Epilogue


「……結局は、事件はすべて不明確なまま、でしたな」

 中年の刑事、倉橋は如何にもあぶなっかしげな手つきで薄いセーブルのティー
カップを掴み、差し出されたお茶をすすった。
 その前で、志貴はソファーの上でゆっくりと腰掛けている。あの、病院の中で
秋葉の身を案じ、先行きの見えない事件を不安がっていた志貴ではなく、ここに
いるのは自信に満ちた腰の落ち着いた志貴であった。

 秋葉は、あの戦いの後に病院に運ばれた。
 いや、どちらかというと無事を確認した後で、辻褄を合わせるために病院に運
び込んで工作を行った、と言う方が正しかった。事故後、しばらく経ってから山
奥で発見された、という触れ込みで病院に運び、当局に連絡をしたのである。

 警察は半信半疑、というより確実に疑いの目を持って秋葉の帰還を見ていたが、
すぐに圧力が掛かり、この件はうやむやに伏せられてしまったのである。
 一つは県内に張り巡らされた遠野家の運動であり、もう一つは――シエルが影
で動いた結果の、外事筋から掛かってきた圧力であった。

 その後、うやむやにうやむやを重ねたまま秋葉は形だけの検査を行い、退院し
て遠野家に戻っている。それに、秋葉は警察の証言に「自分は何も憶えていない」
旨を答えていた……事実、秋葉にとってはそうなのだから仕方ない。

 結局、警察の倉橋にとっては、全ての事実が極めて曖昧なまま、闇に葬られよ
うとしている。だが、彼はそれに対して断固抗議の声を上げる、正義漢でも熱血
漢でも無かった。まず、事故の状況からしても不可思議きわまりなく、これをす
べて合理的に立証することに困難を憶えていた以上、上層部の意向による中断を
むしろ有り難くすら思っていた。

 倉橋は、同時に発生した発砲および捜査員の失踪事件に関わる刑事課の苦衷の
方をむしろ哀れむような思いでいる。警察の面子こそ掛かっているが、あれもまた、
不可解きわまりない事件なのだから――

「いや、私としては秋葉が無事に戻ってきたので安堵していますよ」

 志貴は、柔らかい微笑みを浮かべてそう応える。
 泰然自若の志貴の態度を見て、倉橋はほぅ、と息をつく。学生だというのに大
した落ち着きだ、と内心感じる彼は、自分が伝えるべき説明をし終わったことを
確認してから、席を立とうとする。

「それでは、師走のお忙しい中ご苦労様です。翡翠に表まで送らせます」
「いやいや、これは失敬――そうそう、遠野志貴君」

 立ち上がった倉橋は、鞄を持ち上げながら何気ない口調でそう志貴に尋ねる。

「良ければ……私にだけは、あの事件で本当は何があったのか、教えて貰えまいか?」

 その問いに、志貴は笑った。
 眼鏡の底の蒼い目が、沈毅で重厚であり、なおかつ侵しがたい光を満たす。
 その視線に、倉橋は圧倒される。

「倉橋さん。世界には、知らなくて良いことの方が多いのです」
「いやいや、失敬失敬。つまらぬ事を尋ねましたな、私はここで……」

 そう言うや、倉橋は慌ただしげに部屋から見送られる。
 志貴の風情は、ネロとの戦いから変わりつつあった。七夜の自己が目覚めつ
つあり、眼光だけで大の大人を威圧する力を秘めている。

 志貴は倉橋の背中を見送ると、ソファーにゆっくりと腰を下ろす。そして、
誰もいない応接間の空気を、しばらく何をするともなく味わっていた。万事が
おしなべて良好に解決し、ようやく安心して冬休みの安らぎを得ているのであった。

 志貴の背後でドアががちゃり、と鳴り軽い足音がするの志貴は振り返る。
 そこに立っていたのは、黒に少し朱の混じった明るい色の髪の秋葉であった。

「兄さん、警察の方が今……」
「うん、お前を出すわけには行かなかったから、俺が出ておいた」

 秋葉がそうですか、とそっと呟き志貴の向かい側の席に、軽く腰掛ける。
 秋葉は、ネロの中から救い出された時に手傷は負っていなかった。ただ――

「秋葉、その髪は……治らないのか?」

 秋葉の長い髪に目をやりながら、志貴はそう不安そうに尋ねる。さらり、と
流れる髪を手にとって、秋葉は頭を降った。
 ネロの結界の中で、秋葉は負の力の負担を受けすぎていた。その為、遠野寄
りの発現がより進行した状態になっていたのであった――それが、この髪の変
化である。

「ええ、でもシエルさんは今のままで進行を止める方策がいろいろあるって仰っ
ていました……髪は、年が明けたら七夜に染めさせます」
「……そのままでも可愛いと思うぞ」

 ぼそり、と志貴が口にすると、秋葉は顔を朱に染めるが、すぐに咳払いをし
てそんな反応を誤魔化そうとする。志貴がくすくす笑っているのを見ると、秋
葉はむー、と機嫌を崩しながら口を開く。

「もう、兄さん、冗談ごとじゃありません……でも、兄さんが可愛いって言っ
てくれるんでしたら、私も……」
「……うん、そうだな、考えておくと良い。俺は賛成だよ、秋葉」

 そう言ってゆったり構える志貴に、秋葉はほんの少し不思議そうな視線を当
てる。

「兄さん――大分、変わられましたね」
「……そうかな?俺はそうとは思わないんだけど」
「前よりずっと落ち着いた感じが……遠野家の長男としての風格を備えて来た
とお見受けしますので、妹の私としても嬉しい限りです」

 そう澄ました顔で答える秋葉に、苦笑いする志貴。
 やがて、倉橋を見送ってきた翡翠が現れて卓上のティーカップを片づけ出す
中、志貴は何気なく翡翠に尋ねる。

「なぁ、翡翠……秋葉に言われたんだが、俺は変わったと思うか?」
「……志貴さまが、ですか?」

 翡翠は、手を止めて軽く首を傾げる。
 そう、と志貴が相槌を打つと、翡翠は即答する。

「……いえ。志貴さまはどうあれ、志貴さまです。
 私としては、志貴さまがお戻りになり、こうやってお世話をさせていただけ
るのであれば、これに勝る幸いはございません」

 その答えに、志貴は満足そうに頷き、秋葉もしょうがないわ、という雰囲気
を漂わせて優しく笑った。

「そうだ、年明けにどこかに出掛けないか――七夜さんや翡翠はもちろん、今
回世話になったシエル先輩とも一緒に」

 志貴の声が、遠野家の中で明るく響く。

 ――戦士は己があるべき所へ帰還し、永き安息の日々は幕を開けたばかりだった――

(fin)