朱鷺恵さんはいらっしゃいますか――


 言ってから後悔する。
 なんて愚かなコトをしているのだろうか――と。
 でも一度紡いでしまった言葉は消えることはない。


「あら、志貴君――」

涼やかな声で心臓が止まる。

     彼女の声――。

そして心臓が激しく脈打つ。

     甘く脈打つ――。

「ちょっと、待ってね」

パタパタパタと廊下を小走りする音が聞こえてきて、玄関が開く。

 そこには、朱鷺恵さんが立っている。


「こんにちは、志貴君」


「さぁ入って」

彼女は、玄関を大きく開けて、手招きしてくれる。
 その柔らかい物腰
 その柔らかな言葉遣い
 その柔らかな微笑みに――。

 ――でも、こんどは逃げない。




















月姫SS


――その





















「はい、どうぞ」

彼女が入れてくれたお茶が目の前に出される。

「すみません」

そう言ってペコリと頭を下げていただく。
 熱いお茶。
 喉元をかるく焼き、食道を熱いモノが通って、胃で熱が心地よく広がる。

「ゴメンね。今お父さんも家政婦さんも出かけちゃっていて」

彼女はそっとお盆をおきながら、優しく微笑む。

「でもどうしたの、突然」

 なぜ俺が尋ねてきたのかを問われる。
 なぜだろう――。
 答えはない。
 聞きたいことがあるのに。
 あったはずなのに。
 黙り込んでしまうだけ。

 彼女はあの柔らかい笑みで見つめてくれる。

「あ……あの――」

 しゃべりかけてみて、自分の声にビックリする。なんて虚ろで自信のない声。
 弱々しく消えてしまうような、そんな声。

「なに?」

彼女は湯飲みを机の上において、尋ねてくれる。
茶色い小さな湯飲みをもつその指は、今も変わらずに、あのピンクの爪と白い指先のままで――。
 都古ちゃんの幼い手とも違う。
 啓子さんの成熟した女性の手とも違う。
 初々しい女の人の手で――。
 あの時、最初に逢った時のことを思い出させてくれる。


「志貴君」


 そうこの声で――いや。

実際に言葉をかけられていることに気づき、急いで彼女を見る。
前見上げた彼女は、今度は見下ろすように――。
そんなことで年月を感じてしまう。

「お煎餅でも食べる?」

 彼女は、そんな俺の様子がおかしいのか、くすりと軽やかに笑って、お茶うけを進めてくれる。
 堅焼きの煎餅で、爺さんの趣味らしい。
 まぁ和贔屓だから、ヘタにケーキよりも、こちらの方が嬉しいのだが。

 パリパリと渇いた音が広がる。
 お煎餅を割り、咀嚼する音が広がる。
 後は何もない。
 何も聞こえない。
 そんな俺を見ていて彼女になんて思われているんだろうと気になるけれども――。
 でも何か聞きたいのに、今なにをいっていいのかわからない。
 なにを尋ねていいのか――。
 俺はただの宗玄爺さんの患者の一人にしか過ぎないわけで――。
 だから、だたこうし持てなしてくれるだけでも僥倖なのかもしれない。
 あ、でも受験勉強で忙しいはずで――。
 こうしている時間が惜しいと思われてるかもしれなくて。
 あぁ、でも、いや、きっと、しかし……。
 千々に乱れてまとまらない。
 まとめようがない。
 彼女を前にして、なんて愚かな――。
 バカになったようで――。
 でも、言葉にならない。
 でも何かを言わなくては――。
 言わなくては。
 イワナクテハ。
 いわなくては。
 ………………。
 …………。
 ……。
 …。
 マズイ……
 頭が胡乱になっていく。
 なんとか意識を保とうとする。
 でも意識がバラバラに散っていく。
 散っていく。
 消えていく。
 消えて――い……く。
 意識は暗転し、そのまま体が重く、そのくせ浮き上がるような、あの独特の感覚。
 体から実体感がなくなっていく、あの気持ち悪い感覚にさらされて――。
 闇に溺れていった。
 気を失ったのだ。




















「大丈夫、志貴君」

涼やかな声。
心地よい響き。

「すみません眼鏡を――」

手渡された眼鏡をかけてから、目を開ける。
そこには、朱鷺恵さんがいた。

「すみません、迷惑をかけて」
「ううん」
彼女はかぶりをふる。茶色い髪が揺れている。

「患者さんだとわかっているのにね、わたしったら」
「違いますよ。悪いのは俺です」

 なんて簡単に言葉が紡ぐことができるのだろう。
あんなにもどかしかったというのに。
こんなにも簡単。

よいしょっと、ちょっと爺臭い台詞を吐きながら体を起こす。

「大丈夫? まだ起きなくてもいいのよ」
「いえ――」

きちんと布団で寝ている。
どうやら運んでくれたらしい。

 ふと見ると、彼女がこんなにも側にいる。
 暑くないように、団扇で扇いでいてくれたいたようで、その手には団扇があった。
 扇風機やエアコンがあるのに、爺さんの患者という俺の体をいたわって、わざわざ自然の風を送ってくれたのだろう。
 いやそれよりも――。
 彼女を見る。
 視線はほぼ同じ高さ。
 穏やかな視線がこちらに向けられている。
 淡い穏やかな視線が心地よい。
 彼女のその瞳に、心臓が鷲掴みにされる。
 激しく脈打ち始める。
 なのに、なぜこんなにも穏やかなんだろうか――。
 あれほど感じていたもどかしさはなく、ただ激しい動悸だけで――。
 でもその動悸もとても心地よい。
 体の熱さと心の熱さが初めて合ったようで。
 はじめて同じ高さの視線で彼女を見れたからかもしれない。

「――どうしたの?」
「朱鷺恵さん――遠い所に行くんだって?」

 さらり、と簡単に言葉が出る。
 さまよっていた何かが形となって吐き出された質問。
 息もつまらない。
 なんて――簡単。

「そうよ」

朱鷺恵さんに手を伸ばす。
 団扇を持つあの手にそっと触れる。
 柔らかくて小さい女の人の手。
 あのときと変わらない。

 彼女は嫌がる様子は見せず、ただ重ねた手をじっと見ている。
 そしてこちらに視線を動かす。
 その茶色い瞳に俺の顔が写っていた。

「朱鷺恵さん――」

 俺はなにをやっているのだろう。
 ただただ彼女の名前を呼ぶばかり。

「朱鷺恵さん」

 頭が胡乱になっていく。
 あの貧血と同じ感覚。
 体が重く、そして軽くなっていく、あの気持ち悪い感覚。
 でも。
 なぜか息があがってきて。
 瞬きができず、ただ朱鷺恵さんの顔を見るばかり。
 その桜色の柔らかそうな唇
 そのはにかんだ微笑み。
 その大きな茶色な瞳。
 瞬きするのが惜しかった。
 ずっとこの目に焼き付けていたかった。

 彼女はそっと、重ねた手に、今度は左手を重ねてくる。
 彼女の手に包まれて、どきり、とする。
 なんて暖かく、柔らかくて――。


 気が付くと、彼女を押し倒していた。


 遠くで喧噪がかすかに聞こえる。
 そして自分の荒い息と心臓と、彼女の息づかいだけが聞こえる。
 そして俺は押し倒してしまったことに驚き、それ以上動くことができなかった。
 ただただ下になった朱鷺恵さんをみるばかりで――。
 でも突然押し倒された彼女は、驚きもせず、声もあげず、ただ見つめ返してきて。
 その瞳はただ柔らかく俺を見つめていて、
 髪の毛は白い布団の上にひろがっていて、
 その桜色の唇は、柔らかく言葉を紡ぐ。

「志貴君――今日は逃げないんだね」

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