「志貴君っていうんだ」 はじめて会ったのは小学校4年生になったばかりの時――。 「よろしくね――わたしはトキエっていうの」 そして伸ばされた手。 かわいいピンクの爪とほっそりとした指先に、ドキリとした記憶がある。 それを、まるで大切な宝石箱にさわるかのように、そっと触れる。 掌が汗ばんでいて、もしかして、彼女が嫌がるのではないか、と思って。 指先だけのつもり。 しかし、トキエと名乗った年上の女性は、かまわずきっちりと握手する。 「これからも――」 その瞳を初めて見上げた時――。 「――よろしくね」 心臓の鼓動が止まった。 月姫SS 憧 憬 と トキエという響きがとてもよかった。 この三文字の名前がよかった。 とても――惹かれた。なぜだかわからない。 後から知ったのだが、朱鷺恵と書く。 朱や恵はいい。ただ鷺は――。 まだ小学生だった俺は、この漢字が書けなくて悔しかった。 だから手本を見ないではじめて書けたとき――。 なんだか知らないけど嬉しかった。 俺は彼女と知り合ってから、時南病院に足しげく通った。 わざわざバスにゆられて30分もかけて行く――。 小学生だった俺にはただの苦行。 もちろん中学生になったとしても、やはりただの苦行で――。 それでも通い続けている。 今日も向かう。 目の前にはのんびりとした昼下がりの風景が広がっている。 いつも乗るバスの風景は変わりなく、 いつもの商店の角を、 いつもの交差点で いつもの人がブザーを押し いつもの停留所で止まる。 なんて変わらない、ぼんやりとした時間。 でも――。 この時間は、俺にとって至福だった。 医者にいくのは、まぁ体の都合もある。 でも本当は。 たぶん 彼女に会いたくて。 一目見たくて 行くのだと考えている。 病院には一人しか医者がいなくて、その医者は時南宗玄という名前の爺さんで、親父の知り合いだという。まぁ遠野家のお抱えの専門医だとかで――でもどちらかというと非合法なモグリだと思う。 でもこんなモグリっぽい医者で、こんな爺さんが、どういうことか朱鷺恵さんの父親で――。 たぶんに母方の血が色濃くでた結果だろう。 でないと信じられない。 宗玄先生がヤブなのか、名医なのか、その判断は難しい。モグリっぽいことだけが確かで――。 ヤブか名医かについては、判断がつかない。その境界線の上に立っているどころか、その境界線の彼方の果てまでいってしまったような爺さんが、宗玄先生だ。 先生は俺のことを小僧といい―― 俺は先生のことをヤブという―― そんな間柄だ。 そういう関係なのは、あとは有彦と一子さんぐらいじゃないかな? われながら、なんて狭い交友関係――。 でも世界があんなにもろくて壊れやすいのを知っているから、それ以上手を広げることはしなかった。 というよりできなかった。 まわりの人間がある意味とても怖かったからだ。 こんな怖い――こんなにも脆く壊れやすい――世界だというのに、彼らは平気に歩き回っている。 もし『先生』が眼鏡をくれなかったら――言うとおり気が狂っていただろう。 だからこそ、この狭い交友関係に満足している。 そして朱鷺恵さんとは――なんともいえない距離だった。 医院につくといつものインターフォンを押し、いつもの家政婦さんに案内してもらって、いつもの診察室へと案内され、いつもと同じ診察を受ける。 その間、もし運が良ければ、会える。 そんな距離。 ただ挨拶を交わすぐらいの関係。 知り合いといえば知り合いだし、顔見知り程度といわれればたしかにその程度の関係。 朱鷺恵さんからすれば、俺は爺さんの患者の一人にすぎないはずで――。 でも、それだけでよかった。 ただの患者でも、ただ挨拶するような距離でも。 自分に対して、もっとしっかりしろ、男だろ? とか叱咤したのだが。 彼女が視界に入るだけで嬉しかった。 会話する必要はない。 ただすれ違って、挨拶するだけ。 こんにちわ、朱鷺恵さん たったこれだけ。 それだけでよかった。 なんてウブ――。 でも声をかけた、かけられた、ということだけでよかった。 彼女の姿を見ることができた、ということだけでよかった。 それだけで――。 重く苦しい体がほんの少しだけ軽くなる。 有彦には、――で。ほんとのところはどうなのよ、おまえ、なんて言われる。 有彦に、プラトニックに生きるなんて、遠野らしいけどな、とも言われた。 わからない。 この思いが、ただの憧れなのか、それとも恋なのか――。 よく歌や詩やマンガで、恋に恋している、なんて書かれてたりしている。 自分がそういう状態なのかどうか――わからない。 だいたい、そういうことを考えるような性格じゃないし、ガラでもない。 ただ―― あの大きくて深い茶色の瞳に俺がうつるのが あの桜色の唇が俺の名前を紡ぐのか あの女性らしい澄んだ声で名前が呼ばれるのが あの日溜まりのような笑顔を見るのか 楚々とした立ち居振る舞いを見るのが ――俺の望み、なのだと思う。 どうやら、遠野志貴は彼女に対しなんだかわからない感情を抱いている。 もしかしたら、だたの憧れかしれない。 あのトキエという、惹かれる名前をもった年上の女性に――。 また名前もつけられないとても曖昧な気持ちを抱いていた。 「宗玄先生はいらっしゃいますか?」 バスにゆられて30分、そして徒歩で5分ほど歩き、ようやく時南医院に到着する。 いつものとおりに玄関前に立ち、いつものとおりにインターフォンに向かって言う。 そしていつものとおりに家政婦さんが――。 「あら、志貴君――」 涼やかな声で心臓が止まる。 こんなの――はじめてだ。 そして心臓が激しく脈打つ。 こんな不意打ちだなんて――。 「あれ、連絡いってないの? あ、待っていてね」 パタパタパタと廊下を小走りする音が聞こえてきて、玄関が開く。 そこには、朱鷺恵さんがセーラー服を着て、立っていた。 その澄んだ声に、 その茶色い瞳に その桜色の唇に 息ができなかった。 なぜか熱くなっていく。 「さぁ入って」 彼女は、玄関を大きく開けて、手招きしてくれる。 その柔らかい物腰 その柔らかな言葉遣い その柔らかな微笑みに――。 なぜか心臓が締め付けられる。 息ができない。 苦しい。 胸が痛い。 「すみません!」 俺はいつの間にか走って逃げていた。 わからない。 ワカらない。 ワカラナイ。 なぜ走っているのか なぜ逃げているのか まったくわからなかった。 ただ何かに胸が締め付けられて その鈍く甘い痛みに突き動かされて――。 どこをどう逃げてきたのか、まったくわからない。 いつの間にかバス亭まで走っていた。 発車しかけたバスに無理矢理乗り込み、ようやく一息つけた。 苦しい。 頭がぼおっとする。 そして逃げ出したことを、彼女がどう思ったのか、どんな風に思われてしまうのかにまで考えがいたった時、やはり心臓が止まった。 俺のことを変人だと思われたに違いない そう考えたのは、三つ目の停留所に止まったときのことであった。 |