そこにいたのは、夢にその姿を思い描き、醒めてもその姿をもとめて視線をさまよわせてしまった人。
 遠野志貴――わたしの兄さん、わたしの愛おしい人。
 その人は、
 なぜか、
 手にドンブリをもって、
 立っていたのだ。

 (――――なぜドンブリ?)

 たぶん夢に違いないと、目を閉じて深呼吸する。
 兄さんのことばかり考えていたらこういう幻をみてしまったに違いない。
 そしてあけてみると――。

 やはり、兄さんがドンブリをもって立っていた。

「……に、兄さん?」

 すると茜色にそまる世界の中で兄さんは――なぜかドンブリ片手で――にかっと笑う。にこっでなくにかというのが、兄さんらしいと思う。
   でもなぜか目の前でにかっと笑っている兄さんに対して、言い得ぬ怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 たしかに兄さんに逢いたかった。その声を聞きたかったし、わたしの手の届くところにいて欲しかった。触れたかったし……そ、それに……抱いても欲しかった
 なのに、兄さんときたら、ここでにかっと笑っていて、こんなにも逢いたくてたまらなくて苦しいほどつのる思いに翻弄されて、でも意地をはって浅上からかえらなかったわたしがこんなにもつらい思いをしてきたのに。
   なぜ、そんなに明るく笑っているのですか?

 思わず当たりたくなってしまう。
 それに。
 あんな七夜の短刀だけ残して消えた兄さんが、わたしのために命がけで戦って、わたしを紅赤朱の夢から命をもって覚ましてくれた兄さんが――なぜ、こんなところにいるんですか?

 怒りがふつふつと沸いてくる。

 それに、ドンブリ片手で、こんな道ばたでひょこりとだなんて……劇的な別離をしたのですから、こうもっとドラマチックでセンセーショナルでスィートで甘々でうっとりと酔いしれてしまうような再会ではないのですか?

 わたしは息を吸い込み、兄さんはっ! と怒鳴ろうとした時。

「秋葉ちゃん、おひさしぶり」

  と乾さんもドンブリ片手で現れたのだ。
 突然のことに頭が一気に冷却される。
 わたしは兄さんを見ながら、いつものように上品に振る舞う。

「あら乾さん。奇遇ですね」

にっこりと微笑む。
 2人は屋台にいた。そこでラーメンを食べているのだ。今さっきのクセのある、でもおいしそうな匂いのもとはここだったのだ。

「秋葉もどうだい?」

 兄さんは気安くいう。
 わたしはきれそうだった。乾さんがいるのでついいつもの上品な猫をかぶってしまったが、それでよかったとおもう。わたしは思わずヒステリーを起こして、兄さんを思いっきりなじってしまいそうだった。
 ようやくこうして出会えたというのに、第一声がそれですか、兄さん?
 怒っているのか情けないのかわからなくて、体がわなわなと震えだした。押さえ始めていた遠野の血が目覚めそうになる。
 視界が狭く赤く、紅く、朱くなって――。

「まぁいいから、とにかくこっちに」

 兄さんはわたしの手をつかむと一気にひいて、無理矢理屋台へと連れ込む。
 
「に、兄さんっ!」

 もうダメ。わたしは怒鳴っていた。

「それがわたしに向かって言葉ですか。だいたい遠野家の長男としての……」

 しかしその言葉を遮るように、ラーメンのはいったドンブリが置かれる。
 奥にはバンダナで髪をおおった気さくそうな男性――たぶん店主だろう――がいた。

「――冷めたら、まずいよ」

 ぼそりと屋台の人が一言。
 温かくておいしそうなラーメンがそこにあった。上にはチャーシューやら煮卵やらネギやらノリやらコーンやら、やたら豪華にあって。
 温かげな湯気とともに、かぐわしいおいしそうな匂いがして。

 ―――――くぅ。

 とまたお腹がなってしまったのだ。

 はずからしいやらなにやら、わたしはわからなくて、その温かいラーメンを前に固まってしまった。
 ゆっくりとなにかがこみ上げてくる。
 それがわかったとたん、かあっと熱くなる。
 まるで火が点いているようだ。顔が火照って仕方がない。
 せっかく兄さんにあったというのに、まるで飢えているかのようにお腹をはしたなく鳴らしてしまって。
 せっかく出会えたのに。あんなことで離ればなれになって、生きていると信じて、心配して、いないことが当たり前の生活になっていくのが怖くて浅上に逃げ込んで、女の命ともいえる髪を捧げて、そしてようやく出会えたのに。

(なんでこんな目に――)

 わたしは泣きたくなってきた。
 恥ずかしくて、情けなくて、そして兄さんの愚鈍さに怒って――。

 顔を手で覆い尽くして声をあげて泣きたいぐらい。
 ここで大声をあげて大泣きし、兄さんを困らせたいぐらいだった。
 なのに、なぜか涙が出てこない。
 嗚咽なんて喉から出てこなかった。
 こんなに恥辱に震えているのに、こんなに屈辱に真っ赤になっているのに、口には笑みが浮かんでいた。
 なぜか頭がすっきりしてくる。
 怒りで狂ってしまったのかと思うぐらい。
 この朴念仁。この愚鈍。この――。
 幾度も心の中で兄さんに悪態をつきながら、なぜかわたしはこれ以上ないまでに笑っていた。
 意地っ張り。頑固者。そう、それがわたし。こんなところで泣くものか。あとでゆっくりと兄さんをなじって、いたぶって、泣くまで許してあげないのだから!

「――そうですね」

 我ながらびっくりするほど優雅な声。怒るほど丁寧に、優雅になっていく自分がいるのがわかる。

「ではいただきますわ」

 にっこりと微笑んで、割り箸をとる。そして麺を箸でつまんでレンゲにまとめて口にいれた。

(――美味しい)

 びっくりしてしまう。
 ラーメンなんて庶民の食べ物だとおもって口にしたことがないことを思いだした。会食にいっても、締めには大抵蕎麦で、ラーメンなんてものが出たことがない。中華にいったとしても、麺ものはまず食べない。すすって食べるのはみっともないし、服にとんで汚れるのが困るから。
 でも、このラーメンは本当に美味しかった。
 麺には腰がある。つるつるしているのに、噛むとじわぁっと染みこんだスープが口の中で溢れる。
 たぶん魚系のダシなのだろうけど、魚臭さはなく、スープは澄み切っている。それ意外にも昆布やら野菜やらの味がして、それをうまく醤油でまとめている。
 そして麺をつるりと飲み込む喉越しのおいしさといったら!
 口の中に涎ででてきてしまう。はしたないと思いながら、急いでレンゲでスープを味わう。
 温かいスープの味が口の中でひろがる。コクがあるのに、すっと消えてしまって舌の上に残るのは旨味だけ。口をあけるとその旨味が逃げそうなほど。濃厚ではなく、やや薄い。こういうのはあっさりと評するのかな? レンゲですくってまたひとくち。口の中に旨味と滋味が広がる。舌だけでなく、頬の裏側や歯茎でもその味が感じられるぐらい。
 そうしてようやく今度は麺とスープをレンゲの上でからめて両方食する。
 麺の食感とともに、口にひろがる旨味。舌をとろかすような味に、思わず唸ってしまう。スープとともにたべることによって、麺が熱いまま口の中で踊り、快感をもたらす。
 知らずしてため息をついていた。本当においしいものに出会うと言葉なんてなくなってしまうし、頭さえその愉悦でいっぱいになってしまう。今まで兄さんに対して感じていた怒りさえ消えてしまうほど。

「秋葉は上品だなぁ」

 そういって兄さんはズズズと音をたてて啜る。

「バぁカ、秋葉ちゃんはお前とちがって上品なお嬢様なのよ」

 乾さんも音をたててズズズと啜る。
 蕎麦とかは音をたてて食べるのが礼儀と聞いた気はあるけど……。
 わたしの視線を感じたのか、

「秋葉も音をたてて食べてみろよ」
「な……なにを言い出すんですか、兄さんは!」

 心の中を見透かされたかのようで、思わず大声になってしまう。

「そんな大声をだすなよ」

 兄さんは箸をとめて、しゃべりだす。

「蕎麦とか中華麺とかは音をたてて啜るのが礼儀だよ。ね、高田のお兄さん」

と突然カウンターの向こう店主にふる。
それに対して、

「――そ」

と勧める一言。
 わたしは目の前のどんぶりをみる。湯気の立った熱々のラーメン。それをはしたなく、しかも兄さんの目の前で啜れ、と――。

(……美味しそう)

 目の前をラーメンをなんのてらいも恥ずかしさもなく、兄さんのように啜るというのは、どんな感じなのだろうか?
 やはり美味しいのだろうか?
 それとも変わらないのだろうか?
 わたしの好奇心はくすぐられて、すごくソソられた。

 チラリと兄さんと乾さんを見て、そして店主を見る。
 なぜか期待に満ちた眼差し。
 箸で麺をつかんでもちあげる。
 箸につまままれた麺にスープがからんでいて、とても美味しそう。
 またチラリと横目で兄さん達を確認する。
 期待に満ちた痛いほどの視線。
 ええいままよ、とうんむと口にいれて、目をつむって啜った。
 ずずずっとすすり上げた。
 こんな恥ずかしいことをやるなんて。
 こんな音をたてるなんて、なんてはしたない。
 遠野の家長としていけないことだと思うし、なにより乙女が愛しい殿方の前でやるようなことではなかった。
 顔が熱く火照って仕方がない。顔から火が出るようとはこのこと。
 なのに、それは――。
 気恥ずかしさとなにかをやり遂げたという満足感ににた何かと、そしてなにか禁忌を破ったという背徳感めいたそれがまじりあっていて、胸がいっぱいだった。
 美味しいのかもしれない。
 もしかしたら味は何にも変わらないのかもしれない。
 兄さんと一緒に食べたから、こんなに幸福なのかもしれない。
 味なんてわからなかった、というのが正しいのかもしれない。
 でも、それはとても勇気が必要で、かなり冒険的で、胸がドキドキして、けれどワクワクして、とても――そう、とても楽しかったのだ。
 兄さんが勧めるのならば、こういう冒険的な事さえ、やれてしまう。
 恐る恐る伏し目がちで兄さんたちを確認すると、みんなにっこりと笑みをわたしに向けていた。
 その笑みが、気恥ずかしいクセに、クセになるほど心地よかった。

 兄さんたちはドンブリをあおってスープをすべて飲み干してしまう。男の人の豪快な食事と健啖ぶりに驚いてしまう。いくら冒険的だといってもそこまではできなかった。わたしはスープを残してしまうが、店主の方は目を細めて許してくれた。






 食事が終わると、乾さんとはその屋台――機動屋台中華反転マークIIという名称で、わたしはその名前をきいた時、失礼ながらもなんともいえない顔をしてしまった――で別れた。

 お腹がふくれるというのは、とてもいいことなのかもしれない。
 とても気分が穏やかになる。今まで感じていた怒りも情けなさも何もかも小さくなって、お腹に食物が満ちたという生物の根源にかかわる本能的な至福と快感に酔いしれていた。
 しばし、このたゆんだ至福感につつまれながら、坂を兄さんとふたりっきりでのぼる。
 すでに世界は黄昏の茜色から宵闇色に変わっていた。東の空には夜がその手を広げ始めているのに、西の空にはまた太陽がしがみついている、そんな昼と夜の狭間のひととき。
 わたしたちは長い影をひきずって、何の言葉もなく、坂をのぼっていく。
 わたしは兄さんに逢えば言いたいことが沢山あったはずなのに。
 なぜ、消えてしまったのか?
 なぜ、連絡をよこさなかったのか?
 なぜ、迎えにきてくれなかったのか?
 なぜ、なぜ、なぜ。
 この胸の中は疑問でこんなにもいっぱい。なのに、もうそれを問いかけるつもりなんて、微塵もなかった。
 兄さんの顔がみれただけで、疑問なんてどうでもよくなっていた。
 兄さんが側にいて、一緒に歩いている。それだけでよかった。
 遠野秋葉というのはなんて単純なんだろうかとも、思う。
 ほんとうに兄さんが側にいて、こうして一緒に歩いているだけで、もうどうでもよかった。

 兄さんの横顔を盗み見る。
 ぼんりやとした顔つき。でもよくよく見れば、その瞳はつよく、でも口元には柔らかい笑み。
 凛々しいような、凛々しくないような、なんともいえない顔つき。兄さんの顔つき。秋葉の大好きな兄さんの顔。
 ゆっくりと坂の上に黒々としたものが広がる。遠野の森。わたしと兄さんの家だった。

 風が吹く。
 さわさわと葉がざわめき、木漏れ日がわたしたちを幻惑する。
 梅の香りが漂ってくる。
 このまま時が止まってもよい、と本当に思った。
 兄さんがいなくて時が流れるというのならば、兄さんがいるのならば時が凍りついてしまってもいい。このまま死んでも良いとさえ思う。そう、このあたりが蒼香のいうところの少女趣味なところなのだろう。刹那的な一瞬でしかない自分の嗜好に、わたしのすべてをかけてしまうような思い切りのよい、あるいは幼い子供のような考え方。
 でも、兄さんとともにゆっくりと坂にのぼるという至福に、わたしは包まれていた。

 兄さんが立ち止まる。そしてこちらを向く。
 目には強い意志の光。その目に射すくめられる。

「なぁ秋葉」

 兄さんが静かに、低く甘い声でしゃべりはじめた。

 

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