錯乱の扉

                       何鹿



 「それでは、わたしはこれで失礼させていただきます」
 頭を下げる翡翠に、ベッドに腰掛けた志貴が答える。
「うん……。見回りの途中に引き留めて悪かったね」
「いえ……」
 翡翠が廊下に出ると、立ち上がった志貴が声を掛ける。
「翡翠」
「はい」
 扉の前でもう一度向き直った翡翠の肩に、志貴は手を添えるとそっと口付けした。
「おやすみ、翡翠」
「……はい。では、お休みなさいませ……」
 志貴の声を受けて頭を下げ、静かに扉を閉めた。
 翡翠は扉の前でもう一度服を整えてから、廊下を歩き出す。廊下は暗く、空気は冷
たく、床の敷物で足音も響かない。翡翠と、窓から射し込む月の光が足下に落とす影
だけが動いている。

(少し長居をしすぎてしまった。もうすぐ姉さんが起き出してくるだろし、鉢合わせ
てしまったら、あまりばつが良いとはいえない)

 頬に手をやる。普段よりもまだ熱い様な気がする。冷たい空気に晒されてもまだ火
照っているだろうか。こんな顔を見られれば酷く揶われるだろう。あまりばつが良い
とは、いえない。
 翡翠は立ち止まり、窓に目をやる。月明かりに照らされた白い顔が、黒い木々を背
景に写っている。窓に近付き、顔を寄せると、遠野の屋敷を取り囲むように立ち並ぶ
木々が見えた。
 ついこの間まで、この森と屋敷だけが翡翠の世界だった。屋敷、森の外側にも世界
が在ることは知っていたが、それは実感を伴わないただの知識でしかなく、翡翠にと
っての世界とはやはり遠野の屋敷、その敷地だった。
 それを変えたのが8年ぶりにこの屋敷に帰ってきた遠野志貴だった。彼が妹であり
現当主の遠野秋葉によって呼び戻された日から、より正確には前当主である遠野槙久
の死から、この屋敷という世界は大きくそして目まぐるしく変わった。今では屋敷の
外の世界を知識としてだけではなく知っている。以前は思いもよらなかったことだ。
それ以上に、志貴と体を重ね琥珀の復讐を止めることになるなど、全く思いもしなかっ
た。遠野の血に囚われていた姉の琥珀も、主の秋葉も、志貴の存在によって救われた。
 指先で唇に触れると、先程の柔らかい感触が思い出される。
 幼なじみであり自らの主である志貴と睦む仲になっても、生活そのものは以前とほ
とんど変わらない。仕えるべき人が志貴と秋葉の二人だけになったとはいえ、使用人
は姉の琥珀と二人だけ。メイドとしての仕事は相変わらず忙しく、変化といえば頭を
悩ます対象が逗留していた親戚筋から時折志貴を訪ねてくる美女の二人になったくら
いのものだろう。
 質の悪さという点から言えば親戚筋と同じ様なもので、或いはより悪いかも知れな
い。何よりも彼女たちの来訪の目的は志貴なのだから。窓に映る顔の眉根が寄せられ
ていく。

(志貴さまも、あの方々にもう少し強く言って下さればよいのに。そうすれば、こん
なに不安な気持ちになることもないのに)

 そう考えて、翡翠は自分が如何に志貴を好いているのかを改めて思い知る。こんな
ことは以前の生活にはなかった。例え心煩わされることが多くなったとしても、この
気持ちがあることはとても嬉しいことだ。窓に映る顔が綻ぶ。騒がしくはあるが、気
の置けない大好きな人達との生活、今までは感じることのなかった安らぎは、幸せと
言っていいのだろう。翡翠は窓から離れる。
 幸せであるということを知っているということは何よりも幸せなことだろう。廊下
を歩きながら、翡翠はふとそんな事を思った。
 志貴の部屋のある東館を一通り周り終え、ロビーの階段を下りて自分の部屋のある
西館へ。西館に入ったところで、月明かりだけの薄ぼんやりとした廊下の上に、強く
細い光が落ちているのが見えた。

(姉さん、もう起きているのかしら。見つからないようにしないと)

 光はやはり、琥珀の部屋から漏れているようだった。細く開いたドアの隙間から時
折色を変える光と共に、囁く様な音が漏れてくる。

「……ぃ…………ゃ……っ…」

 テレビでも観ているのかしら。そう思いながら、足音を忍ばせて琥珀の部屋の前を
通り過ぎようとした翡翠の耳に扉の隙間から声が届く。

「……ひ……すい…………ちゃ…………」
「っ……」

 体が跳ねて、思わず足が止まる。

(……見つかった?)

 掛けられるであろう声を予想してしばらく身を固めていた翡翠だったが、漏れてく
るのは意味を為さない微かな物音だけだった。ふっと息を吐き、離れようとした翡翠
に再び声が聞こえる。歩き出そうする姿勢で再度固まる翡翠。

(やっぱり見つかってる? でもそれなら、姉さんから声を掛けてきそうなものだけ
れど)

 待てどもいっこうに部屋の中から次の声が来ない。聞こえてくるのは先程からの微
かな物音だけが聞こえてくる。

「……………………ひすい……ちゃぁ…………」
「……?」

 はっきりと聞こえた琥珀の声。しかし翡翠は返事をしようとして首を傾げた。

(わたしが居ると知れば声を掛けてくるに違いないのだろうけれど、それにしては声
の調子がおかしいような)

 翡翠は少し迷ったものの扉に近づき隙間に顔を寄せる。ドアノブに手を掛けた翡翠
の目に部屋の様子が映る。明かりの消えた部屋の中でそこここにならぶ小物類が、ブ
ラウン管の暗い光を受けて色を変える部屋の、その真中に置かれたテーブルの上に白
い影が浮かんでいる。その影が身じろぐ度に、微かな水音と吐息が翡翠の耳に届く。

「テレビの音じゃない。姉さん、何をして……?」

「ぁ…………はぁ……は……」

 ブラウン管の色が変わり、部屋が明るく照らされる。

「っ!」

 テーブルに伏せている琥珀の体が、押しつぶされた双丘の上で揺れている。体の下
から両腕が宙に突き出された腰に回され、股の上で両手が動く度に磨り合うような水
音が響く。俯けられた顔が左右に振られ、その都度琥珀の口から溜息にも苦悶にも取
れる息が吐き出される。

「は……はぁ……は……ぁ」

 秘部に添えられた指が音を立ててその表面を撫で、中を掻き、口を開ける。指の動
きに支配されたように太股を震わせ、体が踊る。光に照らされたその顔は、目を潤ま
せて、時々耐えるように歯を食いしばらせ、そして大きく息を吐く。

「……はぁっ……っ…………はあぁっ……」

 翡翠は一人痴態を晒す姉の姿に動くことができなかった。無論姉は自分と違い、こ
ういうことに聡く経験も多いということを知ってはいた。しかし、姉が自らを慰める
様なことをするとは、想像だにしていなかったのだ。
 初めて見る姉の嬌態から、翡翠は目を離すことが出来なかった。

「はっ……はっ……はっ……」

 徐々に琥珀の息遣いが早く、股に差し込まれた手の動きも段々と荒々しくなってい
く。翡翠の耳に粘り気のある水音が届いてくる。

「ひすいっちゃん……ひ……すい……ちゃ、んっ」

 自分の名を呼ばれ、翡翠は愕然とした。

「姉さん、どうして、わたしの、名前を」

 琥珀は体を震わせると弓なりに仰け反らせる。

「はっぁ……あああぁあっ」

 絞り出す様な嬌声の後、琥珀は上半身を投げ出す。照らされた唇が戦慄く。水音は
既になく、荒い息遣いしか聞こえない。
 琥珀がテーブルに突っ伏した拍子に、テーブルの上に置かれた小瓶類が打ち合い高
い音を立てる。その音で翡翠は我に返った。

(とにかく、ここを離れないと)

 琥珀から無理矢理視点を外し、扉を離れようとした翡翠の目に、今も色を変えて写
り続けているブラウン管からの光が投げ掛けられる。
 二つの裸体、目に入ったのはそれだった。女が男に組み敷かれている。白いシーツ
の上、互いの手に指をからませ、男の動きに切なげに歪ませた女のその顔は。
 翡翠は隙間から顔を離すと、扉の横の壁に背を押し付ける。壁に立てた爪が音を立
てている。口から隙間風の様な音が聞こえる。心臓の鼓動のせいで、うまく息が出来
ない。

「……姉さ……ぅして……ぁんな……」


(組み敷かれている女の顔は確かに自分の顔をしていた。
 ここを離れないと。
 どうして姉さんがあんなもの。
 早く離れないと。
 どうしてわたしの名前。
 早く! 早く!!)


 壁から身を引き剥がし、自分の部屋に向け足を踏み出した時、翡翠の腕が掴まれた。
どくん、と心臓が跳ねる。駆け出そうとした姿勢のまま、体が凍る。手首を掴んでい
るのが誰か、考えるまでもなく解っている。

それでも、振り返るのが、怖い。

 翡翠はゆっくり顔を巡らせて掴まれた自分の手首を見る。黒いメイド服の上に白い
手が浮かんでいる。ゆっくりと視点を上げると、白い腕が細く開けられたドアの隙間
から伸びている。その上に、眼を細めて笑う能面が半分だけ顔を覗かせて浮かんでい
た。


(第1話──了)

                                      《つづく》