居間にはテレビの音が響く。
 芸人の語りと観客の笑い声が静寂を破るように響く。
 時折、できる静かな間に響く時計の音。
 その静けさと緊張感を破るように、どすどすどすと踏みならす足音が聞こえてきた。
 がらりと襖が開く。

「ただいまー士郎。今日の晩ご飯なにかなー」

 藤村大河が元気いっぱいに入ってくる。

「あら遠坂さん。こんばんは」
「はい、藤村先生こんばんは。お邪魔しております」
「セイバーちゃんにもただいまね」
「はい、タイガ。おかえりなさい」
「藤ねぇ、ちゃんと手を洗ったか?」
「何よ士郎ったら、年頃のおねーちゃんに対してまずはおかえりなさいぐらい言いなさいよ」
「年頃って……――とにかくおかえり」
「うん、ただいま」

 そうしていつもの席に座る。ふふふーんととても楽しそうに鼻歌を歌っていた。
 士郎はほっとしたように大皿を持ち上げる。

「よし、じゃあ晩ご飯に――」
「いいえ、シロウ」

 すくっとセイバーが立ち上がり、手で制した。

「わたしとタイガは用があるので、夕食はいりません」

 その言葉に全員凍りつく。

「ちょちょっとセイバー。ご飯……だよ?」
「そ、そうよ、セイバー。士郎のご飯よ?」
「えーーセイバーちゃん、用はご飯が済んでからじゃいけないの?」

 三人は奇異の目で金髪の少女を見る。病気? それとも熱? 三人とも本気で驚いていた。まさか、あのセイバーがご飯をいらないと言い出すだなんて――。

 三人の視線をものともせず、セイバーは背筋を伸ばして大河に話しかける。

「すみませんがタイガ。こちらの方が大切なのです」
「んーーー」

 大河は少しだけ悩むが、うん、と頷く。

「そうね。セイバーちゃんがわざわざそんなことを言うのだから大切なのよねー」
「はい、そうしてくださると助かります、タイガ」

 大河もすっと立ち上がる。

「あ、あ――」
「え、え――」

 慌てる二人を無視して、

「では失礼します。シロウ、凛」
「またねー遠坂さん、士郎」

 そうして二人して出ていってしまった。
 残るのは座っている凛と大皿をもった士郎の二人だけ――。

「あー」
「えー」

 二人して素っ頓狂な声をあげるしかなかった。




 夜の空は深い紺色に染まり、美しい月がその闇に光を投げかけていた。
 風は爽やかですぐそこに来ている夏を感じさせた。
 そんな中、大河とセイバーは歩いている。
 そんな夜中のそぞろ歩き。
 衛宮家をぐるりと取り囲む白い壁にそってゆっくりとゆっくりと二人は歩いている。

「セイバーちゃんもやるわねー」
「そうですか、タイガ?」
「そうそう」

 ふたりはかすかに含み笑い。月の光に照らされて、淡く輝くアスファルト。

「遠坂さんと士郎のことを考えてふたりっきりにするだなんて――」
「そのぐらい気を回さないと」
「でも不純異性交遊はまずいと思うのよ、立場上」

 響くカン高いふたりの靴音。
 葉擦れの音もやさしく聞こえてくる。
 その口元にはやさしい笑み。けれど翠色の瞳はあやしく揺れている。
 マスターの凛とその恋人である士郎。そのふたりの仲睦まじき絵が脳裏に浮かぶ。それをそっと消すかのように瞳を旬瞬だけ閉じる。
 そして目を開けると、セイバーは大河に笑いかけた。
 どこか淋しそうに、でも朗らかに、なにかを振り切るように。
 今までみたことのない女性の貌で。

「――でも二人が仲良しなのは、とてもいいことですから」

 そんなセイバーを見て、大河は、うん、と頷き、夜空を見上げた。
 明るい月が世界を銀色に染めていた。

「でもねーそれじゃセイバーちゃんがダメなのよ」
「なぜわたしが……?」

 ふふん、と大河は意味ありげに笑う。

「いいのよー。じゃあ、これから新町まで行っておいしいものを食べようね」
「はい、タイガ。とても期待しています」
「ええ、わたしが出すの?」
「はい、そうです――」

 セイバーはまた別の笑みを浮かべる。

「――わたしはお金を持っていませんから」
「もぅセイバーちゃんたら。仕方ないわね、じゃあ、お姉ちゃんが奢ってあげるわ」
「はい、お願いします」
「じゃあ食べ放題にいって、食べて食べて食べまくるわよー」

 そうして月色に輝く道を、ふたりはくすくすと笑い雑談しながら、歩いていった。




 時計の針が音を立てて時を刻んでいる。
 大皿を前に無言の二人。
 湯気が立ち、おいしそうな匂いが立ちこめていた。しいたけの挽肉詰めにかかった餡はとろりとしたたりおち、滲み出た脂と混じり、とてもおいしそうだった。スズキの身の白さが器の深い緑色に映えて、美しかった。
 そんな料理を前にして、凛と士郎は向かい合っていた。

「遠坂、仕方がない。食べよう」
「そうね。セイバーも藤村先生もいらないというのだから、仕方ないわよね」

 そうして食べ始めるが、どこかぎこちない。
 二人で食事なんてよくあることだ。学校の屋上の隅に隠れてしょっちゅう。でもこうして二人きりで向かいあって食べるのは初めてな気がした。
 凛と士郎はいただきますと挨拶して一口食べる。

 ――やだ、おいしいじゃない。

 カリカリに焼けた表面を囓ると、封じ込められていた肉汁が口の中に溢れる。どう作ったのか知らないけど、あつあつのシュウマイを食べているような感じ。挽肉にまじっているネギと土台の椎茸の優しい食感が心地よい。
 そしてたぶん洗いのような梅紫蘇風味のスズキも口当たりがさっぱりしていてよかった。
 味が濃い椎茸の挽肉つめとあっさりさっぱりとしたスズキの梅紫蘇風味。茹でたほうれん草。そして温かい白いご飯とおみそ汁。素直においしかった。

「うーん、今日は負けたわね」

 つい凛は呟いてしまう。

「ああ、これは自信作なんだ」

 とにっこりと笑いながら、タネを嬉々として説明しはじめる。

「豚のラードを刻んだのを練りこんでみたんだ」
「――なるほどね」

 凛はまた一口頬張る。
 豚のラードが熱で溶け、熱々の肉汁となって中に溢れているのだ。じゅわっと広がる旨味。悔しいほどおいしかった。そしておいしいのがとても悔しかった。おいしいからついつい食べてしまう。食べ物を残すのはエチケットとしてある。けれどもそれは猫を被っている場合の話で今は被る必要なんてない。食べ物を残すのは凛としてはもったいなかった。それにおいしいし――。
 けれども。
 ちらりと凛は自分のお腹を見る。
 食べすぎてお腹ぽっこりの方が恥ずかしい。士郎ともし今夜そんなことになった時、ぽっこりと膨らんでいるおなかを見せることを想像すると、どうしても手が止まってしまう。
 なのに、おいしいからもうひとつ、せめてもう一口食べたい。せっかく桜もセイバーもタイガもいないのだから、士郎の手料理を独り占めできるというのに――。

 ああ、悔しい。本当に悔しい。悔しいほど美味しい。こんなことなら自宅でなにかつまんでくれば良かったと思うぐらい、悔しい。

 つい椎茸の挽肉詰めにあたって、囓りたくなる。でもできない。
 なのにそんなジレンマを抱えた凛を無視して、士郎はパクパクとそれはもうおいしそうに食べる、食べる。まるでセイバーか大河を見ているかのような、気持ちいい食べっぷり。

 ――そんなにおいしそうに食べなくてもいいじゃないの。

 目の前の士郎を非難がましく、むーとにらみ付ける。けれどもそれは筋違いだというのはわかっているから言うことも出来ず、ただむくれるばかり。
 気の利いた台詞を言うわけでもないし、ふたりっきりになったというのに士郎は何も言わない。
 まぁ仕方がないと凛は内心溜め息をつく。そんな器用なことをする士郎を好きになったわけではない。不器用でひとつのことしかできず、がむしゃらに納得できるまで突き進むバカ。こんなヤツ放っておくことができないと心の贅肉だけどかまっているうちに、いつの間にか惹かれてしまったのだから。
 こんなに磨いてきたのに、せっかく見惚けてくれたのに、いまは料理に夢中だなんて――なんだか間違っている気がする。
 士郎はそんな凛に気づかず、食べ続けている。

「――せっかくこんなにおいしくできたのに。セイバーが食べないだなんて」

 その士郎の台詞に、凛はカチンときた。いつもならば気にしない言葉。
 せっかくふたりっきりになれたのに、出てくる台詞はセイバーのこと。そんなのっておかしくない? いやおかしくないけど、それって恋人に対する反応なの?

 おかしい。おかしいのはわかっていた。凛はいつもの自分でないと充分わかっていた。いつもなら違う反応、違う態度のはず。なのに、でるのはこんなチクハグな反応ばかり。
 まるでただの女の子のような反応。
 どんな時にでも余裕をもって優雅たれ。
 遠坂家の魔術の血統に生まれつき、魔術を究めて「 」へと至ろうと志した者の思考ではなかった。
 父親の最後の言葉。遺言。だから魔術師として生きていこうと、そう決めたのに。なのに――。

 ふぅん、という声とも吐息ともいえない音が口から漏れていた。
 なのに士郎は気づかない。

「遠坂もそう思うだろう。セイバーが食べないって言い出すなんておかしいって」
「そう――そうなの、衛宮君」

 凛は怒った。怒っていた。
 これだけ覚悟を決めてきたというのに、何もない。まったくない。ふたりっきりになってもなんにもない。士郎から何のアプローチもない。
 凛は女性としてそこそこ魅力があると思っていた。それなりに学校で人気もあったし、よくわからない恋文を貰ったり、呼び出されて告白をされることもあった。だから士郎の目にもそこそこ魅力的に映っているのだろうと思っていた。だけど違うようた。凛は女性としての矜持がいたく傷つけられた。
 そし浮かぶ疑問。いつも感じていた恐れ。
 胸を突くような不安が凛を急き立てた。

「ねえ――衛宮君?」

 凛はそっとしゃべりかける。
 ようやく気づいたのか、きょとんとする士郎。

「どうしたんだ遠さ――」
「もしかして、衛宮君って――」

 凛の声が細くなる。なのにそれは士郎の声をかき消すほど強く響いた。
 凛は自分でもどうしてこんな声なんだろうって細く、強くなる。世界をすでに支配していると言い切る、いつも自信に満ちあふれている女の子のものとは思えない震えた声。

「――もしかして、衛宮君ってセイバーの方が好きなんじゃ……」

 声にした途端、凛は後悔する。
 言った。言ってしまった。
 言ってはいけないと思っていることを言ってしまった。

「ば……なにバカなことをいってるんた」
「だ、だって衛宮君。あれから何もしてこないじゃない!」

 止められなかった。気がつくと叫んでいた。素直な疑問。こうして下着の上下の色もそろえて、香水もつけてきて、化粧もしてきて、ピカピカに磨いてきたというのに口にするのはセイバーのことばかり。
 それに何もしてくれないことに、凛は不安を覚えてしまう。何で士郎は黙ったままで何もしないのか。そんなにも魅力がないのか? そしてもしかしたら本当はセイバーの方がいいんじゃないのか? そんな疑問が凛の頭の中をよぎっていく。
 凛からすれば、いつだって何かしてくれないかと待っているというのに。

「わたしそんなに魅力ない? わたし自惚れていた? わたしは衛宮君の恋人だと思っていたけど、それは勘違いなの? 衛宮君はわたしの事を好きじゃないの?」

 凛は一気に言うだけ言って顔を真っ赤にしながら、士郎の言葉を待った。
 士郎の貌は一瞬呆けたようになる。次の瞬間には凛にも負けないぐらい真っ赤になった。

「いや、だってさ」

 士郎はしどろもどろ。何を言っていいのかわからない様子。
 必死になってなんとか言葉を紡ぎ出す。

「――だ、だってさ。遠坂、もうしないって言っただろ」

 その言葉に、紅潮した凛の顔は一瞬のうちに呆け、イマ、ナニヲイイヤガリマシタカ? というまま、凍りつく。
 そんな凛の様子に気づかずに士郎はしどろもどろになりながらも言い訳する。士郎の顔は真っ赤。目は泳ぎ、まともに凛を見ることは出来ない。

「……だって遠坂はもうそういうのはイヤなんだろう?」

 唖然とする。唖然としてしまう。
 そして恥ずかしいのか悔しいのかわからない。ただ士郎の言葉に凛は悔しかった。

「……遠坂がイヤだというのをやるわけにはいかないじゃないか……」

 照れて真っ赤になり横を向きながら、目の前の赤毛の青年はぼそりといった。
 その言葉が悔しい。ああ、悔しくてたまらない。
 痛かったからつい士郎にあたってしまった。

 ――えぇ確かに言ったわ。言いました。言いましたけど、それってただの照れ隠しでしょう!

 こんな女心の機微もわからない唐変木で鈍い男に空回りさせられるだなんて、なんて――悔しい。
 この鈍い男の素直な言葉が鉄壁であるはずの防御をくぐり抜けて急所に突き立てられる。この鈍くて唐変木な男の言葉が、こんなにも――。

 ――そうよ。

 凛は確信した。

 ――わたし以外が士郎をなんとかできるの?

 目の前の不器用で傷ついていることも知らずにただ走るだけのアレ。
 胸が震える。胸の震えが止まらない。止めようがない。止める気もない。
 アーチャーが答えを得たのなら、わたしが出した答えがこれ。
 目の前のあれをなんとかすること。できれば幸せに。できれることならもっと幸せに――。
 わたしの力で、このバカを幸せにしてあげる。
 魔術師としては心の贅肉。ぶよんぶよんになってしまう。だけど――――。

「――ねぇ、士郎」

 凛は目の前の恋人にそっと話しかける。
 目元を染め、その朱色の唇で。
 ――だけど、内心ではそれでいいと思った。思ってしまった。
 惚れた弱み? それとも惚れられた弱み? どっちでも関係ない。だって士郎は――。

「士郎はわたしのこと、欲しい?」

 それは睦言を囁くように、やさしく。
 近づくと耳元に唇を近づけ、恋人に言ってあげる。

 ――だって、士郎はわたしのものなんだから。

 それは家訓のとおりに余裕があるわけでもなく、また優雅であるわけでもなかったけれども。
 今は ただ、素直に、心のままに、ありのままに。
 もう手に入れている。彼はわたしのものだと主張する彼女の甘い台詞。

「――わたしはね。士郎のこと、欲しいわよ」

 その時の士郎の顔といったら!
 それを見た時、遠坂凛は絶対的な勝利を確信した。

To Be Continued Next Episode....「可愛いあくま」

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