聖夜は奇跡のように雪を招き寄せていた。
 暗い夜空は低い雲に塞がれて、星も月も見栄はしない。その代わり、白い雪
の結晶がはらはらと舞い降りてくる。それは空気の抵抗でゆっくりと、地面に
落ちて消えていくように見えた。

 夜半から降り始めた雪で、まだ積もるほどではない。
 私は肩に積もる雪をそのままに歩いていた。傘は出がけに翡翠に渡されたが、
差すほどでもないので片手に下げたままだった。初めて見る雪を見るのに、傘
は無粋と言えるだろう。
 暗い空から耐えることなく雪が舞い降り続ける……それは幻想的だと言って
も良いのだろう。知識ではある雪であったが、あのアトラスの底では知りよう
のない実際の体験であった。

 私は頭の中にある地図に従い、住宅地の路地を何度も曲がる。
 夜も十時を過ぎ、すれ違う人も稀だった。道の長さや曲がり角の感覚が雑な
住宅街であったが、そのうちいくつかの家には電飾のツリーが並んでいる。

 辿り着いたのは、その中でもひときわ大きなツリーの立つ、白い鐘楼のある
教会であった。欧州の聖堂ほど巨大ではなく、鐘楼と言っても二階建ての屋根
ほどのこじんまりとした物であった。ただ、その壁面にある十字架がここが信
仰の徒の聖域であることを現している。

 ……錬金術師にとっては、敵地も同然であった。
 だが、この国の教会にはそんな結界や武装はない。中にいるのが埋葬機関の
彼女であると言うことだけで十分な脅威であったが、この教会や礼拝堂自体が
罠であることはなかろう。予め探信すべきかと思ったが、止めた。

 ただ、用心のためだけにエーテライトのリールであるブレスレッドと、コー
トの下に隠した拳銃を掌で確かめる。これを使わないに越したことはないし、
礼拝堂で抜くなどというのは琥珀に見せられた出来の悪いアクション映画の様
で好きではない。

「…………」

 深く深呼吸すると、私は観音開きの戸を押し広げる。
 そこにあったのは――

 賛美歌の合唱、ステンドグラスは燭台の明かりに照り輝き、祭壇の前には白
い浄衣の神父が敬虔な信徒達に説教をする――光景ではなかった。
 吹き抜けの礼拝堂はがらんとして、いっそ寒々しい。祭壇には小さく蝋燭が
点り、十字架の預言者を闇の中に浮かび上がらせる。流れる聖歌も詠唱もなく、
一人の修道女が跪く後ろ姿が目に映った。

 私は華やかなミサを一瞬期待し、そして予想に反して鼻白む。
 ……いや、時間が時間だからか。私は礼拝堂の扉を閉じると、後ろのベンチ
に腰掛けた。
 いかにも礼拝堂と言った趣の、硬い木のベンチ。私はコートの前を合わせ、
巻いていたマフラーとベレー帽を脱ぐ。上着の中に入れていた後ろ髪をゆっく
りと抜いていると、近づく足音を聞いた。

 幸い、明かりは弱かったが暖房はしっかり効いていた。寒空の下を彷徨うの
が苦手な私はほっと安堵の吐息を漏らすと、身体の強張りを緩める。

 私は膝の上に脱いだマフラーを畳んで乗せると、その足音の主を見る。祭壇
の前の修道女が、こちらに向かって歩いていた――眼鏡を掛けていて、修道衣
は薄いグレーの生地でケープまで着けている。その姿は間違いなくシエルであ
った。
 深い黒の、あの埋葬機関のカソックではないようだったが……きっとこの礼
拝堂の修道会の物なのだろう。私は背筋を伸ばし、目を閉じてさも静かに祈る
信者のような素振りをする。

「……となり、宜しいですか?」
「………………」

 私は頷いた。誰もいない礼拝堂に、唯物主義の錬金術師と偽装修道女のエク
ソシストが一緒に並んで座る……世界の聖夜が如何に広くても、このささやか
な礼拝堂しかこんな光景は無いに違いない。
 私はシエルが座るのを感じると、声を抑えて話し始める。

「……ミサはやっていないのですか?」
「降誕祭の夜半のミサは終わりました。流石に夜通し礼拝を行うほど熱心でも
ありませんからねぇ、信徒の皆さんも……今は別のホールでみんなイブのパー
ティー中ですよ」

 そう言うことか。ひどくがらんとしている事に私は納得した。
 熱心でもないというシエルその人も、そんなに信仰に篤い訳でもないでしょ
うに……という皮肉は飲み込んで、私は目を閉じて話し始める。

「代行者、私は義務を一応は果たしました」
「ここは礼拝堂ですけど、シエルで良いですよ。義務というのは……遠野君の
事ですか?」

 私は頷き、続ける。

「ええ、夜に一緒に教会に行かないか?とは言いました。余程私が言い出した
のが意外だったのでしょう、まるで突然甦った親類を眺めるような顔をしてい
ましたよ」

 その顔を瞼の裏に思い浮かべ、私はひどく可笑しく思えた。あまりにも志貴
が驚くものだから、私は翡翠のような誤った日本語で喋ってしまったのではな
いかと不安になるほどの、しげしげと上から下まで信じれなさそうな視線を巡
らせる態度であった。

 くっく、と小さくシエルが笑うのが聞こえる。

「はぁ……まぁ、そうでしょうねぇ。で、遠野君は?」
「わかった、うん、と生返事で……それ以上懇願するのも奇妙だったのですが、
夕食後に気が付くと志貴は消えていました」

 志貴があまりにもあっさりと外出してしまったので、私は空室の志貴の部屋
を前にしばし呆然とすることになった。ただ、私が提案はしたが約束と言うほ
どの確かな返答でもなかったので、仕方ない。

「……遠野君が外出してたのですか?」
「蓋然性は高いと。よもや琥珀が落とし穴で志貴を監禁しているとは思いませ
んが……こんな夜にどこに行くのかは自明なので敢えては言いません……つま
りはそう言うことです」

 流石にシエルの前で、アルクェイドのマンションに行きました――と分かり
切っては居たが、言えるものではない。事のあらましを伝えて察してください、
と言うだけで十分に火に油を注いでいる気がするのだから。
 横に座るシエルの身体が震え、ベンチ越しに貧乏揺すりの様な振動が伝わっ
てきた――ような気がした。私は片目を開け、シエルを盗み見る。
 シエルは笑っていた――口元だけは。ただ、目深なケープに隠れて目が見え
ないのが幸いと言うべきか。私はシエルから距離を置きたい心の警告を押さえ
つけて、返答を待った。

 しばし、言葉がない。
 聖夜の夜の礼拝堂は、静寂の中にあった。ただ、その静けさが心穏やかな祈
りの空気に満ちあふれず、むしろ約一名の懊悩に灼かれているのがなんとも居
心地が悪いが……

「そう言うわけで、私まで来ないと後々悪しき事態を招きそうなので、報告と
弁明のために」

 そう口にするのはひどく惨めで情けなかったが……仕方ない。志貴が応えた
ときの顔が目に浮かぶ――心ここにあらず、と言った感じでどこか別の所を見
て帰ってきた答えであり、あの時に同道する可能性が低いことは分かっていた
のだ。

 何と応えるのか、私はシエルの回答を待つ。この礼拝堂では敬虔な修道女を
装っているのであろうが、今すぐにでも被ったショールを引き外し、あの物騒
な埋葬機関の黒衣に変えて真祖の姫君を襲撃したいという戦意に満ちあふれて
いるのだろう。

 ――そのとばっちりが私に及ばねば良いのだが、と懸念はするのだが……

「……成る程。一応はこう言っておきましょう……ご苦労様、と」
「痛み入ります。とりあえずこの件に関しては貸しも借りももなしにして頂け
ると有り難いです。」

 私はそう言うと、膝の上にのせたコートと帽子を持ち上げる。
 告げるべき内容はもう伝え終わったのだから、私がここに長居する謂われは
ない。むしろ、こんな聖夜の礼拝堂に不信心ものの私が居ることは好ましくは
ないだろう……そう考え、無言でシエルに一礼して立ち上がろうとした。

 キィ

「…………?」

 振り返った私の視界の中で、礼拝堂の扉が動く。
 誰が入ってくるのか……夜半に訪れた信徒の人か?それとももしかして志貴
が……蝶番がかすかに軋む音を耳にして、私の傍らのシエルも振り返るのがわ
かる。 
 二人がベンチの上で腰を上げ、眺める扉の先に現れたのは……

「……秋葉?」
「遠野さん?」

 私とシエルの口から、同じ彼女の名前が発せられる。
 扉を開けて、そこにある種傲然とした存在感を放って現れたのは、長い黒髪
の遠野秋葉その人であった。開いた扉から外の冷気と、秋葉の放つ独特の空気
が私の方にまで漂ってくるのが分かった。

 秋葉も黒貂のコートでマフラーをしっかりと襟の中に巻いていて、礼拝堂の祭壇を
見つめていたかと思うとすぐにこちらに視線を向ける。
 秋葉の目はうっすらと笑っている……ように見えた。

「あら、今晩は……シエル先輩。いつもの制服やカソックではないのは珍しい
ですね」
「まぁ、郷には入れば郷に従え、というものです。そういう秋葉さんもこんな
夜分に教会にいらっしゃるとは……門限は宜しいのですか?」

 秋葉とシエルの間の、なんとなく険悪なやり取りが耳に入る。この二人はど
うも仲が悪い――理由というのが秋葉はシエルを信用しきれないと見ていて、
シエルは秋葉をある意味小馬鹿にしている。そして、二人のぶつかる焦点に志
貴がいる。こうなるど自然、顔を合わせると皮肉の一つも言う関係になるので
あろう。

 私はそれから遠ざかるように、軽く肩を竦めた。
 秋葉は他人の家の事に首を突っ込むシエルに、余計な世話は結構、と言いた
そうな顔で近づいてくる。その時にようやく気が付いたが――ドアを開けて後
ろに侍っているのは、翡翠と琥珀であった。

 この二人まで連れてきていると言うことは――

「あら、心配頂きありがとうございます。でも、今日はせっかくの聖日だから
その辺は多めに見ることになっております」
「まぁ、秋葉さま自ら門限破りの外出ですからねー」

 後ろからのほほん、とつっこみを入れる琥珀の声に、秋葉と妹の翡翠から同
時に窘める視線が送られた。そう言えば、私も何事もなかったかのように門限
を破っているが……遠野家の長男が名だたる門限破りだから致し方ない。

「姉さん、秋葉さまが本当はクリスマスが嫌いだとかそんなことを言っては行
けません」
「聞こえてるわよ、翡翠?とにかく……」

 秋葉はコートの裾を翻して、私たちのベンチの横にまでやってくる。だが、
三人並んで座るのを躊躇ったように、後ろの列に入ると腰を下ろした。
 立ち上がり掛けた私は、予想しなかった秋葉の登場に呆気にとられてその場
に再び腰掛ける。一体どうして秋葉が……私もシエルも、悠々と座る秋葉にど
う切り出したものか、言葉がない。

 秋葉はそんな、ベンチの後ろを身体を捻って振り返っている私たち二人に、
さも可笑しそうな顔を向けてくる。

「……私がここに来るのがよほど不思議だ、という顔をしているわね、あなた達」
「……それはもう」
「でも、この教会の最大の寄付を寄せているのは代々の遠野家の主ですから、
私がこの教会の聖日にやってきても別に可笑しくはない――」

 そんな意外な事実を口にしながら、秋葉は話を終わらせずに視線を向けてくる。
 秋葉はそうはいうが、可笑しくない筈はない。秋葉がよしんば寄進の主であ
ったとしてもそれは上流階級の社会貢献の色合いのもので、秋葉自らが熱心な
信徒である可能性は薄い。
 だが、秋葉はふざけてみた、と言いたそうにくすくす笑う。

「――筈はないわ。確かにそれだけで私はここには来ません。わざわざ夜分に
この教会を尋ねたのは理由があります……シオン?」

 私の名前が不意に呼ばれたので、神妙な顔で頷いて話を促す。

「貴女が兄さんを教会に誘った話は知っています。でも、兄さんは貴女を置き
去りにしてどこか出掛けているということも」

 さすがは秋葉だ、それもお見通しだと言うことか――と感心したが、視界の
片隅で琥珀が私の気を引く様に手を振っているのが見えた。
 なるほど、私や志貴の行動を見守っていて秋葉にご注進に及んだのは琥珀だ
ったのか……それであれば納得できる。秋葉はそんな背後の琥珀に気が付いて
ない様子で、話を続けていく。

「でもね、シオン?」
「……なんでしょううか?」
「兄さんはああ見えても、約束は一端忘れてもちゃんと思い出す物なのよ……
だから」

 だから。
 だから、もしかすると……私の話をちゃんと志貴は覚えていてくれて。
 志貴がちゃんとこの教会にやってくるから、秋葉はこの教会に先回りしてや
ってきたと言うことなのだろうか――

 それは俄には信じがたい。可能性から言うと、きわめて低いことだからだ。
 志貴は真祖の姫君の誕生日を祝うためにその元を訪れているのであり、そち
らを選んだ以上は真祖の姫君の好敵手である代行者の元に敢えてやってくるこ
とはない――
 
 だが、秋葉はこの行動に自信を持っているかのように、余裕を秘めた笑いを
浮かべている。
 シオンは口をほぅ、と感心したように開いていて。
 教会の戸口に居る琥珀と翡翠が、何かに気が付いたように動き出して――

 教会の扉が二人の使用人の手によって開かれると、そこに現れたのは。

「やーだー!入りたくないー、志貴ー」
「そんなこと言うなって、お前……別に教会はお前を取って食いはしないよ」
「だって、ここ……わ!」

 勝手に突然開いた扉に驚くのは白いセーターのアルクェイドと、そんなアル
クェイドの腕を引っ張って現れたダウンジャケット姿の志貴。
 私が、シエルが、秋葉が、そして翡翠と琥珀が、戸口に現れた二人の姿を見
つめる。

 拗ねていたアルクェイドも、待ちかまえていた私たちを見てぽかんと口を開
けて驚いている。彼女にとっても、シエルは予想できても私や秋葉の存在は想
定外だったのだろう。でも、志貴はやっぱりね、と言いたそうな安堵の笑顔を
浮かべていた。

「………志貴……」
「や、遅れて御免、シオン。せっかくだから誕生日のアルクェイドも連れてき
たよ」
「……もー、私の誕生日なのになんでこんな辛気くさい性悪眼鏡女付き教会な
んかに……それに、妹やシオンまで待ちかまえてるし」
「私は礼拝堂の付属物かなにかですか。まぁ、普段なら聖水を撒いて追い払う
ところですが、」

 志貴の腕に抱きついてだだをこねているアルクェイドに向かって、シエルが
呆れたように言い返す。本心では追い払いたいのだろうが、志貴が連れてjき
た以上は仕方ない、と諦めている素振りが見て取れる。

 志貴が腕を引き、教会の戸口を潜る。
 その腕に捕まったアルクェイドは、罠でもないかと警戒するようにじろじろ
礼拝堂の四方を見回して入ってきた。こんなむずがる様子を見せる真祖の姫君
というのも初めて見た……私は驚き、つい二人の姿に見入っていた。

 私たちの元までゆっくり来ると、志貴は私たち三人を順繰りに見回し、そし
て……誰から話しかけたのかを迷うように唇の端を咬んで控えめな笑いを浮か
べている。
 そんな志貴に声を掛けるとは落ち着きを払っている秋葉であった。

「あら、兄さん。夜分に門限を破って、女性同伴で教会礼拝とは随分と信心深
くなったのですね」
「……そう言うなって、秋葉。まぁそんなお前も今ここにいて門限破りな訳だし」
「……ふぅ、兄さんを見張ってなかったら誰が連れ戻すのですか」

 憎まれ口を叩いている様ではあるけども、秋葉は嬉しさを声に隠し切れはし
なかった。顔だって怒っては居ないし、志貴もその辺は分かっている様で……
ただ、いつもの規則に厳格な妹と規則違反の兄、というスタイルを守ってコミ
ュニケーションを取っているみたいで。

 志貴は今度はシエルに向かって話しかける。

「先輩、まぁその……遅くなって御免。アルクェイドもいっしょだけど、いい
かな?」
「普段なら遠野君ごと追い出してますが、今日は大目に見ましょう。とにかく、
いらっしゃい、遠野君。それにアルクェイドさん」
「……ふーんだ」

 なんとかアルクェイドを見過ごしてにこやかな表情を作るシエルだったが、
肝心の姫君の声に眉がぴくぴくと震えている。いつもいつもそう言う神罰の代
行者と真祖の姫君という立場を離れても喧嘩の種ばっかり事欠かないものだ、
と感心すらするのであるが……

「シオン?約束……だったよね」
「…………はい。来ないのではないのかと心配していましたが……志貴」

 私は顔を上げると、なんと志貴に答えたものかと考える。
 アルクェイドは私をここにいるのが珍しい、何かの小動物を眺めるかのよう
な瞳で見ていたが……そんな彼女に軽くお辞儀をすると、私は今言うべき最良
の言葉を思いつく。
 志貴に向き直り、私は口を開く。

 そうだ、こんな宵にはこの言葉がもっともふさわしい

「……メリークリスマス」
                                 
         《fin》