それから、時南医院に行くのは、少し億劫になった。
 朱鷺恵さんに会ってしまったら、と思うと、行く気が失せた。
 でも啓子さんが心配するから、行かなければならないけど。
 もし出逢ってしまったら。
 なんといえば言いのだろうか?
 なんと言い訳すればいいのだろうか?
 …………。
 …………。
 …………。
 …………わからない。

 でも、会えないと考えるだけで苦しくなる。
 ぼおっとしているときには、いつも
 あの大きくて深い茶色の瞳を
 あの桜色の唇を
 あの女性らしい澄んだ声を
 あの日溜まりのような笑顔を
 楚々とした立ち居振る舞いを
思い浮かべていて。
 有間の家にいても、
 学校にいても、
 有彦とつるんでいても、
 乾家にいても――。
 常に朱鷺恵さんが頭の中にいた。

なんて、不安定なんだろう、と思った。




















月姫SS


恋 愛 と





















 よくよく考えれば、病院に行ったとしても会えないことの方が多かった。
 自分は中学生で彼女は高校生で――。
 通っている学校どころか、住んでいる町さえ違う。
 知り合いというわけでもない。
 ただ時南先生を通じて顔見知りなだけ。
 あえても3ヶ月か4ヶ月に1度。
 彼女と俺は、本当に何一つ重なってなどいない。
 いや――。
 唯一重なる時間は病院の時だけ。
 なのに、俺は避けている。
 だから、彼女と会えることはない。
  ただの憧れ。
 そうなんだと言い聞かせる。
 あのとき、突然狼狽したのは。
 目の前に憧れの存在が突然、実体化したから。
 そうなんだと言い聞かせる。
 何度も言い聞かせる。
 ――でも
 病院に幾たびに、視線は彼女を捜し求める。
 耳はあの澄んだ声を聞こうとしている。
 なぜこんなに不安定なんだろうか――。
 ただ彼女に会っていない。
 それはいつものこと。
 病院に言ったとしても常に会えるわけではないことはわかっている。
 わかっていた。
 でもそれは――頭だけ。
 心と心臓はわかってくれない。
 会えなかったとわかるだけで、落胆し、不安になる。
 二度と会えない気がして、形にならない苛立ちを感じてしまう。
 胸が痛い。
 なんて痛い。
 こんなにも痛い。
 こんな壊れやすく、不安定な世界に属する自分がどんどん不安定になっていく
 壊れていくというのはこういうことなのか――。
 目にうつる黒い点とそこから流れる幾条もの線は、モノの死だと『先生』は言ってくれた。
 この痛みを抱えるこの胸を今見たら、もしかしたら真っ黒なのかもしれない――。
 こうして俺も世界の一部――壊れやすく移ろいやすいものだということを 見せつけられる。
 もしかたら壊れやすいからこそ――求めているのかも知れない。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………わからない。
 …………ワカらない。
 …………ワカラナイ。




















 有彦とつるんで遊ぶ。
 といってもアミューズメント施設で遊ぶか、卓を囲むか――。
 いつもその程度。
 いろんなことをする。
 バカ騒ぎ。
 貧血のため運動はできないが、でもバカはやる。
 ちょっとしたイタズラ。
 好奇心旺盛な年頃。
 夜、なんとなくたむろって繁華街を歩いたり。
 学校に忍び込んだり。
 ちょっと犯罪チックなこともしてみたり。
 有彦がよろしくやっている時は一人で公園とかを散策。
 CDショップで新譜を聞いたり、本屋で時間を潰したり。
 有間の家で留守番したり、タックルしてくる都古ちゃんをかわしたり。
 時にはお手伝い。
 お茶の家元として、茶の準備を手伝ったり。
 よく茶道をすすめられるが、やらなかった。
 有間の家の一員でない俺が、茶道を学ぶということは、有間の家に入るという意思表示のようで――。
 もちろん頑張って学ぼうとした。有間の一員になるということは、この茶道も受け継ぐ可能性があるから、たしなみ程度は、と思ったが、意外と難しく細々とした作法がうるさくて――あわなかったのだろう。
 茶道を関わると、遠野の家を忘れそうで。
 遠野志貴ではなく、有間志貴になってしまうようで――。
 いつの間にか茶道から離れていた。
 そんな俺に啓子さんは何も言わない。
 言って欲しかったのか、言って欲しくなかったのか――。
 それさえも不明で。
 やはりあいまいなものを抱えていた。

 でも茶道の言葉、一期一会という意味には、ふと感心したりした。
 その人と会えるのは、その時、その瞬間だけ。次に会えるとは限らない。
 だからその時できることをすべて行ってもてなす。
 潔く気持ちいい言葉だ。
 まるで『先生』の言葉のよう。


     いい? ピンチの時はまず落ち着いて、その後によくものを考えるコト


 よく落ち着いて状況を把握して、そのあと最善を、俺ができるもっとも良い手をうつ、ということ。
 これはある意味一期一会なのかもしれない。
 『先生』との出会いも同じ。
 そして――。
 考えてはいけない。
 わざわざ茶道の準備を手伝ったり
 有彦とつるんだり
 深夜の公園にいったり
 バカやったりして
考えないようにしているのに。
禁じているのに。


   朱鷺恵さん
   トキエさん
   ときえさん


 あの楚々とした立ち居振る舞いを――
 思い出してしまう。
 思い返してしまう。
 ――そして
 さが して しま う

ふと背後から声がかけられたり
公園のベンチに座っている人影を
繁華街にその姿を見たり
本屋ですれ違ったり

 そんなことばかり考えてしまう。
 いるはずもないのに、いる姿ばかり思ってしまう。

 さ  が  し  て  し  ま  う

 さ が し て し ま う

 さが して しま う

 さ がし てし まう

 さがして しまう

 探してしまう

 あの瞳が見れないのが
 あの声が聞こえないのが
 あの笑顔が見られないのが
 あの姿が見られないのが
 あの大きくて深い茶色の瞳が
 あの桜色の唇が
 あの女性らしい澄んだ声が
 あの日溜まりのような笑顔が
 楚々とした立ち居振る舞いが

 視界に
 聴覚に
 空気に
 肌に
 心臓に
 そして心に
触れられないのが、とても辛い。
酷く辛い。
なんて酷い――。


 会えないというのがこんなにも辛いだなんて――。
 どうやら遠野志貴は、彼女に恋しているのかもしれない。




















 いつものとおり時南病院に行く。  いつもの家政婦さんがいつもの世間話をしてくれる。
 今日も彼女に会えなかった。
 まぁ受験生だし、また俺も高校受験を控えていて――。
といっても、自分は近くの高校に進むことにしている。
 通学のため満員電車にのって貧血でも起こしたら、コトである。
 だから徒歩で歩ける距離の、県内のそこそこの高校に進むことにしている。
 まぁ学力的にも必死に勉強しなくて入れるというのが、実は魅力的だったりするのだが。
 そして受験のことよりも、頭は、心は彼女のことを考えていた。
 彼女に会えないことに安堵し、そして落胆している。
 なんて矛盾――。
 この甘い胸の痛みが燻り続けている。
 チリチリと焦がし続けている。
 そんな思いにこだわっていて、家政婦さんの話に、思わず、軽く声を漏らしてしまう。
 家政婦さんのいつもの世間話のはずなのに――。
 ただの患者さんへ話す、いつもの世間話なのに。
 彼女――朱鷺恵さんが高校卒業後、進学で都会の学校に行ってしまうということ。
 ただそれだけなのに――。
 非常に遠い遠い世界の話のように聞こえてくる。

 おじょうさんはでていかれるのですよ

 えぇ

 このびょういんをつぐつもりなのでしょうね

 いいおじょうさんでねぇ

 そうげんせんせいもおとこでひとつでそだてられたのに

 よくもまぁりっぱに

 いえそうげんせんせいのおじょうさんだから

そりゃあべんきょうはできますわ

 それでもいっしょうけんめいに

 じゅけんべんきょうしていられて

 こんどかんごがっこうに――

 もちろんりょうずまいになって――

 このびょういんもさびしくなりますわ

とおく、虚ろな言葉。
なんて遠い。




















 目の前にはのんびりとした昼下がりの風景が広がっている。
 いつも乗るバスの風景は変わりなく、
 いつもの商店の角を、
 いつもの交差点で
 いつもの人がブザーを押し
 いつもの停留所で止まる。
 なんて変わらない、ぼんやりとした時間。
 でも――。
 昨日診察を受けたというのにまた時南病院に向かっている。
 わからない。
 ワカらない。
 ワカラナイ。
 でも俺は向かっていた。
 バスにゆられて30分、そして徒歩で5分ほど歩き、ようやく時南医院に到着する。
 いつものとおりに玄関前に立ち、いつものとおりにインターフォンに向かって言う。
 そして、いつもと違う言葉をいう。

「朱鷺恵さん、いらっしゃいますか?」

back / index / next