聖なる夜の異邦人
                              阿羅本 景



 この街は、聖夜の雰囲気に染まっていた。
 別にこの国の、この街の、この人々が敬虔なキリスト教徒ではないというこ
とは知っていた。そもそも今すれ違う人々がなに教徒であるのか――というの
は闇夜の中で黒猫を指さすほどに難しい。神道と仏教になるのだろうが、信じ
ているのはもっとぼんやりとした何か、自然を支配し運命を操る何かの存在の
畏怖であった。
 そして、それの機嫌を損ねないようにありとあらゆる宗派の儀式を行う。誰
もそれを鎮める本当の儀式を知らないのだから仕方ない……もし知っている、
と頑強に主張する人間がいれば、それはこの国では奇人になる。

「――などと、私が言うのはおかしな話です」

 私、シオン・エルトナム・アトラシアはコートの襟元を寄せて、小さく呟く。
 そもそも宗教や信仰などは人を真実を遠ざけるフィルターである、としてい
る錬金術師が偉そうに語る話題ではない。だが、この街を歩いてもどこもここ
もクリスマスを迎える空気に包まれているのだから、そんな皮肉の一つも口に
したくなると言うものだった。

 だがいい。みんなそれで幸せなのだ。それ以上の正邪を論じる権利は私にあ
りはしない。

 私は昼過ぎの商店街を歩き、ショーウィンドウを物色していた。どこもかし
こもMerryX’masの筆記体と、白と赤と緑の色彩に溢れている。ただ今はクリ
スマスを彩る白い雪は降り積もってはいなかった――冬は鈍色で、冷たく地面
の上に張り付いている。
 私が今身にしているウールのコートも秋葉の借り物であった。今まで冬でも
暖かい地方にしか居なかったのだから持ち合わせがない――ただ、まだこの冬
も志貴や琥珀に言わせると暖かいそうだ。
 ……寒さから身をしのげればいい、と即物的にも思うが、もっとこう……私
に似合う防寒具などがあるのではないのかと思う。そう思うと私は洋装店のシ
ョーケースの前に立ち、顔のないマネキンが身につける冬物の衣服を眺めてい
たりした。

「まるで……まるで私は」

 まるで私は年頃の女の子そのものではないのか――と俄に可笑しく思う。
 町中に行き交う、若い少年少女達がいる。冬季試験が終わった試験休みだと
志貴は言っていたが、そのためか――しかし志貴の試験勉強の為に私まで駆り
出されていたような気がしたが、まぁこの国の学生も小忙しい。
 二人三人、と群れあった娘達が片手に携帯を持ち、笑いさざめきながら通り
過ぎていく。平和で幸せな彼女たちと錬金術師の私は到底同じ存在の根を持ち
はしないが、今はその生える葉は似通って見える……おかしなものだった。

「あら、まぁ、これは」

 私は背後から何か驚き呆れたようなような声を浴びせかけられた。
 振り返ると首筋に冷気が忍び込んでくるが、それでもその方向を見ると――
その姿を見ると私もつい眉を顰めてしまう。その気はないのだが、相手が相手
だから仕方ない。

 シエル。教会の埋葬機関員で、私を追っている筈の代行者――だったが、今
はあの修道衣や、センスの悪い呪文武装でも、年柄似合うものでも無かろうと
思う高校の制服姿でもない、ショートレザーコートの私服姿であった。まぁ、
それなりにまともな格好であった。が

「……お買い物ですか?シオンさん」
「…………そういうものです。そういう貴女も?」

 やはり追うものと追われるもののせいか、会話はぎこちない。
 私は袖の中に隠したブレスレッドを指で確かめる。向こうもその気になれば
あの黒鍵をあっという間に繰り出すだろう。お互い武器には事欠かないわけだ。
 一瞬だけ、緊迫した視線が交差する。やるとしたら今しかない――

 ……が、お互いに間を外す。
 当たり前だ。昼日中、公衆の面前でやり合うほどせっぱ詰まっているわけで
も、それを屁とも思わない程に馬鹿でもない。ただある程度の距離を置いて、
話を続ける。

「……まぁ、そんな感じですか。今晩は聖夜のミサなのでいろいろと準備があ
りまして」
「機関がそんな安穏なお祭り事に耽るとは……」
「あのいけ好かない殺人鬼はミサなんか出たことないですよ。一応私の表の顔
の一つは敬虔なクリスチャンの修道女でもあるので、活動基盤の地元の教会に
いい顔をしておく必要もあるのです」

 えっへん、と胸を張るシエル。
 殺人鬼というのはかのナルバレック機関長のことか――噂に聞くところだと、
教会の飼う人材の中ではそういうまともなクリスチャンらしさからもっとも逸
脱している部類だろう。彼女に比べれば、ヴォードゥー教の黒い蛇の聖女を信
じるハイチ人の方がまともなクリスチャンだ。

 もっともこのシエルが敬虔なクリスチャンだ、と言われるのも相当に嘘くさ
い。
 そんなことを考えると私の顔には自然とうさんくささが浮かんでいるんだろ
うか、シエルもなんとも居心地悪そうな苦笑いを浮かべる。

「……そんな風には見えません、と顔が言ってますよ?シオンさん」
「それは……確かに否定はしません。もっとも私も信心深い身とは言いかねる
ので」
「…………貴女もクリスマスの祝い事に?」

 シエルが小首を傾げ、私に尋ねてくる。その顔は錬金術師もクリスマスを意
識しているのか、と逆に聞き返してくるようだったけども……お互いに町中で
どんな顔をして向かい合って会話をしているものなのか。

 私はこのシエルにどんな表情を返せばいいのか――いつもの落ち着きを払っ
た顔を心がけて、静かに応える。

「ええ……秋葉はこういう世俗の行事は嫌いみたいなのですが、志貴が好むら
しくて内々でささやかながら」
「ふぅん……」
「ああ、それに真祖の姫君の誕生日でもあるそうで。もっとも誰がそれを記録
していたのか定かではない古の話ではありますが」

 私は思い出したように付け加えた。
 真祖の誕生日、と言うのもおかしな物だ。真祖が人間と同じ概念の誕生日を
持っているとは信じがたいし、もしあったとしても十字軍があった頃の話だ。
知るとしたらかの魔法使いにして死祖たるゼルレッチくらいか。

 ……そんな古い歴史を背負っているとは微塵とも思えない物腰の軽い彼女だ
から、適当に目出度い日を選んで誕生日を捏造しているのであろう。秋葉も同
じ説であったし、志貴も否定しない。
 ただ、そんな真祖の姫君の名前を口にした瞬間に、目の前のシオンの顔色が
曇る。

「ふぅーん……あのアルクェイドの誕生日のこと、誰から聞きました?」
「もちろん志貴ですが……ああ」

 シエルとアルクェイドは犬猿の仲であり、それは間に挟まった志貴を巡って
のこと……
 真祖と埋葬機関が一人の男性を恋仲で巡って争い合う、というのは現実感が
無く私の頭から抜け落ち気味であったが、実際の今のシエルの反応を見れば…
…なかなかに深刻な問題のようだった。

 つい志貴の名前を口にしてしまったが、どうにもシエルはこの一事に興味が
あるらしい。
 いや、興味という以上の何か……恋の鞘当てか。不意に口にした一言で、私
は水たまりだと思ったのが沼だと気が付いたような。

「……シオンさん?宜しければ一つお教え頂きたいのですが」
「………………」
「遠野君の、内輪のクリスマスのパーティーの後、どこに行くかを聞いてませ
んか?」

 …………そんなことは私が知るはずがない。まだ先の事なのだから。
 だが、シエルはきっと志貴が自分の元ではなくアルクェイドの方に行くこと
を疑っているのだろう。話の流れからすると、そういう思考が一番妥当性があ
る。

 私はゆっくりと首を振った。嘘は付きようがない。

「いえ……私は晩餐の時に内々で、と琥珀から聞いているだけです。その後の
志貴は……どうするのでしょうね?」
「ふぅん……ふんふん。いえいえ、なるほど、ほぅほぅ」

 シエルの口から出るのは頷きの言葉ばかりで、何を本心のところで企んでい
るのかは定かではない、が、私も女性の端くれなのでシエルの感情の一端は理
解できるつもりだった。
 恋敵を出し抜き、愛する人を独り占めしたい――彼が私を見てくれないのな
らば、こんな恋なんかしたくない。

 ――なんだ、私も随分センチメンタルな少女らしい思考が出来るではないか。

「……何か可笑しいですか?」
「いえ……泣く子も黙るかの埋葬機関員も、随分と……そう言うことを言うと、
貴女にもアトラシアの娘も惰弱な、と笑われるでしょうね。志貴のことは予測
しがたいですから」

 今の情報から分析するに、志貴がシエルではなくアルクェイドの元を夜に訪
れる可能性は6割強はある。だが、そんなシエルを刺激する事を口にする気は
毛頭無かった。
 シエルはそうですねぇ、と言いたそうな顔で頷いた。彼女も私より付き合い
が長いから、志貴の容易ならざる行動を熟知しているのであろう。

「さて、そこで相談です、シオンさん」
「…………?」

 シエルはぱっと私の前に指を立てて、呼びかける。
 一瞬握った拳から暗器を抜くのかと身構え掛けた私であったが、シエルの物
腰はあくまで柔らかく思えた。立てた指の向こうで、にっこりと微笑んでいる
――様に見せかける努力をしているシエルの顔がある。

「クリスマスパーティーが終わったら、教会に遠野君を連れてきてくれません
か?」
「………………」

 私はその提案を耳にして、咄嗟に答えをしかねた。
 それはそうだ、私がどうしてそんなことをしなければ行けないのか?志貴の
争奪戦であれば先んじて縄でもくくりつけて引っ張って繰るに越したことはな
い。

 ……なるほど、私を縄にして志貴を引き寄せるつもりか。
 確かに私が志貴にそう言えば、志貴は付いてくる可能性が高い。シエル単体
での勧誘よりも、私を経由した方が成功率が格段に上がる……それも、あくま
でお願いという形をとり続けるほうが心理的な牽引力は強い。

「……異な事を言いますね、私がそんな急に信心に目覚めたような発言をすれ
ば、逆に志貴に怪しまれるでしょう」
「いえいえ、遠野君はかわいい女の子にはそういうところの警戒心がないです
からね。つれてきてもらえればいろいろ便宜を図るつもりですが……」

 そう言って、目を細めて笑うシエル。
 はいといえば便宜を図る、ということはつまり、いいえ、と言えば私はシエ
ルとの全面対決を迎えねばならないと言うことだった。負ける気はしないが勝
つ気もしないし、こんな原因で志貴に頼るのも気が引ける。秋葉の庇護にすが
るか、いっそ恋敵のアルクェイドの元に……

 陰に脅迫を含ませているようで、どうにもシエルの言葉の無条件に首肯はし
かねた。
 だが……結局その辺を決めるのは志貴だ。私が行きたいと言っても、志貴の
心が真祖の姫君に傾いていればいかんともしがたい。

 私はベレー帽の縁を触り、なんとなく頭り方を直す。
 ……いいだろう、未だ研究の途上であり、伝手と便宜が多く安穏が長い事に
不具合はない。

「約束は出来ませんが、それなりの努力は。もっとも志貴次第でありますけど」
「……そうですか、それはそれは……期待させて頂きます」

 そう言うシエルは揉み手をせんがばかりだった。あのシエルがそんな様子を
魅せるというのは、そこまでアルクェイドとの恋争いは大変なものかと感嘆に
似たものすら感じる。
 とにかく、今の状況を打開するために志貴には提案しておこう……しかし、
私が志貴に聖夜のミサを一緒に……それは、その、デートをしようと言うよう
なものであって、志貴にもしかすると良い雰囲気になって……

 ――二番、沈静化

 急に早鐘を打ち始めた心臓を、副交感制御と思考の抑制で沈静化させる。
 私は赤面したり動揺を露わにしなかっただろうか――シエルの顔を盗み見る
と、こちらを見てなにやら面白そうな笑みを唇に浮かべていた。

 見抜かれたか……と言うよりは、彼女も私の心境を推測する事は出来たのだ
ろう。
 私にお別れです、とばかりにひらひらと手を振り、踵を返す。

「満更でもない様子ですね。それでは」

 やれやれ……私は無防備に背中を見せて立ち去るシエルに悪口の一つも投げ
かけたい心地だった。とにかく陰に脅迫は含むとはいえ、強制される事柄では
ない。志貴に一言クリスマスイブのことを聞けば良いだけだ……真祖の姫君の
元に往くのであれば、無理強いは出来ない。

「……………」

 私は横目でシエルの背中を見送る。やがて通行人の背中に紛れ、姿を消した
のを確認すると小さくため息を着いた。昼でも寒い空気は、吐くと白く曇る。
 私はここに経った時と同じように、もう一度ショーウィンドウを眺めた。硝
子の向こうは白いイミテーションの雪に覆われて、この凍てつく灰色の街とは
異世界の趣がある。あの雪すら白く幸せそうだった。

 聖夜の夜の街を覆い尽くす純白の雪。
 実にロマンティックで、笑ってしまいそうなほどにお誂え向きで。

「……雪ですか。見たことはないですね……さて、そこまで都合良く揃う物か
どうか」

 私はくるりと硝子の向こうを見つめるのを止め、硬い石畳の鋪道の上を歩き
出す。
 靴がこつこつと触れる音がする。もし雪を踏みしめたとしたら、どんな音が
するのだろうか。きめの細かい流砂を踏むのに似ているのかどうか。

 そんなまとまりのない物思いを私は頭から洗い流す。

「さて、どうしたものなのか……志貴にはいつも困らせられる」