それは何の前触れも前兆も予告も予感も無しに訪れた。
 衛宮士郎が遠坂凛と共に時計塔に来てから数ヶ月。魔術師の総本山というだ
けあってか、深山で過ごしていたものよりも刺激的で慌しい日常を過ごしてい
た。個性的な魔術師の面々。トラブル。新しい生活環境。トラブル。凛の厳し
い魔術講座。トラブル。新たなバイト先。トラブル―――思い返すとトラブル
ばかりのような気がするが、それは気のせいではないだろう。
 なにせ。
 士郎の目の前でそのトラブルが起こっているのだから。

 まず目に付いたのは、ピンと尖った耳であった。黒の毛並みは艶やかで、自
己主張の激しいそれに優雅さを加えさせる。
 次いで目に付くのは、ゆらゆら揺れる尻尾。耳と同じ毛色をしたそれは細く
しなやか。所在なさげに揺れる様はそこだけ別の意思の元であるかのよう。

 これが捨て猫の類を拾ってきたということであれば、トラブルと呼ぶまでも
なかっただろう。だが、トラブルと呼ばれるにはトラブルと呼ばれるだけの内
容があるのだ。
 つまり。

「と、遠坂―――?」
「にゃ、にゃによっ、士郎!」

 遠坂凛に猫耳、尻尾が生えていた。




『Felis Catus』

                             10=8 01




 凛いわく、魔術の実験中に失敗したことが原因だとかなんとか。
 たまたま起きて猫を踏み潰す―――なまじいに手を出して失敗する、という
意味の諺があるが、まさに今の猫耳を生やした凛はそれにあたる。彼女の性格
からなまじいに手を出したとは考えにくいが、大方、遠坂家に根付く大ポカ遺
伝子の仕業であろう。
 しかし解らないのが、いったいどんな魔術を実験していたのか、ということ。
魔術師や魔女には黒猫が付き物ではあるが、時計塔の鉱石学科に通っている凛
との接点がまったく見つからない。
 そもそも、何故に猫なのか―――それを問うと、凛はぷいとそっぽを向いて
しまい、

「別に士郎には関係ない……にゃ」
「にゃ?」
「いやっ、そ、その、これは何でもないの! ………にゃ」
「にゃって、遠坂」

 どうも意識せずして「にゃ」と付けてしまうらしい。
 何とか凛は言わないように意識しているのだが、言葉を切っても、やがては
沈黙に耐え切れなくなったように「にゃ」と言ってしまう。
 士郎としては気にならないし、むしろ可愛らしく思うのだが彼女の方はそう
もいかないようだ。ピンと跳ねて自己主張する耳を押さえながら、顔を真っ赤
にして唸る。
 まあ、確かに士郎の主観では猫耳尻尾を生やした凛は非常に可愛らしく映る
が、本人からしてみれば恥そのものだろう。

「可愛いとは思うんだけどなあ……」
「ちょっ、士郎! 尻尾さわるにゃっ!」

 手首のスナップを利かせて猫パンチを繰り出す凛。
 これが可愛らしい見た目と反してかなり痛い。思わず手を離すと、縛から開
放された尻尾が勢いよく毛を逆立たせ、怒りを表現する。

「そんな怒るなよ、減るものじゃないだろ」
「そういう問題じゃないにゃっ! 馬鹿士郎!」
「あー、ごめん……そんな嫌だったのか。無神経すぎたな」

 深々と頭を下げる士郎から凛は顔を逸らすと、どこかバツの悪そうな表情で
ポツポツと呟く。

「その、士郎に触られるのは嫌ってわけじゃないんだけど……突然だったりす
ると困る……にゃ」
「ああうん、解った。…………ん? じゃあ、突然じゃなくて宣言すれば触っ
てもいいのか?」
「調子に乗るにゃ!」

 猫パンチが今度は顔面に襲い掛かる。頑丈さが取り得の士郎とはいえど、や
っぱりこれは痛い。この容赦の無さはやっぱり遠坂凛だった。猫耳、尻尾が付
いても彼女の本質は変わっていない。
 とはいえど、やはり見た目の変化というのは大きい。猫耳と尻尾を付けた凛
が、このまま何事も無く時計塔での生活を続けられるなどとは、そこらへんの
子供でもそこまで楽観視できないだろう。
 凛はこの状況をどうするつもりなのだろうか。

「とりあえず、元に戻る方法探ってみる………っ、にゃ。その間は時計塔の授
業は全部休むから、士郎はその旨を教授たちに伝えといて………っ、っ、っ…
……に、にゃっ!」
「無理して語尾を我慢しなくてもいいんじゃないかにゃ?」
「―――っ!」

 親切心からの言葉もキッと鋭い瞳で射抜かれてしまった。心なしか瞳孔まで
も猫のように針状にすぼまっているように思える。
 ふざけたつもりは無かったのだが、ついつい感化されて語尾を真似てしまっ
たのが悪かったらしい。そりゃ、からかわれていると思うのも当然だ。凛はそ
っぽを向いて不貞腐れてしまった。
 猫にまたたびお女郎に小判―――とは言ったものだが、またたびや小判程度
で凛の機嫌が取れたら苦労しないだろう。
 そもそも、全面的に機嫌を損ねさせた原因は士郎自信にあるのだし。

「すまん、遠坂」

 己の愚を素直に悟ると、士郎は凛の受けている講義を思い浮かべながら踵を
返す。とりあえずは、頼まれごとを果たさないと。

「………………士郎。ありがとう、にゃ」

 ぽつりと、そう呟いてきたのは士郎が部屋を後にしようとした時だった。
 背中に投げかけられた小さな言葉。心地よさを覚え、そっと笑みを刻む。

「伝えに行くには行くけどさ、休む理由は何て言っておく?」
「とりあえず風邪でお願い、にゃ」

 未だに躊躇いがあるのか、突っかかったような語尾。
 了解、と告げながら士郎は再び踵を返すが、急に思いついたように足を止め、
顔だけ振り向く。何か聞き忘れたことでもあるのだろうか、と凛が訝しんでい
ると、やたら真剣そうに悩んだ顔で士郎が一言告げる。

「なあ、ついでにトイレ用の猫砂買って来ようか?」
「さっさと行けにゃっ、この大馬鹿――――っ!」

 容赦の無い猫キックが士郎にめり込む。



 ――――――――――――――――――



 何事も形から。
 よく聞く言葉であるが、どうも宜しくない印象を受ける。上辺だけ整えて中
身を伴っていない、そういうイメージがあるからだろうか。要するに形だけで
なく中身も伴うことが出来れば、その宜しくないイメージも一転するのだろう。
もっとも、そこは本人のやる気次第であるが。
 ただ、形から入る気も無かった人間はどうすべきなのだろう。
 やる気も何も最初から存在しない者が中身を伴うことは可能なのだろうか。
本人の意思に反して形から入ってしまった者に、形と見合った中身を得ること
は出来るのだろうか。本人がその中身を望む望まぬに関わらずして。
 衛宮士郎は、中身を伴うことは可能だ、そう考えている。
 少なくとも、三日間を遠坂凛と過ごしてそれは実感した。

「うにゃあ……うーん、にゃああ……」
「遠坂。紅茶淹れたから一休みしよう。ここんとこ夜中は起きっぱなしだろ」
「ありがと……………ふにゃっ、熱っ」

 カップに口を付けた凛が眉を寄せ、それと同時に揺れる尻尾の毛が逆立つ。
彼女に差し出す前に紅茶の温度は確認したが、どうやらまだ熱かったらしい。
いつもだったら、このくらいの温度は美味しく頂いていた凛だったが猫耳、尻
尾の影響を受けてか猫舌になりつつあった。

「この温度でも駄目なのか?」
「ん……駄目ってわけじゃにゃいけど。ちょっと、熱いかも……にゃ」
「解った、次はもうちょい温度下げる」
「あんまり下げすぎると逆に美味しくなくにゃるから、今のままでも構わにゃ
いけど……」
「―――ごめんな」
「士郎が気にすることじゃにゃいわよ」

 ホットの紅茶は勿論、熱を通した料理も少し冷めるまで待たなくてはいけな
いらしい。冷めてしまうことで味が落ちる料理も少なくはない為、満足な味を
得られずにかなり凛は苦労していた。士郎も冷製ものや冷めても美味しい料理
を作ってはいるが、それでもメニューは限られてしまう為、これまでの三日間
はともかくこれからが厳しくなってくる。

「遠坂ー。飯はどうするー?」
「んー、いらにゃーい」

 ちなみに、料理は凛からの要求で魚主体のメニューに移行。
 あんまりと言えばあんまりにも解り易い食生活の変化であるが、これも中身
の変化として見て取るべきなのだろう。猫=魚食という図式はあまりにも単純
すぎるとは思ったが。
 キャットフードも食べるだろうか。ふと、そんな想像をした士郎だったが、
さすがに食卓にカリカリを並べるような愚挙は行わなかった。魔術師として未
熟者の士郎であっても死に際の見極めくらいは出来る。

「また食わないのか? 昨日から何も食ってないじゃないか……ほれ、今日は
白身魚のカルパッチョだぞー」
「んにゃー、調べてから考えておくから」
「無理するなよ。それで、そっちの方はどうなんだ?」
「解ったようにゃー、解らないようにゃー」
「だったら、少しガス抜きしとけ。その格好恥ずかしくて、外にも出てないん
だろ。疲れてるんじゃないのか……」

 気遣う士郎に対し、凛は手の代わりに尻尾を振って返事する。
 根詰めるのも解るが、食事に手をつけない程に詰めすぎるのはよくない。
 こちらの指摘が効いたのか、それもそうね、と頷くと凛は四つんばいになっ
て歩きながらのろのろとベッドへ向かう。おそらく目当ては干したばかりの掛
け布団に違いないだろう。
 だが、食事も食べずにベッドへ直行というのは、調理をした立場としては少
しばかり寂しくもある。無理して食べろ、とまでは言わないが、出来ることな
らば食べてほしい、というのが本音だ。

「遠坂ー。食事はどうするんだー」
「んー……………今日はいらにゃい……」

 きっぱり言ってくれるのならばまだ諦めがつくが、こう躊躇いがちに言われ
ると何か理由があるのではないかと思わず訝しんでしまう。

 またたびでも使えばどうだろうか。
 ふと思うが、即座に士郎は考えを打ち消すように頭を振った。一昨日、から
かい半分で凛にまたたびを嗅がせてみたのだが、べろんべろんに酔っ払った彼
女の酷い酒癖―――ならぬまたたび癖には頑丈さが取り得の士郎もギブアップ
宣言したほど。
 鼻に無理矢理またたびを突っ込まれる経験など二度と御免こうむりたい。

「猫じゃらしや毛糸玉も用意してあるぞ」
「――――っ」
「ほーれほーれ、こっちこっち」
「…………っ」

 ぴくん、と凛の動きが静止するが、別に怒っているわけではない。
 三日前の彼女であったならいざ知らず、今の猫化した状態ならば嬉々として
飛びついてくる。その証拠に動きを止めた凛からは、眼前の布団とこちらの提
案の拮抗による逡巡の気配が伝わってきていた。
 もう一押しすれば、踵を返すだろう。
 睡眠も必要だが、食事などで気を休めてからの方がいい。士郎は彼女の背中
を押すように優しく一言。

「どうする、遠坂?」
「――――やっぱ、いらにゃい」

 どうも、今日の凛は強情だ。
 怪訝には思ったが士郎はそれ以上、問い詰めようとはしなかった。猫耳、尻
尾を生やした彼女なりの苦労があるのだろう。あまりこちらが意地を張れば彼
女のストレスがさらに積み重なるだけだ。
 のそのそと重い身体を動かしベッドによじ登る凛。
 凛のお尻から飛び出している尻尾も呑気そうに揺れているが、ピンと立って
はおらず、だらんと垂れ下がっている。猫のそれはアンテナのように立てるこ
とでバランスを取っている、というので有名だが、ボディーランゲージとして
感情を表現するものであり、尻尾の垂れ下がりは人間が肩を落として歩くのと
同じことらしい。
 そんな尻尾の様子からも彼女が酷く疲れていることは解る。だが、魔術関係
において未熟者の自分には、出来ることといったら炊事洗濯お掃除くらいだ。
 垂れ下がった黒い毛並の尻尾を眺めつつ、ただただ無力感に浸る―――と、
ぼんやりと尻尾に注がれていた視線が、凛本人の怪訝そうな眸とぶつかる。

「……………………」
「?」

 妙な沈黙。
 思わず士郎は疑問符を浮かべて小首をかしげる。

「………………遠坂?」
「――――――っ!」

 そこから先は早かった。
 士郎がかしげた首を戻すかどうかという一瞬の内に、凛は硬直した体勢から
滑り込むようにベッドをよじ登る。
 あまりの早業に虚を突かれ、目を瞬かせた時にはもう掛け布団の中。
 そして士郎がようやく唖然とした表情を戻した頃になって、ひょっこりと顔
だけを出して凛は彼を窺う。

「見たにゃ?」
「へ?」

 あまりにも唐突な問い。
 それが何を意味しているのか解らず、思わず聞き返してしまう。すると凛は
顔を真っ赤にして、怒ったような、気恥ずかしいような、悩むような、そんな
よく分からない表情をしながら唸ってしまった。

「だからっ! 見たにゃら、見たって言いにゃさいよっ!」
「見たって…………あ! まあ、確かに尻尾は見てたけど?」
「ほら、見てたじゃにゃい」
「そんな尻尾見られるの嫌だったのか?」

 そう言うと彼女は益々、顔を真っ赤にして複雑な表情に拍車をかける。
 こっちはこっちで益々、凛の意図が解らなくなる。
 だから、出来ることといったら不快にさせてしまったことを素直に謝るだけ
だ。凛の口ぶりからして士郎自信に非がありそうであったし。

「ごめんな、遠坂。俺はその耳も尻尾も似合っているとは思うけど、遠坂にと
っては望んだものじゃないもんな。あんま見られてて気持ちのいいものじゃな
いだろう……」
「―――馬鹿」
「へ?」

 予想外の言葉に間の抜けた声が零れる。

「そんにゃこと聞いてにゃいわよ、この馬鹿っ! 朴念仁! 鈍感男っ!」
「ちょっと待てっ! さっきからワケ解らないぞ、遠坂。正直、俺にはお前の
意図がさっぱりわからないんだが……もうちょい、くわしく言えないか?」
「む、無茶にゃこと言わにゃいでよっ!」
「いや、さすがに無茶ってことは無いだろう」
「スカートの中を見たかどうかにゃんて、恥ずかしくてくわしく言えにゃいわ
よっ!!」
「―――――え?」
「―――――あっ」

 遠坂凛、自爆。

 確かにスカートの中身のことなんて詳しく聞けたものではない。だが、士郎
から言わせてもらえば、もしスカートの中が見えていたら誤魔化しなんて出来
るはずがない。きっと最初の尋問で素直に認めていただろう。
 そんな士郎の性格も思い出せず、勝手に自滅してしまった凛は真っ赤な顔を
さらに真っ赤にして枕に突っ伏してしまった。あまりの恥ずかしさに脳天から
ぶすぶすと湯気が立ち込めてもおかしくない。

「…………………」
「…………………」

 また再び、気まずい沈黙。
 先程は士郎が理由を解していなかったが、今度は二人とも理由が解っている。
それだけにどちらから切り出すことも出来ず、沈黙から先に進まない。
 何を話すべきか。
 何を話しても気まずさが倍増してしまいそうで、言葉が出てこない。食事は
どうだろうか。今日は、新鮮な魚をふんだんに使った―――そこまで考えたと
ころで頭を振る。駄目だ、魚は猫を連想させてしまう。
 などと頭を抱えていると。

「あーもうっ、何にゃのよ! 調べてみてもちっともはかどらにゃいし、身体
はだるいし、自滅するし、士郎は朴念仁だしーっ! もー、嫌っ。自己嫌悪ー。
最悪ー。んにゃあああっ!!」

 酷い癇癪を起こした凛は布団の中でジタバタする。
 その気持ちも解るが、普段の彼女らしからぬ動向に士郎は戸惑ってしまう。
いつもだったら士郎をからかってもおかしくはないのに、そんな素振り一つ見
せない彼女。からかわれれば当然、憮然としてしまう士郎であったが、からか
われなかったらなかったで違和感を覚えてしまう。
 だが、からかわなかったのはともかくとしても、平静を保てずに癇癪を起こ
してしまうのは、遠坂凛に似つかわしくない。もし癇癪を起こしたくても、彼
女だったらしっかりと自制しているだろう。
 それすら出来ない程に、余裕がないということなのか。

「おい、遠坂……もう少し落ち着け、らしくない」
「………………うん、ごめんにゃ」
「遠坂。何か無理してるんじゃないか? 此処のところ、大変なのは解るけど。
そうやって溜め込むのはよくないぞ」
「む…………」

 士郎の言葉に圧されるように、凛が息を詰まらせる。
 彼女自身、自制が利いていないことを自覚しているのだろう。
 覗き込むような士郎の視線から、バツが悪そうに自身の視線を逸らすと頬を
染めながら思案の表情へ。言おうか言うまいか。そんな戸惑いを湛えたまま、
彼女はゆっくりと上目使いで士郎を見上げる。
 頬を赤くし、どこか言いづらそう。
 だが、それでも決心した凛は口を開いた。そして、そこから聞こえてきたの
は、士郎がまったく予想もしていなかった言葉だった。

「あのね、士郎……………わたし、発情期にゃの……」



 ――――――――――――――――――

(To Be Continued....)