「――――――――――――はい」

 なんて穏やかなんだろう。静かな水面のよう。兄さんの強い決意に満ちた硬い声だというのに、わたしはなんの気負いもてらいもなく、ただ静かに穏やかに聞くことができた。

「秋葉。迎えにいかなくてゴメンな」

 ほんとうに悪そうに謝る。まるでイタズラしたのがバレてどうしようかと思っているやんちゃな子供のよう。
 迎えに来ない兄さんをあんなに罵りたかったのに、イザ目の前にしてみると、そんな気持ちなんて霧散してしまい、目の前の愛しい人がなぜかとても可愛らしく思えてしまった。

「俺はずっと考えていたんだ。このまま秋葉と結ばれて良いのかってさ」
「……」
「たしかに秋葉のことが大好きだ。愛している。そして秋葉も俺のことを愛してくれると思っている」
「はい、そうですよ、兄さん」

 わたしは柔らかく微笑む。

「でもさ。俺達って世間的に兄妹だろ。もしこのまま結ばれると、秋葉に迷惑をかけることになるんだ。こういうのって女の秋葉が弱者になるじゃないか。それに秋葉が大切にしている遠野家の名前にだって傷がつくことになるだろう。
 この地から離れればいいかと思ったけど、遠野の当主である秋葉がここから離れるわけにもいかないだろう」
「まぁ」

 わたしは笑った。

「兄さん、そんなことを……」
「ああ、そんなことばかり考えていた」

 鋭い目つきでこちらを見ている。

「それに俺は七夜の血をもっている。退魔の血が時折うずくかもしれない。
 そして秋葉は遠野の鬼種の血をひいている。
 もしかしたら、殺し合うかもしれない。遠野と七夜ってもともとそういう関係だろ? もしそうなったら、秋葉を苦しめてしまうなって。
 どちらにしても、いやだった。秋葉がもうこれ以上苦しむのはみたくなかったんだ。だから――このままいなくなればいいのかなって――――思った」

 冷たく輝く兄さんの瞳。その瞳には温かい輝きとともに、なにか痛々しいほどの光を湛えていた。
 兄さんの告白は衝撃的なはずなのに、わたしの心は穏やかなままで、なにより胸の奥でなにかが打ち震えた。
 その震えるなにかに突き動かされて兄さんへと一歩歩み寄る。手をのばし兄さんの頬に触る。温かく柔らかい、でも女のわたしよりはるかに硬い男の人の頬。

「――――――兄さんはバカです」

 わたしはなじった、笑いながら。
 兄さんも笑っている。鋭い目つきはそのままなのに、そこに湛える光はとてもやさしくて、柔らかくて。

「俺はバカだよ」
「兄さんは愚鈍です」
「あぁ」
「兄さんは唐変木です」
「そうだ」
「兄さんは朴念仁です」
「うん」
「でも、秋葉は――――」

 わたしは告白する。

「―――――――――そんな兄さんのことを愛しているんですよ」
「俺もさ」

 兄さんも笑う。兄さんらしい、でも兄さんらしくない笑み。
 儚い、でもわたしをはっとさせるほど男らしい、痺れるような笑みだった。

「俺も諦めきれなかった。寝ても醒めても秋葉のことを考えてしまうんだ。どうしても、ダメだったんだ。だから――こうして戻ってきた」
「そうですよ、兄さん。
 兄さんがわたしを不幸にするだなんて、兄さんはバカです。
 兄さんが側にいないのが、わたしにとって不幸なんですよ。
 兄さんは愚鈍すぎます。そんなことに気づかないなんて」

 やさしく柔らかく、兄さんに向かって、語りかける。
 心のうちを。

「わたしがどんな性格だか知っているでしょう、兄さん。
 意地っ張りで可愛げがなくて怒りんぼで――でも、それが遠野秋葉なんです。そんな女なんですよ。
 だから兄さんが隠れるならわたしも隠れます。兄さんがいなくなるなら、わたしもいなくなります。
 だって――」

 感情の高ぶりによって、声が震えてしまう。
 胸の奥の震えが伝わったかのよう。
 でも言わないと。そうてないと意味がないから。

「――だって、わたしは、兄さんの女、なんですから。
 遠野の血なんて、七夜の血なんて、そんなもの関係ありません。
 兄さんがいるところがわたしのいるべきところなんですからね」

 ああ、なんて恥ずかしい告白。でもそれは確かにわたしの本心。
 わたしの本心からの言葉。

「それに兄さんはどこへ行こうというのですか?
 兄さんもわたしも帰るところは一緒のはず。。
 兄さんがいて、わたしがいて、翡翠がいて、琥珀がいる、遠野の屋敷。あそここそが、あそこだけが、わたしたちの家なんですよ。
 それ以外のどこに行こうというんですか?」

 兄さんは頷く。

「あぁ、あそこが俺の……俺達の家だもんな」
「そうですよ、今頃わかったのですか」

 ふたりして屈託なく笑う。
 揺るぎようのない、もっともシンプルでもっともシャープな答え。その鮮やかさに、その心地よさに痺れしまっていた。
 兄さんもわたしもそんなことに悩んでしまったなんて――。
 ひとしきり笑った後、

「でもさ、いいのか秋葉?」
「何ですか、兄さん?」
「兄妹ということになるから、外では恋人どうしのように振る舞えないぞ」
「それはちょっと寂しいですけどね」

 わたしは数歩踏み出て、坂を上って振り返り、兄さんと同じ視線に立つ。

「でも、仕方ないでしょう」

 兄さんは目を細め、眩しそうにこちらを見ている。その視線に胸が高鳴り、ときめきさえ憶えてしまう。

「それでも、兄さんがいいんですから。兄さんが側にいてさえくれればいいんですから」

 そして続きは心の中で呟く。


    だって、秋葉は兄さんのものなんですよ。
    ずっとずっと、8年前から。
    兄さんしかいないんですよ。
    それに。
    わたしはいつも囚われていて。
    世間体、まわりの目、遠野の当主という立場。
    でもそこから助け出して解放してくれるのは、兄さんだけなんです。
    そう、それはまるでお伽噺。
    囚われのお姫様を助け出してくれる騎士のよう。
    わたしには、その騎士は兄さんしかいないんです。
    子供のころから、今さっきのラーメンの食べ方まで、なにもかも。
    囚われているわたしをそこから解放してくれる運命の人は、兄さんだけなんですよ。


 運命の人という考えは――それはそれは、とてもとても、わたしの心の中にある乙女チックで少女趣味のところをくすぐるのに充分な事柄だった。
 そしてそれをやんわりとくすぐることができるのは、目の前の黒縁眼鏡をかけた愛おしい朴念仁しかいないことを充分なほど知っていたのだから。

「――俺も秋葉がいいよ」
「当たり前です。こんなに可愛らしくて麗しいんですからね」

 兄さんは苦笑しながら、こちらへのぼってこようとする。
 それを止めて、わたしは言った。

「はい、これを――」

 わたしは鞄から、取り出して兄さんの前に出す。
 ドキドキしていた。何度も瞬いてしまう。
 まるで大木さんのようね、と思う。あの娘もこんな風にドキトギしていたのかしら?

「これは……」

兄さんが驚いているのを見ながら、頷いた。

「はい、七夜の短刀です。預かり物ですから、お返しします」

 兄さんはそれをじいっと見ている。やがて、

「いいよ、それは秋葉にやるよ」
「これは兄さんのです。どうぞ受け取ってください」

 そういうと兄さんはかぶりをふった。

「それはもう俺にはいらないものだから」

 兄さんは囁くように言う。

「それは秋葉が持っていてくれよ」

 真剣な眼差しに、思わず震えてしまう。
 とたん兄さんが歩み寄り、わたしを胸に抱き寄せる。
 兄さんの腕に、兄さんの匂いに、兄さんの温かさに包まれてしまう。
 いきなりのことに驚き、何も出来なかった。
 そして耳元で、低く甘い潜めた兄さんの声。

「俺の女なんだから、持っていろ」

 命令口調にわたしは震えてしまう。胸に突然抱かれて、体が嬉しさのために、わなないてしまう。
 なんてぶっきらぼうな言葉。
 なんて下品な言い回し。
 でも、それは確かにわたしの望んだ言葉。
 でも、それは確かに兄さんらしい率直な言葉。

    わたしは兄さんのもの。

 だからか、知らずのうちにわたしは頷いていた。

 そして兄さんの顔を見上げる。
 やや照れた、はにかんだ笑みを兄さんは浮かべ、

「ただいま、秋葉」

 ようやく欲しかった言葉をくれた。
 聞きたかった言葉に、傷ついた胸のうちが癒されていく。
 悲しみに打ち震えていた心が、その一言で癒されていく。
 勇気をくれた、大木さんのプレゼントの桜色の口紅をつけた唇で、言葉を紡ぐ。
 万感の思いをこめて。
 愛しい兄さんに向かって。

「お帰りなさい、兄さん」

 愛しい胸のうちとともに。

 わたしはこれ以上ないとびっきりの笑顔を浮かべた。
 女の笑み。
 恋しくて愛しい兄さんしか見ることができない、特別な笑み。


 そしてわたしたちは、わたしたちの家へと、まるで兄妹のように、まるで恋人のように、手を繋いで帰った。
 言葉はいらない。
 待つものはふかふかのベット。
 わたしたちには、ふたりっきりになれる場所さえあればよかった。

 わたしたちは、ようやくあるべきところに戻れたのだと、そう思った。




 お伽噺のおわりはいつもハッピーエンド。
『囚われのお姫様は助け出してくれた騎士に娶られて、末永く幸せに暮らしましたとさ。おしまい』が締めの言葉。
 それがもっともシャープで簡潔な、解答。




おしまい

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