[an error occurred while processing this directive]

 ――どうして、こんな所にいるのか。
 覚醒した瞬間は、不覚にも頭がぼうとして解らなかった。
 ぼんやりと見えるのは、煌々と輝く朱い月。吹き抜けていく風のせいでここが屋外だと
解る。空がやけに近いように思えた。夜なのにこんなに明るく見えるのは、きっと世界が
赤いからに違いない。
 ――ああ、そういえば。
 少しだけ思考が明瞭になる。ここは神殿の――シュラインと名付けられたビルの屋上。
 そこで私はアレと戦い……そして、負けた。
 ワラキアの夜。
 タタリと呼ばれ、自らを現象となす事で究極の理の一つである第六法に挑んだ――私の
先祖でありエルトナムの名を汚したモノ。
 ナンバー十三、もっとも忌まわしき数字に連ねられる祖。
 三年前に、私を気まぐれに吸血種にした元凶。
 それと戦ったのなら――負けたのなら、何故私はまだ思考できているのだろう。
 
「何……これもまた戯れだよ、長き虚のような生において、たまには理性以外に身を任せ
てもいいだろうしね」

 何かが喋っている。
 誰か、ではない。何か、だ。
 現象、という自らを世界の一部に組み込んでしまった存在に、誰かという人に対する呼
称は相応しくないだろう。
 ならばワラキアの夜、あるいはタタリと呼ぶ方が正しいのだろうが。
 人の姿をとったアレをそう呼ぶのは、これも相応しくないような気がする。

「なるほど、確かに私は今どちらにも属さぬ状況にある。
 現象と化す駆動式は一時的とはいえ破られ。
 さりとてこの身の元となるズェビアと同一かというと――実はそうではない。傷つけら
れるだけの実体はあるにせよ、やはり今の私を構成するのも情報なのだ。
 私の実体は遙か昔に消え去っている。朱い月に捧げた時にね。
 ふふ……幽霊とはこのような事を言うのかもしれないな、幽体とは違い何処の世界にも
属さぬモノ……。
 それでいて確かに存在するモノ。これは矛盾だ――そう思わないかね?」

 そこで言葉をきると、アレはいやらしく笑った。
 三年前と全く同じ顔で。

 ――酷く、癇に障る。

「我が子孫、いや娘と行った方がいいかな? シオン・エルトナム……」 
 
 まるで生徒を前にした教師のように、朗々と言葉を紡ぐ。

「アトラシア」

 その瞬間。
 私の意識は完全に覚醒した。
 
 ――地獄の一歩手前、この煉獄の淵で。



幻影の月
                         D・RAIN



「な――」
 信じられない、という驚愕の表情がシオンの顔を彩っている。
 そんな表情を彼女がするのは、極めて珍しいことだ。ここ最近は想定外の事態が多発し
たせいで、そのような顔をすることも多かったが、彼女の所属する組織――アトラス院の
者が見れば、驚愕に目を見開くだろう。
 彼女は常に隙のない優等生であり、冷静な観察者であり、真理を求める研究者だったの
だから。
 それがこのような表情を浮かべるなど、誰も想像しなかったに違いない。
「随分と驚いているようだね」
 いっそ優しいと表現してもいいほど丁寧に、金髪の男、ズェピアは語りかけた。
「確かに私にとってもこの結果は意外だったよ。自らの式が破られるなど想像もしていな
かったからね……もうその元凶も、ここにはいないが」
「元、凶……? ――っ!」
 シオンは身を起こし、辺りを見渡した。
 あちこちに激戦の後が見られる。シオンと、志貴と、ズェピアの戦いの跡だ。建築途中
のビルだけあって、まだ未完成の部分が多いのだが、至る所に想像ではなく破壊の跡が見
られる。
 穿たれた穴はブラックバレルの、すっぱりと斬られた支柱は七夜のナイフの傷。
 空を見上げる。
 頭上には振り仰ぐほどに巨大な、朱い月。
 まだ真組の空想具現化は解けていない、しかしそれを為した本人――アルクェイド・ブ
リュンスタッドの姿はそこにはなかった。
 そして。
 シオンがもっとも渇望する人物の姿もそこにはなかった。
「志貴と真組をどこにやりましたか、ズェピア――!」
 視線だけで人を殺しかねないほどの殺気を、叩きつける。その目がうっすらと赤に染ま
りかけていた。
 それだけ、激昂していると言うことなのだろう。
 シオンという少女は戦いの際に殺気など発しない。過ぎた感情は悪影響を及ぼすからだ、
卓越した演算能力でもって、至近の未来を予測し、それに応じて体を動かす。錬金術師に
とっての戦いとはそう言うものだ。
 なのにシオンは生々しい敵意を隠そうともしない、それはこの数日の経験による進化な
のか退化なのか。
「ああ、真組なら千年城に帰ったようだよ。この月を喚ぶのに全ての力を使っていたよう
だからね、私の攻撃であっさりと致命傷を負った。もっとも、完全に滅ぼせなどできない
が、吸血種がもっとも力を発揮する夜に、その王である真組を殺すのは、幾ら私でも無理
というものだよ」
 そう言ってズェピアはくっくっと笑う。
「そして君の気にしているあの男は、ほら、そこだよ。君の後ろにいる」
「――!」
 慌ててシオンは後ろを振り向く。三メートルほど後ろに、傷だらけになった志貴がぐっ
たりと倒れ伏していた。体中に切り傷が走り、そこから流れ出た血がじわじわと服を染め
ている。どうやら意識はないようだ。
(ですけど……生きてはいますか)
 その姿を確認し、ほっと息をつく。志貴の右腕は意識を失いながらもそのナイフを離し
てはいなかった。シオンが倒れた後も最後まで抵抗した証拠だろう。
「直死の魔眼――なるほど、確かに大した能力だよ。これならば真組が気に入るのも頷け
る。真組が消え去った後もこの月が消滅しないのは、彼女が力を送り続けているせいだろ
うね。彼が私を倒せる事を信じて」 
 くく、と含み笑いを漏らす。
「でも、それも全ては無駄に終わったがね」 
 そう言うとズェピアはつかつかと足音をたてながら、志貴に近づこうとする。
「待ちなさい!」
 その態度に不吉なものを感じて、シオンは叫んだ。立ち上がり、二人の間に割り込もう
とする。
 が、彼女の体はその意志に反してぴくりとも動かなかった。脳は確実に動けと命令して
いるのに、まるで凍りついたかのようにぴくりとも体は動かない。
「何故――これは!?」
 一瞬呆然としたものの、すぐにシオンはその原因に気付いた。
 自らの体を拘束する、極細の糸。直径数ミクロンの通常では肉視できないそれが、朱い
月に照らされ薄く光っている。
 朱く、紅く、赤く――ズェピアによって作られた、血で織りなされた糸。
 エーテライト、霊子ハッカーである彼女と同じ武器。それが今は彼女の体を拘束してい
る。物理的にではない、脳にその端子を打ち込むだけで、相手を完全に支配下に置くこと
ができるのだ。
 誰の仕業かは考えるまでもない、これを使えるのはエルトナムの者だけなのから。
「こんなもの……っ!」
 シオンの顔が朱に染まる。よりによってこんな物で拘束するなど、馬鹿にしているとし
か思えなかった。事実そうなのだろう、この男は明らかにシオンを戯れの道具としている。
 エーテライトは脳に、魂に対するハッキングツール。人間の知識を奪い、操るその術を、
エルトナムの者は常に磨いてきた。
 当然、それに対する対抗策も幾つも編み出されている。これはあたりまえのことだ。な
ぜならば欠点を見つければ、そこを改良することでより精度を高められるからだ。
 焦る気持ちを押し殺して、シオンは脳に命令を送った。
(攻勢防壁起動)
(ワクチン放出)
(各器官の掌握開始)
 矢継ぎ早に命令が下される。錬金術師は脳を媒介に神秘を行う魔術師。これくらいのこ
とが出来なくては、話にならない。
(これでよし、後は十秒も経たないうちに全て正常に戻るはずです……)
 じりじりとその時を待つ。ズェピアの歩みはゆっくりで、まるでシオンを挑発している
ようだった。
 だが、それはかえって好都合。
 一度吸血種として覚醒しかけたその体は、戦いによる傷を急速に癒している。今なら勝
てはしなくても、志貴を抱えて逃げ去るだけの自信はあった。後は教会の代行者なり、志
貴の妹なりに接触し、協力を得てズェピアを打ち倒せばいい。
 タタリという現象でなく、ズェピアと言う実体を取っている今なら、血を吸うのにも時
間がかかる、急げば、被害は最小限に抑えられる筈だ。
(早く……早く……)
 一秒。
 二秒。
 シオンには時間の流れが酷く遅いように感じられた。加速した思考は時の流れを超越す
る。脳裏に浮かぶ映像は、どれも不吉なものばかり。
 三秒。
 四秒。
 既にズェピアは志貴までの道のりの半ばを過ぎている。
 五秒。
 六秒。
(早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く、早く――!)
 錬金術師としての冷静な思考、それをシオンは殆ど放棄していた。
 未来予測も何もなく、ただ不安だけが心の内で渦巻く。彼女にとっては初めての経験、
だがそれを分析している余裕もない。
 そして――十秒が過ぎた。
「ズェピアっ!」
 跳ね起きながら叫び、獲物を狙う猛禽のように駆け出す。急速にズェピアのとの距離が
詰まった。志貴に向かっているためシオンに背を向ける格好となっている。
 その後ろ姿に、躊躇無くシオンはブラックバレルを向けた。
 トリガーに手がかかり、引き金がまさに引かれんとした時――。

「無駄だよ」

 ズェピアは振り向き――そして、嗤った。
 その瞬間。
 糸の切れたマリオネットのように、シオンの体は崩れ落ちた。

(馬鹿な――)
 冷たい床の感触が頬に触れる。その感触に愕然とした、完全に自由を取り戻している筈
の体は、完全に自由を奪われていた。
「ズェピア……何をしました! 確かに貴方はエルトナムの祖先、エーテライトの扱い方
も熟知している。しかし貴方がエルトナムを離れてから、これは何度も改良を重ねられて
きた、数百年の間に別物と言っていいほど変わっている。それを何故貴方がこうも――!」
「それはね、シオン。単純なことなんだよ」
 まるで、物わかりの悪い生徒を前にした教師のような口調で、ズェピアは説明する。
 かつて彼は稀代の錬金術師だった、その時に彼について学ぶ生徒は大かったのだろう。
失われた時を伺わせる、アトラスの教官そのものの喋り方だった。

「確かに今の私の技術では、改良されたエーテライトの抗体をうち破ることはできないね。
よくここまで研鑽したものだ、かつてのエルトナムの者として惜しみない賞賛を送ろう。
 けどね、基本さえ変わっていなければ私は君を操れるんだ。
 もっとも基本的なアクセスさえ出きれば、それでいい。
 後は絶え間なく命令を送るだけでいいんだ。ワクチンで修復されたら次の命令を送り込
む、次も修復されたらまた送り込む。
 それの繰り返しさ。いつかはワクチンが出現するよりも早く、命令が脳に行き渡る。
 やり方としては極めて単純なんだけどね、でも君にこの方法は使えない。
 おそらくこれは情報体となっって初めてできる、超高速演算だから――君が真似をすれ
ば間違いなく脳が焼き切れる。
 今風に言えば、ハードウェアの性能の違いだね、ソフトウェアで幾ら性能を上げても、
限界はあるんだよ」

 それは優しい絶望の囁き。
 ズェピアの言ったことが真実であるならば。
 どう足掻いても、シオンに自由を取り戻すチャンスはない――。

「そん、な……」
 呆然とした声がシオンの口から漏れる。あまりに絶対的な能力格差が両者の間にはあっ
た。加えてズェピアはシオンの『親』に当たる吸血鬼。事実上シオンにできる手段はもう
なにも無い。
 そんなシオンを横目にズェピアは志貴に近づき、その首筋に手をかける。
「止めなさいっ! 志貴に手を出さないでっ!」
 吸血鬼が人の首筋に手を当てる、それはこの上なくリアルな未来を演算させる。
 無駄を承知で、何もできないことを承知の上で――それでもシオンは制止の声を上げた。
彼女にできることはもうそれしかなかったから。
 初めて心をかわした人間が吸血鬼に堕ちる……そんな姿は見たくはない。
 だが驚いたことに、ズェピアはその声で動きを止めた。
「ふふ……止めてほしいのかい、シオン?」
「当たり前です、誰が目の前での吸血鬼を望みますか!」

「なるほど……でも人に何かを頼む時には、代償がいるとは思わないかい? 彼は直視の
魔眼を持つ希有な存在だ。下僕にしないとしても様々な使い道がある。
 研究素材としては一流だろうね、眼球と脳を繋がったまま抉り出して、その因果関係を
調べてみるとか。もしくはこの特殊な血筋を調べてみるのもいい――超能力者の能力発動
にいたる道筋は、多くの研究者にとって垂涎の的だ。
 さて――シオン、君は一体何を提示してくれるのかな?」

「…………………………………………………………」
 無言、シオンは答えることができなかった。正確には何を提示していいか解らなかった
と言うべきか。シオンが提示できる全て――アトラス院で彼女がしていた研究などが、取
引の天秤に乗るとは思えない。
「解らないかい?」
「……ええ、貴方が望むものが何なのか、私が提示できるものでそれがあるのか、現在の
情報では不足しています」
「何、簡単な事だよ。君が私を楽しませてくれればいいんだ――その身体でもって、ね」
「身体で……?」   
 訝しげな顔をするシオン、彼女はズェピアの真意が理解できなかった。無理もないだろ
う。彼女にとって身体を差し出せと言うのは、実験の献体になれと言う意味だったのだか
ら。
 だが。

「無粋な例えだが――戦場で敗れた女兵士がどうなるか、知っているかい?」

 次に発せられた言葉で、シオンはその意味を悟った。
「な――バカな事を言わないで下さい! そんな事できるわけがありません!!」
 顔を羞恥で真っ赤に染めながら、シオンは猛然と抗議する。
「おや、そう言う反応をすると言うことは知っているんだね」
 からかうような言葉に、シオンの顔がますます紅潮する。
「――知りません、知るはずがありませんっ!」
 シオンも年頃の少女だ。幾ら理性を尊ぶ錬金術師と言っても、性への好奇心はある。事
実まだ経験はないが、その手のことについてこっそりと調べたこともあった。サンプルと
した個体がそう言うことに詳しかったせいか、知識だけならかなりのものがある。
 もっとも、それを実践したことはまだ一度もないが。
 その隠された部分を剥き出しにされたように感じて、シオンはズェピアから目を逸らす。
「さて……それでは困ったね。まぁ知らないと言うならそれでもいい。私が教えて上げれ
ばいいのだから。この朱い月が終わるまで、君がその身体を私に預けるなら――この少年
の命は保証してあげよう」
 シオンの言葉を信じたのか、そうでないのか、ズェピアの口調からは解らなかった。た
だ目の前の玩具を弄ぶような、そんな楽しげな雰囲気を纏っている。

「……見損ないました。貴方は道こそ違えましたが、アトラス院そのものと言っていいほ
どの稀代の錬金術師だったと聞いています。吸血鬼になったのも駆動式と化したのも、全
ては高次の領域に、第六法に到達するためだったはず。
 それが今は下卑て、低俗な快楽を求めようとしている。随分と堕落したたものですね。
現象と化している間に脳は腐り落ちましたか」

 シオンは痛烈な毒舌をズェピアに叩きつける。
 もしここに第三者がいればさぞや驚くことだろう。生殺与奪の余地を握っている相手に
このような答えを返すなど、正気とは思えないに違いない。
 しかし――シオンにはもう他に抵抗する手段はなかいのだ。だからせめて自由になる口
で、最後のプライドを守る。

「酷いいわれようだね、だけどその解は最初に言っている。戯れだ――とね。それ以上で
もそれ以下でもないよ。要は気晴らしさ、久しぶりズェピアになったのだ、少しぐらいは
無駄に時間を割くのもいい。
 今の君は実に面白い玩具であるしね、しかも生殺与奪は私が握っている、大切に扱うの
も壊すのも思いのままというわけだ。
 さて、君はどうするつもりなのかな。私に従うか――それとも否か」

 答えずシオンは目だけで夜空を見上げた。
 頭上にはまだ朱い月が輝いている。シオンの脳内時計はまだ午前の一時を過ぎた所だと
告げていた。夏の朝は早いと行っても、後三時間はズェピアの相手をせねばならない。
 それでも――彼女に他の選択肢はなかった。
 志貴を――大切な友人を失いたくはなかった。

「わかり……ました」

 俯き、下唇を噛みながら……消え入るような声で、そう答えた。


「ではまず……自分で自分を慰めて貰おうか」


                                      《つづく》