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                  阿羅本
 
 黒猫が一匹、少女の前で丸まって寝ていた。
 少女はその黒くつややかな毛並みの猫を見つめる。身体のどこにも色のくす
んだところのない、黒貂のように見事な毛に覆われている。
 野良猫ではない証拠に、首には白い毛玉付きの紐と、その身体に不釣り合い
なほどの黒く大きなリボンが結ばれていた。

 春の暖かい日差しの廊下、柔らかい絨毯の日溜まりの中で黒猫は眠っている。
 そしてその壁の作る影の中を歩いていた菫色の髪の少女――シオンは、それ
を遠目に見つけると足を止めた。コツコツ、と中央の絨毯をはずれて壁際の床
を踏む自分の足音の存在を気に留めたかのように。

 ――ああ、あれが。

 遠目に眺めながらシオンは頷いた。そしてしばらく立ち止まりアーモンドの
ような縁の切れた紫の瞳を細める。
 志貴の飼い猫だというレン。正しくは、秋葉や琥珀、翡翠は猫だと信じて疑
わないレンというべきか――だが、その内実をシオンは知っていた。
 志貴ももちろん知っている。なにしろ今の契約主は志貴自身なのだから。

「夢魔、か」

 密やかに唇を動かし、シオンは呟く。誰に聞かせるわけでもないのに口ずさ
まずには居られない自分をシオンは微かに唇の端を歪ませて嗤う。この屋敷に
居候を初めてから随分替わった、自分自身は……と感じるシオンであった。
 
 夢魔。猫の姿を借りているがその真実の姿は人の夢を操り、それを糧にする
存在。人にとって悪しき存在となるとインキュバス・サキュバスなどとも呼ば
れることもある。
 そんなあまたの夢魔の中でも、ある意味このレンはすこぶるつきの存在であ
った。なにしろ前の契約主はあの真祖・アルクェイド・ブリュンスタッドなの
だから。それをいささか数奇な運命で志貴が主となっている。

 その概要は、かつて志貴に接続したエーテライトから取得していた。その時
は真祖と志貴との関係の深さを意味する材料の一つである、としか認識してい
なかったが、実際にその夢魔を猫の姿で目にするのは初めてであった。

 シオンは志貴の視たレンの姿の記憶を甦らせる。それは青い髪と黒いマント
の、か細くもある少女の姿であった。そして彼女の声に関する記憶はその一切
が存在しない。
 シオンは少女のレンの姿と黒猫のレンの姿を重ね合わせようとするが――無
体なことであると知って頭を軽く振る。精神世界の夢魔の姿と物質界の姿は必
ずしも一にはならない。特に精神世界にその存在を根ざす夢魔であればなおさ
ら、だ。

「…………………………」

 シオンはしばし、足を止めて廊下の向こうの黒猫を見る。
 背中を丸めて眠るレンは、無防備そうで穏やかな姿に見えた。だが動物は常
に警戒を解くことはないというが、この――動物というか存在というか、その
合間の複雑な夢魔の現世の姿はどうなのであろうか?

「…………………………」

 シオンは、絨毯の上をそっと踏み、足音を殺して歩き始める。
 一歩、また一歩とレンを起こさないように、慎重に。レンに近づいていった
い何をするのか――シオンは考える。レンに関係が深いのは志貴やアルクェイ
ドであり自分ではない、であれば私は彼女に関与することに何の意義があるの
か?ただ興味があるから?
 計算も無いのにレンに近づこうとするシオンは、不意に……結論にたどり着
いた。

 似ているのだ。
 私と彼女、レンは。

 人の夢の中を歩くレン
 エーテライトで人の記憶や思考の世界を絡め取るシオン。
 共に……歩かれ、読まれる方の意思を尊重しないある意味絶対的な関与の能
力。だがその能力のために自他のアイゼンティティの境界が曖昧になりかねな
い諸刃の刃を抱え込んでいる。

 レンはどう考えているのかは神のみぞ知ることであるが、自分は――共感を
覚えている。勝手な思いこみかもしれないが。それがシオンの脳裏によぎる言
葉だった。
 そんなレンと自分はいったい何をしようとしているのか?

 シオンは静かに歩いている。レンの元へと一歩一歩。
 少しでも物音を立てるとレンが目覚め、足早に去っていってしまう。猫はど
んなところにいてもその優雅でしなやかな野生の本能を忘れない。だから、シ
オンは息を殺し、静かに静かに歩いていく。

「…………………………」

 シオンはレンまであと一歩の所まで近づくと、足を止める。
 幸い、レンにはこちらを察知している様子はない――不用心な様にはいぶか
しく思うが、でもここまで何事もなく近寄れた事にはほっと安堵を感じていた。
 シオンはしゃがむと、間近でレンを見つめる。その毛並みのつややかな様子
や、瞳を閉ざしているが愛らしい猫の顔をしげしげと眺める。

 シオンはきゅっと軽く拳を握ると、緩やかに指を延ばす。そして金のブレス
レットを填めた右手をそぉっとさしのべる。その先にはレンの黒く丸まった姿
がある。
 シオンは咄嗟にエーテライトをレンにつなげようかと考える。だが、その案
は却下された。著しく人間と構造の違う精神体にダイレクトに接続することは
リスクが高すぎ、さらには夢魔に――触媒たるエーテライトを利用しないでも
精神に関与できる存在にそれを使うのは尚更に危険であった。

 それよりも、今シオンがしたいのはそんなことではなく――

 シオンはそっと、レンの背中を撫でた。猫の丸まった脊髄が指にこつこつと
触れる、丸まった背中。触ったら目が覚めるかも――という危惧はあったが、
レンは軽く首を動かしただけで未だに気持ちよさそうな眠りの中にいる。

 シオンは指先のその手触りを味わっていた。ぬるりと微かにしめったような
滑らかさのある毛皮で、その下の猫の身体の柔軟な弾力も感じていて、ずっと
こうして触っていたくなるような感触。

 シオンはもう片手をレンと絨毯の間に差し込む。
 そして、眠るレンをその手に抱え込むように持ち上げて――

「――ふふふっ」

 シオンの口元から、珍しくも笑みがこぼれる。
 常に人前ではことさらにしかめ面しくしているシオンの笑顔。それは堅い蕾
が綻ぶような、優美な笑いであった。でもそれを見るものは今、誰もいない。

 シオンは腕の間にしっかりとした重みを感じていた。
 抱え込めそうに小さなレンであったが、すっかり眠り込んで力が抜けている
為か、想像したより重く感じるシオンであった。いや、猫というのはこういう
重さであるとは知っていたが、アトラスの中でもその外でも猫を抱くことは無
かったからか――とシオンは考える。

 しゃがみ込んでいた膝を上げて、シオンは黒猫を抱え込んで起きあがる。
 片手でレンを下から抱きかかえ、もう片手でその背中を撫でる。シオンの手
が前後するたびに、ごろごろ、という猫の息の感覚がシオンの身体に伝わって
くる。

 腕に抱き込んだレンは、春の日溜まりをその身体の中に貯め込んでいたかの
ようにぽかぽかと暖かい。シオンはレンを抱えて立ち上がり、そっと前後を見
渡す。
 誰も自分の姿を見ていない――いや、この時間帯に会う可能性があるのはせ
いぜい翡翠と琥珀くらいであり、志貴にみられてからかわれる事もない。秋葉
は猫が嫌いだと公言していたので会わない方が賢明であろう。

「……見られて困ることは何もありません。そうでしょう?」

 シオンは眠れるレンに向けてか、そう小さく唇を動かして呟いた。
 その言葉に、レンは応えなかった。その代わりにちょうどいいタイミングで
ふぁ、と目を閉ざしたまま欠伸をする。

 シオンは腕の中で微かに身動きをしたレンを見ると、何かを考えていたかの
ように唇を引き結んで考え込んでる。日差しの作る白い空間の中で、光を吸い
込んで出来る黒い穴のような猫を抱えるシオンの姿は静かに浮かび上がってい
て――

「……そうですね、あの離れの縁側に行きましょうか?猫は軒下か縁側が好き
だと古来言うのですから……最近の研究は手詰まりです、私もそこでゆっくり
していても支障は来さないでしょう」

 黒猫に向かってなにやら語りかけるシオンの姿というのは、ペットの猫をか
わいがるのとはまた違う何かがあった。ただ、傍目からには長閑な光景にしか
思えない。
 シオンはぽんぽん、とレンの身体を柔らかく叩くと、その長い足を上げて歩
き始めた――



                                      《つづく》