微かな衣擦れの音が、背中を向けたベッドの上で響いていた。周囲を遮断す
るカーテンから一歩外に出ると、窓から差し込んでくる午後の日差しが眩しい。
備え付けの水道を捻って、二人分の汗と体液に汚れたタオルをざばざばと洗う。
「──ふう」
 保健室に染みついた強い消毒薬の匂いの所為で、籠もった甘い体臭はすぐに
かき消される。僅かに惜しい気もしたが、あんな真似をしていた事が他人に知
れたら大変だ。ぎゅっと強くタオルを絞ると、俺は踵を返して、まだ閉ざされ
たままのカーテンの奥に声をかける。
「遠坂。開けても大丈夫か?」
「ええ、いいわよ」
 彼女の声に促されてカーテンを引き開けると、すっかり身支度を終えた遠坂
の姿があった。髪を結い直し、一分の乱れも無くきっちりと制服を身にまとっ
て、整えたベッドの上に腰を掛けている。そうしていると、紛れもないいつも
の優等生の遠坂凛そのものだ。ついさっきまで、俺の手に体を拭われながら甘
い吐息を漏らしてみたり、下着がべとべとで気持ち悪いと泣き言を言っていた
のが嘘のよう。
 ただ、ほんの僅かに頬に散った淡い赤みだけが隠しようも無く、昼下がりの
情事のなごりを残していた。
「調子どうだ? 熱は引いたみたいだけど」
 ぴと、と遠坂の額に手を当てる。さっきまでの激しい運動の所為で、体温は
普段より少し高く感じられたが、更衣室で抱き起こした時のような病的な熱さ
はもう無い。遠坂は静かな微笑みを浮かべて、覗き込む俺の顔を見上げてくる。
「もう平気よ。さっきは単純に魔力が不足していただけだから。
 それより、士郎の方が大丈夫? かなり手加減なしに魔力を吸い上げちゃっ
たと思うんだけど」
「ああ、俺の方は全然。頑丈さだけが売り物だからな」
 正直言えば多少虚脱感があるけれど、精々が睡眠不足な朝のけだるさ程度の
もので、普通に過ごすにはまったく差し支えない。そう、と遠坂は安堵したよ
うにため息をついて、俺の手から顔を逸らした。
「六時間目が終わるまで、まだ時間があるから、遠坂はここで休んでるといい
よ。俺は適当に戻るし。さすがに、遠坂と一緒に保健室出ていくわけにはいか
ないだろ」
「うん──でも、士郎はどうするの? HRさぼっちゃったことになってるでし
ょ」
「まあ、体育倉庫の鍵がかかっちゃって閉じ込められたことにでもしとく」
 苦笑すると、俺は足元に置きっぱなしだった自分の鞄を取り上げる。
「それじゃ。また後でな」
 そう言って、その場から立ち去ろうとした俺を。
「──遠坂?」
 きゅっ、と制服の袖口を握りしめて、俯いた遠坂が引き止めていた。
「ね、士郎。いっこだけ聞かせて」
 下を向いたままの遠坂の唇から、そんな言葉が漏れる。くいくい、と袖を引
かれて促されたので、仕方なく鞄を下ろし、彼女の横に腰掛けた。
「どうした?」
「……………」
 遠坂の視線は、じっと自分の爪先を見つめている。心なしか、その首筋が仄
かな朱に染まっているようだ。
 たっぷり十秒以上もの沈黙を数えた後で、彼女はようやく、おずおずと口を
開いた。

「どうして、ずっと、──してくれなかったの?」

「─────」
 喉が詰まる。

 ──聞かれるとは、思っていた。
 でも、いざそう問われてしまうと、言葉は巧く出てこなかった。だって、そ
の答えはあまりにも我が儘で、自分勝手な、俺の一方的な思いに過ぎないもの
だったから。
 口に出せば、遠坂に笑われてしまう。いや、呆れられるかも知れない。いっ
そ嫌われるかも──そんな危惧ばかりがぐるぐると頭を渦巻いて、いつしか遠
坂がその大きな瞳でこちらを覗き込んでいることさえ、俺はしばらくの間気づ
くことが出来なかった。
「あ──その、遠坂、」
「……ひょっとしてわたし、士郎に無理させた?」
「え……?」
 ふる、と小さく彼女の唇が震える。
「わたしの魔力が足りなくなれば、セイバーだって現界出来ないし……わたし
の体も持たないし、だから士郎、ほんとはしたくないのに、無理してわたしの
こと抱いて──」
「ば、ばかっ、何言ってんだ、違う違う断じて違うっ!」
 ぶんぶん、と両手を大きく振って、遠坂の誤解を遮った。
「その、最初にも言っただろ、ずっと遠坂のこと抱きたかった、って。遠坂と
したくないなんて、そんなの天地が引っ繰り返ったってあるもんかっ!」
「じゃあ、どうしてよ」
 遠坂が拗ねたように首を傾け、上目遣いに俺を見つめてくる。その青い視線
にまっすぐ見据えられると、もうそれ以上自分を隠し通すことは出来なくなっ
て──ああ、結局いつもコイツには勝てないんだ──俺は深くため息をついた。
 彼女を抱きたくても、どうしても上手く手を触れられなかった理由。
 ──それは。
「……遠坂のこと、好きだから」
 …………………。
 沈黙。
 鳩が豆鉄砲を食らった、というのは、こう言う顔のことを言うのだろうか。
一瞬目をまん丸に見開いた遠坂は、呆然と魂が抜けたように俺を凝視している。
 やがてその首筋からだんだんと血の色が昇ってきて、キレイな形を描く眉が
ぎゅうっと寄ってきて──む、もしかしてこれは、遠坂、怒ってるんだろうか。
「な、何よそれ! 全然意味が分かんないわよ! 適当なこと言って誤魔化さ
ないで!」
「適当じゃないって。他にもまあ、きっかけが無かったとか、遠坂に拒まれる
のが怖かったとか理由はいろいろあるけど、いちばん大きいのはそれ」
 そう言うと、がーっとこちらを威嚇していた遠坂の表情が変わる。きつく寄
せられた眉はそのままだったけれど、怒りというよりは何処か不安げな眼差し
を見せて、彼女はもの問いたげな瞳を向けた。
「一番最初にした時のこと、覚えてるか?」
 そう尋ねると、遠坂は一瞬戸惑ったようだったが、すぐにこくんと頷く。
「……忘れるわけないじゃない」
「ん、俺も。
 その時さ、言っただろ。『好きな女の子と、契約とかそういうものの為にし
たくない』って」
「……………」
 はあ、とため息をついて、俺は後を続けた。
「俺、遠坂に魔力をあげられるのも、それがお前の助けになるのも嬉しいけど。
やっぱりお前のことが好きだから、そんな理由とか関係無しに抱きたかったん
だと思う。
 でも俺、いつも遠坂に助けられてばっかりで、俺がお前にやれるものなんか、
この魔力くらいしか無いのに、その理由が無くてもお前に触れていいのかわか
んなくて。なんか踏ん切りがつかなくて──気づいたら、全然身動き取れなく
なってた」
「──士郎」
「遠坂に笑われても、怒られても仕方ないけど、それが全部だよ。
 でも、ごめんな。遠坂にそんな誤解、させるつもりじゃなかった───」
 ──と。
 謝ろうと頭を下げかけた俺の肩に、ふわりと遠坂の腕が回った。
 額を柔らかな胸に押しつけられる。双つの膨らみの間から、落ちついたリズ
ムを刻む心臓の鼓動が響いてくる。
「ばかね、士郎」
 そう言う遠坂の声は、だけどとても優しかった。顔は見えないけれど、その
口許に穏やかな微笑みが浮かんでいるのが、目にしなくてもはっきりと分かる。
 遠坂の手が滑る。こちらの髪をほぐすように、ゆっくりと、ゆっくりと何度
も、静かな手つきで頭を撫でてくれる。
「士郎も忘れたの? わたしが最初の時、なんて答えたのか」
「……覚えてる、けど」
 そんな理由じゃしたくない、と言った彼に、少女は悪戯っぽく微笑んで言っ
たのだ。

 ──うん。それじゃ、そういうのを抜きでしよ。

 どんな理由もいらない。
 ただ、相手のぬくもりだけを欲しいと。
 彼と同じように、彼女もきっと望んでいてくれたんだ。

「士郎は気づいてないだけよ。わたし、貴方からいっぱいいろんなものを貰っ
てる。
 魔力だけじゃないわ。もっと形のあるものも、無いものも、士郎はいつだっ
てわたしにくれていたじゃない?」

 ──例えばそれは、夕日の校庭で人知れず、越えられないハードルに挑む後
ろ姿だったり。
 ──例えばそれは、時を超えて戦いの中彼女を守り抜いた、あの赤い騎士の
背中だったり。

 ──例えばそれは、こうして触れ合っている、泣きたくなるほど優しい二人
の時間だったり。

「士郎の体温も、顔も、声も、抱き合ってる時にわたしに見せてくれる、何も
かも全部好き。その上、普通の恋人たちならあげられない魔力までわたしにく
れちゃうんだから、士郎ってば凄いのよ。
 なのに、何で貴方はそう無駄に謙虚なのかしらね。もっと自分に自信を持ち
なさい」
「遠──坂」
 彼女の腕がほどける。顔を起こすと、遠坂は眩しいほどの笑みを浮かべて、
真っ直ぐに俺を見つめてきていた。
 鮮烈な夏の日差しのような輝かしい笑顔は、この胸の裡から迷いの澱を打ち
払っていく。
「好きよ、士郎。大好き。……あなたが好き」
「うん。俺も……遠坂のこと、大好きだ」
 回り道した時間を埋めるように、何度も互いの名前を呼んで。何度も互いの
思いを告げて。時の経つのも忘れたまま、俺たちは飽きることなく唇を重ね合
う。
 いつか終業を教えるチャイムの音が響き、校内に遠い喧騒が満ち始めても、
二人はこの白い密室の中、夕日が部屋を染め上げるまで、いつまでも抱きしめ
合っていた───


 ──それからしばらくの間、遠坂のブルマ姿を目にするたびにトンデモない
記憶が蘇って、体育の授業に著しい悪影響を及ぼしたのは、まあ、別の話とい
うことで。

 

【fin】