/Across The Nightmare/           狂人

                   1/


 戦況は少女の気紛れのように唐突に、取り返しのつかないほど確実に変化した。

 最初、二つの彗星が降り注いだのだと志貴は錯覚した。
 しかし現実に志貴と荒ぶるシオンの眼前に降臨したのは、頭上の月さえ赤裸々に妬むほ
どの麗しさを備えた、よく似た二人の女。
 誰よりも紅い地に独り立ちながら、あまりにも白く無垢な爛漫の姫。
 吸血鬼。真祖の姫。面倒宅配屋。ばか女。
 忘れるはずがない、その名を。

「アル、クェイド――――!?」

 狂騒するシオンと向かい合っていることも完全に忘却して、志貴は突然に現れたアルク
ェイドに叫ぶ。
 アルクェイドは志貴に気付いたようだったが、言葉を返そうともせずにぎらりと抜き身
の刀を思わせる鋭い眼光で前方を睨む。
 頬にはじわりと汗が浮いている。
 いつも心地好い虚脱感と不遜さを失わないアルクェイドが見せる切羽詰った表情は、志
貴に強烈な不吉さを覚えさせる。
 
 かつ、かつ、かつ

「――――――っ!?」

 何者にも憚ることのない、世界に対して悠然と響き渡る靴音。
 そこで初めて志貴は知覚する。
 誰かが、緊張するアルクェイドに向かってゆっくりと近付いていく。
 吸い込まれるように目を向ける先。

「な――――」

 アルクェイド=ブリュンスタッド。
 彼女に彼女が近付いていく。
 蜂蜜の河が流れるように夜を照らし出す黄金の長い髪(クシ)。
 中世の王族を思わせる純白の装束。
 高貴。或いは光輝。
 暴力的でさえある、あまりに満たされた眩むほどの気高さ。
 それらを纏う冷たい目をした吸血鬼もまた、紛れもなくアルクェイド=ブリュンスタッ
ドであった。
 アレを知っている。
 遠野志貴の中に存在するミハイル=ロア=バルダムヨォンは、
 彼女を畏れ、敬い、崇め、尊び、同時に侮蔑し、そして、制御不能に愛していた。
 現れた二人目の黄金。
 “朱い月”と称されるその金輝なる姫君を。

「なるほど」

 朱い月は、不意に歩みを止め、視線をアルクェイドから志貴へと移して呟く。
 豊かな絹糸のような髪は、主の僅かな動きにも傅いてゆらりと優雅に舞う。
 柔らかいルビーの唇が下卑たところのない悦楽で綻ぶと、紅い双眸に捕われた志貴は呼
吸さえ彼女に支配されたような圧迫を覚えた。
 それをつまらなげに眺め、朱い月が続ける。

「そこな殺人鬼が発現し得る可能性としての自己を悪夢とするならば、うぬが妾をこうし
て持ち出すのは至極道理よな。うぬは妾を嫌っていた。否――畏れていたか」

 退廃を吐息に絡め、朱い月は未だ成らぬ自らを眺める。
 対するアルクェイドは、唇を噛み締めながら自らの未来像であり、かつての鏡像の姿を
貫くほどに視圧する。

「私は、私よ。何千何百年待ったって、あなたになんか絶対にならない」
「ふむ。されどうぬの内にも妾の席は確実に存在する。である以上、絶対という言葉を軽
々しく用いるのは如何なものかな。
 悪夢とは忌避すべき自己でありながら、決して断ぜられぬ脅威である。
 悪夢は自己より発生し、その場は自己の内部にのみ存在するのだから。
 故にその男が殺人鬼と化す因子は絶対的に存在し、うぬが朱い月たる因子も然り。
 絶対を冠するならそちらのほうが相応しいであろう」

 威圧は空気を侵すほどに増大していく。
 朱い月がまた一歩を踏み出し、アルクェイドは身構えて爪を変性させる。
 神経質な猫にでも出会ったかのように気負いなく肩を竦め、朱い月は不安定な器を嘲っ
た。

「賢い選択とは言えぬぞ。妾の抹消を望むは、即ち妾がうぬの悪夢であることの究極的な
証明に他ならぬのだから。例え果てたとて、次なる夜には今宵よりもうぬへと近付こう。
 いや――――違うな。うぬから妾へと近付くのだ」
「五月蝿いッ――――!」

 金色の弾丸が闇を貫く。
 無音の疾風と化したアルクェイドが一足飛びで朱い月との間合いを詰め、鋭い五指を一
切の容赦無く袈裟がけに斬り下ろす。

「――――――ふふ」

 雛鳥が囀るような、穏やかな笑み。
 朱い月は優雅に差し伸べた掌で、小鳥の柔な爪先を受け止める気軽さでアルクェイドの
爪をあっさりと防いだ。
 アルクェイドが目を見開き、間髪入れず喉元へ迫る白の手刀から身を躱す。
 おん、と空気を震わせた掌は標的を射抜くことこそできなかったが、空間を断裂させア
ルクェイドの滑らかな首の薄皮一枚を剥ぎ取っていった。
 灼けつく痛みに、アルクェイドは端正な顔を歪めて牙を噛み締める。

「生憎と愛撫は欲しておらぬぞ。微風で妾を討とうというのではあるまい。
 心に隙間が視えておる。いざ交わるか? アルクェイド=ブリュンスタッド」
「――――ッ!」

 ぎり、と奥歯を噛み締め、再びアルクェイドが地を蹴る。
 朱い月も翼を得たような身軽さで跳躍し、二つの影が夜空に交錯する。
 二人の右腕が鞭のように撓り、縦横無尽に衝突して渇いたコーラスを奏でる。
 どちらも決定打には至らず――朱い月はむしろ遊戯的に――攻撃をいなしては当てずっ
ぽうに跳ね返す。

「ちっ……!」

 アルクェイドは余裕を見せる朱い月に苛立ちながら、何度目かの爪を振り下ろす。
 それは朱い月の右の二の腕を掠め、細い一文字の傷を描いた。
 雪よりなお白い肌に、鮮やかな赤色の雫がつぅ、と伝う。
 だが、一撃を喜ぶどころかアルクェイドはびくりと身を竦ませる。

「どうした? ここに牙を突き立て貪り吸っても構わぬぞ? のう――――吸血姫よ」
「ふざけないで! 私は血なんて、絶対に吸わない、吸わないんだから……!」
「よく言う。うぬはもう二度も誤りかけているのだぞ。否、一度目――あのよく囀る司祭
に至っては、虚言を弄され自ら突き立てたであろうが。
 見たことか、“絶対”などが容易く存在するはずがない。
 うぬがそこな男に食らいつかぬ証など、どう立てられるというのだ」
「その口を、閉じなさい――――!」

 朱い月が哀れむように志貴を見据えた瞬間、アルクェイドの中で理性が弾ける。
 金色の瞳が危険な輝きを帯び、アルクェイドの肢体が獣の動きで闇に炸裂する。
 万力のように朱い月の両肩を捕らえ、引き摺るようにしてコンクリートの床を擦る。
 朱い月もされるがままではなく、アルクェイドの頭と首をみしみしと締め上げながらも
んどりうって移動していく。
 止まらない。シュラインの屋上は広くとも無限の広野ではない。
 出来損ないのバベルの頂上には金網さえなく、救いはなく。
 とうに周囲など見えていない二人の吸血鬼は無様なダンスのようにもつれ合って、やが
て自ら踏み締める大地さえ見失う。

「や、ヤバいっ!」

 あのままでは――――
 不吉な未来を頭にくるほど明確にイメージして、志貴が叫ぶ。

「止まれアルクェイド! それ以上進んだら――――――」

 解かっている。絶望的に解かっている。
 その先に未来は一通りしかない。
 そして、彼女の未来がもう半ば決定しかけていること、取り返すには遅すぎることも痛々しく理解できる。
 けれど、手遅れだとしても、叫ぶしかない。
 怒りに震え、聞こえてはいないのかもしれないけれど。
 止まれ、止まれ、止まれ。
 でないと――――――

 墜ちる

「――――――え?」

 志貴の絶叫と、アルクェイドの表情が崩れるのは狂おしいほどに同時だった。
 視線が交わるのは一瞬。アルクェイドの姿は跡形もなく志貴の視界から消失する。
 ――――二度目は錯覚などではなく。
 遠野志貴の目の前で、二つの金の彗星が、摩天楼の頂から絡み合うように墜落した。

「あ――――アルクェイドっ……!」

 志貴は弾かれたように疾駆し、アルクェイドが消えた闇を見下ろす。
 夜の闇は深く、重く、地上を見渡すこともできないほどに包み込んでいる。
 月は近く、強烈に実感される地上との距離が志貴を焦らせる。
 いかに吸血鬼の肉体とはいえ、この高さから墜落すれば無事では済まないのではないか。
 口を開けた無音の闇を見下ろしたまま、一瞬志貴はすべてを忘我した。

 一瞬。瞬きほどの刹那。
 けれど、互いを奪い合う時間において、それは双方にあまりにも残酷すぎる空白だった。
 無防備に曝け出された白い首筋。
 焦がれ求めた相手が自分から目を逸らしたという現実は、
 精神の絶壁で足掻きつづけたシオンの緊張を、薄氷のように儚く破砕する。
 スベテが、コナゴナ。
 けれど朱い望みだけは残って。

「――――――あ」

 志貴がか細い悲鳴を上げて振り向いた時、その首筋には一筋の涙を伝わせながら牙を突
き立てるシオンの姿がはっきりと視認できた。
 何かが、急速に身体から逃げていく。
 嗚咽と、荒い吐息と、どくどくと波打つ鼓動が聞こえる。
 そうして、志貴は一つの裏切りを理解した。
 シオンが、自分に牙を突き立てている。けれど、それは裏切りじゃなく当然。
 裏切ったのは――――この自分だ。

「――――ご、めん」

 壊れてしまいそうな彼女を、誰よりも自分が見ていてやらなければいけなかったのに。
 まるで玩具に飽きた子供のように、あっさりと見限った。
 一瞬。けれど空白は絶対に存在し。彼女は一人ぼっちに取り残された。
 だから時間の長さなどまるで問題でなく、それは最低最悪の背信行為。
 シオンの最後の壁を砕いたのは、紛れもなく遠野志貴だった。

「ウ――――ぅ」

 シオンは応えない。ただ、唸るように何度か喉を震わせる。
 それが声を殺して泣いているようで、首を貫く以上の鋭い痛みに志貴は唇を噛んだ。
 消失は止まらない。
 赤子が母の乳を啜る熱心さで、シオンは志貴から紅を汲み上げる。

「あ――――ぐっ」

 巨大な手が意識を掴んで、闇へと埋めてしまおうとする。
 指先からじわじわと、凍りつくように感覚が淡くなる。
 それに抗うことができない。抗う力さえ、手当たり次第に吸い取られる。
 やがて、背中からシオンに抱き締められ食らいつかれたまま、志貴は糸が切れたように
がくりと両膝を地面に擦りつける。
 あまりにも急速で強力な消耗が、志貴から自由を根こそぎに奪ってしまう。

「し、シオン……」

 詫びたかった。
 一言でいい、何か言葉をかけたかった。
 けれど、ぐらつく膝を保たせるのに精一杯で、喉を震わせることさえできそうにない。
 霞のように不確かな意識。鉛を塗り込められた瞼は、闇雲に視界を断絶したがる。
 断崖に身を乗り出した危うさ。
 落ちたくないと願いながら墜ちていく感覚の境界で、志貴は何度もシオンに詫びつづけ
た。

「ふ――――はぁっ……」

 息が続かなくなるまで吸って、吸って、吸い続けて、シオンは漸く口を離した。
 唇に、舌に、まだ志貴の温もりと味が濃厚に残留している。
 こびりついた残滓まで余さずに拭い取って、久方ぶりの空気を堪能する。
 その、喉を通過する酸素の味までが、一変していた。

「はぁ、はぁ、はぁっ……」

 なんて自由。なんて鋭敏。ああ、なんて恍惚。
 圧倒的に開けた世界。生まれ出ずる蛹の悦を、シオンは痛快に感受する。
 爪の隙間に詰まった肉のような、無遠慮で前衛的な感覚。
 錆ついた人形のような身体の不自由さも、
 内側から風化していくような喉の渇きも、
 ぎりぎりと糸で搾られるような感情の抑圧も、
 一切が霧散した。

「身体が、軽い……これが、吸血鬼のスペック……」

 際限なく湧き上がる力は、筋肉、繊維の隅々にまで満ち足りて回転する。
 眼は澄み、手足は張り、頭は千里の果てまで冴え渡る。
 成長どころではない。これは新生進化の境地だ。

「思考速度、分割効率、命令伝播、実行精度、どれ一つとっても吸血以前とは比較になら
ない。……これほどの超越とは。信じ、られない――――」

 基礎能力が二段階、いや、三段階以上に上昇改変されている。
 通常でこれなのだから、実思考状況、戦闘状況に解放された全能力を考えただけで身震
いがした。
 思考に靄一つさえない。志貴と戦う中で感じていた、あの砂じみた苦い焦燥も、どこか
へ逃げてしまった。
 ……これが吸血鬼か。信じ難いほど非論理的なスペックアップ。
 人の身には狂おしく妬ましい、黒き魔性の進化。
 けれど。一歩その垣根を踏み越えてみれば、なんて愉快。

 愉快。愉快愉快。愉快愉快愉快。愉快愉快愉快愉快、愉快愉快愉快愉快愉快!
 癒界融解。融解。融ける解ける。
 熱くてトケル。身体が熱くて、どこもかしこもどろどろ溶ける。
 汗が噴出して止まらない。すべての骨が赤熱する鋼鉄みたいだ。
 刻一刻と増幅する力は体内に収まりきらず、膨大な熱となってシオンを焦がす。

「くっあ――――んっ、はぁぁぁっ……!」

 それは単純な熱ではない。
 外界に放出されると同時に、感覚の胞子をシオンの身体中に撒き散らしていく。
 胸の蕾に、汗の伝う首筋に、艶かしく濡れた唇に、そして、シオンの最も雌体である部
分に、熱く煮詰まった蜜が浴びせられる。
 殊に耐え難いのは、脳髄を急速に支配していく高熱。
 焼き切れそうになる脳を解放するために、理性は最も単純なロジックで身体の熱を発散
しようとする。

「んんッ……くぅ、は――ぁんッ……!」

 脱力した志貴から離れ、シオンは両手で我が身をかき抱いて悶える。
 これが、方法だ。
 自分で抱えきれない熱なら――誰かにそれを解き放ってもらえばいい。
 即ち、熱の交換。それを促すために、脳はシオンに一つの単純な感覚を流布する。

「ぁ――――はぁ、ぁっ……」

 身体が熱い。口の中が唾液でぬかるむ。
 視界まで潤んで、スカートの奥がちりちりと痺れだす。
 ぐったりと項垂れた志貴を見ていると、ぞくぞくするような官能的な衝動が弾ける。
 汗の雫が夜露のように胸の谷間を伝う。
 今や猫というよりは血を求める獣のように、シオンは強烈に発情していた。
 もう自分を抱いているだけではおさまらない。
 早く、早く、この灼熱から解放して――――志貴。
 彼は協力者だから、きっと助けてくれる。
 我慢ができない。じっとしていられない。はやく、早く早く早く早く。
 ……でも。あれほど我慢していた戒めを、私はついに破ってしまった。
 だったら今更、他の何を我慢する必要があるんだろう?

「……そう、ですよね。私はもう、人ではない……」
「――――そう。だから君はもう人の倫(ミチ)などを鑑みる必要はないのさ、シオン」

 唐突に響く優しげな声。
 その主に気付いたのは、懊悩するシオンではなくぐったりと虚空を見つめていた志貴だ
った。
 気力のすべてを振り絞ってようやく頭を動かすと、シュラインの屋上に寄生していた闇
――タタリの球体が紫電を放って歪み始めている。
 重い身体にそれでも緊張が走るのを感じながら目を凝らす。
 地球儀のような正確な球形を描いていた闇は歪み、膨張し、より複雑な形へと急速に変
容していく。
 終いに壊れたビデオのようなノイズを混じらせた後、ソレは完全な人型に落ち着いた。
 それが、エレベーターの中でシオンが語ったズェビア=エルトナム=オベローンである
と、志貴ははっきりと認識した。
 しかし、何故――――?
 訝る志貴の前で、ズェビアは天を見上げ忌々しげに唇を噛んだ。

「……化物め。空想具現化で朱い月を喚び出したというのか?
 これでは駆動式も機能しない! おのれ、第六法へと至る我が栄光を阻むか!」
「……あかい、つき……?」

 ぼんやりと反芻しながら、志貴は追いかけるように頭上を見る。
 シオンも、呆けたままで同じ高みを見上げていた。

 ――――そこには、血よりもなお朱い、魅了の天体が座していた。
 宇宙の流す血涙。その粒が凝ったかのような、あまりにも美しく紅い球。
 正しく荘厳なる、朱の月であった。

「なんだ、あれ……」
「無粋、無粋無粋! 自ら夢に視るだけでは飽き足らず、我が一夜の彩にまで土足で上が
り来るか! 貴様の月など欲してはいない! うせろウセロ失せろ!」

 ズェビアは半狂乱で喚き散らし、異常に伸びた五つの爪で虚空の紅い月を切り刻む。

「自ら、夢にだって……?」

 喘ぎ喘ぎに紡ぐ志貴に気付いて、ズェビアはちらりと志貴を一瞥して吐き捨てる。
 出来の悪い弟子を諭す教師の仕草で。

「先程現れた朱い月は真祖の内面の恐怖を心象したモノなのだ、少年。
 私が演出するまでもなく、まったく自然偶然に彼女は昨晩悪夢を見たのだよ。
 なんとも痛快至極のタイミングだとは思わないか?
 おかげで彼女は彼女によって排斥されてくれた。
 だが、体良く邪魔が失せたかと思えば今度は空に朱い月だ。
 邪魔だ無粋だ不要だ! 私は彼女から駆動式を取り返さねばならない!
 だが――――うむ。怪我の功名というのはある。悪いことばかりではないものだね」

 夜風にマントを翻し、ズェビアは忘我するシオンの傍らへ近付いていく。
 甲高い足音に、漸くシオンは朱い月からそちらへ注意を移した。

「貴方は、ズェビア……」
「そうだ、久方ぶりだねシオン。今の君と再会できて、感激の極みだ」
「今の、私……?」
「ああ。吸血鬼として進化したシオン=エルトナム=アトラシアとの再会に感激している。
 矮小な理性と決別し、君は今まさに超越者となったのだ。
 この日を迎えるために、私は三年前君を見逃したのだろうね。
 聞こうか。今もなお、私を討とうと願うか? 私の忠告は誤っていたか?
 ……進化が君に齎したのは、解放か? 苦痛か?」

 畳み掛けるズェビアに、シオンは俯いて暫し沈黙する。
 何故か、陰を帯びた顔を見つめる志貴は言いようのない不安に胸を締め付けられる。
 そして。
 再び上げられたシオンの貌には、澄んだ闇色の笑みが浮かんでいた。

「……いいえ。今、私はあらゆるものから解放されている。
 真理を求める上で束縛は普く毒。この自由を手にした今、貴方の選択は正しかったと認
識します」

 にぃ、とワラキアは裂けんばかりに口を歪めて嗤う。
 だが、その反吐の出そうな笑顔よりも、志貴は何よりシオンの言葉に打ちのめされた。

「シオン、違うだろ……! 人であり続けようとした君は――ぐっ……間違ってなんか、
いない――!」

 口にしてから、気付く。
 シオンはずっと人間であろうとしていた。
 それを諦めさせてしまったのは、この自分じゃないか。
 絶望と自己嫌悪が、奪われた血液よりも重い喪失となって圧し掛かる。
 慰めるように、シオンが膝を折り、両手を志貴の血の気が失せた頬に寄せる。

「真理は一つです、志貴。それはある者には快楽でありある者には苦痛となる。
 私にとって、この選択は前者を齎した。あらゆる束縛からの解放という形で――。
 だから、私はもう我慢はしません。私にとって最も耐え難かった戒めを、今捨てる」

「志貴、私は――――あなたが欲しい」

 血色に蕩けた瞳へ志貴を映しながら、シオンは夢見るように求愛した。
 志貴が身動きするよりも早く、唇が重なってくる。

「む――――ぅっ、んっ……!」
「んん……んむ、ふ……っ……」

 熱心に吸い立てられる柔肉。濡れたマシュマロのような二つの唇が押し合い、ねっとり
と交わる。
 巧みに唇で唇を愛撫しながら、シオンはすぐさま舌を侵入させてきた。
 貧血で動きのままならない志貴の口内をシオンの舌が弄び、奥に待つ志貴の舌を捕えて
蛇のように絡み取る。
 先端をくすぐり、様子を覗うように周りからぐるりと巻き込み、波打って跳ねさせる。

「ふ……ぅんっ、むぅ――――ふっ……」

 ひとしきり口の中で唾音のコーラスを奏でると、シオンは名残惜しそうに顔を離す。
 引き離された舌と舌が、まだねっとりと唾液の糸で繋がっていた。
 それを、ズェビアの爪先がぷつりと千切る。

「そうだ。君はもう如何なる道理も憚ることはない。欲望し渇望し略奪し充足せよ。
 その少年は君の新生を祝う供物だ。
 快楽、情熱、鮮血、白濁、筋肉繊維骨格、言動人格生命に至るまで君のモノだ。
 存分に堪能するといい。今こそ、闇の父として君を祝福しよう。
 そしてその角出、私にも手伝わせてはくれないか?」

 歓喜を抑えきれない様子で胸を震わせ笑うズェビアに、シオンは首を傾げる。

「手伝う、とは……どういう意味ですか」
「なに、私にとっても三年ぶりの生身だ。些か雌の感触に焦がれていてね。
 その相手を君が務めてくれるというなら――――これに勝る悦は無いだろう」

 好色そうな昏い光を双眸に宿し、ズェビアはシオンを舐めまわすように視姦する。
 自らの継嗣に浅ましく欲情しているのだ。
 以前のシオンなら嫌悪に皮膚を粟立たせていただろう。
 しかし、束縛を放棄したシオンにとって、禁忌は――それまで抑圧してきた刺激は――
快楽を何倍にも高める妙薬にも等しい。
 新たに全身を突き抜ける波に震えながら、シオンは艶を込めてズェビアに頷く。

「……了解しました。真理を与えてくれた返礼をしましょう。
 ただし、私も充分に愉しませてもらいます」

 二人の吸血鬼が紅月の下で妖しく微笑み、動けない志貴へと近付く。
 長く、狂おしく朱く、そして淫らな夜の始まりだった。

(To Be Continued....)