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 連れ込まれて、ふたり
                       阿羅本 景

 
 情けない話だけど、保体は見学、というのが俺のセオリーだった。
 いや、最初から見学するのではない。有彦とかと一緒に運動場や体育館に出
て、途中まで運動して、おもむろに倒れる。

 「せんせー、遠野が倒れましたー」「またかー、乾、日陰に下げとけー」
「えー、また俺ッスカー」という、俺が倒れることを前提とし、そしてその事
になんの疑問も抱かないクラスの心ない言葉を聞きながら、俺は貧血の症状で
ぐるぐると世界を回転させながら倒れる。

 身体弱いんなら無理するな、というのがしょっちゅう言われるが……如何に
も虚弱体質です、という顔をして一人ぽつーんと日陰にいるのは何とも耐えら
れない。こんな大怪我を抱えているけども、一応は人並みに運動してみたいと
思うわけだし。
 まぁ、炎天下だとこれで口実着けて見学していることはあるけども。

 トラックの短距離とかならまだしも、サッカーとか中距離走とかになるとが
くっと脱落率は高くなる。瞬発力はあるけども持久力皆無の俺の悲しさだ。
 これが格技の授業になるともうアウト。俺のクラスはあの生物兵器どころか
ネロに投げ付けても倒せそうな概念武装と化した体育共有の胴着を着ける剣道
ではなく、洗わないと恐ろしいことになるけどもまぁ、なんとかスタート時点
は恵まれている道着の柔道だったが。

 また俺は倒れていた。
 道場の板塀に背中を着けて、はぁはぁと荒い息を付きながら脂汗を流している。
 今日は柔軟と受け身と畳運動と技の訓練を受け、打ち込まれているときにア
ウトになった。有彦は俺を大腰で投げたあとの気味の悪い手応えに気が付いた
に違いない。

 で、気が付くとこうやって足を投げ出して、座り込んでいる。
 これほどに無理の利かない身体が悔しい――秋葉の奴のこともあるから、俺
のことは何ともしにくいんだろうけども。

 俺は冷や汗を拭うと、腕に力が入るかどうか確かめる。
 ショック性の忙しない息は収まり、動悸も感じなくなってきた。目眩も感じ
ずに大分旧情を快復しつつあった俺は、ふらつきながらも立ち上がろうとするが――

「おい、遠野、無理するなよ」

 何となく他人の感触みたいな青畳を足の裏に感じる俺に、体育教師が振り返
ってきた。
 まぁ、黒帯も似合う背は低いが首の太い、鬼教師の一人だったが――さすが
に2年も倒れ続けている俺のことはすでに理解できていると見える。
 俺はバランスを取りながら立ち上がると、軽く頭を下げる。

「大丈夫ですから」
「……オマエのその顔を見て大丈夫だって言う奴はおらんよ。もう半分過ぎた
から先に着替えて保健室に行け、遠野。乾の手がいるか?」
「あー……大丈夫です。すいません」

 柔道場はあたかも乱取りの最中で、乾のトサカ頭はこの中でもよく目立つ。
気勢を上げて背負い投げを仕掛け、逆襲を食らって吹っ飛んでいくのが見える。
 うむ、あいつは元気そうだからさすがに今ばっかりは手を患わせるのは……

「すいません、じゃぁ……失礼します」
「おう!」

 俺は深く一礼すると、柔道場の喧噪に背中を向けた。
 やれやれ、またこんな事になって俺は体育の単位取れるんだろうか、とか一
抹の不安を感じながらもおれはふらふらと歩く。

 柔道着が汗に湿っていく。
 俺の体の中から水分が失われていて、喉が水を欲していた。カラカラに干上
がった喉には、今ならダムの水でも流し込めそうに感じられる。

「水飲み場……いこう……」

 俺の足は更衣室ではなく、運動場に面した水飲み場に向かっていた。
 一人っきりで水飲み場を独占するのは気が引けなくもないが、まぁ病弱人の
特権という奴だろう。靴を引っかけて校庭に降り、水飲み場に向かう

 秋の柔らかい日差しの中、運動場では一年の女子がトラックにいる。
 ああ、いいねぇ、女子は目の保養だ……この学校にはまだブルマが残ってい
るだけあって。
 ……そんなことはどうでも良い。水、水……

「うぅ……あ、ぷはぁ」

 蛇口を捻って俺は白く吹き出る水道水に口を付ける。
 普通ならカルキ臭い水道水も今ばかりは甘露に思う。息着く暇もなく喉に胃
に水を流し込んで、ついでに眼鏡まで外して顔を洗い、水の冷たさ心地よさに
酔いしれる。

 ああ、一息ついたと俺は差し出されたタオルで顔を拭くと眼鏡を――

「な?」

 俺は眼鏡を直すと、今自分が顔を拭いたタオルをまじまじと眺める。
 ……なんで俺はタオルを持って居るんだ?差し出されたタオルと受け取った
のは覚えているから、一体誰がそれを差しだしたと言うことか。じゃぁ、誰が?

 俺の疑問は、その直後の声で氷解する

「……兄さん、お加減が悪いのですか」

 俺はその声に顔を向ける。鈴が鳴るような美しく聞き慣れた声。
 俺の視線の先には、秋葉が俺を覗き込んでいる。
 ああ、秋葉の姿は……体操服姿だった。

 ぶるまからすらりと伸びた足とソックス。
 半袖の白い体操着とむき出しの二の腕、首筋。
 ああ、なんか……いいなぁ、体操着って。お兄さんは嬉しいよー!

「何にやけているんですか?兄さん」
「えっ、いやその……秋葉、お前どうした」

 つい緩む頬をタオルの中に隠して尋ねると、秋葉は少し機嫌を損ねたように
拗ねて腕を組み合わせる。じろっと俺の顔を見つめると、いつもの秋葉らしい
毅然とした声になる。
 体操着でも、中身は秋葉そのものってわけね……了解了解。

「私も体育の時間だったんです。でも兄さんが道場棟からふらふらと出て来た
ので一体どうしたのかと思って……」
「というか、まだ授業中じゃないのか?お前の方も」

 俺も眉をしかめながら言うと、秋葉はうっすらと笑った。自信満々の笑顔。

「私が中座しようが早退しようが、問題ではありませんわ」
「早速、政治力全開かよ……」
「それはともかく、兄さんはどうされたのですか?」

 俺の愚痴をあっさりと聞き流す秋葉をまえに、首筋と胸の汗を拭う。
 中に吹き込む風が涼しい……とか考えていると。

「あ……もう、兄さん……」

 秋葉は俺を、胸の辺りを見るとぽっと顔を赤らめて顔を伏せる。何が一体起
こったのかと思って俺の身体をみると……帯が緩んで俺の胸元から臍の辺りま
で、だらしなく開いていた。
 大きな傷跡が赤黒く残る胸。それに秋葉は見てしまって……

 俺はそそくさと帯を締めて胴着の衿を直すと、なにやら恥ずかしがっている
秋葉の今の隙に説明を試みることにした。今ならなんとか反撃はなさそうで。

「いや、柔道の時間で気分悪くなってな、先に出て来て喉乾いたから水飲んで
たわけで……まさかお前がここにいるとは思わなかったし」
「兄さん、また具合が悪いのですか?」

 秋葉が心配そうな眼で俺を見つめる。
 いつもは高慢と余裕を見せている秋葉も、とみに俺の体調のことになるとこ
んな可憐な瞳を見せる。嬉しくもない体力不足だが、こんな顔を見られるなら
悪くもない。
 俺はタオルを弄びながら答える。

「大したこと無いから……心配するな」
「兄さん、そんなことを言っても」

 秋葉はもじもじと俺を前にしているが、顔を上げて――凍り付いた。
 後ろから静かな足音がする。俺がゆるりと後ろを振り返ると。

 ちち。
 こう、体操着の下からばーんと盛り上がるような大きな胸が目に入る。
 さらにブルマから伸びる足はむっちりとお色気一杯であって、むちむちむち
むちと俺の目から入り込んで脳裏に染みる。
 秋葉はブルマに体操着をきちりと押し込んでいるが、ここでは敢えて裾を出
して股間の部分にちょっと紺のブルマが覗き、まるで下に何もを着ていないよ
うないやらしさ一杯を感じる。こう、たらっとした崩れた感じがなんとも危う
くそそる。

 秋葉の体操着が野菊のような感じだとすると、この肉感たっぷりの体操着は
息が詰まるようなフランス香水のような、健全さを遥かに超えたいやらしさと
いうか。
 そう、ショートカットに眼鏡の先輩が俺の後ろから歩いてきていた。

「遠野くん、ジュードーギでどうしたんですか?」
「というか、シエル先輩も……まだ授業中じゃないの?」

 体操服の先輩は俺の傍らまで来ると、ふふふとおかしそうに笑う。
 だが、その笑いを聞くと何か――俺のもう片方にいる人間の機嫌が見る見る
悪くなっていくような気がする。
 まるで俺は天秤の支店にいて、その両脇に秋葉とシエル先輩が居るみたいな。

「私にはあんまり授業は関係ありませんので、心配しないでも大丈夫です」
「……秋葉みたいなもんだな」
「こんなニセ生徒と一緒にされては不快です、兄さん」

 顔を返すと、腕を組んで秋葉ならではの不機嫌モード突入の、口元を歪めた
表情がある。そして眼を俺から、憎々しげに先輩に注いだ。
 ……なんでいきなり秋葉と先輩の対立が、こんな授業中に始まるんだか。そ
もそも秋葉は1年で俺は2年、先輩は3年なのに。

 わからない。
 先輩はにっこり笑っているが、なんとなく表情に不純物が混じっている様な
気がする。
 挑戦を受けて笑って挑発する、というのがメインだけども、なんというのか……
靴の中に棘でも入っているみたいに何かに気を取られているみたいな
 
 俺はゆっくりとタオルを握り、先輩と秋葉を交互に眺める。
 秋葉は腕を組んでご機嫌斜めの様子、先輩は……すこし崩れているが余裕の笑み。
 どうなるのか、このままとはらはらする俺の前で……

「ニセ生徒とは遺憾ですね、秋葉さん。時に遠野くんはどうして授業を……」
「え、まぁ、いつものことで体調不良早退ってやつで……」
「いけませんね」

 先輩は眉根を寄せて、俺に心配そうに話しかけてくる。
 いや、先輩にそう言われるのは有り難いんだけども……俺に注意が向くと秋
葉のピリピリと感じる警戒と敵意が多くなるわけであって。
 激しく動く天秤棒の上でバランスを取る思いの俺を知ってか知らずか、先輩
は俺の袖を握る。木綿の厚布のそでがくいっとひっぱたられたかと思うと……

「具合が悪いのなら保健室に行きましょう、私が連れていって上げましょう」
「いや、その……」
「ご心配頂かなくても結構ですわ、シエル先輩。兄のことは私が面倒を見て差
し上げますから」

 反対側の袖もぐいっと引かれる。こっちは秋葉だ。
 秋葉は顎を引いて、上目遣いだが触発寸前の危険な瞳の色をしている。なに
しろその視線の中間点にいる俺ですらビクビクしてしまうほどの。

「いえいえ、秋葉さんは1年の授業中でしょう?それに毎日遠野くんの面倒を
見ているのですから、今日くらいはこのシエルおねーさんに任せておいて下さい」
「せっかくのお言葉ですが……兄さんは遠野家の者です。遠野の人間は遠野の
人間で世話をすべきであると古来から伝わっている家訓ですので」

 両側からぐいぐいと腕を引っぱられる俺。
 これは――両手に花。じゃなくって大岡裁きかなにかだ。
 二人は俺を挟んで、視殺線を繰り広げている。二人の間は一触即発で俺がバ
ランスをどこかで崩すと取り返しが着かないことになりそうなほどの。

「ほぉ……遠野くんの具合を良くする方法も色々知っているのですけどね」
「あら、私と兄さんは一心同体ですのよ。兄さんのことはあなたのような得
体の知れない馬の骨よりもこの私が一番良く存じていますので」

 ばちばちばちばちと、火花が散る音がしている。
 先輩と秋葉の後ろに、湯気のようなオーラが立ち上っている様に見える。
片や埋葬機関の戦闘員、片や遠野一族の鬼種、お互い相手に取って不足はな
い。

 問題は、その間に俺が居ることと
 ここが学校の校庭であることであり――

「秋葉、先輩……」
「兄さん、これはそもそも兄さんが……」
「遠野くんはゆっくりして下さい、すぐにイイトコロに連れていって上げます
から」

 俺は敢えて大げさに咳払いをしてみせる。
 二人の視線が俺の顔に刺さり、心臓がばくばく言い出す。まったく倒れてか
ら少し調子が良くなってもこんな、体に悪いことが続くと保たないぞ……

 注視の中で俺は、敢えて言葉を切り出す。

「こんな校庭で、俺の腕を先輩と秋葉が抱いているのを誰かに見られたら……」
「………構いません、私と兄さんは兄妹なのですから!」

 一瞬はっとした顔を見せた秋葉だったが、ぎゅーっと俺の腕を抱き込んで赤
い頬でそう叫ぶ。女の子の胸に当てられるのは嬉しいんだけども、秋葉の胸は
こう……やっぱり物足りないかなぁ、と贅沢に思ったり。

 だが一方のシエル先輩は、なにやらしたり顔で頷く。
 すぐにいつもの飄々とした笑顔――だけども、何となく別のことを考えてい
るような顔で俺に話しかけてくる。

 ――先輩の唇が、なぜかどきっとするぐらい艶めかしく綻んだ。

「……何を見とれているんですか、兄さん」
「え?そんなことはないけども……」
「そうですねぇ、ここにいるともうすぐ終業で人が通りますからね……場所を
変えますか」

 ……先輩の様子は何となく割り切れないが、秋葉よりも頭に血は昇っていな
いようだった。ほっと胸を撫で下ろす俺は、腕を抱き込んでいる秋葉を引き寄せる。

「わかった、じゃぁとにかく体育館の裏かどこかに……」
「に、兄さんがそう仰るのならば……そこでこの女と決着を付けます!」
「……では、こっちに来て下さい。遠野くん……」

 俺は先輩に腕を引かれ、秋葉をぶら下げながら歩き出した。
 まだ――これだけやっても誰の注目も引いて居なかったことにほっとしながら。
 だが、これから先にどうなるかがわからない――

                                      《つづく》