけど――リーダーは、と同時にビジュアルも、だそうだ。 ボクはバンドのまわりに合わせて、メイクする。髪はスモーキーベージュに染めてワックスでツンツンに固めてある。肌を白く塗りたくり、黒のルージュを塗る。 鏡の中の自分は死人のようだった。 まぁこんなもんか――。 でも高揚感がある。 なんていうか、こんな化粧はステージでしかしない。こんなに塗りたくって、アイラインをくっきり描き、真っ黒――なんていうか真っ黒の唇なんて、どう思う?――なルージュをひく。 でもこの化粧の匂いが、メーキャップっていう行為が、ボクを昂揚させる。 これからステージに立つ、ということを意識させるからだ。 メイクが終わると、エレキをつま弾く。びぃん、と鳴る弦が心地よい。 実はボクはとあることで厚志と喧嘩していた。 でもそれはよくある口論としてしか、厚志も他のメンバーも捉えてくれない。 ボクがどれだけ本気に言っても、彼ら……にはわかってくれないのだ。 せっかく長い間やってきたメンバーだというのに。 そういうメンバーとはやらないで、別んところでやれば? なんて言ったヤツもいる。 でもせっかくこのメンバーで、このバンドでやってきたんだ。 このままいきたいし、走りたかった。 だから演奏前はしゃべらない。 喧嘩になるかもしれないから。 演奏前に喧嘩なんてしたら、うまくいくものもうまくいかない。 でも沈黙はイタい。 ピリピリと滲みる。 だからボクは沈黙が嫌いだ。 みんなも嫌いだと思う。 だからひとり食事するときも、テレビをつけるかCDを鳴らす。 でも今回はそうはいかない。だからボクはエレキを出して、つま弾く。 簡単な音合わせだ。 うん、狂っていない。 まぁ乱暴に扱ったわけでも、長い間演奏していないというわけでもない。だからそう簡単に音など狂いはしないもんだ。でも、やっぱり、演奏前ではこういうことをすることが一番大事だと思う。 アンプに繋いでいないからはっきりとした音にはならないが、それでも今日演奏するフレーズが蘇ってくる。 甘いラブソング。 なんというか、ベタで、ベタベタで、さらにベタベタベタのラブソング。 まぁ厚志好みというか。 まぁそれでも、このフレーズがボクの好みだったり。 今日これをやるのというのは、ボクとしては嬉しい。 するとドラムの義雄が、ボクのエレキに合わせて、スティックでかるくリズムを合わせてくる。 軽いセッション。 それが心地よい。 遠くから他のバンドの演奏の音。 熱狂的な客の足踏みと歓声。 響いてくるのはそれだけ。 興奮する。 そりゃ客の前での演奏というのは、何度やっても興奮するものだ。 でもこれは違う。自分の演奏へと期待だ。 やれるとわかる――そんな昂揚感。 軽いセッションがボクの気持ちを高ぶらせてくれる。 キーボードの則武も、指でリズムをとっている。 ヴォーカルの厚志もノってきたのか、ハミング。 喧嘩なんてなかったかのように、楽しくセッション。 あるのは純粋に、音色と歌声とリズム。ただそれだけ。その前には人の思考やら感情やらは一切ない。純然なる音色の波。 イイ感じだ。 今日はいい演奏ができる、という予感。 そしてボクたちは呼ばれて、ステージへとあがった。 ほんの今までギラギラと輝いていたライトは一切消えていて、ほのかに青い。客席の人々が静まりかえり、こっちを見ているのが解る。 やっぱりいつもの汗くささとアルコール臭さが入り交じった緊張した空気にボクはくすりと笑う。 心地よい緊張感につつまれたその刹那――。 厚志はそっと歌い始める。 そしてライトがステージを照らし、ボクたちは一斉に演奏を始める。 光が注がれ、客席が見えず、いるのは自分たちだけになる。 世界に自分たちだけしかいないような、そんな錯覚。 繰り返すフレーズ。 甘い詩。 待ちわびた恋人との再会。 音が重なり、声はひろがり、手拍子と足踏みだけが、観客がいることを知らせてくる。 ボクが奏でる音が、則武の音が、義雄のリズムが、厚志の歌声が、非調和的な調和を奏でる。 音がハモる。重なり合った音が、体中に広がる。 スピーカからでる重低音はボクの体を震わせて、夢見心地にさせてくれる。 体中の細胞のひとつひとつがはじけ、シャウトし、すべての血が心臓へと逆流する。 音色の波が広がり、観客へと届き、そして観客からかえってくる。 ボクたちの熱狂が観客に伝わり、観客からかえってくる。 だから、より高ぶる。より熱狂できる。 指先が意識しないで音を奏でる。 いいリズムだ。 音が澄んでいて気持ちいい。 このメンツで喧嘩しているとは誰も思わないし、ボクももう思っていない。 最高の音色だった。 最高の夜だった。 最高の演奏だった。 ――とにかく、サイコーだった。 そしてボクはステージから客席を見たその時、突然ボクは覚めた。醒めてしまった。サイコーは消えてしまった。 汗が引いていくのがわかる。 そこには今さっきの子。 相も変わらずひとりで座り、まわりの立って手拍子している観客から浮いている。 その口元に――冷めたあのシニカルな笑みが浮かんでいたのだ。 なぜか、そのとき、その子だけが見えた。 ちょっとつり目気味の目がじっとステージを見ている――退屈そうに。 その退屈そうな視線がボクを地上へと引きずり降ろす。 今までいた音楽の神様の後光が消えさり、ただ無様に指先を動かす人形になる。なってしまう。 退屈だといっている、その視線とボクの視線が絡み合う。時間にしてコンマ数秒。 目があったという感覚に引きずられて、さらにその子だけに意識が集中する。 しらけた空気。 今まであったあの心地よい世界は消え失せ、あるのは、ただ演奏しているだけの人形。 ひきずられてはいけないと、集中しようと、気分を高揚させようとするけども、高ぶらない。その子の視線を感じるたびに、冷めていく。 今まであったあの空気が、感覚が、すべて骸となり、失せていく。散っていく。消えていく。 ――今日の演奏は散々だった。 |