「んぅ……」
 身をよじる。何かから逃れようとするかのようなその動きは、しかし、多分
に愉悦を含んだものだ。
 呼吸は荒く、吐く息は体内に篭もった熱そのままで火のよう。
 その原因は、やや遠慮がちに指を這わせてくる無骨な手だった。壊れ物を扱
うような、臆病ささえ感じさせる慎重な手つき。
 それが、ひどくもどかしい。
 剥き出しの肌に触れるのは、やはり剥き出しになった相手の肌だ。
 これ以上無いほどの接触だというのに、そこに篭められた力は弱く、とても
足らない。
「ぁ……もっと、強く……」
 知らず懇願するような声になってしまう。その気は無いのだろうが、焦らす
ようなこの刺激はほとんど拷問だ。
「………」
 言われ、躊躇する雰囲気があった。
 だがそれは一瞬だけ。望みどおり、触れてくる手に力が篭もる。
「くぁ―――!」
 両の乳房を絞るように掴まれ、反射的に身体が仰け反った。力加減のよく解
っていない、手と同じ無骨ともいえる愛撫だ。
 しかし、今まで散々に焦らされていた身体にとっては痛みよりも快楽の方が
大きい。
「は、あ……っ」
 身をよじろうとして、できなかった。
 さっきまでの躊躇いがちな愛撫ではなく、ほとんど組み敷かれたような形に
なっている。単純な腕力では敵うはずもない。
 荒い息が握り締められて震える胸にかかり、それが徐々に近づいてくる。
「ぁ、や―――」
 拒絶の言葉に力は無い。
 ぬらり、と熱く湿った舌が、同じく熱を持ち汗で湿った胸に這う。指の間か
ら零れ出た柔肌がなぞるように舐め上げられ、甘噛みされた。
「ふあ……」
 我ながら情けない気の抜けた吐息が漏れ、無意識に強張っていた身体が弛緩
する。
 それを待っていたのか。
 胸を弄ぶ役を口に任せ、片方の胸を愛撫していた手が離れた。
 弛緩した身体と意識は反応できない。
 その、完全に無防備となった間隙を狙い、咄嗟に閉じることもできない両脚
の付け根―――既に熱く潤んでいた秘裂に指が侵入してきた。
「ひぅっ!」
 びくりと再び身体が強張るが、遅い。
 まるで抵抗の無い一瞬に触れられたそこは挿し込まれた指を完全に咥え込み―――


二人

                   A・クローリー


 ―――ジリリジリリという喧しい音で目が覚めた。
「………」
 目を開ける。
 相当に乱れた格好で眠っていたのか、妙に傾いた視界が朝の六時を指して騒
ぎ立てる目覚まし時計を捉えた。
 たっぷり一分そのままの体勢で時計を睨んでいたが、観念したように手を伸
ばし―――
 ―――思い切り壁に投げつけた。
 目覚ましのベルがいきなりの凶行に面食らったような音を奏で、ついで静か
になる。柔らかい絨毯の上に落下し、二転三転。そのたびに小さな音が鳴る。
「………な」
 その様子を見もせず、
「なんて夢視てんのよ私はーーーーっ!!」
 部屋の主、遠坂凛は次なる犠牲者―――枕をぼこぼこ殴りだした。
 拳を落とす、ベッドに叩きつける、頭突きを喰らわす。
 それでも気が収まらないのか、トドメとばかりに回し蹴りで目覚まし時計の
後を追わせた。
「はあ、はあ、はあ……」
 肩で息をしながら座り込む。
 同居している家族でもいれば何事かと駆けつけてくるところだが、幸いなこ
とに彼女は一人暮らしだ。隣人に騒ぎが聞こえる気遣いも無い。
「うー……」
 頬が熱いのは、今しがた暴れたせいだけではない。もぞもぞと下半身を動か
すと、両脚の付け根辺りに濡れた感触がある。
 下着は代えないといけないだろう。
「ああ、まったく……。これも全部アイツのせいなんだから」
 ぶつぶつ文句を言いながらもベッドから降り、手早く下着を代えて服を着る。
 時間のロスは大したことはない。今から準備すれば、問題無く目当ての時間
に交差点に着くよう家を出られる。
 未だ熱を残している身体を努めて意識しないようにしながら洗面所へ向かい、
髪を梳かし顔を洗う。
「ふーん……ま、こんなもんね」
 鏡と睨めっこをして自分の姿を仔細に眺める。
 完璧だ。顔に寝跡などはついていないし、髪とそれを留めるリボンも問題な
し。寝起きは調子が悪いことが多いのだが、起きた早々に大暴れをしたお陰か
頭ははっきりしている。
「まあ、よっぽど酷い格好か、よっぽど着飾らない限りアイツは気づきもしな
いんだろうけど」
 嘆息して、軽めの朝食に取り掛かった。



「おー、あれ遠坂じゃんか」
 珍しいものを見た、という顔で遠くを眺めるのは陸上部のエース蒔寺楓。視
線の先にいるのは、誰か男子生徒と一緒に校門をくぐる遠坂凛。
 時刻は朝の七時。運動系の部活は朝練の最中だ。
 部活をやっていない生徒が登校してくるには些か早い時間帯だし、事実、遠
坂凛もつい最近まではこんなに朝が早くはなかったはずである。
「そう言えば、最近遠坂さん早いですね。……それに、あの、いつも一緒に登
校してくる人―――」
「三枝、あまり詮索するのは関心しないぞ」
 ストップウォッチなどを準備しながら口篭る三枝由紀香と、それを冷静に窘
める氷室鐘。
 が、そんな二人を無視して楓がにやりと笑う。
「ははーん、そうか。ついに遠坂にも春が来たか! いやー、言い寄る男ども
を片っ端から撥ねつけて、しまいにゃ一人危うく殺しかけたあいつもついに―
――むぐ」
「だ、だ、駄目ですよう蒔ちゃん! そんなこと大声で言ったら!」
 物凄い暴言を吐き始めた楓の口を慌てて塞ぐ由紀香。呆れた顔で鐘が溜息を
つく。
「……まあ、二年の終わり辺りから色々と噂になっていたが、こう何度も見る
とやはりコレは確定だろうな。だが―――」
 揉み合っている背後の二人から視線を逸らして見れば、校舎の入り口で遠坂
凛と男子生徒が別れるところだった。
 男子生徒が小走りで校舎に駆け込む。遠坂凛はその後姿をしばらく眺めてい
たが、一つ肩を落とすとゆっくり校舎に入っていった。
「どうも、片想いの気配が濃厚にする」
「んぐ?」
「え?」
 その言葉に、二人の動きがぴたりと止まった。
 揉み合っていた―――と言うか、楓の口にしがみついた由紀香が一方的にぶ
ん回されていた―――体勢のまま、揃って首を傾げる。
「片想い、って遠坂さんが?」
「ぷは―――マジか? あの♂桃竄セぞ? あいつに言い寄られて靡かない
男なんているか?」
 うむ、と難しい表情で鐘が頷く。
 指を一本立て、
「まず一つ。遠坂嬢は今までこの時間帯に登校してくることはまず無かった。
対して、あの男子生徒はこの時間帯に登校してくるのを何度も見た記憶がある。
つまり、遠坂嬢がわざわざ彼に合わせて早起きしている、ということになる」
「あー、なるほど。あの男子生徒、別に部活やってるわけじゃなさそうだもん
な。フツー、つき合ってるんなら男が合わせるよな」
 うんうん、と微妙に偏見入った相槌を打つ楓。
 指が二本立つ。
「二つ。これは弓道部の知り合いから聞いた話だが、今年の弓道部の新入部者
歓迎会に遠坂嬢が来たそうだ。それで、件の男子生徒、どうも以前に弓道部員
だったらしくてな。彼も来ていたらしい」
「でも…、たしか弓道部の美綴さんと遠坂さんはお友達でした。その関係なん
じゃないですか?」
 少し不安そうな顔で由紀香が反論する。
「そうかもしれないが、どうも別口で来た様子だったらしい。彼が妙な外国人
の女の子を連れてきて、遠坂嬢は彼女と知り合いだったようだ。詳しいことは
不明だが、例の男子生徒絡みで顔を出した可能性が高いかもしれない」
「ん……。よく解らないけど、学校以外のところでもその男子生徒と付き合い
がありそう、ってことか」
 そうなるかもな、と鐘は頷き、三本目の指を立てる。
「そして三つ。最近、どうも遠坂嬢が浮かない顔をしているのに気がついたか?」
 うーん、と思い当たる節がある様子で首を捻る二人。
「そう言えば、ときどき遠坂さんが溜息ついてるの見ました。あんまり表には
出さないんですけど……」
「たしかに。言われてみりゃ、ちょっと最近元気が無いような気がするな。あ
りゃ恋の病か」
 何しろ遠坂凛は学園のアイドルである。
 その彼女に好きな相手ができたのなら、そんな悩みなどとは無縁だと誰もが
思うのだが、現実はそう簡単ではないということか。



「ふう…」
 今日は弓道場に寄る気にもならず、人気の無い教室で溜息をつく。とにかく
疲れた。
 ついいつもの習慣で士郎と出会えるように家を出てしまったが、あんな夢を
視た直後に顔を合わせるのは何とも気まずい。
 無論、当の衛宮士郎でもあるまいし露骨にそれを表に出すようなことはしな
かったが……
「士郎の馬鹿」
 八つ当たり気味に呟いてみる。
 いや、あながち八つ当たりとも言えないかもしれない。何しろ、これだけモー
ションかけているというのに気づかないのだから。
 大体、アインツベルンの森であそこまでやったのだから、もっとそういう対
象として見てくれても良いのではないだろうか。―――と言うか、見るべきだ。
「うう…」
 思い出してしまった。
 そもそも、あんな夢を視てしまったのはあの夜の一件に因るところが大きい
だろう。あれだけやっておいて、凛だけお預けを喰らって放っておかれたのだ
から無理もない。
 発情した身体を抱えて目の前で行われる交わりを傍観するだけ、というのは
なかなかに辛い体験だった。仕方の無いことではあるが。
「やっぱり欲求不満、かあ……」
 脳裏に浮かびかけた情景を振り払い、冷静に今の自分の状態を分析する。
 有り体に白状してしまえば、遠坂凛は衛宮士郎のことが好きだ。
 それも、漠然とした好き≠ナはない。明確に異性として意識するレベルの
好き≠セ。
 士郎とそういう関係にあったセイバーはもういないわけだし、士郎自身も彼
女のことは吹っ切っている。よって、心置きなく関係の進展に努められるはず
なのだが―――
「弱気になってるかもね…。後出しは嫌いだったはずなんだけど」
 桜とイリヤの存在は当然無視できない。が、何よりも気がかりなのは、今は
もういないセイバーのことだ。
 あのときは士郎の言葉と様子から能天気に安心してしまったが、よく考える
と、あんな風に心から愛していた相手のことを吹っ切れるものだろうか。
 少し、自分に置き換えて考えてみる。
「………」
 そう脆弱な精神の持ち主ではないつもりだが、あそこまで綺麗さっぱりとは
いかないだろう。少なくとも、何日かは落ち込んでしまうかもしれない。
 だから、それがおかしい。
 綾子にも指摘されたし、自覚もしているが、自分は基本的に情は薄い方だ。
 対して士郎は、情に厚い、というのも馬鹿らしくなるくらいのお人好しであ
る。何しろ、今の今まで殺し合っていたイリヤを重傷の身で背負って連れ帰る
ほどの大馬鹿だ。
 その、見ていて蹴り飛ばしたくなるほど誰にでも優しい士郎が、誰よりも気
にかけ愛したセイバーのことを綺麗に吹っ切った。
 別れに十分な時間があったとは思えない。
 納得したことであろうと、感情はそう簡単に納得しない。
 解らない。
 士郎のことが解らず、それ故に不安になっている。
「―――で、そんなわけでこっちから、好き、って言い出せないのよね」
 まったく、なんて有様だ。
 拒絶さるのが恐ろしい、というわけではない。
 もし受け入れられた桜やイリヤとの間に相当な軋轢が生じそうだが、それも
些細な問題に思える。
「あーあ、面倒なやつを好きになっちゃったなあ…」
 溜息をつき、そろそろ学校用に頭を切り替えるべく教科書を取り出した。



 昼休み。
「なーんか、最近遠坂さん元気無いわねー」
 せっせと大量の昼食を胃に収めながら言うのは、タイガー、もとい、藤村大
河。
「まあ、たしかに。遠坂のやつ、ここのところどうも覇気が無いというか何と
言うか……」
 その対面でやや居心地悪そうにしているのは、無理矢理つき合わされた衛宮
士郎。
 場所は茶道室。職員室で昼飯を喰わされるよりはマシだが、慣れない場所な
のでどうにも落ち着かない。
「ね、士郎。なんか心当たりない?」
 なんだかゴシップ話でもしているようだが、これは彼女なりに教師として生
徒のことを心配しているのである。
 実際、彼女のことをよく知る近しい者でなければ気がつかないが、ここ最近
の遠坂凛は微妙に元気が無い。今朝も様子が少し変だった。
 何か悩み事がある、と考えるのが妥当だが、彼女を悩ませるような事態とい
うのはイマイチ想像しにくい。と言うか、想像を超えているかもしれない。
「うーん、……俺は特に何も。あいつも何も言わないし」
 仮に自分だけで解決できないようなことなら、迷わず士郎かイリヤ辺りに相
談が来るはずである。変なプライドに囚われるような人間ではない。
 それがない、ということは、相談しても無駄なことか、それとも一人で解決
しなければならない理由があるから、か。
「そう……。うー、何か悩み事でもあるなら相談してくれればいいのにー」
 そりゃたぶん無理な話だろう、と声には出さずに返し、士郎は迅速に弁当箱
の中身を平らげる。早くも自分の分を片付けた虎が狙っているからだ。
 ……しかし、他の人間も気づくとなると、やはり心配だ。
 どうも触れて欲しくなさそうな様子だったので敢えて無視したが、あれだけ
猫を被るのが上手い凛がボロを出すのはよほどのことではないだろうか。
(……イリヤに相談してみるか?)
 子供っぽい外見や性格に反して、イリヤはけっこう頼りになる。何か助言で
も貰えるかもしれない。



 数日後。遠坂邸。
「―――問題無し。極めて良好な状態ね。でも、日本の夏はきっついから油断
しないように」
 診察に使った器具やら何やらを片付け、凛はイリヤに言った。
「ありがと、リン。日本の夏は湿気と温度が凄いそうね。私は寒いところで育
ったから気をつけないと」
 脱いでいた下着と服を着込みつつ、イリヤは笑う。その様子は無邪気そのも
ので、つい数ヶ月前に殺し合った相手とはとても思えない。
「………」
 また、思い出してしまった。いい加減、この何かとあの夜のことを連想した
がる頭はどうにかならないものか。
 そんな凛の内心も知らず、イリヤはさっさと服を着ていく。
 ……本当に、幼い身体だ。
 診察のたびに見ているが、それでも改めて思う。
 これで自分や桜と同様に士郎を狙っているのだから恐れ入る。
(桜は桜で育ちすぎな気がするけどねー……。特に胸とか胸とか胸とか)
 まあ、胸がどうのと言ったらセイバーも相当に小振り―――はっきり言って
小さかったので、その辺りは別に問題無いだろうと結論する。
 前を見ると、イリヤは既に服を着て椅子にちょこんと座っていた。
「ん、じゃあ最後に、なにか困ってることとか悩みとか無い?」
 魔術師としてイリヤの相談にのってやるのも凛の役目だ。士郎は半端者だし、
こういった話ができる人材は他にいない。
「うーん、そうね……」
 イリヤは小首を傾げ、
「―――悩みがあるのは貴女の方じゃないの、リン? たとえば、……シロウ
のこととか」
 そう、こちらの心を見透かすように微笑した。
「な―――」
 まったくの不意打ち。しまった、と思ったときには顔に出てしまっていた。
 一瞬怒鳴りそうになったが、それはマズい。
 何がマズいかと言えば、イリヤの送迎係は士郎なのだ。診察が終わるまでは
居間で待っているはずである。
 なにか騒ぎを起こせば心配してすっ飛んでくるのは明白だ。
 だからマズい。
 目の前には、いっそ妖艶とでも表現したくなるような笑みを浮かべているイ
リヤ。
 どこまで感づいているのか―――否、どこまで感づいていたのか、だ。
 たとえさっきの言葉がカマをかけるためのものであったとしても、凛の様子
を見れば全て解ってしまっただろう。
 それでも、とりあえずはとぼけてみる。
「さあ、なんのことかしら? 士郎がどうかしたの?」
「ああ、駄目よリン。とぼけたって。リンはシロウのことが好きで、それでこ
このところずっと悩んでるんでしょ? 今さら隠したって無駄だからね」
「―――」
 この餓鬼次はぶっとい注射でも打ってやろうかしら。
 などと一瞬物騒なことを考えたが、凛はすぐさま頭を切り替える。こちらの
事情は全てイリヤに把握されていると見なして良い。これ以上とぼけるのは危
険だろう。
 思考し、
「はあ、解ったわ。で、どうしたいの、貴女。シロウは私のだから引っ込んで
なさい、なんて抜かしたら蹴り飛ばすわよ。割と本気で」
「あら、当然じゃない。シロウは私のに決まってるわ」
 ……本気で殴ろうかと思った。
 同時に、士郎のことにそこまで感情的になっている自身に驚く。
 が、そんな凛に頓着した様子もなくイリヤは続けた。
「でもね、私が言いたいのはそれとは別。シロウは勿論大好きだけど、リンや
サクラのことも好きだから言うわ。―――シロウは、やめておきなさい」
「え?」
 予想もしておらず、理解もできないことを言われた。
 正面からこちらを見据えるイリヤの顔は真剣だ。冗談や皮肉を言っているよ
うには見えない。
 そして、ひどく大人びて見えた。自分と同じか、あるいは大人の女性を相手
にしているような錯覚を覚える。
「シロウを好きになっても報われないわ、貴女達。だから、やめておきなさい。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが友人として遠坂凛に言う、これ
は忠告よ」
「それは……どういう意味?」
 喉が渇く。
 自分が不安に思っていたことが、明確な形を成そうとしている。
「言葉どおりの意味よ。シロウは、もう誰か一人を愛するなんてできないから。
それはセイバーが持って行ってしまった。―――いえ、シロウがセイバーに上
げてしまったと言うべきかしら」
 そんなはずはない。士郎は、もうセイバーのことは吹っ切ったと言っていた。
 ……いや待て。だから、それがおかしいのだ。
 あんなに愛していたセイバーのことを、あんなにあっさりと吹っ切ってしま
えることがそもそも―――
「薄々感づいてるかもしれないけど、シロウには本当に大切な人≠ネんてい
ないの。そこにいたセイバーはもういないから、シロウは本当に空っぽになっ
ちゃった。自分なんかどうでも良くて、他のみんなが真っ平らに全部大切。何
も無いのと同じよね」
 やめろ、と言おうする声を押しとどめる。ここでイリヤを止めても意味は無
い。
「―――昔ね、顔も知らない誰かを助けるために、自分の大切なものを捨てた
人がいたわ。それはそれで本当に酷い話だけど、シロウはそれさえできない。
だって、シロウには大切なものなんて無いから」
 捨てるべき大切な者は、これ以上ないほど完全に亡くしている。もはや喪う
ものは何も無い。自身は最初から勘定に入っていない。
「……士郎は、何になるつもりなの?」
「誰も彼をも救う何か≠ヒ。そんな歪なものを本気で求めてる」
 言って、イリヤは溜息をついた。憐れむように、何かを決意するように。
 何故そんなことが解る、とは訊かない。恐らく自分の知らないところで、士
郎とこの少女の間には何か深い因縁があるのだろう。
「解った? シロウがもし貴女を受け入れたとしても、それは何も変わらない
の。ただ、少し位置が近くなるだけ。シロウにとっては貴女も他のみんなも等
価。―――だから、やめておきなさい。そんな無意味なことは」
「………」
 イリヤの声に嘘は無い。今までの言葉は全て真実だ。
 あまり知りたくなかった真実ではあるが。
 が、それでも、はっきりしていなかった現状が明確に把握できたのは収穫だ。
戦場が解らなければ戦略も戦術も立てられない。
 これまでで最も苦戦を強いられそうな戦場。ある意味、聖杯戦争よりも己の
真価が問われるだろう。
「……ちょっとリン、私の言ったことちゃんと聞いてた?」
 凛の顔を見たイリヤが怪訝そうに尋ねてくる。
 それに対し、凛は胸を張って腕を組み、
「ええ、ちゃんと一言一句漏らさず聞いてたわよ。ありがと、イリヤ」
「………」
 あーあ、という顔でイリヤが肩を落とす。
「何となく予想はしてたけど、逆効果だったわね」
「当ったり前よ。私はそんなんじゃ引き下がらないわ。ひっぱたいてでもシロ
ウを更生させてやるんだから」
 ……まあ、実際はひっぱたいたぐらいでは小揺るぎもしないだろうが。
 ともあれ、不安は解消した。あとは前進あるのみ。なんとしてでも士郎を振
り向かせてやるのだ。
 イリヤが吐息する。
「貴女のそういうところは羨ましいわ。―――でも、それは私の役目。部外者
に横取りなんてさせないから」
 呟きに攻撃的な色は無く、ただ決意と事実を述べる口調。
 凛は、無言でその宣戦布告を受け取った。
 

(To Be Continued....)