ネロ・カオスは一九〇近くある上背から志貴を見下ろしている。
志貴は、背を僅かにかがめて、信じられないといった面もちで当たりを、そ
して目の前のネロを見つめる。二人の警官を、この男は喰ってしまった。
「君が遠野 志貴か。ふむ、初めまして、と言うのはおかしなものだな。
色々話は聞いている……というわけではないが、君の活躍は影ながら伺わさ
せて貰ったよ」
ネロの口調は静かなものであったが、先ほどの刑事たちに対するような軽侮
の感はない。むしろ、目の前にいる志貴に対してのそれなりの敬意を表してい
るようにも見える。
だが志貴にはそれに応える態度や言葉はない。目を見開き、わなわなと唇を
震るわせている。
「あの、ロアを倒したのか。その若さで大したモノだ。
吸血姫のアルクェイド・ブリュンスタッドの先を越して、転生無限者を滅ぼ
したのだからな」
ネロは、シキではなくロアの名を上げた。実際のところはロアの転生発現は
行われず、遠野の血に狂ったシキが吸血鬼として跳梁跋扈することになったが、
ネロはそのことには無頓着なようであった。
ただ、それを倒した者の方に興味がある――敗者にはもはや興味はない、と
でも言いたげな不敵な顔をしているネロである。
志貴は、ネロを、ネロの黒い腹を見つめている。
――あそこに、人が喰われていった。
「ロアは……古い知り合いだな。向こうも私のことを友とは呼ばぬだろうが、
あやつが滅ぼされたとなれば、あやつからの借りは、癪なことに借りたままだな」
――あの中に、あんなに無造作に人が喰われていった。
志貴は、ネロの話を聞いていない。
――あの人たちにも命の尊厳はあったはずだ、それなのに
――この男は、人の命に対する尊厳を踏みにじった。
志貴の中で、沸々と冷たい怒りが燃える。ネロから発せられる殺気は衰える
ことはないが、志貴の中ではそれを徐々に圧力として感じなくなってくる。さ
らに、秋葉をさらったというこの男の無慮の態度は、志貴の中で言い様のない
怒りを掻き立てる。
「あの男のことはもはや語るまい。だが、私はお前に興味がある……強い、よ
り強い生き物に興味があるのだよ。あの、吸血姫と同じように、な」
ネロの言葉は、さも面白そうであった。
不遜なネロの笑いを見ると、志貴の中で――七夜志貴が蠢き出す。
――さぁ、志貴。この不遜な怪物風情に、身の程を思い知らせてやれ
志貴は眼鏡を外し、コートの内側にしまい込む。そして、そのまま手を動か
さずに問うた。
「秋葉を……どうした」
志貴の口から漏れる言葉は、思いの外に冷たく落ち着いたものであった。
志貴は、コートの胸元を探り、黒い鉄の棒を握る。ナイフの柄の冷たい感覚
を指先に伝えながら、志貴は腰を僅かに落とす。
ネロは口の端を歪めた。
「さぁな……口で聞かず、お前の得物で尋ねるがよいわ」
ネロは、顎で志貴の胸元をしゃくるように示す。その動きに呼応するかのよ
うに、ネロと志貴は急激に動き始める。
志貴は、ナイフを引き抜くと目の前のネロに向かって低く駆け出す。
ネロは、無造作に立ちながらコートの前を開く。
頭を低くして飛び込む志貴の目は、目の前のネロを凝視し、その中から致命
傷となる死の線を読み出そうとする。黒いコートの中に、死を示す点は、一つ、
二つ――そこで、志貴は愕然とした。
――目の前のこの男は、なぜ無数の死を蔵しているのだ
ネロの体の中に広がる、小宇宙の様な無数の死の点。この男には、ありうべ
からざる事に無数とも言える死を宿している。何よりも死に近い存在でありな
がら、何よりも死より遠いイキモノ。
あの幻の平原で出会った、白い美女と対照的な存在であった。
その一瞬の怯みを見逃すネロではなかった。
ネロが手を振ると、ネロの内側から黒い獣たちが湧き出る。動物たちは産み
出されると、前脚が地面に付くや飛び上がるように襲いかかる。
弾丸の如く飛び込む、黒い狗。
志貴は、黒い狗の中の死の点を見出して身体を翻し、ナイフを振るう。
狗は、引き裂かれて宙を舞い、どろりと融けて地面に叩きつけられる。
「ほほう、見事。だが、これで終わりではない」
志貴の足が一歩の距離を詰める間に、ネロの腕が振られ、宙と地から獣たち
が沸き続ける。黒豹・大鷹・猩々・大蜥蜴。
七夜志貴の衝動によって動く志貴は、迷い無くナイフを構え、振る。
黒豹からお株を奪うようなしなやかな動きでその牙を避けると、志貴の腕は
黒豹の背中の一点を差し貫く。ナイフの刃が抜かれる間にも黒豹はどろりと輪
郭を失う。
そして、抜いたナイフをそのまま見もせずに両腕を振り上げた猩々に突きつ
け、志貴の青い七夜の瞳が闇の中を走り、ナイフは猩々の右目を貫いた。
ぐぎゃぁぁぁぁ!という絶叫が漏れ猩々はバラバラに腕を振る。志貴はその
腕を避けて、身を翻すが――
ざくっ、と言う鈍い音がして肩と頬が切れ、何かが頭の脇を通り過ぎる。
志貴は、ナイフを振ってその何かを斬りつけた。
志貴の目の前を、黒い大きな羽根が過ぎる。宙から狙った大鷹の攻撃は避け
られずに志貴を傷つけるが、その傷の代償として、大鷹は羽根を失い地面を転
がる。
一息つく暇もなく、志貴の足下に猛然と襲いかかる存在がある。
それは、牙を剥きだした大蜥蜴であった。その顎は、志貴の臑を狙って突き
出されてくる。
志貴は地を這う凶暴な爬虫類の上を――跳んだ。そして、宙から一直線に降
りるや、大蜥蜴の短い首の後ろを差し貫く。
たちまち四匹の動物が片づけられる。志貴は、ネロに対してまた一歩一歩を進
める。
ネロからまた新たな獣が沸き続ける。そして、志貴はそれを鋭い動きで片づ
けていくが、志貴にも手傷の数々を残していく。
志貴が歩を詰めていたが、ネロは一歩たりとも動かない。
片腕を狗に銜えられ、その喉を突き刺す志貴はネロの動きに瞠目する。
――なぜ、この男は引かぬ。このまま引いて戦い続ければ、こっちが消耗負
けするのに
志貴は、その理由をこのネロの不遜と取った。この不可解な生き物は、きっ
とこの歩を詰める間に俺を倒しきると思っているのか――志貴の中で不意に怒
りがかき立てられる。
志貴は一声長簫すると、ナイフを構えてネロの中に突っ込む。
目の前には、無数の死の点。だが、きっと真の死は一つだけ――七夜志貴の
確信を抱き、志貴のナイフがネロに突きつけられる。
――取った!
(To Be Continued....)
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