[an error occurred while processing this directive]


クチビル

                                  古守久万



 ただ、机に座って窓の外を眺める。
 暮れていく一日を怠惰に、そして意味もなく過ごした土曜日。
 私は、時に身を任せてこうするのが正しいと信じていた。

「なぁ遠野、最近ずっとこっちにいるな。帰らなくて良いのか?」

 蒼香の声が後ろから聞こえる。

「もちろん。今までの生活に戻っただけよ」

 私はそのままで、さも当たり前の様に答えた。

「そうじゃなくて、お前の兄さんが……」
「蒼香」

 蒼香は何かを言おうとするが、私はその先を言わせない。

「言ったでしょう、私は曖昧な気持ちじゃ許さないって。ここで私が帰ったら、
それは兄さんへの戒めにならないのよ」

 そう……
 帰っても、それは私の弱さを見せるだけ。
 だから、こうして迎えに来るのを待っている。

 私を好きならば分かるでしょう、兄さん?
 だから、悩んで、困って、迷って
 それから、本当に私と会いたいと思ったら、迎えに来なさい

「いいでしょう、蒼香?」

 振り返ると、そこには苦笑いを浮かべる蒼香の姿があった。
 蒼香はやれやれ、とオーバーアクションをすると

「まぁ、お前が意固地なのは分かり切ってる事だが……兄さん、その内寂しさ
に凍えて死んじまうかも知れないぞ?」

 皮肉が混じった声で、私に素直になれと言っている様だった。
 私はそのままもう一度外を見やると

「真冬でもあるまいし。寒いのなら上着を着て、そうでなければ勝手に死んで
しまえばいいのよ」

 蒼香の言葉を受けてあの人をそう皮肉りながら、その言葉に内心震えていた。
 ……私を置いて、勝手に死んでしまう。
 そう、あの時みたいに……

 こころが、僅かに揺れた。
 何も言えなくなる。
 何かをここで言ってしまえば、きっと耐えられなくなるから。
 だから、口をつぐんだ。

 沈黙の時間。
 しかし、その支配をうち破ってくれるかの様に、はぁと溜息が一つ聞こえた
後、蒼香の声が少しだけ遠のいていった。

「まったく……前は何とかして兄さんに取り付こうとしたお前が、今度は逆だ
な」
「……そうね。屋敷に呼び戻して、縛り付けて……そう思ったら今度は放置、
私もいいご身分ね」
「ああ、罪深いヤツだ。恋する何とかってのは、こうも女をわがままにするん
だな」

 蒼香は部屋を出ていって、私は一人残された。
 私は去り際の蒼香の声も否定せず、ただ黙っていた。

 違うわよ蒼香。
 私はそれを、罪なんて言わないわ。
 こうして出会えた事が……それを罪だと言うならば、私は甘んじて受け入れ
る。
 だってそうしなければ、もっと深い罪にこの身を沈ませていたのでしょうか
ら。

 またしばらく、静かな時間が手に入る。
 空を眺めると、日も長くなり始めた春先の空に、闇が訪れようとしていた。
 そんな暗闇に変わる刹那のひとつ前、この景色が最近のお気に入りだった。
 明かりのついていない薄闇の空間に射し込む光は、私の顔を染めている。

 暮れゆく太陽の、赤
 そして、浮かび続けているあの雲の、白
 そこにあり続ける色
 まるで始めからその色であったかの様に、空は何も言わない

 この変わらない、退屈すぎる日常を……変えて
 私は、願う

 兄さん……

 誰よりも激しく、あなたが今キスをくれたら……
 きっと、何も知らない少女の振りをして、全てを任せたい……のに

「はぁ……」

 溜息に、唇が咲いた。
 私は感傷的な想いの自分をふっと笑うと、立ち上がった。



 夕食の後、私は談話室に連れてこられた。
 すっかり元気のない私を思っての、羽居の企み。
 元気な所へ連れて行って元気にさせようとする……無邪気な羽居らしい考え。
 心から心配してくれるのはありがたいが、その心遣いが私には……少しだけ
迷惑だった。

 普段は自分達の部屋でお茶を楽しむ私達が、ここへ来るのは珍しい。
 それだけで側へ集まってくる下級生達が……正直、羨ましかった。
 皆楽しそうに、唯一とも言える娯楽の時を過ごしている。
 そんな中にいると、天の邪鬼な私の心は余計に凍りついていった。

 最初は何とか興味を引いて貰おうと話しかけてきた下級生達だったが、私の
様子を見ると、ひとり、またひとりと数を減らしていき……最後に残ったのは、
私達と、そして瀬尾だけだった。
 この子だけは、いつでも私に付いてきてくれている。
 その優しさは時に感謝と友愛を覚えるが、今はただ……
 ……気遣ってくれているというのに、本当に悪いと思った。

 結局私の雰囲気に圧された、静かなお茶会になる。
 そんな中、私が落ち込んでいる――羽居にはそう映るらしい――理由を一通
り聞いた後、紅茶のカップから口を離すと、瀬尾は尋ねた。

「何か、特別な思いでもあるんですか?」

 この子は、本当に素直な言葉にしてくれる。
 蒼香や羽居も含めて、私は良い友人に囲まれてる、そう感じさせる一言だっ
た。

「そうね。特別……とは、むしろ正反対よ」

 そう、特別じゃない。
 私は特別な愛なんて欲しくなかった。
 「妹」という特別な存在での愛ではなく、「一人の女」としての愛。
 それをあの人は……いとも簡単に、自分のやり方で私を愛してくれた。
 普通に、自然に。
 思い出すと、胸が締め付けられる思いになる。

 その言葉に何かを感じ取ったのか、瀬尾は黙ってしまった。

 沈黙が場を支配すると、私は周りの喧噪が余計耳に障る。
 さっき私の側であれだけ小さくなっていた子達が、今は自分たちのおしゃべ
りに夢中になっている。
 そんな中、私は一人こうして。
 まるで、通りを埋める程ひしめき合う感謝祭の踊りの波の中、自分の場所を
求めてひとり彷徨っているジプシーの様。
 きっとジプシーなら……静かな小径を見つけて眠りにつくだろう。
 だから私も、すっと席を立った。

「……悪いけど、先に帰るわ」

 一人がいい。
 みんなには悪いけど、それが今一番の答えだった。

「あの……怒らせちゃいましたか?」

 そんな私の行動に、先程まで会話をしていた瀬尾が不安そうな瞳で見つめた。

「そんな事無いわ、瀬尾。あなたはいい子ね」

 私は、優しく笑顔を作ってその言葉を否定する。

「は、はい……ありがとうございます」

 頬を染めて俯く瀬尾に感謝を心で述べながら、私は部屋へと戻った。



「はぁ……」

 布団を頭まで被り暗闇に身を包むと、様々な考えが私を惑わせた。
 自分を肯定するように、心の奥に燻っている想いを抑え付け……

 ――会えない切なさ、それはYes
 ――でも、意地を張ってこうしている事へのためらいは……No……
 ――……そう、No
 ――No……

 たいのに、震えた。

 想えば想う程、抑えきれなくなる。
 持て余している、この情熱が……

「痛い……」

 言葉に出して、私は枕に顔を埋めた。

 いつまた、あなたがいなくなってしまうか分からない。
 こうして待っていてくれている、今よりも確かなものなんてない。
 だから、もしこの虚勢が本当に嘘になってもいい
 兄さんの……すべてが、欲しい……
 私は、まだ……



 気付けば、眠っていた。
 目を覚ますと部屋は暗く、窓の外には月空。
 私は音を立てぬように立ち上がると、洗面所へ向かった。

 仄暗く輝く蛍光灯の下、私は鏡の前に立つ。
 人工的な光に照らされるよりも白く、それは生気を抜かれたような顔。
 そんな中、ただ一カ所だけ一際目立つ色へ……私は指先を当てる。
 あの人が触れてくれた、私の最後の色へ。

 ユビデ ナゾッタ クチビル



 ぷつり

 張りつめていたものが割れるような音と共に、爪が唇の端を傷付け。
 じわりと滲んでいく色が、私の目に何よりも美しく映る。
 それは、兄さんと、私の……血。

 唇の紅
 それは、今私達を繋ぐ、本当の色

「兄さん、秋葉はこんなに元気ですよ。あなたの温もりを宿したまま、こうや
って微笑んでる……」

 鏡の前で、微笑んでみせた。
 その向こうにある、兄さんを想って。
 でもそれは、ガラスのようにあっけなく壊れそうな笑顔。
 笑えて、いなかった。

 唇から滴り落ちる、紅い雫
 そこへ混じるように、透明な雫

 泣いていた
 ああ、こんなにも悲しい――顔
 笑いたいのに笑えないで、悲しんで、泣いて……
 自分の体を抱きしめ、私は目を瞑った

 誰よりも激しく、あなたが今キスをくれたら……
 きっと、何も知らない少女の振りをして、全てを任せたい……のに

「兄、さん……っ!」

 寂しさに、唇が咲いた。



「おかえり」
「……羽居」

 部屋に戻った私を、迎えてくれる人がいた。
 羽居は私を見ると、その唇の傷に気付いたようで

「あーあ、折角の綺麗な唇が台無しだよ」

 すっと静かに私の前に立つと、羽居はその指先で優しく唇に触れてくれた。
 邪気のない、本当の優しさ。
 心配そうに見つめてくれる笑顔。
 そして、触れてくれる指先。
 
 その羽居のすべてに……私は心の中の堤防が崩れていくのを感じた。

「……羽居」
「秋葉ちゃん……我慢してたんだね」

 私は、羽居の胸で泣いた。
 声も立てずに、ただ嗚咽だけを響かせて。
 羽居は何も言わなかった。
 ただ、頭を撫でてくれて、好きなだけ泣かせてくれた。

「羽居……」

 どれだけそうしていただろう、私は顔を上げた。
 壊れてしまいそうな儚い自分は、羽居達だからこそ見せられる顔だった。

「私、屋敷に帰るわ」
「……秋葉ちゃん」

 その言葉を分かっていたように、羽居は笑顔で頷いてくれた。

「うん、その方がいいよ」

 私は、羽居達が友達でいてくれて、本当に嬉しかった。
 少しだけ元気になれて、言葉が出てくる。

「悪いわね、またいなくなっちゃうけど」
「大丈夫だよ。お部屋は綺麗にしておくから、いつでもまた帰ってきていいよ」

 寂しさも感じさせず、羽居はそれをまた楽しみにしているようだった。

「そうね……次帰ってくるのは、兄さんと喧嘩した時かしら?」

 私は冗談めかしくそんな事を言うと

「えへへ、じゃあすぐだね?」

 悪気もなくそう返してきた羽居のおでこを、人差し指でぐりぐりとやった。

「言うようになったわね、羽居」
「ふーん、秋葉ちゃんのせいだもんね」

 そう言って笑う羽居に、ようやく少しだけ笑えそうな自分に気が付いた。



 優しい光が私を包む。
 だというのに、あの場所へ続く道を歩きながら、僅かに暗い不安を感じてい
る自分がいた。
 決心が鈍った訳じゃない。
 そんな曖昧な気持ちじゃ、ここへ戻ってはこなかった。

 立ち止まる。

 そう、この場所は……

 すべての悲しみの始まりと終わりの場所であり
 今は褪せ、もう一度色を失いかけているけれど
 私の世界に色を戻してくれた、大切な場所だった……

                   

                           《ToBeContinued "colors 〜original mix〜"》