Lunacy
稀鱗
ぺたり、ぺたり、ぺたり―――
意思に反して足は前へ前へと歩きつづける。
足は裸足で目は虚ろ。何も見えていないようなその目は前だけを見て動かな
い。
足に感じる冷たさに、少しだけ意識が戻ってくるのを感じている。
ズキン
胸が痛んだ。それでまた少し、意識が戻る。
「此処は…。」
視界に見慣れた建物が浮かんでいる。
――柳洞寺
士郎は何十段もある石の階段を上っている。暗く、冷たく、異界と感じさせ
られる階段。横に見える木々がより一層暗く、本当に異界へと繋がっているの
ではないかという錯覚に襲われる。
石の階段のその先に徐々にではあるが山門が見えてきた。此処は柳洞寺の門
へと通じる“道”。
視界に入る門が段々と大きくなってくる。門が近づいてくるにつれて士郎の
意識はゆっくりと、それはもう氷が外気に晒され溶けていくようにゆっくりと
戻っていく。
夜の柳洞寺。そこから微量ながらも放たれる混沌とした陰気。それに身体が
反応する。戻った意思が身体の全神経に命令を出す。
――引き返せ
と。しかし、その意思はことごとく破られ、足だけが動きつづける。
見えない糸で手繰り寄せられるかのように士郎は山門の前まで来た。
門は開かれており、士郎の足は尚も進み、門をくぐりその中へと進んでいく。
灯り一つ無い静まり返った境内。あるのは月が発する青白く薄暗い光のみ。
その光に照らされ一筋の石畳の道が見える。
士郎の足は進み続ける。真中、そう境内の真中で士郎の足はピタリと止まっ
た。月明かりが士郎の影を長く伸ばす。士郎は自分の影を眼で追い、その先の
空間を見つめる。そこにはうっすらと黒い人影が佇んでいる。微かに照らす月
明かりの中にはっきりと分かる黒いローブ。そんな格好をしているサーヴァン
トなんて一人しかしない。その黒いローブを着た者は士郎に対して口を開く。
「ふふふ……、ご苦労様。なかなか来ていただけないから、呼び出させても
らったわ。」
「お、お前は…。」
「お察しの通り、私はサーヴァントよ。私はキャスター。魔術に関しては私
の右に出る者は居ない。だからこうやって、貴方を操るのも造作の無い事。」
キャスターは辛うじて見えている口元を歪めて笑う。口元だけ見ても分かる。
あの笑いは愉悦と邪悪を含んだ笑み。
士郎はキャスターを睨む。それが、動かない身体で出来る精一杯の抵抗。
それを見たキャスターは、
「あらあら、威勢だけはいいのね。魔力は無いに等しいのに…。私みたいな
魔術師についていればセイバーは間違いなく最強でしょうにね。ふふふ、セイ
バーもトンだ貧乏くじを引いたものね。」
士郎を見て笑った。キャスターはゆっくりと士郎へと近づいてくる。触れる
ほど近くにキャスターの身体がある。キャスターの右手が士郎の頬に触れた。
「ふふふふ…、よく見ると、とっても可愛いわ。殺してしまうのは惜しい。
ねえ、私と組まない?私と組めばどんなサーヴァントが来ても倒せるわ。そし
て、貴方は勝者となるのよ。どう?組む気はない?」
「ば、馬鹿な事をいうな。俺は遠坂と組んでいるんだ。お前みたいな奴と組
む気なんてない!!」
「あっははははははははははは………。」
それを聞いたキャスターは身体を曲げて笑う。キャスターにとってはよほど
可笑しかったのだろう。一通り笑い終えると、
「ふふふふ、そう言うと思っていたわ。いいわ、好きにしなさい。その代わ
り、セイバーは私が貰いに行くわ。今は貴方に用は無い。せいぜい、セイバー
に守ってもらいなさい…。尤も、出来ればの話だけどね。」
そう言ってキャスターは、蜃気楼のように揺らぎ月明かりの消えた闇に溶け
て消えた。
「待て、キャスター!!」
「そうそう、貴方にも駒になってもらう。その見返りに、いい思いをさせて
あげる。そして、嫌でも私の下に来る事になるわ。」
士郎が叫んだ時には既に遅く、キャスターの姿は無い。その代わりに、キャ
スターの声が頭に響いた。
――身体が動く。
士郎の束縛はキャスターが消えたと同時に消えた。士郎は辺りを見回すが何
処にも居ない。それからも探したが手がかりは何も無い。
士郎は仕方なく戻る事にした。
山門から出ようとしたとき、門の傍に誰かが立っているのが見えた。
――セイバーだ。
士郎はセイバーの元まで走っていった。士郎の気配に気が付いたのかセイバー
は士郎の方に振り向いた。
「シロウ。」
あからさまに怒っており、士郎はこの後セイバーの小言を聞かなければなら
ないことを覚悟した。
「シロウ、あれだけ一人では出歩くなといったのが分かりませんか!!もし、
サーヴァントに会ったらどうするつもりですか。」
「どうするって、やっつけるしかないだろう。」
士郎はむっとした表情でセイバーを見る。セイバーは士郎の眼光に負けない
ほど睨んで、
「士郎、貴方はまだ分かっていない。生身の人間がサーヴァントに勝とう、
などと世迷言は考えない事です。今日は何も無くてよかったものの、もしもの
ことがあればどうするつもりですか。」
と、がぁーーと捲くし立てる。こうなっては何を言っても無駄。士郎は大人し
くセイバーの説教に耳を貸す。
「……だからですね、私はシロウ、貴方の身を案じているのです。シロウが
居なくなれば誰がご飯を創る…もとい、私も消えてしまうのです。私は…その
…貴方と…共に歩みたい…のです…。」
何度か聞いた台詞。いつものように最後の方に行くにつれて声が少しずつ小
さくなる。セイバーが士郎の身を案じてくれている事は本物だ。士郎は何も言
わずにセイバーと歩く。例え反論しようともセイバーを怒らせるだけだろう。
しかし、士郎がセイバーを守りたいという気持ちは変わらない。だからこそ口
には出さない。
「………聞いているのですか、シロウ。」
「ああ、聞いてるって。」
こう答えたのも何度目か。そうこうしているうちに屋敷まで戻ってきた。玄
関を開け中に入る。
――静寂。
目の前には何もない闇だけが広がっている。士郎とセイバーは何も言わず部
屋へと戻る。士郎が自分の部屋の中に入ると、セイバーも一緒に入ってくる。
「セイバー、何でこっちに来るんだ。セイバーの部屋は隣だろう。」
「確かにそうですが、今夜の一件があるために、今夜から士郎と同じ部屋で
寝ようと思います。」
「ば、ばか。女の子と一緒に寝れるか。何かあったら呼ぶから、隣で寝てく
れ。」
「駄目です、その言葉には首を縦に振ることは出来ません。諦めてください、
シロウ。」
頑として引かないセイバー。こういうときはセイバーの弱みを責める事が一
番だろう。士郎は取っておきの秘策を取り出す。
「隣で寝てくれたなら、明日、どら焼き10個おやつに出そう。」
「グッッ!?」
やられた、という表情で一歩引くセイバー。言う事を聞かないセイバーには
これが一番効果的だ。おろおろした表情で狼狽し、そして悩む。もう少し、も
う一押しでセイバーは落ちる。
「そうだ、さらにお昼はセイバーのリクエストに答える。これでどうだ?」
「グググッ!?」
更に一歩引くセイバー。
「わ、分かりました。隣で寝ましょう。但し、何かあったら必ず呼んでくだ
さい。」
――落ちた。
士郎はしてやったりと、心で思う。
「ああ、分かっている。頼りにしているからなセイバー。」
「ええ、私も明日期待しています。それではおやすみなさい、シロウ。」
「ああ、おやすみ、セイバー。」
そう言うとセイバーは隣の部屋に消えていく。
部屋の中には静寂。
月明かりは薄く、部屋の中は殆ど見えない。
士郎は目を閉じる。そして、消えた時のキャスターの言葉が頭をよぎる。
――その見返りに、いい思いをさせてあげる。
そして、
――嫌でも私の下に来る事になるわ。
士郎はその言葉がなにか、
ひどく、
あたまに、
のこった。
何もないように、そう祈りながら、士郎は眠りについた。
/
あれから2日が過ぎた。
あれ以来キャスターを見ることはない。
それとは裏腹に、夢を見る。
それは、決して見たくはない夢。
セイバーを、コナゴナにしてしまう、夢。
――そう、俺が…。
嫌がるセイバーを押さえつけ、純潔の彼女を不浄にしてしまう。
――それは、俺にとっては絶対的な悪夢。
俺の意識は夢を見ることを拒む。しかし、夜が来るたびに俺は再び彼女を汚
す。
そして、その情交に身体は反応する。
見たくはない、見たくはないが、あまりの生々しい彼女の俺を求める声がそ
の夢を見させる。
――どうしてだ?
俺は、彼女にこんな事をするために呼んだわけじゃない。
俺は彼女を、セイバーを守りたいだけなのに、その想いだけなのに。
どうして、彼女を汚し、従える事に快感を覚えるのか。
それは、射精する事に等しいほどの快感。
それに何も感じなくなっていく自分が居る。
例え、それが夢の中だとしても…。
――見たくはない。
――見たい。
――見たくはない。
――見たい。
葛藤する。顔には出さないが、心は少し揺れている。
彼女に、セイバーに俺の変化を悟られないようにいつものように振舞う。
朝、昼、そして夕方…。
何事も無く一日が過ぎ、もうすぐ日が落ちる。
辺りは暗闇に包まれ、再び聖杯戦争の夜が来る。
セイバーと見回り、何事もなく屋敷に戻り、そして布団に入るだろう。
これほどまでに夜が怖いと思った事はない。
眠りたくはない。寝てしまうと俺はまたセイバーを汚す。それだけは、それだ
けはしたくない。――見たくはない。
しかし、身体は意思に反して眠りを要求する。――見たい。
瞼が落ちる。大きく広がった暗闇。その暗闇が漆黒の闇に塗りつぶされていく。
――そして、また、悪夢を見る、闇が…来る。
(To Be Continued....)
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