――わからない
 ―――なにもかも、わからないことだらけだ。

 事の一尾始終を語り終えた志貴は、深く息を吐いてそう嘆じる想いであった。
ただ一つ救われたことは、秋葉が死んだのではないと言うことくらいであった
が、行方不明という今の状態が芳しくないことは言うまでもない。

 志貴は昨夜のことを順序立てて話したつもりであったが、その内容たるやま
るで、遭難し掛けた登山家の見る幻覚のごときものであることを、話しながら
も自覚していた。特に、あの金髪紅眼の美女の下りになると、思わず失笑した
くなる衝動にすら襲われる。

 ――まるで、まやかしを語っているような

 最初のうちは志貴の話す内容を逐一書き留めていた倉橋であったが、話の内
容がだんだんあやふやになって行くにつれ、筆の動きも遅くなっていった。そ
して、最後に燃える車の前で眠り込んだ所まで聞き終える頃には、ペンをファ
イルに挟んだまま黙り込んでいた。

「そうなると、遠野志貴くん。キミは、いつの間にか道も知らずに、あの現場
まで来ていた、ということかね?」
「……ええ、そうだと思います。思います、としか言えないんですが」

 倉橋は足を椅子の上で組み、困ったように頷き目線を志貴の顔や身体の上を
走らせる。志貴は、目の前の刑事がきっと自分が普通の状態ではなく、事故か
何かに巻き込まれて見ている幻覚を語っていると疑って掛かっているのだろう、
と見ていた。

 だが、それに対して抗議の声を上げる気にはならない。なにしろ、語ってい
る志貴自身がそれが何かの間違いだ、お前は夢を見ていた、と言われた方が納
得できる心地になっているのだから。

「その、金髪の外人女性は、知り合いかな?」
「……いえ。この街にいるのではないかと思いますけど、それ以上は」

 志貴の答えに、倉橋はふむふむ、と呟く。警察はあの金髪の女性を重要な証
人として捜すのかもしれないし、これをけが人の妄語として片づけるのかも知
れない。どちらかというと、後者の方が有り難く思える志貴であったが、倉橋
の次の言葉に反応して眼を細める。

「三咲町の連続失踪事件でも、たしかそんな目撃証言が……おっと、失敬失敬。
今回の件とは直接関係は……あると言えばあるし、無いと言えば無いものがあ
りまして。遠野志貴くん――遠野家の人間であるきみにこんな事を言うのは変
かもしれないがね」

 志貴は、三咲町の連続殺人・失踪事件。
 それは志貴の苦い記憶そのものであった。琥珀に唆された吸血鬼・シキを街
を跋扈し、多くの人間が犠牲になった。シキの襲われ、吸血鬼に変転した弓塚
さつきは志貴の手によって滅ぼされ、シキは秋葉によって追いつめられたが、
最後には志貴によって永遠に滅ぼされた。

 そしてその後に――琥珀、という存在が失われた。全ての人間に傷跡を残し
た遠野の血の悲劇。それが、あの連続殺人事件であるのだから。
 志貴は、心の中で疼く痛みを抑えながら、切れ切れに吐く息で尋ねる。

「倉橋さん、それは……」
「……遠野くん。今から話すことは、管轄外の刑事課から漏れ聞こえる噂に過
ぎないし、気分を害する事になるかも知れないが……」
「構いません、その……一体なにが?」

 倉橋は仕方なさそうに手をもみ合わせると、ファイルを閉じて膝の上に置き、
椅子の上に腰を据え直す。そして、志貴から眼をはずし、部屋の天井の一角を
眺めながら話し始める。

「この事件が、三咲町の連続失踪事件や、件の『吸血鬼』殺人事件と繋がって
いると見ている捜査の向きが存在する。まず、どの事件も不可思議なことばか
りで、常識的な捜査が通用しそうにない。それに、今君が言った金髪の外人の
こともある……しかし、それ以上に大きいのは」

 ここで倉橋が声を止める。
 その事件の真相を知る志貴は、沈痛な面持ちで頷き、話を促す。

「……大きいのは、この捜査やマスコミの報道に圧力を掛けてきた少なからぬ
人間が存在する、と言うことだ。噂にしか過ぎないが……県警の部長クラスに
圧力を掛けて来た人間は……直接ではないが、遠野秋葉さんだという」

 その言葉に、志貴は呆気にとられるばかりであった。
 なぜ秋葉が――そう感情は思うが、理性はこう告げている。シキの事件は遠
野の宿業の決着でもあるのだから、当局の干渉は避けねばならない。その為に、
遠野家の力を利用して圧力を掛けたのだと。

「噂だ、あくまで。だが、一部の捜査陣はこの繋がりを見て動き始めていると……
すまんな、遠野くん。交通の人間が内部の変なことを聞かせて」
「いえ、倉橋さん、すいませんこちらこそ……でも」

 ――わからない

 その言葉を吐き出せない志貴は、胸の中の晴れない疑惑の霧の内で呟く。

あの事件は解決されたはずだった。だから、秋葉の身に危害を加える者が現
れるはずがない。だが、警察当局はまさかあの事件にあんな事情があったなど
と知るはずもないだろう――故に、この事故も一連の事件の繋がりと見られる
面もある、と言うことはわからなくもない志貴であった。
 だがそうなると、この事件を誰がやったのかがさっぱり分からない。

 倉橋は自分が過ぎたことを口にしたのを気にしたのか、フォルダを鞄にしま
い込んで席を立つ。そして、ベッドの上の志貴に名刺を手渡す。
 何かあれば、遠野家に連絡する――そう告げて倉橋は去っていった。志貴は、
名刺を片手に浮かない顔をして考え込むばかりであった。

「志貴さま……お気分はよろしいでしょうか」

 名刺を手にしたまま、志貴は身動き一つしなかった。借りてきたトレイの上
にお茶を汲んでやってきた翡翠の声にようやく気づき、名刺を傍らのテーブル
の上に置いて翡翠を迎えた。
 翡翠は病院の湯呑みを志貴の元に置くが、浮かない顔の志貴を伺うと、一歩
離れて志貴の言葉を待つ。

「……翡翠は、秋葉の事を知ってたのか?」

 志貴に問われて、はっとした様子を翡翠は見せる。細い眉が一瞬だけ躊躇に
歪むが、すぐに普段の翡翠の取り繕った顔に戻り、答える。

「存じ上げておりました。昨夜の内に秋葉様の行方不明のことは当局の方より
連絡がございましたが……前もって申し上げておらず、申し訳ございません」

 そう言って畏まって謝ろうとする翡翠の手を挙げさせ、志貴は仕方なさそう
に頭を振る。秋葉のことで翡翠を責めるのは見当違いであり、志貴にもそんな
ことをする気は更々ないのだから。
 志貴は、先ほど刑事の倉橋に聞かされた秋葉の噂を頭の中で反芻しながら、
翡翠に続けて尋ねる。

「秋葉が……警察に圧力を掛けていた、ということは知っていたか?」

 その言葉を聞いて、翡翠の表情は思い詰めたような暗さが過ぎる。志貴が慌
てて手を振り、聞かなかったことにしてくれ、と言うにも関わらず翡翠は居住
まいを正してそれに応える。
 志貴が息を飲む中、翡翠の声が僅かに震えて流れ出す。

「はい。志貴さまがお倒れになられていた際に、あのシキさまの事件を内々で
解決するために、弁護士の先生や軋間様などを通して色々な筋にご連絡されて
いたと……もっとも、あの時には間に琥珀姉さんが……」

 そこまで言うと、辛そうに翡翠は口を閉ざす。志貴も、言いづらいことを言
わせてしまった……ということを気が付き、翡翠に小さな声で告げる。
 あの事件のことは、もう触れないのが遠野の家の中の不文律だったのだ。そ
れを、動揺のためについ禁を犯してしまうとは――志貴は己の迂闊さを恥じた。

「済まない。もう終わったことなのに……」
「いえ、私こそ申し訳ございません。ですが……今回の事とあの事件は関係は
ない筈だと僭越ながら思いますが」
「……俺もそう思うけど、警察がそう考えてくれるかどうかは……さて、早め
に戻らないと家の七夜さんに迷惑かけちゃうな。翡翠、俺は退院できるのか?」

 翡翠は頷いてから答える。

「先生のお話では、体調がよろしければ明日か明後日にももう一度検査をする
必要はございますが、本日は帰宅しても問題はないと……お支度いたします」

 そう言ってから、翡翠はてきぱきした動きで予め用意してあった志貴の洋服
を取り出す。おそらく、昨夜の内に用意してここに来てくれたのか……と思う
と、志貴の中では翡翠の献身に対するあらためての感謝の念がこみあげる。

「有り難う、翡翠。いつもいつも迷惑を掛けて」
「……いえ、志貴さまの事をお世話するのは私の仕事です……これからも、ずっ
とお世話致しますので」
「……そう言って貰えると有り難いな」

 志貴は病院の患者衣を脱ぎ、ベッドに腰かけ直すと翡翠の用意したシャツに
袖を通す。
 洗濯物のふわりとした暖かい繊維の薫りと僅かな翡翠の薫りを感じ、志貴は
深く息を吸い込んだ。

(To Be Continued....)