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時は僅かにさかのぼる、或る夜のこと。
琥珀は自分の部屋に籠もり、漢方・洋方の医書を紐解いてなんとか志貴の病
を治そうとしていた。だが、志貴の今の様子を師である宗玄に知られたくない
上に、ましてや世間に少年と戻る、という不可思議な事件を経た志貴を曝すわ
けには行かない以上、志貴の平癒は偏に琥珀の肩に掛かっていたと言っても良い。
だが、そんな琥珀も己の無力さを噛みしめるばかりであった。
もしかして、あの人なら原因を知っているかも――琥珀がそう思い始めた矢
先のことであった。
自分の部屋の机に付き、開いた医書の上でうつらうつらし始めた琥珀は、ド
アの外の物音に気が付いて目を覚ました。軽く目を擦ると、琥珀はその音が何
であるかを知って扉の外に出、玄関ホールの側にある電話台に向かった。
二階の志貴の部屋には音が届かないので、古風なダイヤル式の電話は鳴りっ
ぱなしであった。琥珀は受話器を取って耳に当てると……
「はい、遠野でございます……」
「ヴォンソワ……いえ、こんばんは、琥珀さん」
一瞬何か別の言葉で喋り掛けた様な気がする挨拶であったが、電話越しのそ
の声の主を琥珀は判別した。分かれて以来久しい相手であり、琥珀が連絡を取
ることを希っている女性でもあった。それは――
「これは、シエルさま」
「そちらでは……夜になりますね。夜分遅くお騒がせしてすいません」
シエルの口調からすると、時差のあるどこか別の国から話している口調であ
った。琥珀は受話器を握り、受話器の向こうのシエルの様子をうかがった。
シエルの声色はあまり恐縮した様子はなかったが、すぐにきまじめな口調で
話を切り出す。
「……遠野くんの体調がよろしくない、のではないのかと……」
「どうして……そのことをご存じなのですか?」
こちらが何と言い出すのか考えていた、核心の話題をシエルが口に出したこ
とに、琥珀は驚きを禁じ得ない口調で答えた。なぜ、シエルに便りも送ってい
ないのにそのことを知っているのか、と――
シエルはそんな琥珀の言葉から、己の問の答えを知る。そして僅かにおかし
がっているような声を上げると
「それは、虫の知らせとも風の便りとも……というのは俗な言い回しとしても、
こうなるのではないのかという予想は付いていました。遠野くんには遠隔で様
子は見ていたのですが……こちらの野暮用で連絡を取るのが遅れました。申し
訳ありません」
「いえ、そんな……折角ご連絡を頂きましたのに。本来はこちらからお尋ねし
ようかと思っていたのですが……」
琥珀は言葉を継ぎながら、シエルの話の内容を考える。
予期していた……こうなることを。ということは、シエルさんはなぜこうな
ったかを知っている。ならば、何らかの方策を立てることを知っているかも知
れない。
そう思うと、琥珀がぎゅっと受話器をにぎり、敢えて――無礼ではあるが、
強い口調で問うた。
「シエルさん。志貴さんに何が起こっているのか……ご存じなのですね」
「あくまで予期にしか過ぎませんが、その様子からすると……間違いないでしょうね」
「ならば、是非とも志貴さまをお救いする手だてをお教えいただきたいと」
「…………」
シエルはしばし、電話の向こうで黙り込む。
沈黙が痛々しく、琥珀は――かすかに震えながら、次の言葉を待った。
こほん、とシエルが軽く咳払いをしたかと思うと
「……琥珀さん、貴女は……」
「はい?」
「私と似ているんですね。だから、教えます。貴女だからこそ」
不思議なことをシエルは口にする。シエルの言葉の真意を掴みきれない琥珀
は不安そうな顔色で電話台の据え付けられた壁を凝視する。シエルの声は、微
かに悔いるような、だが誇らしげにも聞こえる色を漂わせながら喋り始める。
「遠野くんを助けることは、琥珀さん、翡翠さん、あなた方二人なら出来ます。
いや、敢えて言うのならあなた達ではないと、誰でも遠野くんを救えない」
「……シエルさん、まさか」
勘の鋭い琥珀は、シエルの言わんとしていることを即座に理解した。
琥珀の顔色がさっと変わるが、電話の悲しさか――それにシエルは堪える様
子はない。
ただ、淡々とシエルは話し続ける。
「ええ。共感者二人の力であれば、遠野くんを快癒させられます。いえ、二人
懸かりでないとだめです――遠野くんの作り替えられた八歳の身体と、十六歳
の魂。他の組み合わせよりは遙に拒絶反応は少ないのですが、やはり……無理
がありましたか」
共感者の力。それを発揮するためには――
琥珀の顔色は蒼白であった。だが、それは怒りの為ではない。
むしろそれを人は、困惑という。
「今回の遠野くんの蘇生を持続させる事は、琥珀さんと翡翠さん、貴女達の存
在がなければおそらく失敗したでしょう。人は神のさだめか運命のいたずら無
くして黄泉路からは戻れないのです……世の理を枉げて遠野くんを生かし続け
るには、常ならざるお二人の協力が、要ります」
「……シエルさま、あなたは……私と翡翠ちゃんを、志貴さんに抱かれろと?」
琥珀の言葉は、女性に向かって言うにしては直裁的な表現であった。
シエルは電話の向こうで口を閉ざすが、己の言葉に悔いたり恥じたりしてい
る訳ではなかった。ただ、琥珀の様子を見るために戦術的に沈黙を選んでいた
のであった。
シエルに抱かれろ、と己の主を裏切ることを唆す言葉を投げかけられても、
琥珀は気色ばんではいなかった。ただ、凍ったような顔色で受話器を握りし
めている。
二人とも、怒りや憤りは全くない、不思議な会話であった。
「……有り体に言えば、そうなります」
「シエルさま。ですが、志貴さんには秋葉さまがいらっしゃるのに使用人であ
る私たちに、そのようなふしだらなことをしろと仰るので?」
「……琥珀さん、貴女にとってはそれは、心の奥底で本当に望んでなかったと
言えますか」
――沈黙。
シエルの言葉は、あまりにも鋭く容赦がない。しばし琥珀は言葉をうしなう
が、それは――自分でも知らなかった心の底の真実を射当てられたからであっ
た。琥珀は脈打ちだした心臓の上を、ぎゅっと拳を押し当てて堪える。
「そんなことは……」
「琥珀さん。私は遠野くんと三咲町の事件に関して、色々と調べました。
だから知っているんです。貴女は……本当は遠野秋葉を、そしてシキを憎ん
でいると」
電話越しの、あまりにも鋭すぎるシエルの指摘。
琥珀はもはや口にする言葉もなく、胸を押さえてシエルの言葉に耳を傾ける
ばかりだった。
「いえ、憎んでいるというのは正しくありませんね。貴女は策謀を糧として生
きていた。それは、秋葉さんと遠野くん、それにシキを相争わせること。目的
なんかありません、貴女は争わせることが目的だった、そしてそれが貴女の存
在意義であった」
シエルの言葉は、まるで異端審問官の弾劾のように響く。
「そしてその目的は達成された。お見事、と言うしかありません。
だけども、その結果貴女は生きる目的を失った。遠野くんを連れて戻ってき
たときに、私は遠野くんの屋敷から死の薫りを感じました。それは、貴女があ
の屋敷ごと緩慢な、生けるがままの死を選んでいたのだと」
琥珀は、額に流れる汗を拭うことも知らない。
「だけれども、遠野くんは生きていた。そして貴女は死を選ぶことを止めた。
なぜならば、生き返った遠野くんの変貌から、貴女は秋葉さんを責めさいな
む可能性を感じ取ったからです。だけれどもシキはもう居ません、故に貴女は
舞台の袖に潜む脚本家であり、観客であることをあきらめ、今度ばかりは貴女
と貴女の分身である翡翠さんが舞台に上がらねばならない……そう思い始めて
いた」
「……」
「明確にそう考え始めたわけではないでしょう。だけれども、貴女の奥底の貴
女を生かし続ける本能がそう計算していた……間違えてはいないと思いますよ」
僅かに得意げにシエルは言うと、琥珀の返答を待った。
「なんで、そんなことを……シエルさん、貴女は」
「琥珀さん、似ているんです、貴女と私は。生に対する虚無を感じる身として。
だから貴女の考えている、いいえ、貴女の感じている本能は私にも分かる」
シエルは自信に満ちていたが、琥珀にはまるで、電話の受話器を掴んだまま
夢幻境に迷い込んでいるようにも感じられる時間であった。己の心の底を人に
言い表され、それを否定することが出来ない。
もしかしてシエルからの電話というのは幻であり、己の中の本能が理性を騙
し、人の話として己の理性を越えろと囁きかけている、そんな幻覚を見ている
のかも――いや、そうであった方が心はむしろ安定する。狂気には狂気の安定
があり、シエルのこの電話はそんな安定からはほど遠いモノであった。
「……シエルさん。では……私は志貴さまに抱かれて、そのことを秋葉さまに
知られて起きる悶着を楽しみにしている、と?」
「楽しみかどうかは知りませんけども、悪くは思っていないでしょう?琥珀さん
もしあなたが私が思う琥珀さんではなかったら、もうこの電話は切られてい
る筈です」
琥珀にはその声を聞き、シエルが受話器の向こうで微かに笑っている……と
感じていた。
それは謝りではないと思える程に。シエルが琥珀を分かるように、琥珀もま
たシエルのことを分かり始めていた。
「それに琥珀さん、私としては……みんなに生きていて貰いたい。遠野くんに
も、貴女にも。
それが喩え貴女の手の平の上で踊ることであったとしても、あのまま緩慢な
生ける死を選ぶよりはよほどマシです。それに、今度は……貴女も踊らなけれ
ばいけないのですから」
「あは……そうですね、シエルさん……本当に……」
いつの間にか、琥珀の表情にも変化が洗われていた。
シエルの言葉が進む毎に、琥珀は笑い始めていた。微かな闇の薫りを感じさ
せる笑いに。
「それに、この際だから白状しますと」
「……はい?」
「こうなることを予期して、私は三つ策を講じました。
一つは……秋葉さんをしばらくの間、遠野くんから遠ざけておくこと」
シエルはそう告白すると、くすくすと笑いを付け加える。
まるで自分のしたいたずらを友達に語るような口調で……
「もし秋葉さんといっしょに遠野くんがいれば、事態を阻害して遠野くんの命
も危険にさらしかねません。ですから素っ気ない手紙を秋葉さんには送りまし
た……案の定、意地を張ってしばらくは無理して戻ってこない、と」
琥珀はそう言われて、恋しいはずの兄である志貴が戻ってきてもなぜ秋葉が
戻ってこないのか、その理由が腑に落ちた。シエルの蔭がその蔭にあったとい
うのは、意外ではあったがおかしくない話である。
琥珀が話を促すと、シエルは話を続ける。
「二つ目は、遠野くんの身体です。八歳の少年の身体なら翡翠さんにも、秋葉
さんに対する心理的な遠慮からの抵抗が少ない……もっとも本当の目的は蘇生
のためで、副次的効果ではありますが翡翠さんの事は無視できないファクター
だからです。
さらに、今の子供の遠野くんを救うためなら、翡翠さんは何をも惜しまない
はずです」
「なるほど。では三つ目は……」
得心する琥珀の問いに、シエルはさらりと答える。
「遠野くんの身体に、共感を成立させる能力があるかどうかを前もって確かめ
ました」
「……?」
「ふふ……遠野くんを襲っちゃったんですよ。大丈夫です、遠野くんには男の
人としての能力は十分にあります」
最後の一つだけは、琥珀も予期しない答であった。
呆気にとられる琥珀であったが……三つの答えを聞くと、酷くおかしな感情
がこみ上げてきた。ずっと真剣になって思い悩んでいたのが馬鹿らしくなるよ
うな、人の生死すらも超越した滑稽さ。
――なんだ、そうだったのか
シエルがこんな風に策を巡らせていたのに、自分は何を手控えていたんだろ
う――と
やがて琥珀の口からは、笑いが漏れていた。人の心の黒さのない、少女のよ
うな純粋な笑い……いままでそんな風に笑えたことがなかったのに、受話器を
持ったこの瞬間だけ、そんな笑いが出せた。
「くす……もっと早く貴女と私が会えば、良いお友達になれてたかもしれませ
んわね」
「そうかも知れませんし、今からでも遅くはありませんよ」
そう素っ気なくも感じる口調のシエルに、琥珀は最後の問いを発する。
「もしかして、シエルさん……貴女が全部仕組まれていたので?」
「いえ。遠野くんが無事平穏に暮らせるか、今回みたいな事態になるか……確
立は五分五分でした。五分だったからこそ、予め色々と手を回したんです。生
憎、役に立ってしまいましたが……さて、私のカードの手の内はここまでです。
後は貴女のゲーム、醒めることのない夢の舞台……琥珀さん?」
そうシエルに言われて――琥珀の決心は決まった。
私は生きよう。秋葉さまと志貴さん、そして翡翠ちゃんと一緒に終わること
のないスラップスティックの舞台に生きよう。もう、脚本も何もない。私も足
がもつれ手が萎え息が尽きるまで踊ればいい――そうすれば、次に何をすれば
いいのか自ずと分かる。
「――有り難うございます、シエルさん」
琥珀の口から、そんな言葉が知らずに漏れた。
シエルはその感謝の言葉にようなく、申し訳なさそうに応える。
「いえ、差し出がましい口を利いて申し訳有りません。
それでは琥珀さん……良い、夜を」
電話は切れた。琥珀の別れの言葉を待つこともなく。
ツー、ツーという切断音を発する受話器を手にした琥珀は、そっと笑いをか
み殺す。
長い夜と夢が始まろうとしていた――
(To Be Continued....)
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