志貴はこらえきれずに、後ろを振り向いた。これ以上、背中を危険なモノに
向けて晒し続けてるのは、志貴として耐えられなかったからだ。
 志貴が振り向いた瞬間、視界の中に入ったのは――黒い男だった。

 街路灯の中に浮かび上がる、裾の長いダスターコート。その前は開かれて中
に見えるはずの衣服が、全く見えない。それは、街路灯の明かりが暗いために
影になっているのではなく、根元的な暗闇をその身体に蔵しているゆえ。

 黒い男は、肩に鴉を留まらせている。
 晶の言うとおり、壮年の鋭い顔に、カッと見開いた眼。短く揃えた白髪の下
の顔は、この場にいる他の人間を見下げる侮蔑の色に満ちている。

「……あんたは……誰だ?」

 志貴は、そう言葉を吐き出す。そして、それに続く言葉を言い出せない。
 志貴の中のもう一人の志貴が、身体に警告を発する。この男は、危険だ――
戦って勝てるとは限らない、いや、おそらくは――今の志貴では勝つことはお
ぼつかない、と。

 だが、志貴は逃げ出す訳にも行かなかった。なぜなら、この男こそ秋葉を連
れ去った張本人に間違いないのだから。

 ただ、本能的な恐怖を感じる志貴と違って、二人の刑事はこの目の前の男の
脅威を感じ得なかった。志貴を追い越すようにして、刑事二人は黒い男に相対
する。
 やめろ、と志貴は二人を止めたかった。だが、声は出ない。

「君は何者だね?私は南杜署の……」
「お前たちとは話をしていない。私はそこの少年に話がある」

 短く無愛想きわまる男の声に、二人の刑事はむっと機嫌を崩した様であった。
 志貴は、二人の刑事越しに向けられる男の視線に居られ、胸の悪くなるよう
恐怖と悪寒を味わっていた。空気が黒く凝固し、息をする度に身体からぬくも
りを吸われていくような感覚が走る。

 それは、この男が危険だということだ――志貴は断ずる。
 志貴は、何とか息を継ぎ、言葉を吐き出す。

「秋葉を……秋葉をおまえが……」

 その言葉は、黒い男以上に二人の刑事を驚かせたようであった。
 中年の刑事は志貴を振り返り、若い刑事は目の前の黒い男を凝視する。だが、
黒い男は――口元を歪めて乾いた笑いを浮かべるばかりである。

「そこの君……遠野秋葉の事を知っているのか?」

 刑事の言葉に、黒い男は冷笑を以て答えとした。
 色めき立つ刑事達に、黒い男はす、と指を差した。

「ふむ、お前たちがいるとそこの少年と話ができん。退場願いたい所だが……
官吏の狗か、ならば、狗は狗らしく狗の餌にでもなって貰おうか」

 志貴と刑事の目の前で、黒い男の指先が、融けた。
 指はぼとりぼとり、と黒い液体になって地面に広がる。呆気にとられる三人
の前で、黒い液体は地面から、信じられないモノを生み出す。

 黒い狗。それも、大型の軍用犬のように肩の盛り上がり、鼻面の飛び出た猛
悪な顔が見える。目は黒く落ちくぼみ、開かれた口吻からは濡れた牙が覗く。
 狗は――いや、狗たちは生まれ落ちると、ぶるり、と身の毛もよだつ様な仕
草で身震いすると、次々に地面を蹴る。

 志貴は、何も為す術はなかった。
 狗たちはまっしぐらに刑事達に飛びかかる。黒い狗が、若い刑事の前で跳躍
し、まるで黒い弾丸のように無防備な首に食らいつき、そのまま地面に押し倒
す。続く狗が腕と足に噛みついて動きを封じると、そのまま――

 がきりごきり、ぐしゃ、と嫌な音が響く。
 若い刑事は喉を食い破られ、断末魔の絶叫すらなかった。

 真っ黒に犬たちは刑事に群がり、喰らい、引き裂き、消し去って行く。
 中年の刑事は、その光景を目を見開いて見つめる。そして

「うわぁぁぁっぁぁっ!」

 中年の刑事はコートを引きちぎるように開き、その中から真っ黒い塊を抜く。
 志貴は、見慣れぬ黒い物体が拳銃であることを知った。だが、心の中では冷
たい志貴が無情な宣告を下す。

 ――無駄だ。

 パンパンパンッ!と乾いた、まるでスリッパで壁をひっぱたいたような、妙
に軽いが大きな音量の銃声が響き渡る。中年の刑事は、黒い男の真っ黒なコー
トの中に銃弾を撃ち込んでいた。一発は外れてコンクリートの壁に当たったが、
あとの二発は男の中に吸い込まれていった。

 だが、男の顔は……ひどくつまらないモノを見たかのような、失望を浮かべ
ていた。

「……そのような玩具で、私を倒せると?」

 くだらん、と言い捨て、男は胸に手を突っ込みながらずんずんと歩いてくる。
そして、黒い体の中から、無造作に金属の塊を取りだし、地面に投げ捨ている。

 銅のカバーを被った鉛の銃弾が、地面の上を転がった。

 中年の刑事は、凍り付いたように動けない。志貴もまた、その非常識な男の
行為を前に、何をどうしたらいいのか分からなかった。今の志貴では、歩くと
きに右手と右足を同時に出してしまいかねないほどの、恐怖と全感覚の混乱の
中にいる。

 男は、中年の刑事の目の前に立つ。そして、刑事の拳銃の銃口を胸に押し当
て、嗤っていた。男の嘲弄が辺りに響き、耳を不快に流れ込む。

「さぁ、撃ってみろ。最後の機会だ」

 一瞬の間をおき、刑事の絶叫と、パンパン、パン!という銃声が響く。
 だが、男は――笑ったままだった。刑事は取り憑かれたように引き金を引き
続けるが、カチリ、カチリと空撃ちの空しい音がするばかりだった。

「……それで終わりか。つまらんな。全く」

 男はむんず、と刑事の頭を掴んで持ち上げる。そして、胸元に刑事の顔と身
体を持ってきたかと思うと、志貴の目の前で――

 男の胸から、巨大な牙と顎が飛び出たかと思うと、そのまま刑事の身体に食
らい付く。
 またも、断末魔の悲鳴はなかった。ぐしゅり、という鈍い響きがあるばかり
であった。見る見るうちに刑事の身体は、巨大な顎――クロコダイルの牙の中
に消えていった。
 ばりばり、ぐしゃり、という咀嚼の音が甲高く辺りに響く。狗たちも刑事を食
らいつくし、三々五々と黒い男の元に戻り、影の中に消えていく。

 そうやって、志貴の前で二人の男が、消え去った――それも、喰われて。

 志貴の前に改めて黒い男が立つ。
 男は、震える志貴を見下ろし、ふん、と鼻で笑いながら言う。

「これで、話ができるな。少年……いや、遠野志貴。
 我が名は――いや、人はネロ・カオスと呼ぶ。この国の言葉で言えば〈黒い混
沌〉か、まぁ、人の――教会の呼ぶ渾名なぞどうでも良い」

 黒い男――ネロ・カオスは嗤った。

(To Be Continued....)