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    魍魎の匣/
        /絡新婦の理             狂人


  その場その時一番相手に利く呪文を誦えるだけです。
  近代反近代人道非人道の区別など――僕には最初からない。

                ――京極夏彦「絡新婦の理」


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  頁を捲る指を止め、私は大きく一つ溜息をついた。
  夕食後に琥珀から借りた小説を読み始めて、気がつけば随分夜も更けてきた。
  妖怪小説というのだそうだが、その独特の手法と雰囲気に、
  不覚にも時間を忘れてのめり込んでしまった。

  「悪党、御用じゃ――か。この物語も、エレベータの先で終わったのですね」

  奇妙な偶然に、胸の奥へ感傷めいた鈍い痛みが去来する。
  そう、私、シオン・エルトナム・アトラシアもまた、エレベータを降りた先で
  自らの物語に一つの幕を閉じたのだ。
  先程まで私を虜にしていた幾万もの文字――その中にみっしりと詰め込まれた
  欲望、狂気、葛藤。
  決して同じではないものの、私は私のソレ等と対峙し、決闘し、自ら幕を引いた。
  本の中の彼等。本の外の私。
  それぞれに現実が存在し、無限に展開されるステージと終わりのないチェイスを
  繰り返す。
  残念ながら――と思うのは、それだけ私が執心していたからか、扉の先で彼等を
  待っていたのは微笑ましい終結ではなかった。
  それを不幸と表するのは、埒外の者の浅慮だろう。
  幸福には明確なカタチなどないのだ。
  だから――闇の底でも、泥の中でも、死に塗れても、そこに誰かの幸せは有る。
  そして、本の外で決着した私。
  思わぬ協力者もあって、私はそこで私なりの幸せを手に入れたと言える。
  結果としての幸せが二つ。
  私と彼等の幸せはまったくの別物だ。
  けれど、そこへ至るまでの過程はひどく似通っていたのかもしれない。

  「幸せになるのは、簡単なこと」

  黒衣の男は、ここではない場所を視ながら言った。
  
  ――――人を辞めてしまえば善い、と。

  成る程、それはとても魅力的で能率的な提案だ。
  人の容(ウツワ)を抜きん出たなら、人であるが故の苦しみは失せる。
  人の魂(ココロ)を抜きん出たなら、越境の快楽を享受できる。
  悪いことはない。
  ただ、その瞬間に人(オマエ)はオマエでなくなる、ただそれだけのこと。
  人間という原義の喪失。
  それは、現在以前の自己を完全に否定し、抹消する行為。
  ただ失うのではない。
  その先で、昨日までは持ち得なかった幸せを手にする資格を得る。
  幸せの形が変わるだけ。
  ただし――――変化した幸福を受け取るのは、必ずしもオマエではない。
  ひょっとしたら、そうでない可能性のほうがずっと高い。
  人間を辞めるということは、オマエを辞めることと同義なのだ。
  ……私は、それが堪らなく嫌だった。

  私にとっての幸福。その一つの具現は、血を吸う鬼。
  吸血鬼と呼ばれるソレと化し、不都合な肉体と不条理な渇望から解放されることだった。
  忌まわしい毒を注がれた肉体は昼を厭い、太陽に媚びた分だけ容赦のない痛みで嫉妬し、
  ふてくされて機能が減退する。
  殊に問題なのは、止まることを知らない渇き――鮮血への渇望。
  そうなのだ。
  吸血鬼はあの紅くてどろりとした液体がなければ、一人で生きていくことすら出来ない。
  なんたる不調和。不完全。他者依存。
  人でなしの力と肉を持ちながら、彼等にすらぽっかりと風穴が口を開けている。
  循環せず、排泄するだけの生命。
  枯れるために咲く花。
  だから、失われ続けるモノを誤魔化すために、誰かを騙し、盗み、奪い取る。
  首を落としても死なない? 
  心臓を潰しても死なない?
  当たり前だ。お前達は最初から生きてはいない。
  私は彼等を憎悪する。
  ……けれど。一方で、その超越した生命力へどうしようもなく憬れたのだ。

  踏み出しかけた足を止めたのが、お人好しの同行者――遠野志貴。
  吸血鬼の彼岸へと歩き逝く私の手を、無理矢理に引き戻した。
  結局、私はこちら側で一つの幸せを掴み、ここにいる。
  けれど、あのまま向こうへ踏み出していたのなら、そこには今とは違う形の
  シアワセが在ったのだろう。
  掴めなかった私は、臆病だったのかもしれない。

 「……でも。今、私は満足している」

  身体は相変わらず流行り病のような渇きに魘されるけれど、痛みの中であの日の選択を
  悔やむことはない。
  本の中、彼岸へと至ってしまった彼等も、悔恨で己を顧みることはしなかった。
  彼等は、あちら側で幸せを掴んだ。
  私は、 こちら側で幸せを掴んだ。
  なにも間違ってはいない。
  私は人を辞めることはなかったが――私は、これで良かったのだ。
  どちらかを選べたから。
  選べなければ、境界に涌くという魍魎に食らわれていただろう。
  こうして温かいまま在ることが、私にとっての幸福だ。

 「さて、もう一頑張りしましょうか」

  ノスタルジーから帰還すると、奇妙に意識が冴えてしまった。
  琥珀の一番の勧めはもう数冊先だというし、このまま第二回戦がいい按配だ。
  新鮮な気分に包まれながら、私は次の一冊へと手を伸ばした。


  最後の一冊を棚に戻した頃には、もう新しい日が始まっていた。
  しっとりと夜が更け、部屋にもぴんと張りつめた冷気が染みてくる。
  けれど、私はといえば読後の興奮で少し暑いくらいだった。
  琥珀にはこれまでも何冊かの本を融通してもらっていたが、今回の一連の作品は
  特に感慨深い読後を与えてくれた。
  可視と不可視。現実と虚構。生(エロス)と死(タナトス)。
  それらが或いは絡まり、或いは弾ける成立と不成立の連続が、最後まで私を魅惑していた。
  アトラスでも貴重な文献を幾つも読み漁ったが、
  今夜はそれに近い法悦を味わうことができた。
  琥珀によく礼を言わなくては。

  「――――――ん」

  腹部に虚脱感。
  夜更かしをしたせいか、真夜中だというのに私はひどく空腹を覚えた。
  集中していたものが途切れたせいもあるのか。
  おまけに、喉の渇きまで――吸血衝動ではないが――釣られて現れる。
  さて、この屋敷において食事というカテゴリを統括する人物は一人しかいないのだが、
  丁度良く私は彼女に用事がある。
  一石にて二鳥を仕留める機会があるわけだから、有効に活用しよう。
  椅子から腰を上げると、私は夜の廊下へと静かに踏み出した。

  昼間は来訪者の性質もあって必要以上に騒がしい遠野の屋敷も、
  夜を迎えれば死街のように静寂を放つ。
  窓から差し込む月の光は、蒼白くぼんやりとしてどこか志貴の目に似ていた。
  人気のない廊下を、靴音に注意しながら進む。
  瞳は、まだ把握しきっていない屋敷の構造へと向いていた。
  退魔の一族を統括する遠野の屋敷だけに、私という来訪者を迎え入れてなお
  主を持たない部屋は多い。
  人影のない部屋。それは、空っぽのまま開け放たれた箱のようなものだろうか。
  ――――匣。
  そう、あの物語では巨大な研究所――人を収めた空間を、匣という名で呼んでいた。
  そう考えれば、無人の部屋の群れは、否、私の寝泊りする個室すら、一つの匣と
  呼べるのではないか。
  匣には。あの研究所には。この屋敷には。私の部屋には。そこかしこに。
  ―――――――アレが、居る。

  有り得ない不成立の幻想。
  ソレが頭蓋の隙間へ染み込んできそうになった時、闇の向こうから足音が聞こえた。
  ……いや、実際にはもう幻想が現実を侵蝕していて、
  アレが私に近付いてきているのかもしれない。
  胡乱な意識のまま、じっと前方の闇を凝視する。
  そして――――

  「お休みになられていなかったのですか、シオン様」

  妖怪などではないその影は、私を認めると深々と頭を下げた。
  程なく持ち上げられた顔には、見覚えがある。
 
  「今晩は、翡翠。いつも夜遅くの見回り、ご苦労様です」

  この屋敷に仕える使用人姉妹の妹、翡翠。
  控え目で主人をよく立て――――そして、時間にとても正確だ。
  なるほど、今夜も何時の間にか彼女が屋敷を見回る時間になっていた。
  翡翠はもう一度頭を下げると、

  「これも使用人の義務です。ところで、いかがされましたか?
   眠れないようでしたら、姉さんに薬を用意させますが」
  「あ、いえ。欲しいのは、薬ではないのです。
   実は、夜更かしで少しお腹が空いてしまいまして……迷惑でなければ、
   琥珀に何か作っていただけないかと」
  「そうでしたか。少々お待ちください。すぐに、何か用意するように頼みます」
  「すいません。琥珀は、まだ起きているかしら?」
  「あと二時間は大丈夫でしょう。
   姉さんは、秋葉様のお留守を良いことに活性化していますから」
  「ああ……そういえば、秋葉は旅行に行っているのでしたね」

  事実上この遠野屋敷の主人であり、私の親友でもある遠野秋葉は、不在である。
  二日ほど前から学友とともに小旅行へと出かけていったのだ。
  
  「楽しんでいると良いけど。ええと――なんと言う都市でしたか」

  まだ日本の地名に明るくない私に、翡翠が澱みなく答える。

  「京都ですね。あと二日後には戻られますから、きっとシオン様にはお土産に
   八つ橋でも持ち帰ってくださるでしょう」
  「ヤツハシ――――どのようなものですか?」
  「京都は聖護院の名物で、和菓子の一種です。
   お米の粉をお湯で捏ねて、砂糖などで調味して蒸します。
   少し匂いに癖があるので、慣れないうちは驚かれるかと思われます。
   ――――私は、好きなのですが」
  「お米の粉からお菓子を……それは興味深いですね。
   秋葉がそれを買ってきてくれるかは解かりませんが、楽しみです」
  「おそらく大丈夫でしょう。京都に観光へ赴いた人間の九割はお土産に八つ橋を
   選ぶと言います」
  「でも、秋葉が残りの一割にならないとも限りません。
   彼女は、我が道を行くのに手段を選ばない女性ですからね。
   ……一応、誉め言葉ですが」
  「……はい。私も、そう思います」

  俯き加減に、翡翠はどうやら笑いを堪えているようだった。
  聞くところによると以前はあまり表情を示さない女性だったそうだが、
  志貴と触れ合うことで少しずつ心を開いているらしい。
  ……以上は、彼女の姉であるところの琥珀の弁だ。
  志貴によって変えられたという意味では、私も翡翠と同じか。
  そう思ったら、なんだか私も唇が弛んでしまった。
  ――――思いがけず、別の場所までも。

  くぅ

  それが所謂”腹が鳴る”という現象だと気付いた時、恥ずかしくて死にそうになった。
  
  「あ……あ、ぅ」

  きょとんと目を丸くする翡翠。
  居たたまれなくて、私は切ないお腹を押さえたまま何もできない。
  けれど、彼女は笑ったりはしなかった。
  しとやかな挙措で踵を返し、少し歩いてから私を振り返る。

  「台所へ参りましょう。姉さんなら、何かお腹に溜まる物を用意してくれます」
  「はい――――」

  ……ありがとう、翡翠。
  前を歩く背中にそっと呟いて、私も歩き出す。

  儚げな容姿とは裏腹に、翡翠の歩みは予想したより機敏で早い。
  角をするりと曲がり、階段を一段ずつ踏みしめながら、それでも殆ど靴音を
  響かせないのは手馴れたものだ。
  眠っている者への配慮だろう。
  とはいえ、秋葉が不在で琥珀が起きているとなれば、この屋敷には私を除けば
  あと一人しかいない。
  そういえば、彼――遠野志貴の私室は、確かこの辺りだった。
  そして、私の予想を裏付けるように、前を歩いていた翡翠が扉の前で歩みを止め、
  静かにノブを回して中を確かめる。
  やはりここが志貴の部屋だったか。

  「――――――っ」

  不意に、小さく息を飲む音。
  翡翠が、顔を凍りつかせてふらふらと後退る。
  まるで扉が――いや、志貴の休む部屋が彼女を拒んで追い立てるかのように。

  「翡翠? どうかしましたか」
 
  呼びかけると、翡翠ははっとして私を振り仰ぐ。
  そして、陶磁器のように白い肌へすぅ、と赤みを走らせ、ごくりと喉を
  鳴らしてから言った。

  「シオン様、どうかお部屋でお待ちください。
   お食事は私が運ばせていただきますから」
  「え――――?」
  「このままお部屋にお戻りください。どうか、そのように――――」

  短く告げると、翡翠はスカートの裾を抓んで小走りに階下へ去った。
  私は、呆然とその背中を見送るだけだった。
  ……一体、どうしたというのだ。
  翡翠の消えた闇に目をやっても、答えが見えるはずもなく。
  私は私の遣り方で――つまりは、思考することで――解答を探る。

  先程の翡翠はなにやら尋常ならざる様子だった。
  何かに怯えるような、或いは何かから逃げるような狼狽が顕著に見て取れた。
  では、翡翠は何に怯えたのか。何から逃げたのか。
  答えは、おそらく眼前の扉の奥――志貴の部屋にある。
  何らかの怪異、或いは衝撃、そういったものが部屋の奥に待っている。
  部屋は――――匣だ。
  匣の中に待つ怪異。この世ならざるモノ。それは――――

  「は……ぁっ――――!」

  充満する妖気を振り払うように、大きく深呼吸。
  心臓の高鳴りを自覚しながらノブへと手を伸ばす。
  いや、待て。
  聞こえる。搾り出すような、ナニカの呼吸。凶々しい、

  声が、あちら側から

  「ァ――――ハ」

  声が、扉の奥から
  声が、匣の中から、聞こえて、くる。

  体温が凍結する。
  呼吸が静止する。
  思考が停止する。
  ――でも、すべてが停止ってしまう前に、私は境界へと踏み出す。

  「志貴、居るのですか――――?」

  危なかった。私は、踏み出せた。
  ドアを開き、志貴の部屋へと足を踏み入れる。
  安心したのに。
 
  「な――――――」

  結局、最後に私は停止してしまった。
  アタマも、カラダも、今度こそ根こそぎに凍りつく。
  足が竦む。

  ――――――――そこには、やはり魍魎が居た。



                                      《つづく》