次に訪れたもの

 ――もう少しで。

 食いしばった歯の間から吐息が漏れる。
 狂おしいほどの欲求。
 おぞましいほどの渇望。
 なんとか衝動を押さえ込む。
 あの温かい体。
 柔らかそうな肌。
 なまめかしいほどの首筋。
 そして。
 その下に流れる熱い血潮。
 あの――甘く、とても甘美な血。
 芳醇な香り。
 思うだけで、喉が鳴る。
 押さえていた飢えがこみ上げてくる。
 口の中は涎であふれかえて仕方がない。
 体が灼けるよう。
 じりじりと焙られて、苦しい。
 本能がざわめく。
 生きるために本能が、衝動となって脳髄を灼き焦がす。
 それを歯を食いしばって押さえ込む。
 体に爪をたてて、その痛みで誤魔化そうとする。
 それでも、いったんおこったうねりは全身の神経ひとつひとつを狂おしいほど痛めつける。
 苦しい。
 辛い。
 どんな風になどと考えることさえできない。
 ただ苦しくて、辛い。
 それを必死になって押さえ込む。
 理性で本能を封じる。
 とたん、震えがはしる。
 震えはさざ波となり、そして痙攣となって体を揺さぶる。
 内蔵ひとつひとつが飢えで、血を求めて、身悶え始める。
 顔を両手で隠すように覆う。
 そのまま爪を立てる。
 皮膚に爪が食い込み、ぼろぼろと崩れる。
 血など出もしない。

 ――渇いている。

 干涸らびそうなほど、飢え、渇いていた。

 ――これは罰。わたしへの罰。

 あまりにも強い衝動に、のたうち回りたくなる。
 いや、それよりも、この屋敷の外。獲物が徘徊する場所へいき、思う存分、『狩り』を、『捕食』をしたくてたまらない。
 目をつぶろうとするのに。
 その爛々と輝く獣の目は戸口を見ていた。
 開け放たれて、冷たく新鮮な空気が入り込んでくる、外へつながる戸口を。
 そこを一歩外へ出れば、そにこは獲物が、餌が徘徊している。
 移ろいゆく蒼い月が冴え冴えと光を投げかけていて。
   そして――。
 10分か、それとも1時間か――。
 くるおしいほどの衝動がようやくなりを潜め、ようやく息をついた。

 また安楽椅子に深く座る。
 ギシギシときしむ音。
 ようやく冷静さを取り戻したのか、カチカチという時計の歯車の音が聞こえ始めた。
 深く、とても深くため息をつく。
 すべての渇望を吐き出さんばかりに。

 そして思い出すは稔の姿。
 愛らしい子供の姿。
 その姿にフランソワを思い出す。
 可愛らしく、愛らしいフランソワを。
 久方ぶりに見た子供の姿に、どうしてもフランソワの姿を想像して仕方がなかった。


◇    ◇    ◇

 フランスの片田舎において、ダリアの生活は何の変哲もなかった。
 愛すべき夫ミシェル、そして子供のフランソワとの生活。ミシェルとフランソワは畑へ、ダリアは布を織って生計をたてていた。
 貧乏といえば貧乏なのだろう。貯蓄というものはほとんどなく、あったとしても天災などで畑の収穫がなかったときのための備蓄分しかない。生活できればいい方といったレベル。
 それでも、ダリアは幸せだった。
 裕福だけが幸せではなく、また貧乏なことが不幸せではなかった。
 たしかに甘いもの、おいしいものをたらふく食べることが出来なかった。
 たしかに衣服は2年に1度新調するのがせいぜいだった。
 しかし、それが不幸せを意味するものではない。
 夜も明けぬ冷たい静けさの中で目を覚まし、夫と子供が起きる前に朝食を作る。
 煮込み料理を作り、時々鍋をかきまわせながら繕い物。
 糸を紡ぎ、布を織り、生活費の足しにする日々。
 洗濯し、お掃除し、裏の庭からとれる薬草を摘む。
 そして夕暮れになると、走って戻ってくるフランソワ。それを楽しそうに、愛おしそうに眺めるミシェル。
 走ってきた息子はすぐにダリアの頬に口づけし、ただいまという。
 そして遅れて夫から顎髭で頬をこすりながら口づけする。
 そして食事。今日あったこと、見てきたこと、知り得たこと、村の様子、天候、パリでの話、敵対するイギリスとの話、司祭の説法などいろんなことを話した。とくにフランソワは食事中でもしゃべり、ダリアはお行儀が悪いとたしなめることもしばしば。
 そして暖炉の火をおとし、種火をきちんと確認して、就寝。
 そんな日々。
 心配事があった。
 それはフランソワのこと。
 いつも外へ出かける。それはかまわない。
 でも――その目は。
 暗い鳶色をした瞳はいつも何処かを見ていた。
 それだけが心配で、夫に相談すると、男の子はいつもそんなものだよ、ととりあってくれなかった。
 でもその程度。
 あとはなんでもない日常。
 たしかに強く、はっきりとしたものではない。
 しかし風呂にはいった時のような、じんわりとどんわりと体の芯へと、頭の芯へと染みこんでくるようなこそばゆい心地よさ。温かさ。大きく口をあけて笑うのではなく、常に口元に笑みが絶えないような、そんな幸せ。
 そんな幸福に包まれていた。

「村では、東の森に人狼が出るという噂だ」

 夫ミシェルが持ち帰ってきた噂はあまりいいものではなかった。
 その禍々しさにダリアは眉をひそめ十字を切るのだが、フランソワは違った。
 子供らしい無邪気で好奇心あふれる瞳で、そのうわさ話に聞き入った。
 フランソワには空想家のところがあって、こういった伝承の影から現れた話がとても大好きだった。妖精、吸血鬼、食屍鬼、人狼――ダリアからすれば身も凍るような恐ろしいのだというのに、フランソワは熱心に聞き入った。あまりにも熱心に聞くので、ミシェルにどうしたらよいか相談したら、子供とはそんなものさ、と言われて、ようやく納得した。
 ダリア自身にもそういう思い出があった。子供心にはすべてが謎であり、目に映るものすべてが新鮮なのである。なにもかもキラキラと輝いていて、眩しくて、あれはなに? これってどうして? と尋ねてまわってしまうのである。大人として子供のなにこれといった疑問に辛抱強くつき合わなくてはならなかった。
 たしかにうっとうしい時もあったが、それはとても可愛らしく微笑ましいもので、大人になった自分が忘れてしまった感覚や視点を提示してくれた。ダリアは辛抱強くつき合い、わかる範囲でできる限り答えた。
 しかしそれが伝承の方に傾いていて、ダリアとしては少々不満だった。
 それでも、フランソワの笑顔は夫ミシェルにとっても、ダリアにとっても、幸せの象徴であり、願わくばずっと微笑んでいてほしいと願っていた。

「……ヨハン爺さんが行方不明になった」

 夫がそう告げたとき、なにか不安なものにかられた。
 ヨハン爺さんは猟師でたしかに年寄りだから爺さんと呼ばれているが闊達でまだまだ現役だった。
 実際体力は落ちてきたものの、森の知識、天候への洞察、獲物の熟知――村一番の猟師であった。
 いやに不安感に捕らわれながらも尋ねると、東の森で行方不明になったという。
 それってもしかして! とわくわくした声をあげるフランソワをたしなめて――人が行方不明だというのにそんな声をだすなんて――慎重に尋ねた。しかし夫は肩をすくめ、たぶん山小屋で数日寝泊まりしているだけだと思うよ、と語った。その言葉にフランソワはとたんに興味をなくなった顔をしたが、ダリアの顔は青ざめていった。猟師が行方不明というならば10日以上、あるいは1ヶ月以上も消息知れずにならけなればそういわれないことに。
 しかしフランソワの手前、ふたりは明るく別の話題に切り替えて話した。
 それからは陰鬱な話ばかりだった。
 イギリスとの戦争、それによる国土の蹂躙、流行病、野盗の横行――そして人狼。
 税は重くなり、天災時のための備蓄を切り崩し始めた。
 それでも、ダリアは幸せだった。夫ミシェルと子供フランソワの笑いがあったからだ。もちろんこの2人にはダリアの笑みがあったればこそなのだが。たとえ貧乏になったとしても、家には笑いと温かさに満ちあふれていた。
 しかし暗い影はなおもこの片田舎を覆った。
 村でゆっくりと失踪者が増えたのである。
 最初は戦争へいって一旗揚げようとする若者がいなくなったと考えられていた。しかし若い娘や老人までもいなくなると、そういってはいられなかった。
 そして村人は黙って、東に横たわる暗い森をただ見つめるのであった。
 人狼。
 そういえば時折禍々しい遠吠えを聞かなかったか?
 牛の乳の出が悪くならなかったか?
 夜の闇はさらに深くならなかったか?

 村人たちの目は怯えと恐れの入り交じったなんともいえない色をたたえるようになった。
 だからといってこの村から出ていくことはできない。出ていくとしてどこに出ていくというのか? 他の村に受け入れる余地などはない。兵士として従軍する? そんなことはできない。
 暗い影が覆い被さる。

 畑の芽の出が悪くないか?
 爺さんの咳が止まらなくなったぞ。
 雌牛が死んだぞ!

 人々は集まって、ひそひそと話す。人狼といわず、また悪魔と言わず、ただ――影を呼び寄せる真似はせずに『あれ』とか『それ』とかとだけ呼び、そっと森へと視線を投げかけるのであった。

 そんな雰囲気にも関わらず、フランソワは腕白な子供に育った。ミシェルとともに畑に行き、そして遊び回る。かけっこしたり、犬と戯れたり。それでも、東の森には行ってはいけません、ときつく言い聞かせているのに、フランソワは笑って、大丈夫だよ、ママン、と笑うばかり。息子と夫の笑顔があれば大丈夫と、ダリアは信じた。
 翌年は天候不順もあって凶作であったが、なんとか一家離散せずに飢えをしのいだ。今年は麦の穂もしっかりとついているので、天候さえ崩れなければ豊作になる見込みだった。またダリアの作る織物もなんとか売れ、来年はもしかしたら親子三人、服を新調できるだろうと喜んだ。
 しかし村の若者は自警団を結成した――無論、人狼対策である。大人は止めたが、これ以上村が荒れるのはイヤだと結成してしまったのである。これは老齢の村長の進退を睨んだ政的なものであったのかもしれない。しかしダリアの心配はまだ若いフランソワがこんな危険なことに参加しないかどうかであった。腕白で夢想家であるフランソワはきっと参加するに違いない、止めなければ、そうダリアは思っていた。
 しかしフランソワは逆に全然興味がないよ、と言い切った。
 笑顔を浮かべるフランソワにほっと胸をなで下ろしたが、次の言葉がとても怖かった。

「人狼はそんなに愚かじゃないよ。あんなヤツらは逆に牙にかかって殺されちゃうよ」

 そんな言葉をいうフランソワを叩いた。

「いけません。そんな人様の死を口にするなんて! それにあんなヤツラなんて!」
「ゴメンなさい、ママン」

 叩かれた頬を赤く腫らして涙を浮かべ謝るフランソワを、ただ強く抱きしめるだけであった。

 それでも。
 人狼の被害は留まらなかった。自由騎士くずれの野盗では? そう囁かれたが、いなくなるのはきまって人だった。
 村人たちは恐れていた。攫われて身代金が要求されるのならばまだしも、そうではなく、ただ消えるだけ――。

  神隠し

 そんな言葉が村人たちの頭をよぎる。
 そして東の森が響くぐもった遠吠え。

 人狼

 村人達はどうすればいいのかわからなかった。
 自警団は森を意外を探した。西の岩山、北の野原、南の絶壁。そこには何の形跡もなかった。それでも、東の森へと近寄ることはなかった。村人たちはピリピリしていた。怯え、戦いていた。
 それでもフランソワは昔きかせたがちょうおばさんの歌を歌いながら、野原を探索した。どんなにあぶないといっても、笑って大丈夫だよ、といって聞かなかった。


「誰が殺した、コックロビン?」
「それはわたしよ」と雀が言った。
「わたしの弓と矢羽で、殺したのよ」



 ダリアは外へいくフランソワを閉じこめたかった。こんなにも危険だというのに無頓着に出かけてしまう子供がいつどんな目にあうかと思うと心配で仕方がなかった。しかし夫のミシェルは笑って、男の子にはそういう時期があるんだよダリア、と笑い飛ばすばかり。ダリアの胸にはジリジリとした焦燥感がつのっていた。
 そして村では奇妙なうわさ話が立った。

 迎えに来る。

 神隠しにあった者、人狼の被害にあっていなくなった彼らが夜、訪れるのだ、と――。
ゆらゆらと動いて、まるで悪魔に乗り移られたかのようにやてきて、連れて行ってしまうのだと。
 笑い事ではなかった。
 堕ちたもの、さえばなす者の囁きが聞こえてきそうだった。
 そして村は町へ使いをだし、司祭様を、悪魔払い師を呼ぶことにした。
 そして司祭様がこられるのを首を長くして待ちわびていた。


「誰がその骸を見つけたの?」
「それはわたしよ」蠅が言った。
「わたしの小さい眼(まなこ)で、見つけたのよ」



 だからとうとうダリアはフランソワに外出を禁じた。夫も賛同してくれた。

「何故!」

 フランソワは叫んだ。
 全身で、そのすべてで。

「何故、出ていっちゃあいけないんだ!」

 その激しさにダリアは困惑を覚えた。ただ子供の無事を守りたかっただけなのに、当の本人からこんなにも否定されるとは思っても見なかった。

「出かけるんだ! 出かけなきゃいけないんだ!」

 なんて強く否定するのか。涙を浮かべ、金切り声をあげて。
 どうしてでかけなくちゃいけないの? と尋ねても答えなかった。この悪魔や人狼が主のお力で去ってからでもいいじゃないの、といっても、フランソワは聞き入れなかった。

「ダメだ、ダメなんだ、ダメなんだ、今でないと」

 まるで今すぐにでも誰かが迎えにくるかのように。残されている時間がないかのように喚いた。

「お願いだよ、ママン」

 それでもダリアはがんとして首をふらなかった。どんなにフランソワのことを心配しているのか、恐ろしい目にあわないかと、この胸が震えているのを伝えるが、聞き入れてはくれない。
 そしてとうとうミシェルは、罰だ、と屋根裏部屋に閉じこめてしまった。
 そこまでしなくとも、とダリアは夫にいうが、ミシェルは、躾だし男の子にはこのぐらいしてもかまわないよ、と妻を宥めるように言った。
 しかしダリアは屋根裏部屋にたった一人でいる子供を思った。屋根裏部屋には火がなく寒いはず。風邪をひかないか、怖がっていないか、ヘタに意固地になっていないかと、心配ばかり。
 それをみて、なにフランソワはかしこい子だからちゃんと反省して謝るからそれまではほおっておいていいよ、と夫はいうが、妻は気もそぞろで家事も手に着かない様子。
 やれやれといった表情で、では今晩寝る頃には許そう。もしそこまで意地が張れたら逆に立派なものだがな、と笑っていた。

 屋根裏部屋から聞こえてくるのは、反省の言葉や泣き声ではなく、あの歌。
 がちょうおばさんの歌。


「誰がコックロビンの血を受け止めたの?」
「それはわたしよ」と魚が言った。
「わたしの小さなお皿で、受け止めたのよ」



 そして夜、暖炉の火を落とす時になると、ダリアは屋根裏部屋へと急いだ。
 どんなにお腹をすかしているだろう、どんなにひもじい思いをしただろう、どんなに心細かっただろう、どんなに寒かっただろう、どんなに……。
 そして開けてみると、そこには誰もいなかった。

「フランソワ?」

 寒くてボロ切れの中に寝ているに違いないわ。
 いない。
 眠ってしまって気づかないのよ。
 隅にもいない。
 暗くてよく見えないからね。
 灯りをもってきて照らしても――いない。
 柱の影にも。
 布の中にも。
 影の中にも。
 柱の上にも。
 どこにも――いない。
 フランソワはいなかった。

 神隠し

 その言葉がダリアの脳裏をよぎった。そのとき、悲鳴をあげていたことに、今頃気づいた。

 フランソワ、フランソワ、フランソワ。
 坊やはどこ? どこにいるの?

 急いでかけ降り、夫に伝える。
 夫も調べてみると、窓が開いていた。
 まさかここから? 
 それが二人の思い。
 そんなに出かけたかったの?
 わからなかった。
 今までフランソワのことを知っていると、ダリアは思っていた。しかしそれが思い上がりでしかないことをつきつけられて、狼狽えていた。
 どうすればいいのかまったくわからなかった。
 夫は神隠しなんかじゃない、困ったヤツだ、と妻をいたわるようにいい、外套を北。そして妻へ接吻し、探しに行ってくるよ、と言った。それでも妻の瞳に不安の色を見たのか、力強く、男の子っていうのは冒険好きなものさ、と笑いながら言い切った。
 ダリアはただ主の祈った。
 遠くから知らない獣の遠吠え。
 その度に外をちらりと見る。
 陰鬱な夜。
 星の輝きが弱く、まるで天の篝火がおちてしまったかのよう。
 ただ移ろいゆく蒼白い月が世界を染め上げていた。
 真円の月が、闇を切り取ったかのように静謐に冴え冴えと輝いている。
 聞こえるのは暖炉の火が爆ぜる音だけ。
 落ち着かないダリアは家事をはじめた。
 そうよすぐに戻ってくる。
 怒らないから。
 そういって鍋をかきまぜる。
 フランソワが大好きなシチュー。
 鹿の肉をいれて少し豪華に。
 早く戻ってきて。
 かきまぜながら祈る。
 ほらフランソワ。あなたの好きな鹿のお肉をいれたから。
 ほらフランソワ。あなたの嫌いなブロッコリーはいれないから。
 だから。
 だから早く戻ってきて。
 ――お願い。
 クリームをいれて、牛乳を少し多め。フランソワが好きな牛乳を多めに。
 そしてかきまぜる。
 いい匂いがただよってきた。あのクリームシチュー特有の甘いような香り。
 味見をする。
 特別においしいと思う。
 こんな会心の出来のシチューは年に1度ぐらい。
 だから――早く。

 トントン

 扉がノックされる。

 帰ってきた!

エプロンをとるのももどかしく、急いで扉をあける。
 そこにはヨハン爺さんがいた。

 フランソワを見つけるために手伝ってくれたのかしら。

 そう思ったとたん、様子がおかしいことに気づいた。
 首を頼りなく倒し、白くにごった瞳でこちらを睨みながら。
 日に焼けて赤銅色だった肌は血の気はなく白くぶよついていて――口は半開きで。
 まるで――死人のよう。

 思い出した。
 ヨハン爺さんは神隠しにあっていたことを。
 何かがこみ上げてくる。

 噂を思い出した。

 喉がふるえ、それは悲鳴となって静寂をつんざいた。

 迎えに来る

 とたん、それはよろよろと腕をあげ、つかみかかってくる。
 目はうつろ。そこには蠅がとまり、せわしく動いていた。
 ダリアは突き飛ばして外へと逃げた。
 よろよろとまるで旅芸人が見せるマリオネット人形のように、ぎくしゃくと動く。

 主よ、主よ。

 ダリアは主の祈りを捧げた。
 悪魔がきた。人狼の使い。

 フランソワ!
 ミシェル!

 ふたりはどうなったの? 大丈夫なの?
 何処へ行ってしまったの。

 坊や
 あなた
 どこ――どこにいるの?

 すぐに息が切れる。
 心臓がばくばくいっている。
 そのまま口から飛び出てきそう。
 息ができない。
 口からは白い息が漏れるだけ。
 手足はバラバラ。
 力がなくなっていく。
 凍てつく夜風。
 肌がひきつるような寒さ。
 深淵を思わせる夜空。
 星ひとつ見えない空。
 あるのは――蒼白い月だけ。
 苦しい。
 止まれなかった。
 もしとまったら――ヨハンが、いや悪魔憑きに捕まってしまう。
 魂は汚され、天国にも煉獄にもいけず、地獄へと引きずりおとされてしまう。
 そして二度と。
 もう二度と夫にも息子にも会えない。
 イヤ。
 とつぜん遠くから銃声。
 反響して、消えていく。
 悲鳴。
 それさえも消えていく。
 村へと助けを求めて走っていたのに、足が止まった。
 向かう先から聞こえてくる悲鳴。
 助けを求めてる場所から聞こえてくる銃声。
 それがこんなにも静謐な夜を汚していく。
 ダリアはわからなかった。

 どうして。
 なにがあったの。
 主よ。

 頭は真っ白だった。
 なにも考えられない。
 どうしていいのかわからない。
 後ろから悪魔憑きがおいかけてくるというのに、足を止めて呆然としてしまった。
 魂が壊れかけていた。
 心が壊れかけていた。
 ただただ呆然と立ちすくむばかり。
 そしてゆっくりと聞こえた。


「誰がコックロビンの経帷子を縫うの?」
「それはわたしよ」と甲虫が言った。
「わたしの針と糸で、経帷子を縫うのよ」



 それはがちょうおばさんの歌。フランソワの大好きな歌。
 その声がする方を見ると――いた。
 フランソワがいた。
 走って抱きしめる。
 温かい肌、温もり――生きていた。
 生きていたとわかるとダリアの双眸から涙がこぼれ落ちた。

「よかった。わかったわ――坊や」
「……ママン」

 フランソワの少し甘えた声。

「ママン、怖かったでしょ? ゴメンね」

 低く、低く――。

「いいのよ。それよりお父さんは?」
「あ、パパン?」

 そっと囁くように、唄うように子供は言った。

「殺しちゃった」

 何を言われたのかわからなかった。
 抱きしめている我が子がなにか別物になっていく――違和感。
 そっと離して、その顔を見る。
 フランソワだった。
 あの可愛くて堪らないフランソワ坊や。
 なのに――その目は冷たく、その口元には嘲笑が浮かんでいた。

 違う。
 この子はわたしの坊やなんかじゃない。

 背筋が冷たくなっていく。
 ぞわぞわと何かが肌の下をはいずりまわる、この異様なおぞましい感覚。

「……ママンなら大丈夫だよ」

 ぎゅっとつよく抱きしめてくる。
 温かいはずなのに――こんなにも冷たい。
 ダリアはわからず、我が子を見る。

「……ママンは特別な血を持っているから。パハンと違って“消える”なんてことはないよ」

 ダリアは何かが壊れていくのを感じた。
 頭の片隅でなにかが崩壊し、絶対だと信じていたなにかがぼろぼろと塵となっていくのを。
 自然に首が振られた。
 信じられないという思いが、ダリアの首を振らせて否定させた。
 しかしフランソワの笑み。冷酷な、ぞっとするような笑み。

「……ママン、ひとりぼっちにさせないで」

 この冷たい夜風よりも凍てついた声だというのに。
 フランソワの顔で、フランソワの口で、フランソワの声で、そう言われると。
 ダリアは虚ろな、惚けたような顔で頷いた。
 顔は白く、目の焦点はあっていない。フランソワの顔を見ているのかどうかさえわからない。
 ただ――頷いた。
 可愛くて堪らない我が子の顔と、口と、声のために。

「月を、永遠を一緒に待とうよ、ママン……」

 フランソワはにんまりとわらうと、そっと首筋に顔を近づけて……。

 ゆっくりと視界が横になっていく。目に映るのは、月。
 視界が赤く染まっていくというのに、月だけが鮮やかで、綺麗で。
 綺麗に輝く。煌めく。朱色の中、金色に、白色に、銀色に、なんて儚く。


 あぁ、なんて――。


 彼女の視界が真っ暗になる間際、痛みも感じず、ただ綺麗と、月を眺めていた。

 真円の移ろいゆく月。


 なんて――綺麗。




「――ね」

 突然、ダリアの瞑想を破るように、美しい凛と澄み渡った声が響いた。


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