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 お返しはたっぷりと
                    阿羅本 景




 何の因果か、同じ屋根の下に住んでいる人間と、待ち合わせをすることになっ
ている。
 俺は映画館の前で腕時計を見て、時針と秒針を確かめた。11:30、待ち
合わせの時間に間違いない……が、待ち人至らずと言う所だった。

 煉瓦調の外壁タイルの壁に背中を預け、俺は町の中をぼんやりと見つめる。
 行き交う人々の雑踏と、不連続に続く町のざわめき。誰も誰かを見つめてい
ながら、誰もが誰もを見ない町の中。俺がこうやって待ち合わせをしているの
も「一つの光景」であって、遠野志貴という人間が何かを待っていると見てい
るものはないだろう。

 俺という風景を誰かが観察し、初めて俺はこの町の中の一つのパーツとして
機能する。
 だが、誰が見ているというのだろう?町という存在が俺を見ているのか?

 ……黙って町並みを眺めていると、そんな訳のない妄想じみた思いに駆られる。
 眼のせいかもしれない、この眼鏡を外せば光降り注ぐ町は一瞬にして死と生
の皮相に彩られる。その薄さと脆さを知っていれば、なにが本当に本物なのか
を考えたくもなる。死の世界の向こうには灰色の渦巻く何かがあり、それは……

「あれ?遠野くんじゃないですか?」

 誰も俺を見ていないはずなのに、誰かが俺を見つけだした。
 これで俺は町の中の一つの部品から、一人の遠野志貴という人間として存在
できる……ああ、なにを俺は考え続けているのだろう?

 俺は顔を上げて、声の方を見つめた。
 そこには、ベレー帽を頭の上に乗っけたシエル先輩が立っていた。歩道の真
ん中に立ち止まって、俺の方を見つめている。

 眼鏡の向こうの瞳は偶然の出逢いに驚いていたみたいだが、すぐにすーっと
細くなる。
 俺が壁から背中を離して先輩に挨拶しようとするより早く、先輩の声が聞こえた。

「遠野くん、気分が悪いんですか?」

 心配そうな、というよりも何かを疑っているようにも見える瞳。
 俺はよっぽど人待ちの間にひどい顔をしていたのか――先輩に心配にさせる
ほどの。俺は何とか機嫌を直したように頬を緩ませると、先輩に歩み寄る。

「いや、そんなこと無いけども……どうしたの?」

 膝丈のスカートにジャケット姿と、私服の先輩が俺の姿をじろじろ見ると、
軽く腰に手を当てて俺に諭してくる。ただ、先輩も緊張を解いたらしく、困っ
た生徒に話しかける先生みたいな印象がある。

「もう、遠野くんったら死にそうな顔で町中を睨んでいたから、一体どうした
のかと不審に思いましたよ。人待ちだったらもう少しそわそわした顔をしてても
いいんじゃないんですかね?」
「そうか……いや、すまない、先輩」

 俺は苦笑する。まぁ、普段から異様に深刻そうな顔になるか、正体が抜けた
ようになるのはやめた方がいいと志貴や秋葉に言われるけども……こればかり
は気が緩むとこうなるから仕方ない。
 先輩はそっと口元を緩めて笑うと、俺の方に一歩近寄った。

「いや、待ち人来たらずでね……すっぽかされる心配はないけども、まぁ不安
だったかそんな顔になってたのかも知れないね。で、先輩は?」
「私ですか?今日は休日で久しぶりにぶらぶらと……で、遠野くんは誰と?」

 さて、待ち合わせの相手を先輩に告げるべきか。
 いやちょっと、と言って誤魔化すのが良いのかも知れないけども、そうなる
と何かものすごく疚しいことをしたみたいで後で突っつかれるかも知れない。
かといってその名前を口に出すのは先輩にとっては穏やかじゃないかも知れな
いし……

 ――アルクだったら、そうも行かないけども

「まぁ、その、珍しく外で待ち合わせたいって……秋葉の奴が」
「へぇ……秋葉さんですか……ほぉ」

 先輩の声は驚いたようでもなかったけども、何となく警戒を感じる。
 それはそうだ。秋葉と先輩の中は良くない、良くない理由というのも秋葉が
『生理的に好かない』と明言するぐらいだ、兄貴としてもいかんともしがたい
ものを感じる関係だ。

 俺は手を胸元で舞わせて、なんとか説明の言葉を探す。

「ああ、その、俺の方も書店とかに用があって、秋葉も午前中に仕事があった
らしくて午後からその……」
「デートですか、ほぉ、デート、いやいや、兄妹仲睦まじいことですねぇ」

 訳もなく慌てる俺に、先輩はとぼけた笑いで応えてくれた……心臓の奥で
ぎゅーっと筋が引き締まるような苦しさを引き起こさせるかのように。
 いや、その、先輩には俺と秋葉の関係は……いや、その清い関係とは言えな
いけども秋葉と俺はシエル先輩と俺に等しいぐらいだから、よもや……。

 ハンカチを取り出すと額を拭い、俺は先輩の誤解を解こうと……

「で、デートだなんてそんな、時々出掛けて買い物とかを一緒にするぐらいで」
「遠野くん、では男の子と女の子が時々出掛けて一緒に買い物などをするのを
デートと言わずして何というのですか?」

 ……いや、その、なんと言うんでしょうかね?先輩?
 俺の言葉が口の中で空回りしていた。いつの間にか俺が待ち合わせのことを
忘れて先輩とのやり取りに夢中になっていた瞬間……

 シュッ!

 先輩の右腕が鋭く跳ね上がった。
 視界の中を、黒い物体が飛んだ。
 それは風を切って先輩めがけて――

 パシッ!と言う音と共に、先輩の顔の前にかざした手には――
 カゴメのトマトジュースの缶が握られていた。

「…………!」

 遅れることコンマ数秒で、俺は息を飲んで振り向く。
 先輩とは逆の、缶が飛んできた方向に。
 案の定、そこには……

「シエルさん?私の兄さんを苛めて遊ぶのは止めていただけますか?」
「……秋葉……ぁ?」

 シエル先輩に缶を投げ付けるのは、秋葉ぐらいしかいない。
 アルクェイドだったらもっと殺傷力があるものが飛んできた事だろう。前に
先輩めがけてこぶし大の石をマッハ2で投げて、文字通り吹っ飛ばした光景を
見たことがある位だから。
 ……あれぐらいのパワーがあれば、バスだって吹っ飛ばせたことだろう。

 俺は秋葉がそこに居ることを予感していた。
 だが、ロングスカートとブラウスのいつもの秋葉の姿を予想していた俺は、
裏切られた。

「……ぁ?」

 ミニスカートだった。

 秋葉がナイフプリーツのミニスカート。それも黒いニーソックスで、スカー
トとソックスの間のいわゆる『絶対領域』がまぶしくすら見える、秋葉の初め
ての姿。
 いつもはお嬢様にしては野暮ったい服装の秋葉がこんな恰好でやってくると
は、神ならざる我が身はいかにして予期しようや、いやできまいと思うほどに。

 思わず俺は、先輩のことも忘れて秋葉に見入っていた。
 秋葉は足を踏ん張って先輩を睨んでいたが、俺の視線に気が付くとぱっと膝
を閉じる。

「ぉぉぉ……おおおお……」
 
 すらりとした秋葉の脚線美をお日様の見るのは初めてだったし、秋葉もここ
まで人目に晒すのは初体験だったんだろう。膝を寄せるようにして立つと、伏
し目がちに俺を見つめる。
 ロングヘアとヘアバンドは変わりなかったが、今日はその黒髪の長さすらも
身体の細さを引き立てる様に俺の目には映っていた。

「に……兄さん、なにをじろじろ見ているんですか?」
「い、いや、その……そういう恰好のお前を見るのは初めてだったから」

 偽らざる答えであったが、無礼ではなかったはずだ。
 腕の細さも足の長さも普段より感じる秋葉に、俺がとまどいを感じていると――

「はぁ、秋葉さん、やればできるんですねぇ」

 俺の後ろから飛んでくる、無遠慮そのものの批評。
 もちろん、この町のギャラリーがそんなことを口に出せるはずはない。出し
たら秋葉の手前、日が暮れる頃には生まれてきたのを後悔するような羽目に合
うこと請け合いだ。
 その声が突き刺さると、秋葉は片眉をぴくん、と跳ね上げる。

「……一体何を仰いたいんですか?シエルさん」
「それはこっちの科白でもあるんですけどね、いきなりこんなもの投げられれば」

 俺は振り返って先輩を見つめる。きっと、俺の顔色は紙のように白くなって
いたことだろう……この町中での一触即発の状況では。
 先輩は片手でトマトジュースの缶をぽんぽんと掌で弄び、笑ってない笑いで
秋葉を睨んでいる。

 うわぁぁ……いきなり出会い頭からこんなに険悪じゃなくてもいいじゃないか……

「あら?シエルさんだったら大丈夫だと思って投げましたのに」
「確かに私じゃなかったらダメだったでしょうね。そんなに私が遠野くんとい
ることが気に入らないんですか?秋葉さん」

 俺が秋葉を見ると、こちらは――自信満面で笑っていた。

「ええ、もちろんですわ。だって、兄さんは遠野家の、引いては私のものですから」

 ……もし俺に叫べる喉があれば、オーマイガー!と叫んでその場で跪いて天
に祈りを捧げたことだろう。というか、祈りを捧げる先が先輩の信仰のそれと
同じかどうかは保証の限りではないけども。
 ざざざーっと顔色を青くしながら、俺は脂汗にまみれて忙しなく首を動かす。

「あら、遠野くんが秋葉さんのものだったら、そんな勝負衣装でデートしなく
ても良いじゃないんですかね?その恰好、あなたの心の余裕のなさの現れかも
知れませんよ?」
「……そう言うあなたも、そのおめかしで兄さんを横からかすめ取るおつもり?」

 秋葉はすたすたと俺と先輩の方に歩み寄ってくる。 
 でも、ミニスカートのせいかいつものように大股で突き進むような迫力はな
い。確かに走ればスカートの中が見えてしまうかもしれないぐらいだし。

 秋葉の挑発に、嘲弄を持って答えとするシエル先輩。
 片手でトマトジュースのプルトップを開き、まるでビールみたいに一気飲み
してぽい、と缶を挑発する様に放る。
 両方とも引く気は、ない。

「ふぅん……それも良いかも知れませんね?」
「ああ、せ、先輩、そんな……売り言葉に買い言葉は……」

 秋葉はぴたっと足を止める。先輩と秋葉、お互いに鼻を突きつけあうような距離。
 二人とも、通りのど真ん中でまるで、リングの真ん中で視殺戦を繰り広げる
ボクサーのようににらみ合っている。チャレンジャー秋葉がくわっと眼を見開
いて睨み、チャンピオン・シエルは余裕の笑み、でも目は笑ってない真剣な……
という感じ。

 ただ、レフリーの位置にいる俺はズキズキと心痛がするのが問題で。

 ざわざわ、とあたりがざわめく。急いで左右を見回すと、この視殺戦を見て
笑っている人がいる。それはそれだ、秋葉も先輩も美人の部類に入る女の子で、
それがこんな真っ昼間から喧嘩をしていれば……

(やだ、あそこで喧嘩?)
(痴話喧嘩かもね?あの男、黙ってるんだ)
(みっともないわねぇ、くすくす)

 俺の耳には、そんな言葉が風に乗って聞こえたような……気がした。
 ああ、嗤われている……公衆の面前で……

「その、二人とも……喧嘩は良くない……」

 困ったことは、俺には誰が話しているのか分からない声が聞こえるというのに、
この二人には俺の言葉すら達していないという有様だった。
 二人ともお互いの瞳の中を覗き込み合い、どんな言葉を交わしているんだか。

 このまま二人を放っておけば、必然的に……秋葉に檻髪、先輩に黒鍵を自制
しては欲しいけども、つかみ合っての大喧嘩というのも……ど、どうすればい
いのか?
 わからない。でも、このままでは……

 俺は、意を決した。

 二人の対決の空間には結界じみたものを感じ、一刀一足の間合いに入り込め
ばそれだけでぴりぴりとした殺気に当てられる。だが、今はそれに負けている
場合ではない。
 眼鏡の蔓に指を掛けて外そうかと思うが、それは止めた方がいいだろう。三
つ巴の戦いになってしまっては元の木阿弥だ。

「ええい!先輩!秋葉!」 

 深く踏み込み、俺は咄嗟に上がり掛けた秋葉の手首を掴む。
 そして、先輩の肘の当たりも握る。二人の身体を掴むと、眦を決した恐ろしい
瞳が俺を――

 思わず熱い薬缶にでも触れたように反射的に手を離したくなるが、それを堪える。

「兄さん、邪魔を――」
「遠野くん、余計な――」

 俺は、腕を掴んだまま――くるりと回れ右をする。
 二人の顔を見つめて説得する自信は残念ながら無い。そうなると、今俺が出
来ることは……これしかない。

「ちょ、ちょっと兄さん、なにを!」
「遠野くん、ああ!?」

 俺は二人の腕を引っぱって、一目不乱に早足で歩き出す。
 ぐいぐいと腕を引かれる二人から困惑の叫びが上がり、周りからは忍び笑い
が漏れるが構わない。今は一刻も早くどこか、人目の付かないところに……

 あの路地裏なら、一息付けるか?

「やっ、兄さん、やめて……やぁぁ!」

 何故か秋葉の声は悲鳴に変わっていたが、取りあえずは無視を決め込む。
 俺はそのまま、二人の腕を引いて道を曲がり、路地を奥へ奥へと何時しか俺
は駆け足になって……

                                      《つづく》