大木さんが差し出したのは、綺麗にラッピングされた手のひらに収まる小さ
いプレゼント。
赤い包装紙に白いリボンがアクセント。
大木さんらしい、可愛い品だった。
彼女の手はまっすぐにわたしに向かって差し出され、緊張のせいか、細かく
震えている。
目はしっかりと閉じていて、顔を真っ赤にしている。
女性のわたしから見ても可愛らしいと思う。
(もし、わたしがこんなに可愛らしかったら、兄さんはすぐに連絡をくれたのかしら――)
あのとき、兄さんは、わたしのことを「秋葉は妹じゃない。オレの女だ」と言
って、シキと戦ってくれた。
胡乱な頭で聞いたけれども、わたしの心の中により強く響いたのは忘れない。
オレの女
なんて下品な言い回し。でも兄さんらしい、率直な言葉。
その飾り気のない言葉のおかげで、わたしは紅赤朱の夢から目覚めることがで
きたと思う。
一度は自分を殺した相手に七夜の短刀をもって斬りかかる兄さん。
愛する人が自分のために戦ってくれる――女冥利につきることだ。
兄さんは全存在をかけて戦ってくれたのだ、わたしのために。これ以上の愛の
表現は、あとは心中しか思いつかない。
――なのに、そこまで言い切った兄さんは、わたしに手紙どころか電話ひとつ、よこさない。
自分がつっけんどんしていることは知っている。ついつい期待から兄さんに
辛く当たることも、兄さんに甘えることもしらない。
甘えたのはただ一度――あの離れでの一度きりの逢瀬。肌を重ねたとろける
ような瞬間だけ――。
あのときのような殊勝な秋葉でいれば――あの時は遠野の当主としての地位
も最初見た夢もなく、ただの秋葉、兄さんを愛するたった一人の女性として、
ただ心の赴くまま、会話できた時――兄さんはわたしをもっとかまってくれる
のであろうか?
魂の奥底――兄さんの命が共有された箇所には暖かなものが流れている。
しかし兄さんはわたしを知っているはず。
えぇ、つっけんどんで甘えることが知らなくて、意地っ張りで、毒舌家で……
胸がないことも ――えぇえぇ、自分でもわかっています。
自分は大木さんのように、こんなに可愛くない、素直でないことを。
ふと目の前の大木さんを見る。
心配そうに、でも嬉しそうに、ドキドキさせながら、わたしの行為を待って
いる。受けとれってくれるかな、受け取ってくれるよね、というオーラが感じ
られる。
なんとほほえましい。
そんな初な様子がとても可愛い。
瀬尾と通じる、純な様子。
世の殿方が好みそうな、それはそれは見事なまでに乙女で、乙女チックで、
とてもうらやましかった。
あぁ
ようやく思い至った。
わたしは彼女を、うらやましがっているのだ。
無い物ねだりというわけではない。
彼女はこうして、たぶん思春期における熱病みたいなもの――憧れの先輩へ
の告白――のために一歩踏み出したのだ。
なのに、わたしは一歩も踏み出せないで、ここで立ち止まって、澱を貯めて
いるのだ。
ふと見える青いビニールシート。
そうこの寄宿舎も改築されるのだ。
そして慣習に縛られた浅上も、わたしたちが変えるのだ。
――そうすべてのものは留まっていられない。すべては流転していく。
なのに、わたしは留まろうと、答えを兄さんに求めていて、預けていて、自
分では一歩も踏み出していない。ただただ逃れていただけなのだ。
なんて答えは単純。
世界の真理というものは複雑怪奇な迷路の向こう側に、本当にシンプルな、
そうだからこそ歪みようのない答え、真実がある。
1+1=2
揺るぎようのない、もっともシンプルでもっともシャープな答え。
ぐたぐたと言わず、なんたかんだといって理由をつけず、この大木さんのよ
うに、自分から向かっていけばいいというのに。
愛しい人に会いたい、ただそれだけだというのに。
ヘタに駆け引きめいた、痺れを切らして会いに来るまでなんてことは――どう
でもよいこと。
たしかにわたしは素直じゃない。
でも愛しいあの人に会いたい。
これだけがわたしの真実。
目の前の大木さんのように、ただそれだけを純粋に思っていればよい。
それが許されるのは10代の時だけだというのに。
それだけで、わたしは澱から解放されるのだ。
「――ありがとう」
わたしはいつの間にかしゃべっていた。
自分の声とは思えないほど、感謝の念がこもった声色。
大木さんが目を向け、こちらをうかがう。期待のこもった眼差し。
手を伸ばして、プレゼントを受け取る。
とてもとても小さい、でもとてもとても大きいものをくれたのだ。
頼られるのはかまわない。でも懐かれて、ベタベタされるのはイヤ。
(――なんて、なんて子供だったんでしょ、わたしったら)
遠野家の帝王学に毒されすぎていたのかもしれない。
上にたつものとして下にいるものに――そんなことをこういうところにまで当
てはめていただなんて――なんて愚かで子供だったんでしょう。
(兄さんを怒る資格なんてないわね)
愛する兄さんを下のものとして見立てて、上に立つ者の態度として接していた
なんて――なんて愚かな。
離れで愛しい兄さんと結ばれた時、あれほど素直だったのに。
なぜそのような態度で兄さんと接しなければならないというのだろうか!
大木さんのように、ただ一歩前に踏み出ればいい。
そんな乙女チックな勇気ある一歩――それをこのプレゼントは、大木さんは、
わたしに与えてくれた。
「あけてもいいかしら」
「……は、はい」
大木さんは頬を上気させながら、まだ信じられないものを見ているかのように
、わたしを見ている。
リボンをほどいて、包みを解く。
そこには、春の新色の明るい桜色をしたルージュがあった。
それを見たとき、わたしは知らず知らずに微笑んでいた。
自分が大人だと言い張って背伸びしていたことを見透かすような、そんな春
めいた桜色の口紅。
こんな明るい色は若いうちしか似合わない。20代に入ると、もう似合わな
いことがわかってしまう、10代の唇だけがまとうことが許される特権的な初々
しい華やかな色。
「いいの、こんなものもらって」
「……えぇ」
大木さんは何度も何度も大きく頷く。そして涙ぐむ。
「もらってもらえて……うれしい……です」
「あらあら、泣くことなんてないのよ、大木さん」
そっと手を伸ばし、彼女の涙を指先ですくう。
大木さんはさらに真っ赤になっておどおどとする。
「わたしの方が感激して涙しなければならないのに……」
「い、いいえ」彼女は今度は大きくぶるんぶるんと首を横にふる。「遠野先輩が涙するなんて――」
その言葉に笑う。ああなんてほほえましい。
「お礼をしなくちゃね」
「お礼だなんて!」
彼女は大声で否定する。でも、あなたからわたしがもらったのは口紅だけじゃ
なくてよ。
そっと彼女に近づき、唇を重ねる。
軽くただ唇と唇がふれる、挨拶程度の親愛な気持ちをこめた口づけ。
女子校でありがちのスキンシップのひとつ。
彼女の体に緊張が走り、硬直するのがわかる。
「――これでよかったかしら」
彼女からは返事はない。ぼおっと立っているのみ。
「では用事があるから、先に帰るわね」
そう告げると彼女はただコクコクと頷くのみ。
「本当にありがとうね」
わたしはその場を後にした。
わたしはすぐに帰ろうと思った。兄さんがしびれをきらして会いに来るまで
待とうだなんて――もうそんな意地の張り合いは、なし。
荷造りを終えたら、琥珀と翡翠と――そして兄さんが待つ遠野家に帰ろう。
改築工事が終わるまで、どこかのホテルに泊まってまとうと考えていた今さっ
きまでの自分がバカらしい。
オレの女
兄さんはそう呼んでくれた。ならば、付き従いましょう、兄さん。
秋葉は、遠野志貴の、兄さんの「女」、なのですから。
女が遠くにいてはダメでしょう、ねぇ兄さん。
ふかふかのベットで一日中抱いていたい。
兄さんは離れでそんなことをいった。
えぇいいでしょう、兄さん。
あの激しい逢瀬が思い出され、顔が熱くなる。たぶんきっと紅潮しているので
しょう。耳まで熱い。
そうだ、その時、このルージュを塗っていくのもいい。この勇気を、わたし
の心の中にあった澱を洗い流してくれた桜色の口紅をつけて、兄さんに会う――
まぁなんというか、わたしの中にある少女趣味をロマンティックに刺激するの
には十分であった。
そして兄さんに七夜の短刀を返しにいきましょう。
あれはわたしと同じく兄さんのものだから。
あるべきところにただ返る。
なんてわたしは意地を張っていたのでしょう。
そして部屋に届いたたくさんのプレゼントを思い出す。
うとましさは消えていた。
今はただ、ほほえましさだけが残る。
あれはすべて、誰かの一歩――足跡なのだ。
季節は春。
木々は芽吹き、まだ朝夕の冷え込みは厳しいけど、風は暖かく、小鳥が囀り、
梅薫る季節。
冬は去り、青き春が巡ってきたのだ。
わたしはわたしの足跡をつけるために、まずは一歩、歩もう――兄さんのも
とへ、と。
(ホワイト・デーには、兄さんから何かいただけるのかしら?)
そうね――だったらお小遣いを3月だけはあげてもいいかもしれない、ふと
そんなことを思った。
<了>
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