お口でCHU!
                              阿羅本

 照明を絞った部屋の中で、志貴はベッドの上で横になっていた。
 風呂上がりの身体に開いた窓から流れる風が心地よく感じられる。残暑の晩
夏は終わり、初秋の風は北からの乾いた空気を徐々に感じさせる風に日々変わっ
てきていた。

 さやさやとカーテンが風に揺れる中、志貴はベッドのブランケットを外さず
にその上に横たわっていた。毎日翡翠が整えるベッドを見る度に、志貴には裾
まできっちり折り畳み、皺一つなく張られた敷布を崩すことに申し訳の無さを
憶えてしまう。

 その為に、こうやってベッドの上にしばらく横たわって、体重で緩みが出来
たときに仕方ない、とばかりにベッドに入るのがのが習慣となっていた。志貴
は窓の外の空を眺めながら考える。

 ――夏祭りが終わって、一月か……

 志貴の不意の事故と、それによって起こった不思議な、志貴の中だけの事件。
いや、志貴の中だけであったが、ただ志貴のみではなく……小さな身体で志貴
の中の町中を掛けていたレンとの一つの思い出を共有することになった。

 夏祭りが終わり、早一ヶ月。
 預かり主であったアルクェイドの元から志貴に移ったレンが、黒猫の恰好で
中庭をひなたぼっこしているのを志貴はしばし目にしていた。そして、それに
琥珀が世話をしているということもおぼろげながら察している。

 黒猫のレンと、あの小さな人形のような精緻で綿密で、そして狂おしいレン
の身体を思い出し――志貴の脳裏には、あの脳髄がそそけだつような快感の記
憶が過ぎる。やにわ身体が熱くなるのを感じ、志貴は一人っきりにも関わらず、
赤面してベッドから起きあがった。

「まったく、俺はなにを……」

 誰に言うともなくそう呟き、ベッドから足を降ろして窓辺に近付こうとした
その時、軽い足音が志貴の部屋の前に止まり、コンコンとドアをノックする。
 翡翠かな――と思った志貴は、ドアの向こうの声も待たずに答える。

「ああ、入って良いよ」

 そして、そう言ってしまった後で、今の自分の状態に気が付いて志貴は焦る。
なにしろ、思い出しながらも自分の男性自身は勃きあがる最中であり、志貴以
外にこの屋敷に居るのは女性ばかりであり、今の状態を見られるのはさすがの
志貴でも気まずいものがあった。

「あーあー、う……」
「どうされたのですか?兄さん?」

 ドアを開いて現れたのは――秋葉であった。
 まさか夜に、秋葉が一人で部屋にやってくるとは想像もつかなかったために、
志貴は慌ててベッドを挟んだ反対側に回り込んでしまう。そうして、下半身を
隠すように振る舞う志貴の奇妙な横歩きを、扉の間から顔を出す秋葉は怪訝
そうに眺めていた。

 秋葉は部屋に入ると後ろ手でドアを閉める。夜分の突然の訪問をしてきた
秋葉が、片手に画帳のようなものを持っているのを志貴は気が付いたが、絞っ
た照明のためにそれがなんであるのかは分からない。志貴は、どぎまぎしな
がら秋葉の行動を眺めていた。

 秋葉は部屋の中で、夜の兄の部屋に二人っきりという状況を改めて認識し、
途端に恥ずかしさを憶えたのか髪に手をやってしばらく視線を逸らしていた。
そして、志貴も秋葉も言葉が無いままでお互いに遠慮をしていたのだが、先
に動いたのは秋葉の方であった。

「……兄さん、お話があります」

 秋葉はそう言いながらも、いつも志貴の生活態度や学業に対して説教するよ
うな、敢然果敢たる態度がない。今の秋葉には、遠野家の当主という顔よりも、
志貴の妹としての顔が、そしてそれよりも――一人の女性としての顔が現れて
いた。

 志貴は、慣れぬシュチュエーションと慣れぬ秋葉の態度を前に、黙って頷く。
 秋葉は志貴の素振りを横目で見ると、こほんと咳を一つ付いて話し出す。

「兄さん、その……兄さんは私をなんだと思ってらっしゃるのですか?」

 聞きようによっては、その質問の意図をどのようにでも質問であった。
 だが、朴念仁の志貴にはそんな感情の襞を察することは出来なかった。ただ、
質問の意図を図りかね、首を傾げるのが精一杯である。

 ――それは、秋葉は妹というか、それ以上というか……

 志貴の中の秋葉、と言う存在を端的に言い表す語彙がない志貴が狼狽えてい
ると、秋葉は恥ずかしそうに紅い顔で俯き、質問を重ねる。

「……兄さんは……私にお口でされるのが、嫌なんですか?」

 今度は、あまりにも内容が飛躍しすぎて志貴でなくてもその意図を察するこ
とは出来なかったであろう。秋葉の言葉は志貴の中では、フラグメンテーショ
ンを起こして一つの意味を構成することが出来ずに、まるっきりその音がカタ
カナになって頭の中に残留していた。

 ――お口でされる?

 一方の、聞いた秋葉は真っ赤になって俯くばかりである。

「な……な、なに?秋葉、どうした?」
「その……兄さん、私に二度もそんな恥ずかしいことを言わせないで下さい!」

 秋葉はそう言うと、紅い顔のままぷいと顔を背ける。志貴はそんな秋葉の素
振りを見つめて一体今何が質問され、何が起こりつつあるのかをなんとか理解
しようと努める。

 「お口でされる」「恥ずかしいこと」――この言葉から連想される、いわゆ
るフェラチオのことであった。志貴も咄嗟にそのことを想像したが、まさかお
堅い秋葉がそんなことを言い出すとは思えず、興奮してしまった身体が脳味噌
を暴走させているゆえの妄想だ、となんとか片づけようとしたが――

「まさか、お口でっていうのは……秋葉?」
「……兄さん!兄さんは私にそんな恥ずかしいことを言わせるんですか?……
もう、口姦のことです!」

 ついには恥ずかしさが裏返って怒りだした秋葉であったが、コーカン、とい
う音が口姦、という感じの意味に結びつくまでにしばらくのタイムラグが志貴
には必要であった。だが、秋葉が本当にフェラチオの事を言いだしたと知って、
志貴がまず最初に憶えたのは――困惑であった。

 ――なぜ、秋葉が夜の部屋でこんな事を聞きに来るのか?

「秋葉、な、なんでそんなことを今――」
「だって、翡翠や琥珀の前でこんな事尋ねる訳にはいきません!そんなことも
兄さんはわからないんですか!」

 もはや恥ずかしさを隠すために地団駄を踏んで怒り続けるしかない秋葉に、志
貴は気圧されるばかりであった。

 このまま秋葉を怒らせていけば、激情のままにどんな恥ずかしい台詞を絶叫す
るかわかったものではないので、志貴はなんとか手振りで落ち着くように秋葉に
示し続ける。
 秋葉は肩でふー、ふーと息を付いている。画帳を握りしめる手にも力が入り、
指の関節が白く浮き上がっている様にも見えていた。

「秋葉、落ち着け……今、お前が何をしているのか分かっているか?」

 志貴はなんとか秋葉を沈静させ、こんがらがりつつある事態を抑えようと冷
静に喋っているつもりであった。だが、その言葉は先ほどから頭がのぼせつつ
ある秋葉に効果を及ぼしたかどうかは非常に怪しい物であった。

 秋葉は腕を組み、片手で脇の下に画帳を宛てながら引きつった笑顔で話す。

「ええ、存じております。
 私は、兄さんの部屋を夜分一人で訪ねて、どうして私に兄さんが口姦される
のが嫌なのかを尋ねているんです!」

 秋葉の説明は簡潔であったが、要を得ているとは言い難かった。
 なにしろ、説明の5W1Hの中での「WHY」がすっぽりと抜け落ちている
からであった。簡潔な秋葉の説明も、なぜ、が分からないとむしろシュールな
質問である。

 なにしろ、なぜ秋葉にフェラチオをされるのが嫌い、という質問が出て来た
のかがさっぱり分からないのである。志貴にとっては思い当たる節はなきにし
もあらずであったのだが、それを秋葉が察知する理由も不明である。

「秋葉……その、なんで?」

 ようやく確信に切り込めた質問を志貴がすると、秋葉はだまって小脇に抱え
た画帳を片手で突き出す。
 それは、画帳というよりはスケッチブックであった。中には何十枚かの画用
紙がリングで綴じられたものであり、志貴にはわずかながらに見覚えがあった。

 ――あれ?琥珀さんの部屋に置いてあったような?

 志貴は、受け取ったスケッチブックをしげしげと眺めるが、それが何を意味
しているのかを理解することが出来ない。不条理劇の中に放り込まれた心地の
志貴が救いを求めるような頼りない瞳で秋葉を眺めるが、秋葉はむすっと怒っ
て無言でいる。

 このスケッチブックの中に回答がある――志貴は秋葉の態度からそう解釈し
て、指に厚紙の表紙を引っかけてめくる。その中に書かれていたのは……

「?これは……」

 色鉛筆で書かれた、淡い色彩の絵。
 描かれたのは、下から見上げた自分の――志貴の顔であった。

 絵のタッチは、筆使いは非常に簡素で、木訥にも思える中でもモノの本質を
良く掴んでいる絵柄だった。セピアの描線が輪郭を巧妙に捉え、影程度で控え
めに塗られた色はむしろ、紙面に色彩を配するよりも効果的に見える。

 志貴には、この絵を書いた人間が誰だか想像は付かなかった
 秋葉の方をスケッチブック越しに伺うが、口を結んだ秋葉の不機嫌な表情か
らは何も読みとれはしない。翡翠や琥珀が絵を描くという話は聞かないし、秋
葉でもなさそう――見上げるアングルは、秋葉の背の高さでは描けるとも思え
ない。

 志貴はそう考えながらも、次々に頁を捲っていく。何枚か志貴の顔や後ろ姿
が描かれ、そして見慣れない小麦畑の素描が入り、寂しげなアルクェイドの姿
がなぜか二、三枚混じり、また志貴の姿に――それも、なぜか上半身が裸の――
戻る。

 事の成り行きをしばし忘れて、志貴はスケッチブックの絵に見せられていた。
そして、なんとなく怪しい雰囲気を絵柄が帯びていくのに気が付いていたので
あったが。

 そして、何枚目かの頁を捲った瞬間――志貴は頭をひっぱたかれたかのよう
な衝撃を受けた。おもわず志貴の口からは、放心したようなマヌケな叫びが漏
れ出る。

「なっ、なっ、なぁぁぁーっ!」

(To Be Continued....)