机の上に並べられたお泊まりセット、メイクオフセットそしてスキンを前に、凛は腕組みして考え込んでいた。

 すでにシャワーも浴び、水気をバスタオルで拭ききっていた。はしたないけれども下着姿のまま。淡いベージュの下着がその肌にとけ込んで一瞬全裸に見えてしまう。もっと派手目な色合いのインナーもある。

 実際、彼女の私服は赤に黒とかなり強い色合いなので、下着がそうあっても透けることがなく何の問題もない。けれども制服では透けてしまうし、透けなかったとしても体育の時に学友にからかわれることになるし、上からジャージを羽織らないと男子生徒からの揶揄の対象にもなってしまうのだ。
 たくさんのインナーがあっても、それを着用するのは休日か体育がない時だけに限られていた。

 買ってきた品を前に腕組みして悩んでいた。士郎に教える予定の魔術についての品や触媒はすでに用意してある。それに関しては準備万端だ。
 でもそれよりも気に掛かるのはこれらの品だった。つい買ってしまったこれら。いつかは使うだろうとは思うし、思いたい。けれども今日使うものなのかどうか、しばし思案してしまう。

 遠坂家に戻るとセイバーはいなかった。たぶん衛宮邸に行っているのだろう。そのことに関しては凛は許可してある。使い魔として契約を結んでいるけど、彼女との関係は同居人といった方が近い。
 この家にいても暇だろうし、なにより衛宮家にはなぜか道場がある。そこでなら剣技の鍛錬も思う存分行えるだろう。セイバーがそういうのを好んでいるのは知っているから、あえて行かせない理由もなかった。

 けれどもセイバーが衛宮邸に行っているということは、今晩セイバーとともに帰ってくることになるかもしれない。となれば、これらはまったくの役立たずとなり、持っていく必要なんてなかった。
 でも、もしかしたら今回こそ士郎が求めてくるかもしれない。でもいつもどおりに求めてこないかもしれない。魔術を教えに行くのだから恋人どうしの雰囲気になるとは思えなかった。けれど、やっぱり……。
 堂々巡り。いつもならすっぱりと白黒つけるのだが、どうしていいのか凛はわからなかった。はっきりいってその手の経験が足りない。
 告白は何度も受けた。どう答えれば断れるのかも知っているし、イザとなれば被っている猫を脱げばいい。告白されるのには慣れている。けど、実際に恋人としてつき合うのは士郎が初めて。だから恋人どうしとしての勝手がわからない。さらにこちらからアプローチするというのは、まだやったことがない。
 どうすればいいのかわからなかった。どうしたらいいのか、どうしたらうまくいくのか、すべてが闇の中。暗中模索。五里霧中。用法として間違っている気もするけど、そんな感じ。

 まぁ士郎に対しては好きなんだから自分からアプローチしてもいい。とは思う。けど、それは遠坂凛としての行動から外れている気がした。
 どんな時でも余裕を持って優雅たれ、それが遠坂家の家訓であり、凛の行動指針のひとつである。女性からアプローチするのはそこからズレていると感じられた。

 そこまで考えてふと悩む。わたしってそんなにエッチがしたいの? と思い至ってしまう。そう考えると急に恥ずかしくなる。顔が赤く、照れを何処かにあたって誤魔化したくなる。
 初めての時は痛かったけれども、嬉しかった。それにあの時は恋人としてではなく魔術師として触れ合った気がする。互いのパスを通すための魔術的儀式。でもそれは表向きの理由。心の贅肉とは思うけど、恋人としてのエッチでもあると思っていた。
 純粋に、恋人同士としての睦み合い。
 そこまで考えてた時点で凛はあせる。先ほどみたハードコアのAVを思い浮かべてしまう。激しく乱れていた女性。
 あんなに乱れるものなの? あんな風になってしまうの? それとも演技?
 士郎がずっと触れてこないのが正しいのかどうかもわからない。その手の雑誌には男性はもっとそういうことに飢えている年頃と書いてあったけれども、ああいった記事は過激に煽りたてるのが常だから、士郎が普通なのかもしれない。でも士郎のことだから普通ではないのかもしれない。意外とそういうところがすぽっと抜けている気がする。もしかしたら今の主流は女性の方からアプローチをかけるものなのかもしれない。
 どうすればいいのか、どうしておけばいいのか、凛にはまったくわからなかった。

 なぜこの場にセイバーがいないのよ、と当たりたくなる。
 同性の同居人として、また使い魔と主人として、いろんな相談ができるというのに、彼女はすでに士郎のもとにいる。士郎のいるところで、こんな相談なんてできない。
 どうせならば完璧でいきたいな、と思う。
 お泊まりセットにメイクオフシート、そしてスキンだけならいい。けれどもお泊まりとなったらそうはいかない。学校の制服も持っていかなければならないし、替えの下着も用意しなければならない。そうなればお泊まりセットとして歯ブラシぐらいも用意しないとならない。

 こうみえても女の子のお泊まりは大変なのだ。前は失敗したけれども、考えればお風呂に入ったら素早く化粧直しをしなければならないし、また朝も早く起きて化粧しなければならない。もう士郎には知られてしまっているけど、あんな最悪な寝起きの顔をさらすことに対して、ちょっとだけひっかかる。素顔を見せるのがイヤなわけではない。飾り立てる間柄ではないと思う。けど、ただもっと綺麗な顔を彼に見せたいな、という乙女心もあるというだけ。
 士郎は無頓着でそんな気遣いには気づかないだろうけど、恋する女の子としては最低限のお約束なのである。

 女の子としてだけではない。これらに加えて、魔術師としての貌もある。今日教える予定の魔術の触媒なども用意するのだから大荷物となる。もし突然大荷物でいったら士郎はどうしたんだ? と言い出すに違いない。こんなことなら聖杯戦争の頃のまま、あの家に寝泊まりしていればよかった、と臍をかむ。せっかく教師にして保護者である大河の許可は得ていたというのに。

 そうしたら、もしかして同棲? 

 そう考えると動悸が速くなる。朝は弱いから朝の支度は士郎に任せるけど、夜は凛が支度する。なんてちょっとわくわくしてしまう。憧れてしまう。年頃の娘のツボ。
 けれど違った。そういうべったりとした甘々な関係たけではない『何か』。戦友、師匠と弟子。奇妙な連帯感。そういった性別を超えた繋がり。それが士郎と凛の間にあった。
 だからわたしたちやっていけるのよね、と凛はむくれながらも、しぶしぶ納得した。

 しばし思案するが時間は無限というわけにもいかず、時計の音が急き立てるように響く。
 行くといってしまった手前、行かないわけにはいかない。
 今日用事ができて行けなくなったと電話で伝える手もある。しかしそれは使いたくない。士郎になんのやましいところがないとはいえ、セイバーがそちらに行っているのが気に掛かる。セイバーも律儀だからそういうことはないと思う。けれども、セイバーと士郎の関係がいまいち釈然としないのだ。

 セイバーも士郎もみんなわたしの物。それでいいはず。でもよく考えれば三角関係にもなっていない奇妙で微妙な関係。
 士郎が浮気するような男ではない、と凛は信じているし、そういうことができるほど器用な男でないことは充分に理解している。けれども士郎がセイバーを見るときの目、そしてセイバーが士郎を見る時の目。それがなんだか癇に障る。
 士郎とセイバーは元マスターと元サーヴァント。ただそれだけ。
 でも何かに急き立てられるような、そんな焦燥感に駆られる。胸の奥を焦がすようなチリチリと痛くむず痒いような感覚。

 ――あーあ、わたしここまで嫉妬深かったかな?

 凛は嘆息した。世界はすでに支配している、ときっぱりと言い切る過激な乙女であれども、自分の心の中までは支配しきれない様子だった。

 鐘に見られて恥ずかしい思いまでして買ったカラフルなスキンの箱を手に取って眺める。なにか色々とかいてある。フィット感とかゼリーがどうのとか。でもその文字が頭に入ってこない。

 嫉妬しているのかな? と思う。そうではないと凛は言い切れなかった。セイバーは小さいし可愛いし、なにより高潔で士郎と和気藹々とやっていける。それにもとより士郎とセイバーが最初のコンビだったのだから。凛とセイバーがサーヴァントとして契約したのは士郎が令呪を失ったから。凛と使い魔として契約したのも、セイバーは士郎の答えを知りたかったから。なにもかも凛が最初にくる理由ではない。すべて士郎絡みなのだ。

 凛は宝石箱の赤い宝石を見る。魔力が空っぽになってしまった宝石。士郎の命を救うために使用した。士郎の命にそれだけの価値があったと思う。
 だから後悔なんてしてない。もしあとであの魔力があれば、なんて考えることもないだろう。士郎を救うと決めたのだからそれに全力をもってあたる。それが遠坂凛の生き方なのだから。

 だから――、と凛は立ち上がるとボストンバックに制服や替えの下着を詰め始める。
 しないぐらいなら、して後悔する。そうして生きてきたのだ。今までも、そしてこれからも。
 お気に入りの寝間着もつめようとするけど、皺が寄っている気がした。替えの寝間着を詰める。もしかしたらワザといやらしい下着をつけた方がいいのかもしれない。士郎がびっくりしてしまうような派手でレースがたっぷりとついたヤツ。こんないつもの綿でできた安いヤツじゃなくて、うんと派手なヤツ。

 そういえば爪を磨きたいなとも思い出す。マニキュアも塗っていった方がいいのかな? とも思った。
 ちょっと興味があって伸ばした爪。実際料理するのには邪魔だけど、伸ばしてみるとけっこう綺麗なので、凛は気に入っていた。指が細く長く見え、そしてネイルアートとまではいかないけど、マニキュアを薄くムラなく塗るだけで真珠色の貝殻をはめ込んでいるようにピカピカになる。
 そんな爪を眺めながら、士郎はきちんと切ってくれているかな、と思った。伸びた爪だとひっかかって痛いから。凛は丁寧に爪を磨く。肌を切らないように丸めて、また薄く刃のようにならないように。宝石のようにキラキラに輝くまで丹念に磨くと、凛はこれでよしとにこりと笑った。

 香水なんかつけていった方がいいのかしら? と不安になる。気になり出すと何もかもが気になり出して仕方がない。今は石鹸の香りといったけれども、シャンプーを替えて別の香りの方がいいのかもしれない。それとも無臭のソープで洗って、香水を首筋と手首と胸元につけた方がいいのかしら?

 そういえば士郎がどんな匂いが好きなのかも知らなかった。
 どんな香りが好きなのだろうか? ちょっと思案する。自分のお気に入りをつけていけばいいのかわからない。人によって香りには好き嫌いがあるから、たかがそんなことぐらいで嫌われたくなかった。そう考えると凛はまったく自分の恋人の好みを知らないことに気づく。
 恋人だからといって好みを合わせる必要はない。とは思うけれども、寄り添えるものはできれば寄り添いたいな、なんて思ってしまうし、恋人の好きな物ぐらい知っているのは当然とも思った。けれども、凛は士郎のことをそれさえも知らない。
 彼について知っているのは、正義の味方を目指していて、料理がうまく、お人好しで、熱血漢で、ほっとけなくて、後先考えなくて、そして可愛いところがあって、そして頼りになる男ということ。

 それだけ知っていれば愛を語るのには問題はない。けれども、それだけでは女として少し不満で、恋人として少しもの足りない。そういう意味ではけっこう問題。
 とにかく恋人がびっくりするぐらい、ピカピカに磨きあげて、うんとキめていこう、と凛はそう決めた。



 遅いな、と士郎は思った。時計を見てみるとすでに午後6時を回っている。
 世界はすでに宵闇に包まれていた。静かな住宅街に明かりが灯り、騒がしくも温かい色に染まり始めている。
 淡く薄暗い夕暮れ時、士郎は料理していた。今日の食材はスズキ。旬になりたてで脂がのり始めた頃。まだ脂はのりきってはいないけど、今回はこれで充分だった。
 今回はあっさりとしたものにしよう、と決めるとお湯を沸かしはじめる。
 お湯を沸かしている間に、スズキの切り身を一口大にそぎ切りにする。そぎ切りした身に片栗粉をまぶしておく。そうしてボールに水を入れ、氷を入れておく。
 まだお湯が沸くまでに時間に余裕があるから、今度はこってりしたものを作ろうと考える。

 横目で時計を確認する。本当ならすでに凛は到着していなければならない時間だ。まぁ冷めてもおいしいものを作っておこう、と士郎は思った。

 旬は過ぎかけているが、今度は椎茸を取り出す。日頃は乾燥椎茸となるけども、旬がギリギリな今は生椎茸が一番である。
 椎茸は水分を含みやすいので固くしぼった布巾で綺麗に汚れを拭き取り、軸を取り除いて小麦粉をはたいておく。
 別のボールを取り出して、豚のひき肉とネギと調味料を入れる。普通ならあっさりと鶏肉だろうけど、今回は趣向をこらして少し味にクセがある豚にした。

 それらの材料をボールに入れたところでお湯が沸いたので、スズキの切り身を茹でる。さっと湯通しして身が白くなるのを見極めたら、すぐに引き上げて、氷水の中に晒し身をきゅっと引き締める。
 引き締まったところで引き上げて、キッチンペーパーの上において水気を切る。
 次にボールにいれた挽肉とネギを練り始める。それに隠しとしてこっそりとあるものをいれておく。力任せにやると肉質が潰れてしまう。ねっとりとした感じならそれでもいいのだけど、肉の食感も残しておきたいので、練り加減が難しい。
 たねができたら生椎茸を受け皿にしてこんもりと盛りつける。まるくころころしている感じに仕上げたら、耐熱皿に並べて、ラップをかけ電子レンジに入れて加熱する。手抜きのようだが、電子レンジは使い勝手がいいのだ。

 そうしているうちに水気の切ったスズキの切り身を器に盛り、薄切りしたみょうが、穂紫蘇を乗せる。
 そしてかけるタレを調合する。梅干しから種を除き、包丁の背で 細かく叩く。すっぱい様なしょっぱい様な梅干し独特の香りが立ってくる。それを冷蔵庫にあるそうめんつゆと混ぜておく。かけるのは食べる直前。

 ちらりと電子レンジを見るとまだ時間がある。かける餡を作っておく。
 沸かしておいたお湯に鶏ガラスープを加える。これだけだと弱いので、香りと味のために薄口醤油とごま油をほんの一滴。それに水溶き片栗粉を加え、どろりとした餡を作る。
 青ネギを小口切りしておく。

 もう一度お湯をわかし、ほうれん草を茹でる。電子レンジが途中で鳴ったが余熱を使って火を通すのでそのまま放置して、ほうれん草を茹で続ける。茹で上がったほうれん草を一口サイズに切りわけて器にもると、白ごまをかるくふっておく。

 また時計を見る。凛はまだこない。鍵を渡してあるから自由に入ってこれるはずなのに――ちょっと不安にかられる。

 電子レンジを確認。ラップをとると豚肉と椎茸の混じり合った食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。肉から脂がとけてしたたり落ちていて、とてもおいしそうだ。肉に熱が通ったかどうか串をさして確認し、大皿に椎茸の挽肉つめを盛りつける。冷めてしまうから餡はまだかけない。

 手早く片づけ始める。お湯を直接シンクに流すと下のホースが熱で歪んだりするので蛇口から水を流しながら。時間があれば冷めてから流せばいいけど、魔術の講習を受けていると時間がなくなるので、今日は直接流してしまう。
 まな板をふき、菜箸や包丁をあらっておく。拭いたまな板は立てかけて水気をよく切る。

 士郎はまた時計を見る。いい加減、遅かった。先ほど会ってからすでに2時間は経過している。凛はいつもきちんと約束を守るのにどうしてだろうか? 

 士郎は一応電話して確認した方がいいのかもしれないな、と思って受話器を取る。が、はたとその動きが止まった。なんて言っていいのかわからない。なんて言えばいい? 士郎は思い悩む。遅れるなら電話ぐらいしろ、とは思うけど、それは相手を責めているようで、あまり気分がよくなるものではない。心配だから、というのは正しいけど、なんだかべったりしている気がする。いや凛とは恋人同士なんだからべったりしても問題はない――はずだ。

 けれども士郎は悩む。美人で清楚で優等生な同級生へのほのかな憧れ。憧れだった女性。
 そしてその憧れを微塵もなくぶっ壊してくれた本性。その本性を知った後でも、いやその本性を知ってしまったこらこそ、こんなにも身近に親しげに感じられる異性。

 自信満々で、言いたいことを言う代わりに言ったことはきちんとやり遂げ、美しくしなやかで、しっかりしているくせにどこかうっかりして抜けている、笑顔が似合ういじめっ子。別名、赤いあくま。そして、とても可愛らしい女の子。それが士郎にとっての遠坂凛だった。

 戦いを激戦をくぐり抜け、令呪を奪われセイバーを失い、アーチャーが裏切り、ふたりっきりとなり、それでも歯を食いしばって頑張って掴んだ勝利。
 その戦いを通じてふたりの間に芽生えたものは憧れなんて淡い泡沫の夢ではなく、きちんとした恋心。のはず。
 なのにうまくいっていなかった。相思相愛だと士郎は言い切りたい。魔力のためのパスを繋ぐためという理由で結ばれたけれども、それは聖杯戦争に勝つための理由であって、士郎と凛の心には関係なかった。また、そういう魔術絡みではなく本当にただの恋人として愛し愛し合いたいと思う。思うのだけれども――。
 そこで士郎は溜め息をついた。

 惚れていると思うし、愛しているとも思っている。その心に偽りはない。けれども、それよりも戦友として、または師匠とその弟子のような関係が強いような気がする。
 どう接していいのかわからない。桜にドキマギした時と同じ。ふっと気がゆるむと凛のことが気になってしまう。料理とかに打ち込めば忘れられるかと思ったけどそう言うわけでもなく、逆に意識してしまう。恋人どうしだから意識しあってもいいのかもしけないけど、下心が見えすぎてしまっている気がしてなんとなく気が引けてしまう。
 不器用なんだな、と士郎は思った。器用に立ち回ることが出来ないふがいなさ。
 そして、それよりもなによりも、あの時の――――。

 そう考えた時、チャイムが鳴り、玄関が開いた音がした。
 こんばんは、と呼びかける声はまさしく凛のもの。
 なんとなく顔をあわせづらい。いつもの通りに振る舞えばいい、と頭ではわかっていても、体はギクシャクしてしまう。態度に出てしまう。
 とにかく士郎は、普通に普通に、と口の中で繰り返して玄関へと急いだ。



 一目凛の姿を見た途端、士郎は息を飲んだ。
 荷物は多いけれども、いつもの出で立ち。赤い服に黒いミニ。そしてニーソックス。やはりいつものとおり髪はツインテールで黒いリボンで留められていた。
 変わりない姿。いつものままだというのに、なぜか士郎は目を奪われてしまう。

「……ど、どうしちゃったのよ、衛宮君」
「…………い、いや……」

 慌てて否定する。けれど胸の動悸は収まらない。そこには憧れていた優等生の美女が立っていた。あの赤いあくまではなく、魔術師でもなく、楚々として凛として美しい立ち居振る舞いをする魅力的な女の子。
 慌てながらも何か取り繕うとして、視線を彷徨わせる士郎。

「あ――きょ、今日は荷物が多いなって」
「――あ」

 凛は声をあげる。見る間に顔が赤く染まり、そっぽを向くと、

「こ、これは教材よ」
「――教材?」

 カバンを見る。いかにも沢山詰まっていると自己主張するぐらいパンパンに膨れあがっていた。

「そ、そうよ。衛宮君がすべてできるまで特訓よ」
「そ、それはかなり大変そうだな」
「英国へ連れて行くんですから、基礎ぐらいできてもらわないとね」
「そうだな」

 士郎は納得して頷くと後ろを向き、彼女を居間へと案内する。けど、今いわれた特訓よりも、その大きな教材よりも、なによりも、目の前の綺麗な恋人に、士郎の心は奪われていた。
 今すぐ振り返りたいという誘惑に駆られる。ほのかに薫るのは香水なんだろか、甘く鼻腔を擽り、肌の上を撫でていくよう。艶やかで情熱的な赤い薔薇の香り。凛によく似合っていた。それが士郎の体にまとわりついて離れなかった。

 居間につくと急いで台所へと行く。逃げているわけじゃないと士郎は思っていたが、どうみても退散していく慌てふためいた態度だった。
 自分の領地である台所に入ると息を吐いた。胸の動悸が収まらない。なんでこんなにドキドキしているのかわからなかった。

 ちらりと居間を覗き込む。すっと背筋を伸ばし、まるでセイバーのように座る凛がいた。その肌色は白く、その唇は赤く、目元は涼やか。
 純和風の衛宮家に、赤い薔薇が一輪、咲き誇っていた。
 いけない、と隠れて彼女に声をかけた。

「お、お茶でいいかな」
「えぇ」

 急須と湯飲み、お茶をお盆に乗せて、凛のところに戻る。
 なぜか目が合わせられなかった。なんだかその瞳で心の中まで見透かされそうで怖い。怖いだけではない。そのまま、その美しさに魅入ってしまいそうだった。
 こんなことは士郎ははじめてだった。
 目をそらす。けれど吸い寄せられるように、いつの間にか目で追ってしまっている。いつもの凛のはずなのに、いつもの彼女ではなかった。何が違うんだろうか? 何がこんなにも引きつけるんだろうか? 胸の動悸が収まらない。なんだか調子が狂ってしまう。それがどうしてなのか、士郎には理由がわからない。ただ彼女をずっと見つめていたかった。

 士郎の熱い視線に凛は少しだけ満足を覚えた。でなければここまで念入りにしてきた理由はない。
 うっすらとナチュラルメイク。これだけで1時間。最初のは目鼻立ちを強調しすぎた気がして一辺やり直してきた。爪はピカピカに磨いてきて、マニキュアを塗ってきた。色はなし。ただクリアを薄くムラなく。
 香るのはイヴリンという香水。女性的な甘い薔薇の香り。軽いくせに深くて、フローラルでフレッシュな香り。
 これは後見人である言峰から送られた香水だが、つけたことはなかった。凛は言峰のこういうところはとても嫌いだったが、役に立つこともあるのね、とも思った。
 イヴリンは手首に一吹きして、少しこすり合わせた後、その手首をうなじ、耳の後ろに馴染ませてきていた。そしてうなじにも一拭き。髪が風邪になびくたびに甘く香る。
 香水をつけてくることに気恥ずかしさを覚えたけれども、士郎の熱い視線を思えば、こういうのもいいかもね、とも凛は思った。
 服はいつもと同じだけれども、きちんとアイロンをかけて仕上げてある。一応そんなことはないと思うけど、歯を磨いて、清涼剤も口にしてきた。

 士郎の慌てている声が、ドキマギしている受け答えが、そしてその熱い視線が、凛には心地よい。
 平静を保っているようにみせて慌てている様子。手玉にとる、というわけではないけど男性が、しかも好きな人が凛のことで狼狽え、慌てふためく姿は女性として快感だった。
 思わず口元がゆるみそうになるけど、凛はなんとか堪えて、わざとなんでもない風な振りをして台所の方を見なかった。
 聞こえてくる茶碗の硬質な音。
 慌てているのか少し乱れていた。
 静かに響く時計の音。
 高鳴るのは胸の鼓動。
 聞こえてしまうのではないかと思うぐらい激しく、強く。
 見えなくても感じられる視線。
 香るのは薔薇の甘い香り。
 なんだか居たたまれないような気恥ずかしいような雰囲気。
 でも恋人同士としては相応しい。
 ふたりをとても熱く、さらに優しく、なお強く――。

「凛、来ていたのですか」

 その声にふたりは吃驚して体を緊張させる。突然、襖が開いてセイバーが現れたのだ。

「こ、こんばんは、セイバー」
「こんばんは、凛」

 挨拶してセイバーはいつもの席に座る。
 凛はいつものとおりにお茶を飲み、士郎もいつものとおりに台所に立って料理の用意をしているのに、セイバーは違和感を覚えた。いつもと違う雰囲気。それがなんなのだかわからない。けれど気まずいような緊張感がこの場を支配していた。

「あ、セイバー。お茶はいる?」

 急いで凛はお茶を用意する。
 その指先をセイバーは見る。綺麗に磨かれていた。そして凛はセイバーから見ても目を引くほど綺麗だった。
 ええ、と頷きながらセイバーはマスターである凛をつぶさに観察する。服はよれがなく清潔で、爪も磨かれている。ほんのりと頬が紅色なのは化粧のためでしょうか? ふむふむと感心する。

 ――凛もようやくきちんとするようになったのですね。

 感慨深い。セイバーが生きていたイングランドでも春先では乙女は花を飾り、その美を競い合ったものである。春の祭典はそのまま求愛の祭典でもあった。現代みたいな鮮やかで派手な色合いの、それこそ凛のような真紅のドレスはなかったが、それでも華やかに着飾っていた。
 セイバーはお茶を受け取るとついにっこりと笑いかけてしまう。なんだか凛がようやく年相応の娘のように振る舞っている気がして嬉しかった。
 セイバーの外見は剣の魔力によって幼いままであったとしても、実年齢はかなりの年齢なのだ。自分の娘のような年齢の凛のその健気さについ微笑んでしまう。

 凛はそんな余裕綽々なセイバーの笑顔にむくれる。なんだか見透かされているようで癪に障った。何もかも判っていますという顔でいられるとなんだか落ち着かない。
 自分よりも幼い外見なのに大人びているようで気になる。それがなぜか胸をチクリと刺すのだ。大人の、大人ゆえに滲み出てくるような余裕が、凛を焦燥させる。

 士郎はセイバーに感謝していた。どうしていいのかわからなかった。この不可思議な雰囲気にただ圧倒され、場違いな違和感に士郎は戸惑うばかり。こういう雰囲気は苦手だった。どうしていいのか勝手が分からない。
 女、子供にはやさしくしろという切嗣の言葉を思い出す。でもどうすればいいのかわからない。やさしくしろと言われても、というのが士郎の率直な感想だった。
 やさしくしたい相手。憧れていて、その憧れが破られてその本性を知った上で、改めて惚れ直した可愛くて愛おしい彼女である、遠坂凛。でもこういう雰囲気になるとどうしようもない。

 ――親父、どうすればいい?

 正義の味方になる以上に難しいことに思えて仕方がなかった。

 居間の空気は微妙だった。
 いつものとおり台所では士郎が調理していて、いつものとおり凛は座りテレビを見ていて、いつものとおりセイバーはお茶を美味しそうに啜っている。なのに、この緊張感はなんだろうか? 張りつめている雰囲気にみんな気まずさを覚えていた。

 お茶を啜りながらセイバーは横目で凛を観察する。
 甘い薔薇の香りが漂ってきた。その香りには嗅ぎ覚えがあった。イングリッシュ・ローズの香り。たっぷりとつまった甘い蜜と花弁からなる薔薇の高貴な香り。それが鼻腔をくすぐる。
 そして今度は台所を見る。士郎は一生懸命調理しているが、こちらが気になるのかそわそわしていた。ちらちらと凛を盗み見ている。とても見ていられないような若々しい態度。その若々しさにセイバーは苦笑したくなる。
 王国の若者もそうでした、と思う。たとえ先陣を駆ける騎士になっても気になる娘をつい見てしまうのは、いつの時代でも変わらないものですね、とも思った。
 でもその士郎の視線に胸が痛む。あの恋するような視線。いつもの士郎とは違う、恋し愛する人を見つめる熱い視線はセイバーの胸も焦がす。
 あんな視線を浴びたことなどなかった。騎士として王として国民から受けた敬愛と尊敬の視線。しかしあのような熱いものはけっしてなかった、と思う。その考えがセイバーの胸をチクリと痛める。その痛みを逃がすかのように、溜め息を静かに吐いた。

 凛はテレビを見ている。が頭の中に中身が入ってこない。どんな内容が放映されているのかわからない。まったくの上の空だった。
 士郎とセイバー。恋人と使い魔。両方、わたしの物よ、と言い切る彼女だが、この雰囲気は苦手だった。セイバーの前で士郎に声をかけるとなんだか声が上擦りそうだった。いつものとおりにすればいい、と頭でわかっている。わかっているのだけども、そのいつものとおりが浮かばない。
 士郎のバカ、と思う。こういう時こそ男の甲斐性……というものではないけど、なにかそういった事柄を男が発揮するシーンではないのかしら? と思う。と同時にわたしは魔術の師匠として弟子のところに来ているのよ、という意識もうまれる。
 いったい何をしているのかしら?
 自分で自分のことがわからなくなる。
 何を期待しているのか、何をしたいのか、魔術師としての凛と恋する乙女としての凛が心の中で葛藤していた。

 どんな時でも余裕をもって優雅たれ。

 遠坂の家訓が役に立たなかった。こういう場合にどうすればいいのかわからない。優雅に淑女らしくしていればいいのかしら? けどセイバーの視線が気になる。セイバーを見る士郎の視線が気になる。それが気になって仕方がない。それが胸を焦がす。
 凛は内心溜め息をついた。

 士郎は料理を温め直しながらも、ちらりちらりと居間を盗み見る。
 凛とセイバーがいつものとおり。なのにそこへ料理を持っていくのは躊躇われた。なにかそこに行ってはいけない気がしてならない。聖杯戦争を生き抜いていた者としての勘がそう告げていた。そこまで大層なものじゃないと思うけど、凛とセイバーの間に入ってはいけないと何が告げていた。
 士郎はどうしていいのかわからず、溜め息を吐いた。

 セイバーは凛を見る。自分のマスターにして士郎の恋人。士郎の熱い視線を受けるのは当然のこと。魔術師として才能もあり、元気で、強気で、鮮やかな女性。まるで大輪の薔薇のような華やかさがあった。なのにどこかたおやかで乙女らしい。
 シロウが彼女に恋するのも仕方がない。
 知らずにセイバーは溜め息を漏らしていた。

 あーあ、と三人とも互いに知られないように溜め息をつき合っていたのだ。

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