初めて訪れたもの

 稔はその埃臭さに顔をしかめた。
 街の外れにある崩れかけた廃屋。
 誰も住んでいなく、幽霊がでると噂されているここに、この幼い少年は忍び込んだのだ。
 忍び込んだといっても堂々と正面から扉をあけて入り込んだのだが。
 稔は気の強そうな太い眉毛をしかめながらも、中に入ろうとした。

「――誰?」

 突然の誰何の声に体を大きく震わせる。
 幽霊だ、と思った。
 誰もいない廃屋なのに、声がした。
 心臓は大きく鼓動を刻み、体が震え始める。
 夜よりもなお暗い闇からの声を戦きながらも、あたりを見回す。
 まっくらでなにも見えない。

「……誰かいるの?」

 稔自身びっくりするぐらいの、か細く震えた声だった。
 その声がいやに反響して耳につく。

「……誰?」

 また声がした。
 聞いてみるとその声は思ったほど怖くない。どちらかというと綺麗な声で、女の人のものだ。
 廃屋にひそやかに聞こえてくる声。
 それが女性のものだと知ると、少年は少し落ち着いた。

「……あんたこそ……誰だよ」

 語尾は震えていたがはっきりと言い返した。
 しかし返事はかえってこない。
 ただ耳を痛くする沈黙のみが場を支配していた。
 背中のディバックを降ろして、ガサゴソと漁る。その中にいれたはずの懐中電灯を取り出すためである。しかし真っ暗闇の中で手元がおぼつかない。
 指先には缶詰、下着、タオル、携帯用ゲーム機などが触れるが目的のものが一向にみつからない。

「……あなた」

 突然、声がした。
 喉の奥で、ひぃと悲鳴をあげる。
 しかし闇からの声は朗々と響き渡る。

「ここには今は私が住んでいます。侵入者であるあなたの方が先に名を名乗るのが礼儀ではないでしょうか?」

 何かが軋む音がしているのを、ようやく気づいた。
 そして規則正しい歯車の音。
 声をだそうとするが、歯がかみ合わない。
 稔は初めて歯が噛み合わずカタカタなるのはマンガの中だけの表現でないことを知った。

「……み、稔。本木稔……」

 怖くて、つい答えてしまう。
 すると闇の中から返事が帰ってくる。

「私の名はダリアといいます」

 人間的な反応に稔はようやく落ち着いてきた。
 しかもその名前に話の穂を見いだし、一気に話し始める。

「……もしかして外国の人?」
「ふむ……たしかに私が産まれたのは日本ではありませんが、それを『がいこくのひと』というのですか?」

 奇妙なアクセントでもごもご言っているようにも聞こえる。
 廃屋、外国人ということにようやく稔は連想を得た。

「……もしかして不法滞在者なの?」
「……?」

 話が噛みあわない。

「日本に勝手に滞在している人のことだよ」
「……その定義に従えば私は確かに『ふほうたいざいしゃ』でしょうね」

 ようやく少年は納得した。
 廃屋に不法滞在者のホームレスが転げ込んでいる。
 そうなれば幽霊でもなんでもない。たぶんその噂は、この不法滞在者の姿を見間違えかなんかしたためだろう。
 そうなると、少年はにっこりと笑って、

「じゃあダリア」
「お行儀の悪い。きちんとさんとつけなさい」

 四角四面の堅苦しい言葉だなぁと思いながらも、

「じゃあダリアさん」
「何?」
「ここに俺がいてはダメかな?」
「あなたはここに住みたいというのですか?」
「俺の名前は稔だよ」
「では言い直しましょう。稔さん、ここに住みたいというのですか?」
「うん」

 大きく頷く。

「お断りいたします」
「えーなんで?」

 子供ならではの厚顔ぶりを発揮する。

「いいじゃないか! ……ここって広いでしょ?」
「……ここは廃屋ですよ」
「いいじゃないか!」

 まったく引かない。一歩闇へと近寄ろうとすると、

「稔、それ以上近寄らないように」

 そのあまりにも冷徹な声に歩みを止める。
 冷たくて、あまりにも冷たくてゾッとしてしまう。
 まるで胡乱な闇か突然凍えるほどの冷たい風のようで。
 また幽霊話を思い出してしまい、背筋がゾクリとした。

「……わかったよ」
「すみませんね」

 またいつもの綺麗な女性の声に戻る。

「子供でしょう。なら早く親元へ帰った方が……」

 とたん稔の貌は真っ赤になる。

「……あんなの親じゃないよ」

 闇からかえってくるのはただ静寂のみ。
 それでもしゃべり続けていた。

「母さんのこと忘れて、別の人と結婚するっていうんだ」
「もしかして――家出?」

 揶揄する響き。かすかに笑いを含んだ声。

「ほんとうに子供なのね」
「うるさいっ!」

 大声で怒鳴る。だだっ子のように。

「うるさい、うるさい、うるさぁいぃっっ!」

 肩で荒く息をして、少年は怒鳴る。

「わかるもんかっ! 母さんは一人だ。あんなヤツ母さんじゃないっ!」
「……だから出てきたの?」

 揶揄する声。しかしそこには自嘲の響きがあった。
 それに気づかずに少年は喚く。その小さい体をふるわせて、少年なりの真実と潔癖さと誠実さをもって。

「今あった人にわかるもんか!」

 強い思い。激しく強く、純粋で――。

「母さんは一人だ。母さん、母さん、母さん、母さんっ!」

 慟哭。
 全身を使って叫んでいた。
 幼いその心で、未熟な心で、ありったけにただ――叫ぶ。
 自分のお母さんはたった一人だと、ただ――叫ぶ。
 狂おしいほどに。

「……母さん……」

 泣いていた。低い嗚咽と鼻をすする音。ぐすぐすと目からも鼻からも垂れ流して。
 ただの我が儘で、ただの自己主張だけ。
 なのに。全身全霊をかけて否定して、全身全霊で叫んでいる。
 稔は慟哭しきって意味もなさない呟きばかりを漏らしている。

「では稔さんは、家を出てきたというわけね」

 顔をくしゃくしゃにしながら少年は頷く。
 頷いて、奥の闇を見る。
 そこから伝わるは、なにかこう――。

「それでは――稔さん」

 柔らかい口調。上の者が下の者を諭すような口調ではなく、まるで対等な者に話しかけるような、そんな響き。

「お父さんは稔さんのことを嫌いだから、そうしたのですね」

 その言葉にびくりと動く。
 何を言われているのかわからないといった顔。

「お父さんは、稔さんを追い出すために、後添えを娶ったということなのでしょう」

 考えがまとまらない。

「お父さんはなんと非道いことをしますね。稔さんを追い払うためにそのようなことをするなんて」
違うっ!

 叫んでいた。
 否定しなければいけないと感じていた。理屈なんてわからない。ただ父さんがそんなふうに言われるのはイヤだった。

 世界一の人間だとは思わない。
 だらしなく、ずんぐりむっくりしていて、お腹も出ていて頭はすこし禿げかかっている。タバコをプカプカ吸っていて、うむ、とか唸るだけ。格好よくない。まったく格好よくない。
 そして母さんを裏切ったひどいヤツ。
 でも。
 こうして父さんがそんな風に、しかも他人に、何も知らない他人に言われるのだけはゆるせなかった。

「父さんは帰りが遅いのに、一生懸命朝早くおきて食事をつくってくれて、起こしてくれるんだ」
「それはお父さんの為であって、あなたのためなどではないわ」
「違うっ!」

 また涙がこぼれた。

「違う。父さんは俺のために……」
「いいえ」

 かばう言葉をきっぱりと切り捨てる。

「あなたのお父さんは稔さんが邪魔だから。だから後添えを」
「違うよ。違うったら、違うっ!」

 焦燥感に駆られる。

「父さんは……父さんは……」

 何かがこみ上げてくる。
 ふるえてなにかがこみあげてきて、それが嗚咽となって漏れる。
 矛盾していることはわかっている。
 父さんは母さんを裏切ったひどいヤツだ。
 にくいヤツで、顔なんか合わせたくなくて、出てきたのに。
 なのに、今、必死にかばっている。
 なぜ?
 わからない。
 でも。
 しゃべるしかない。
 闇から響く言葉を否定して父をかばう言葉しかでなかった。

「………………父さんは…………」

 沈黙。
 しかしそれは痛くなく、とても優しくて、温かくて。

「ねぇ、稔さん」

 すごく優しい声。
 心の奥までしみわたってくるような響きに、少年は奥を見る。
 何も見えない闇の中からなにか温かいものだけが伝わってくる。

「親というものはね。一番可愛い大人なんですよ。自分の子供が大好きな、バカで純粋で――そしてとっても可愛い大人なんですよ」
「自分の子供が――大好き?」
「……えぇ、この上なく」
「この上なく?」

 闇からの女性の声は静謐な場所に響き渡りこだまする。

「どんなに可愛くてたまらないのかは、その子供にはなかなか伝わりません。でも親からすれば、我が子ってなんと愛しくて、可愛くて、全身全霊をかけて守りたいと思うものなんですよ」

 優しい響きの中にある自嘲の響き。

「ダリア……さんは、子供が……いるの?」

 ふと思ったことを言葉にした。
 しかし返事はかえってこない。
 しばらくして。

「……その継母になられる方は、イヤな女の人なのですか?」

 稔はその問いに考えてみる。
 母さんと違う女性。やさしいのかどうかわからない。
 でもおずおずと差しのばされた手はとても綺麗で、その笑みは明るくほっとさせるものだった。

「……イヤじゃないよ」
「……でもお母さんは一人なんでしょう?」

 少年は答えられなかった。
 父さんは俺を一生懸命育ててくれている。
 母さんを忘れて別の女性と結婚する父さんは赦せない。
 でも新しく母さんになろうとしている人は嫌いじゃなくて……。
 なにが正しいのかわからなかった。

「……最初から何もかもすべてうまくやろうとするから、そのようなことになるんですよ。その継母となる女の人も、お父さんも、そして稔さんも」

 諭すような声。

「稔さん。家族というものはですね、時間をかけて築き上げていくものなんですよ」
「……築き上げて……いく……」
「そうです。お父さんと継母となられる方と稔さんの三人で時間をかけて、ゆっくりとゆっくりと……」
「……時間をかけて……」
「そうてす。そして思い出を作っていくんですよ」
「思い出?」
「それが家族というなんですよ」

 稔にはただ闇からの言葉が染み渡っていく。
 なんと返せばいいのか、なんと言えばいいのかわからない。

「ねぇ、稔さん」
「……なに?」
「この世界には様々な真実があります。事実も数多くあるものなんです」
「……どういうこと?」
「家を出られたのは、稔さん、あなたの道理であり、あなたの真実なんです。――しかしそれにはお父さんの真実や道理は含まれていないんですよ」
「そんなの決まっているじゃないか」

 でもその言葉は弱い。

「決まっているのですか? 何がでしょうか? 尋ねもせずに、言葉にもせずに、何もかもわかったつもりなんて!
 稔さんは人の心が読めるのですか?」
「言わなくったって、わかるさっ!」
「それでは、なぜ稔さんにはんが得る頭があり、伝える言葉があり、それを紡ぐ口があるのでしょうね」
「……」
「ちゃんと言葉を尽くして話しましたか? きちんと尋ねましたか? 思いこみではないですか?
 稔さんの考えが正しいとしても、それは、やはり稔さんの道理でしょう。お父さんの、継母となられる方の道理や真実については考えてみたのでしょうか?」

 稔は何も言い返せない。

「稔さん、人間というものはですね、そのために想像力というものがあり、口というものがあり、言葉というものがあり、手というものがあるのですよ。空想を心にイメージすることができて、それを言葉にしたり、絵として描き上げたりして、その心を他人に伝えることができるんですよ」
「……」
「稔さんはきちんと伝えましたか?」
「……まだ」
「稔さんは、継母となろうとする方のどこが嫌いなのでしょうか? それとも突然あらわれた継母に驚いてこういう行動をとってしまったのでしょうか。もしかしたら、その潔癖さのために突発的に出てきてしまったのでしょうか? 稔さんは、そのところをきちんとわかっていますか?」

 稔は力なく首をふる。

「では、今なら、わかりますか?」
「……わからない」

 弱々しく呟く。

「ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃで、でもイヤで、たまらなくて……」
「――なるほど」

 闇からの声はあくまでやさしい。

「――それでは、確認しましょうね。稔さん、あなたはお父さんのこと、嫌いですか? 憎んでいますか?」
「わからない。でも母さんを忘れて結婚するなんて……ひどいと……思う……」
「――では。ほんとうにお母さんのことを忘れて後添えを娶ろうとしていられるのか、きちんと確認しましたか?」
「……まだ」
「では、継母となる後添えの方を、稔さんはどう感じています?」
「正直わかんないよ。いい人とも悪い人とも。まだ……」
「……では最後に」

 一旦言葉を切る。

「こうして家を飛び出してきたしまったことをお父さんを心配させるようなことしてしまったことを、稔さんはどう思いますか?」

 稔には答えられない。
 ただただ罪悪感だけがこみあげてくる。それにつられて焦燥感も。
 悪いことをしたのか? これは悪いことなのか? それがわからない。
 ただ。
 心配をかけさせた、ということは、悪い、と思う。
 それだけが焦燥感となって、突き上げてくる。
 突き上げてきて、胸が苦しい。

「……では、どうすればいいのかわかりますよね」

 やさしい言葉。
 突き動かされるように頷いた。
 この胸をしめあげる何かに突き動かされて。

「……ありがとう、ダリア……さん」

 稔は一歩闇の中へ、ダリアのいる方へと歩んだ。
 とたん、体が動かなくなる。
 冷たい。
 皮膚が突っ張るような――感覚。
 心臓の動悸が激しくなる。
 たった一歩踏み込んだだけなのに。
 体がこわばって動かない。
 息さえ、できないぐらい。
 怖い。
 恐ろしい。
 鳥肌が瞬時にたった。
 膝がガクカグしはじめる。
 闇の、その奥から、なにかが吹き付けられてきた。
 今まであったものはすべて消え去り、あるのは恐怖だった。
 ピクニックにでかけていたら、突然目の前に野生の肉食獣に出会った感覚。
 ただただ怖い。
 パニックで動けない。
 ――そして。
 闇が、もぞり、と動いた。
 ざわめき、ちろちろと肌の上を撫でていく。
 心臓が喉から出てきそう。
 胃が縮こまってくる。
 そこにいるのは、恐ろしいもの。
 見てはいけないもの。
 そうしてようやく、稔は思い出す。

『あそこには幽霊がでるんだって』

 無責任な噂。
 はじめてわかった。
 今、自分が話していたものの存在がいったいなんだったのか。
 目の前がぐるぐるとまわる。
 手にも足にも力がはいらない。
 頭は逃げ出したいと悲鳴をあげているのに、体はぴくりとも動かない。
 もぞり、と動いた闇は身震いしながら近寄ってくる。

 きぃきぃきぃ。

 今まで気にも留めなかった音。

 カチカチカチ。

 それがイヤに耳につく。
 そして――闇に浮かび上がったのは、赤い双眸。
 いやに渇いた輝きを浮かべていた。
 喉がふるえて、悲鳴があげた。なのに、それは音にならない。
 それは地面をはいずるかのように、ゆるゆるとゆれながら近寄ってくる。
 そして、それは。
 こちらを見ている。
 眺めて、睨んで、ねめつけてくる。
 からみつくような――視線。
 爛々と。
 赤く、紅玉のようにきらめく、禍々しい目。

「……稔さん」

 今殺気とは違う、ゾっさせる声。
 虚ろな乾ききった、冷たい声。

「……早くお行きなさい」

 そして赤いそれが闇に消えたとたん、

「うわわあぁぁぁーーーーっっ!」

 稔は悲鳴をあげた。
 走っていた。
 逃げていた。
 わからない。
 今なにに遭遇したのか、わからない。
 死にたくなかった。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 足と手が勝手に動く。
   さっきまで頭がうごいて、体が動かなかったのに。
 今は違う。
 頭はただ恐怖で塗りつぶされているというのに、体が動いていた。


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