人を呪わば
権兵衛党
私、四条つかさは遠野秋葉が苦手だった。
どこがどう、という訳ではないのだ。それなら『苦手』などという曖昧な表
現はしないで『嫌い』と言う。
少なくともその日本人形の様な綺麗で整った容姿も、心底からうらやましい
と思う濡れ羽色の黒髪も、若干の妬ましさを引き起こしはしてもそんな感情の
原因にはなりえなかった。
もちろん彼女が私に何かしたとか隔意を抱いていたとかいう訳でもない。
それは、ありえない事だ。
と、いうのも当時の私が彼女の眼中に無かったであろうことは疑う余地の無
いことだったのだから。
強いて言うなら。
私が苦手だったのは彼女のかもし出す雰囲気なのだと思う。
…うん、単なる思い付きだったのだけど当っている気がする。
彼女を知っている人間なら分かると思うが、苦手と言っても彼女の雰囲気は
『苛々する』とか『刺々しい』とか言った類の物ではない。
在るだけで場の主導権を根こそぎ奪いつくす感覚とでも言うか。
そう、『気圧される』と言うのが正しいと思う。
嫌になるほど優秀で怜悧。
自分に厳しい代わりに他人を見る目も厳しい。
なにより、一度『敵』と判断すれば絶対に容赦しない。
その一種超然とした態度とオーラは中等部の下級生達にはあこがれの的だっ
たが、いざ身近に居られると非常に落ち着かない代物だった。
それは半数程度の級友にとっても同様だった様で、彼女は周りから一目も二
目も置かれてはいるものの、概して『敬して遠ざける』の見本の様な情況と言
えた。
「わーい、秋葉ちゃーん」
…まあ、例外はいくらか居たのだが。
とにかく例外ならぬ私にとっては近寄りがたい遠野秋葉であったのだが、去
年の秋ごろ不意に転校してしまった。
目立つ生徒であっただけに、その突然の転校は校舎でも寄宿舎でも様々な憶
測と無責任な噂の絶えない有様となった。中にはかなり露骨で聞くに堪えない
物も有ったのだが、私はとりあわずにいた。
何しろ、いないだけで落ち着くのだ。
近寄りがたくはあっても何ら危害を加えられた訳でもない彼女一人がいない
だけで何故これほど違うのか、と思うほどに清々しく学校生活を送れる。
考えるに、私など眼中に無いというその姿勢が気に入らなかったのかもしれ
ないとも思う。
私はクラスでも優等生で通っていて、委員をしている事もあり割合目立つ方
だと思っていた。
それが彼女にかかれば唯のその他大勢、ほとんど一山いくらのじゃがいもも
同然の有様だったんだから。
しかもそれが気取ってしているのではなくて本気であることが明白であった
から、なお始末が悪い。
こちらは強烈に意識させられるというのに相手は無関心。
さらに自分がその事に納得してしまっているのに気付いてしまったりで、す
こぶる精神の健康によろしくなかった。
それもまあ過去の事。新天地での彼女の幸せを祈ってもいいかな、と思った
頃。
遠野秋葉は唐突に戻ってきた。
そしてまたもやその存在に謂れの無い威圧を受ける日々が始まる。
意識しすぎだ、気のせいだ、と頭では理解しているのだが精神的な物なだけ
に何とも。
以前と違い、一度自覚してしまっただけに苦痛は倍増した。
そんな鬱々とした日々の中でふと七不思議なんて馬鹿げた代物を実行に移し
てみたのは単なる気まぐれだった。
誤解の無いように付け加えておくと、私は彼女の不幸を願ったことは一度も
無い。彼女が幸福に出て行くのなら心から祝福しただろうし、不幸のうちに立
ち去るのなら心底から同情しただろう。いなくなってくれさえするなら不幸を
導く事も止む無し、と思ったことは事実だけれども。
ようはお互い目の前に居さえしなければ、私たちは幸福な関係を築けると思
ったのだ。
……一方的な思いである事は自分でも分かってはいた。
何にせよポストに紫の封筒を放り込んだ時点では、
それは単なる『おまじない』だった。
別に、これで本当に遠野秋葉がいなくなるなんて思った訳じゃない。
ただの気晴らしというか、鬱々とした気分を振り払いたかっただけ。
―― ただ、それだけだったのに。
しかし、年が明けて一月。
若干の黒い衝動は混じるものの、ちょっとした『おまじない』のつもりだっ
たソレは『呪い』と化して牙を剥き、そして見事に『呪詛返』される事と相成
った。
結果、私はあれほど気に入らなかったはずの歯牙にもかけられないという状
態がどれほど幸運だったかを骨身に染みて理解させられる事となり、単なる漠
然とした苦手意識は『トラウマを伴った恐怖』へと転じる破目になった。
そして現在。
表面上は平穏に過ぎつつも、放たれる威圧感に前にも増して過敏にストレス
を溜め込む心労の日々が続いている。
しかも客観的に考えて、この『呪い』でダメージを被ったのは私の方なのに、
『加害者』側に立つのも私となる。
……まったく『人を呪わば穴二つ』とはよく言ったものだ。
ピシッ
借りた手鏡でそれを確認した瞬間、私の時間は止まった。
手足の筋肉から表情筋、精神からそれこそ時間間隔に至るまで。
ことの起こりは今日、つまり休日の朝の洗面所に偶然秋葉,蒼香,羽居,晶,
環,そして私、四条つかさが居合わせたことから始まる。
皆それぞれに洗顔,歯磨き,寝癖取りなど行っていたのだが、ただ一人羽居だ
けはまだ目が覚めきっていないのか目が開かぬままでフラフラと洗面所内で迷
子になっていた。
ここまでは羽居を引っ張ってきたらしい秋葉と蒼香も自分の方が一段落付く
までは放って置くつもりらしく、髪の手入れに専念している。それが済めば羽
居は強制的に目を開かせるべく顔面を冷水に突っ込まれることになるだろう。
いつも通りといえば言える。
しかし、今日の羽居は何の前触れも無く唐突に目を開けた。
「ん?」
そして隅で小さくなって歯を磨いていた私の頭を両手でワシッと掴む。
「ん?ん?」
「な、なに。放してよ」
驚く私に構わず、頭に眼を近づけて止まってしまう。
困惑したのは私である。羽居の奇行に慣れた面々は禄に見ようともしないし、
羽居相手に手荒な真似をするのも躊躇われる。
止む無く、一人こちらを眺めていた環に困惑と懇願の視線を送ってみる。
どうにか意思は通じたようだ。
「羽ピン起きてる?」
「うん、おはよー環ちゃん」
「はい おはよう」
私を挟んでのん気なあいさつが交わされる。
「ところで四条さん、そろそろ放流してあげたら?キャッチ&リリースが
長く楽しむコツだから」
……キャッチ&リリース……
「んー、いや、もうちょっと…」
なにやら目を近づけたり離したりを繰り返している。
しばらくは躊躇っていたのだが、そろそろ実力行使に出ても構わないだろう
か、と思ったとき。
「ああーーっ、やっぱり!」
羽居は叫んだ。
「つかさちゃん、10円ハゲ出来てるー!」
その時、全員の目が同時に私の頭を注視した。
そして一瞬後、
全員が気まずそうに目をそらした。
「う、うそ……でしょ?」
震える声で問いかけるが、誰も目を合わせようとしない。
「四条さん…」
環がそっと手鏡を差し出した。
震える手で受け取って、ゴクリと唾を飲み込む。
そして、手鏡を覗き込むと……
「いやーーーっ!うそでしょーーーっ!!」
と、いう訳である。
……この年で、この年で、この年で、この年で、……
……乙女なのに、乙女なのに、乙女なのに、乙女なのに……
うつろな止まった時間の中で、いくつかの言葉だけが延々とリフレインして
いた。
そうして私が彫像と化している間に。
目の前に出来たムンク作『叫び』にそっくりの彫像を鑑賞していたストレス
の『元凶』は一瞬だけ首を傾げ、
「それじゃ、書類整理があるから」
と言い残して至極平然と、しかし心持ち大股に歩み去った。
残された面々はお互い顔を見合わせ、そして、
「今日はライブなんだ」
「蒼ちゃんとデートなの」
「〆切近いんでっ」
口々に言って走り去りやがった。
もっとも、私はそれを知覚できる状態じゃなかった。
「……あのー、四条、さん?」
そんな訳で。
ふと我に返ったとき、その場には環しかいなかった。
どうやら心配して残ってくれていたらしい。
我関せずを決め込んだ連中に比べて、その心遣い自体は非常にありがたい物
と言えたかもしれないのだが。
肝心の私にそこに思いを馳せる心理的な余裕が無かった。
「ああああ…」
洗面所の床にがっくりと膝と両手を着く。
考えても頂きたい。
花の女子高生に10円ハゲである。
しかも人間関係の心労からである。
なにか、乙女として終わっている気がするハゲ。
同情されつつも、もの笑いの種にされる10円ハゲ。
それが、それが私にっ。
せめて胃潰瘍とかならまだっ。
……なんで髪抜けますか?
神様、これはあんまりです。
うう、必死で耐えてきましたが、もう耐えられそうにありません……
―― その瞬間、何か壊れた。
「……もうだめ、絶望、空が堕ちるぅ……」
「四条さん、しっかり。落ち着きなさい!」
環が何か言ってる。が、よく聞き取れない。
―― 何かがうつろになっている…。
「……ふふふ、どうみても年下のお兄ちゃんとラブラブに……」
「『強化人間』されてどうすんのよーっ!」
ガクガクと肩が揺さぶられた。
―― どこか崩壊しているな、というのは分かる。
でも
――分からない。
崩壊して行く。
崩壊……
「四条さんっ!四条っ!…つ、つかさっ!」
「………………………………え?」
何か暖かさを感じた。
「落ち着いて。 大丈夫だから、ね?」
暖かい物に包まれる感じ。
すごく、安心できるような。
急速に自分が引き戻される。
乖離していた自分と世界が接点を持つ。そこに『自分』が収束する。
ふと気づく。
私は環にギュッと抱きしめられていた。
「環……さん?」
「……よかった、帰ってきた」
よく分からないが、あからさまにホッとした顔をされた。
そういや、何で抱きしめられてるんだ、私。
……何かあったっけ。
――――――――――――― あ。
「ああああ…」
洗面所の床にがっくりと膝と両手を…
「繰り返すな!」
後頭部でスパーンと小気味良い音を立てるスリッパ。
音の割りに軽い衝撃がちょっとだけ意識をはっきりさせた。
「か、かみ、髪、ぬけ、抜け、ど、どうしよう、どうしよう」
…はっきりはしたが自分がパニックしてるのが分かっただけだったり。
「落ち着きなさいってば。とりあえず、連中に口止めしときましょう。本人も
気づかなかったモノなんだから、他の人には知られてないでしょう?」
「そ、そっか」
毛が生える訳ではないが、とりあえずすべき事である。
みんなに知られて影でクスクス笑われたりした日には精神的負担で二つ目の
円形脱毛症が出来かねない。
こんなことは誰にも知られる訳には……
「―― 私は知っていたな」
ビクッ!
ギギギギッと音がしそうなくらいぎこちなく首を回すと。
入り口に大きめの手帳を小脇に抱えた生徒会書記 高雅瀬がいた。
目が合うと高雅瀬はにやりと笑い、
「それじゃ」
スタスタと歩いて行った。
後には静寂と二人だけが残される。
「……あちゃあ、確定」
高雅瀬の噂好きは有名である。明日には全校生徒に知れ渡っている事は確定
だろう。
―― どうして、私だけ、こうなるの?
「……う……」
「……四条さん?」
「…うう……」
「もしもーし?」
「うわああああん!みんなキライだああああっ!!」
泣きながら闇雲に走り出した。
後ろから何か聞こえたが意味は取れない。
ただひたすらに、めくらめっぽう走る。
「呪ってやるううううぅっ!」
《つづく》
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