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「帰郷」 
                押野 真人


 信州。
 地名を聞いたところで、志貴には何の感慨も持てはしない。
 さしずめ蕎麦が美味い土地、といった程度の物だ。
 けれど、そんな異郷でも。
 琥珀がいるのならば、それだけでその土地は彼にとって故郷と呼べるものになる。

「奇遇、というべきなのかしら」
「いいえ、この地の由来を考えれば必然ではないかと思います」

 眉を潜めた秋葉を眺めて、琥珀は首を振った。
 琥珀は神など信じない。けれど、目にしたものを受け入れられないほど狭量ではない。
 むしろ逆。琥珀という器は、これまで様々な不条理を飲み込んで平静を保ってきた。

「それでも愉快ではないわね。遠野の一族が敗退したなんて、話は」

 秋葉がなおも納得がいかない様子で眉を寄せる。
 苛立ちを隠すように、目の前の硝子瓶を持ち上げる。甘みの強い炭酸水の入った嗜好品は、
ことのほか秋葉に気に入られたようだった。
 もちろん、この屋敷に冷房という概念がないというのも一因ではあるだろうが。
 炭酸で喉を灼きながら、秋葉は無念そうに大きな息を落とす。
 琥珀にはそんな主人の様子がおかしくて仕方ない。現に秋葉とて志貴の前に敗退しているの
だから、かの鬼女が恋する男の前に討ち果たされたとして何の不思議があるだろうか。

「その後、七夜一族はこの地に居を構えたというわけね」
「はい。もっとも七夜もまた中央からすれば異端、まつろわぬものです。疎まれてこの土地に
封じられたと見るのが正しいでしょうね」
「報われない話ね」
「報われる歴史なんて殆どありません。ここは、安住の地を得ることができたと解すべきかと」

 そうだ、想い通りになることなんて、殆どありはしない。
 だからこそ。琥珀は自分の幸せをかみ締めるのだ。

「それで、この格好は?」
「ええ、どうせですから趣向にのっとっていただこうかと」

 自分の格好を見下ろして首を傾げる秋葉に、琥珀が曖昧な笑みを浮かべて見せる。
 この地の伝承に残る高貴な女性が纏っていた、そんな曰くのある着物。もちろん再現しただ
けの品物だが、秋葉に似合っていることは確かだった。
 
「さて、そろそろ志貴さんも到着されるでしょうから、お迎えにあがります」

 そう言い残すと、琥珀は席を立つ。
 この役目だけは秋葉にも譲れない、琥珀の正当な権利だ。秋葉も取り立てて不平を漏らす訳
でもなく、逆に神妙な顔で小さく頷いた。

「う、ん。兄さんには……」
「はい、内緒にしておきますね。秋葉さまが耐え切れずに来ちゃってるなんて、コトは」

 その口調は悪戯めかしてはいるが、芯には確かに冷たい感触が感じられる。
 この屋敷では、秋葉は邪魔者でしかない。そんな事は十二分にわかっているはずだった。そ
れでも浮き足立って旅行の用意をしている兄を見ていたら、居た堪れなくなった。
 先回りして、どうしようというのか。そんなことも、考えられなかった。
 琥珀が退室した後も、秋葉は一人乱れた思考をそのままに、中空に視線を投げかけていた。
 からん、と。
 手にしたラムネの壜が、涼やかな音を鳴らして転がった。

          ■

「とは言っても凄いな。こんなに山奥だとは思わなかった」

 長野駅から古めかしい型のバスに乗り込んで既に数十分。
 琥珀の指定した土地までは、まだ距離があるらしい。
 硝子越しに照りつける強い日差しは、車内の冷気を嘲笑うように髪を焼く。長旅の疲れでま
どろみかけた志貴を苛むのは、そんな意地の悪い太陽だった。それなりに高度も高い筈なのだ
が、まるで涼しくなっている気がしない。
 おまけに、見た時から想像していたが乗り心地は最悪に近い。
 車は酷い揺れを前後左右、果ては上下に繰り返す。ミキサーか何かと勘違いしてるのではな
いかと思うほどの激しい機動。そんな運転でも乗客が文句を言わないのは、断じて慣れている
からではない。最初からこんなバスには乗らないから。

「……おとなしくタクシーを使うんだったか、なっ」

 旅費を節約しようとしたのが運の尽き。
 感慨に耽る余裕など、どの道全く有りはしなかったのだ。
 各座席の前に据え付けられているビニールの袋すら、サービスではなく巧妙な罠に思えてし
まう。少なくともその存在自体が確信犯でないとは誰にも否定できない。

「お客さん、もう少しの辛抱だけど、我慢できなくなったら遠慮しなくていいから」
「あり、がと、う。でも、へい、き、ですからっ」
「……そりゃ結構。都会から来られたにしちゃたいしたもんだ」

 運転手は僅かに賞賛の念を込めて呟いた。
 客を乗せるのはずいぶんと久しぶりだったが、彼はこの青年を気に入りかけていた。
 自分の運転で不作法をしない人間など、これまでいなかったのだから。
 
「ほれ、着いたぞ兄ちゃん。よく頑張ったな」
「は、どうも、ありがとうございまし、た」
 
 バスから降り立って、志貴は崩れそうになる。彼を抱きとめたのは、陽炎ができるほどの熱
を孕んだ空気の層。舗装もされていない固い土の地面を踏みしめると、一気に汗が噴き出す。
 
「うわ、暑いな……」
「ははっ、よく頑張ったご褒美だ、サービスしといてやる」

志貴に、運転手が好意的な笑みと共に硝子壜を放る。
 反射的に手に取ると、やけに冷たい。

「これは?」
「ラムネだよ、知らんのか」
「ええと、知ってますけど」

 形状は志貴の記憶にあるものとは少し異なるが、確かにそれはラムネの壜に他ならない。
 まるで氷のように冷えきった硝子の感触は、志貴を包み込んだ熱気を打ち払う程。

「何でこんなに冷えてるんですか?」
「ああ、氷で冷やしてんだよ。一応売り物なんだが、サービスだ。道中呑んでくれ」

 それだけ言うと、運転手はドアを閉じる。
 土埃を巻き上げて、乱暴に走り去るバスを見送る。
 一人残された志貴は、周囲を見回して溜息をつく。
 古びたベンチと、錆付いた時刻表。バスは一日二本だけ、つまり今日はもう来ない。
 周囲に人家の気配はない。ただ停留所の脇に、獣道のように細い道が開いている。琥珀から
受け取った手紙によれば、彼女はこの先で待っているはずだった。
 ここから歩いて、さらに数十分かかるらしい。

「前途多難だな……」

 まあ、どの道この先は車では入れないのだ、覚悟を決めていく他はない。
 覗き込んだ獣道が見事な上り坂になっていても、志貴には選択の余地などなかった。

「おや? これって……」

 歩き始めた志貴が、小さく呟いた。
 柔らかな土の上に、志貴を誘導するように小さな足跡が残っている。
 むせ返るような夏草の匂いに包まれながら、志貴は立ち止まって見下ろした。
 
「この先に人は住んでいない筈だけど、な」

 何故ならば、この先に隠れ住んでいた一族は全て八年前に根絶やしにされている。いまさら
行きかう人間などいようはずもない。
 ならば、この足跡の主は容易に想像できる。
 志貴の足取りが軽くなる、旅の目的を見つけて。
 受け取ったラムネの壜は、中身を飲み干した後も冷気を発していた。
 どういう仕組みになっているのかといぶかしみ、その理由に気づく。
硝子だとばかり思っていた壜だが、その正体はただの氷なのだ。どういった製法によるもの
か、深い淵の色に染め抜かれた氷が壜を形作って器となっている。
驚きはしたが、正直助かったのも事実。
狭い道に立ち込める熱気は、決して多くない志貴の体力を容赦なく削ぎ取っていたから。
壜を懐に入れると、気合を入れて上り始める。果てのない、上り坂を。
 
「ここが……?」

 やがて、森の途切れる瞬間、志貴は呆然と呟いていた。
 彼の目の前に広がっていたのは、一面の草原。
 迎えるように、風が吹く。求めても得られなかった、清涼な大気の脈動が志貴を包み込む。
 その視界に映るのは、山を背負った大きな屋敷。
 振り向いて、志貴は大きく頷く。何度となく夢に見たあの暗い森が、そこにあった。

「故郷、か……」
「志貴さんっ!」

 もう一度振り返った、屋敷。その正面の庭に立つ、琥珀。
 見事に育った向日葵を従え、太陽のような笑みを浮かべて琥珀は志貴を迎える。
 その表情には、かつての影は一片たりとも残ってはいない。

「おかえりなさい」

 琥珀がはにかみながら甘い声でそう告げる。
 約束の言葉。この台詞を聞く為に志貴はこの地に戻ってきた。
 それもこれも、全てこの小柄な少女の尽力の賜物。
 
「ああ、ただいま琥珀さん」

 歩みを止めぬまま、志貴は琥珀に身体に腕を回す。どれほどの言葉を並べても、遠野志貴が
琥珀に対して抱いている感謝の想いは伝えられないだろう。
 長い抱擁のあと、志貴は琥珀を見つめる。

「それで、ここは?」
「書類上は遠野家の別荘、お屋敷の一つです。けれど、八年前までは違う苗字の人たちが暮ら
していたはずです。たぶん……」

 志貴の言葉に、琥珀が不安そうに見上げてくる。
 長野にあった遠野家の旧蹟は数十にも上る。その中で最も歴史が不明瞭で、しかも最近管理
対象に含まれたものを選択したつもりだった。土地の伝承からもそれなりに確信を持って志貴
を呼び寄せたのだが、確実ではない。

「志貴さん、早まりましたでしょうか?」
「いや、きっとここが俺の故郷なんじゃないかな。確かにあまり実感はないんだけど、それで
も外の森には見覚えがあるような気がするから……ありがとう、琥珀さん」
「いいえ、わたしにはこれくらいしか恩返しできませんから……」

 安堵の吐息と共に、琥珀が志貴の胸に頬を寄せる。屋敷の中で待つ秋葉の前ではとてもこん
な真似はできないだろう。秋葉の立場と想いを考えると、そんな無神経な真似はしたくない。
 けれど、志貴にはそんな事情は伝わらない。
 清潔感溢れる白のシャツとジーンズ姿の琥珀は、屋敷での和服姿とはまた違った雰囲気。
 今日の為に、ここしばらく逢瀬を果たせなかったこともあるのだろうか。
 それとも立ち上る琥珀の香りに刺激されたのか、志貴の中に愛おしさが湧き上がる。
 琥珀が欲しい、ただそれだけの思いが志貴を突き動かす。

「琥珀さん……」
「志貴さん? あっ、駄目っ…」

 僅かに汗ばんだ髪も、琥珀が生きている証。
 顔を埋めれば、昂った情欲をもうこれ以上抑えられない、その必要もない。
 噛み付くように首筋に唇を押し当てる。舌先に塩辛い味を感じて、志貴は一層琥珀を抱く腕
の力を増す。抗うように身動ぎする琥珀の瞳からは、逆に力が失われていく。
 
「本当に君がいてくれて、良かった。琥珀、俺の……」

 囁き声が、琥珀の理性を失わせる。
 秋葉の事も、全て忘れて志貴に委ねたいと望む自分が心のどこかにいたのか。
 或いは。

「ふあっ……んっ、んんっ、く……」

 一旦身体を離した志貴が、少し首を傾げて琥珀の唇を味わう。
 薄い下唇を甘く挟んで、舌先でなぞる。志貴の唾液が塗り込まれていくたびに、琥珀の身体
の芯からは熱い火種が勢いを増していく。
 やがてその舌が口内を蹂躙すると、琥珀もまた唇を広げて志貴の唾液を求める。温かな体液
の交換は、二人の結びつきを強固にする絆。志貴の身体にもまた、熱が宿る。

「ふぁ、あっ、志貴さん、……ひっ!」

 痺れるような快感を思うままに味わっていた琥珀の目が見開かれる。
 志貴の右手が遠慮もなくジーンズのボタンを外して、下着越しに秘裂をなぞり上げていた。
 じっとりと汗ばんで湿り気を帯びたその部分を、やわらかく揉み解すように指先が刺激する。
それだけで染み出してくる体液を感じて、琥珀は顔を紅潮させる。

「琥珀さん、もうこんなになってる」
「嫌だ、言わないでください……っっ!」
「可愛いよ、琥珀さん。凄く気持ちよさそうな顔、してる」
「やあ……酷い……」

 志貴の指が下着の中に進入すると、琥珀は背筋を反り返らせて動きを止めた。
 目を閉じて志貴の視線から逃れた琥珀は、代償として全身の感覚を明敏な物にしている。自
分の中心に押し当てられた中指の動きが克明に感じられて、琥珀の身体は志貴を迎え入れる為
に綻び、開いていく。

「はぁぁ、あ、あ、あああっ!」
「ほら、こっちも硬くなって来た」

 乱れた吐息を閉じ込めるような口づけは、琥珀の中を炉に変える。
 逃れることのできない熱が琥珀の中で高まり、胸の突起を押し上げていく。志貴が空いた左
手で撫で上げたその部分は、シャツ越しでもわかるほどに硬くしこり立っていた。
 掌を押し付ける。つぶされた乳首は琥珀の脳髄に痛みと、大きく上回る甘い痺れを矢継ぎ早
に伝達する。まるで心臓が焼ききれそうな刺激に、たまらず琥珀は首を振りたてる。

「ん、んんっ……んぐっ、くぅ……!」

 意味を成さない喘ぎの声は全て志貴の肺へと届く。溢れた涎を吸い上げながら、志貴は右の
親指を花弁の縁に寄せた。クリトリスもまた、乳首と連動しているかのようにその存在を誇示
している。

「ひっ……ゃあ、っあ、ぁっっ!」

 当然の手順のように、指が大きく押しこまれる。新たに加わった刺激は、今度こそ琥珀から
自制の全てを根こそぎにする。差し込まれている中指を押し返す勢いで、熱い飛沫が迸る。
 驚いたように指が震え、琥珀の理性はさらにとどめの一撃を受けて沈黙する。
 粗雑に過ぎる志貴の行為に抗議する声すらも、押し殺された琥珀には抵抗の術がない。
 同じ探訪な扱いでも、心の持ちよう一つでこれほどに肉体の反応は変わるものだろうか。槙
久との交わりではついぞ得られることのなかった快楽が、琥珀を支配している。

「っく、あぁぁぁぁぁ……」

 瞼の裏が真っ白に染められた琥珀は、堪えきれずに眼を見開いて大きな叫びを上げる。
 一瞬だけ映った光景。網膜に焼き付けられたのは、苦しげに胸を押さえる秋葉の姿だった。
 次の瞬間、首を引いた琥珀は、切れ切れの息の下で言葉を紡いだ。

「駄目です……秋葉さま……が」
「なっ……!」

 言葉の意味を理解するよりも先に。
 琥珀が口にした名前は、先刻の壜よりも冷たく志貴の心臓に突き刺さる。
 両手の動きが止まると、琥珀は救われたような、それでいて物足りないような相反する感覚
を抱いて膝を震わせた。いずれにしても、もう立っていられそうになかった。

「秋葉が、どうかしたのか?」
「そこに、いらっしゃってます」
「……っ!」

 冗談にしてはあまりに性質が悪い。
 いくら琥珀でもこの状況下にそれはない、そう思いながら首を巡らせる。
 最初に目に入ってきたのは、真紅。
 その髪の色にも負けないほどに鮮やかな色に染められた和服を身に纏って、秋葉は放心した
表情を二人に向けていた。まるで人形のように澄んだ瞳には、何も映さずに。

「秋葉……どうして」
「あ、に、にい、さん……あ、私……」
「……秋葉?」

 志貴の声が呼び水となり、秋葉の瞳に光が宿る。
 一歩、前に踏み出そうとして顔を顰め、そのまま動きを止める。
 痛みを堪えるように志貴と琥珀を見つめて、逆に足を戻す。

「ごめん、なさい。邪魔をしてしまいまし、た」

 それだけ口にすると、慌てて秋葉は踵を返した。
 志貴に何も言わせぬまま、足早に立ち去ろうとする背中。

「お、おい秋葉っ!」
「何をしてらっしゃるんですか、追いかけて、下さい……!」

 琥珀の声が引き金。
 何も考えられなくても、いま秋葉を行かせてはいけない、それだけは正しいように思えた。

                                      《つづく》