『熱に浮かされて』
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 数日ぶりに、空は快晴を迎えていた。
 つい先日までは親の敵のように連日に亘って降り注いだ雨も、今では見る影
もない。灰の色合いは澄み切った蒼色に染め上げられ、曇天から開放された日
の光はすっかり初夏の様相を見せている。
 昨夜までの雨が嘘のよう。
 水溜りが陽射しによって乾く際に生じる僅かな匂いが無ければ、昨夜の天候
をにわかに信じることなど出来そうもなかった。だが、大地に染み渡った雨水
が陽光によって干されているのは確かな事実。

 鼻腔をくすぐる匂いに、外を眺める。
 親の敵かと思うほどの円蔵山の坂道を登り、さらにそこから親の敵かと思う
ほどの石段を登った先にようやく見える景色。遮るものが何も無く。ただただ
仰げば遥かな空のみ。

「せっかく晴れたのに……」

 呟かれた声は弱々しく掠れていた。フィルターがかかったように不明瞭な女
声は、仰ぎ見る空の清々しさとは対極に位置している。
 ひゅー、という曇った吐息。
 そこからでも彼女の悔やむような気配は感じられた。

「これでは溜め込む一方ね……」

 口に出すことで現状を再確認。ぼんやりとした覚束ない思考に、ここ数日の
間に溜め込んだ洗濯物の数々がよぎってゆく。

「あ―――お布団も干さないと」

 ふと、思いついたように一言。
 蒸し暑さすら覚える今日は、絶好の洗濯日和。そんな天気に触発されてか、
彼女の脳裏に、無数の溜め込まれた洗濯物が庭先に並び干されている姿を思い
描く。真っ白になったシャツやタオル――全て主のものだ――が旗のように風
に揺られる様相は、想像しただけでも気持ちよさそう。

 外を眺めようと軽く上半身を起こすが、程なくしてその身が傾く。ぐらり。
そんな音が聞こえそうなほどに、身体は支えを欠いている。
 力無く、その場へ座り込んで元の体勢に戻ると、その動作に合わせたように
身体が脱力してゆく。自分の体力がどこかへ吸い込まれるような錯覚を覚えつ
つ、彼女はそれに引き込まれるように横になった。
 虚脱感と熱を帯びた肉体を落ち着かせようと―――

「こほっ……ごほごほごほごほっ!」

 深呼吸することすら叶わない。
 彼女を蝕む病魔は治るどころか、昨夜にくらべてさらに浸透しているようで
あった。ただの風邪だと、主は言っていたがそれも疑わしい。本当は風邪なの
ではなく不治の病か何かなのではないだろうか。

 頭は魔術で掻き回されたようにグラグラするし。
 視界は霞んで主の表情すらまともに映らず。
 さらに声はくぐもり、自慢の呪文も満足に唱えることが出来ない。

 どこからどう見ても風邪の症状そのものなのだが、実際に風邪をひいている
立場からすると、苦しさからその度合いも誇張してしまうもの。それは彼女の
場合もしっかりと当て嵌まっていた。

「………あう、宗一郎さまぁ」

 弱々しく、主の名を呼ぶ。
 こんなにも自分は脆かっただろうか。たかだか風邪をひいた程度で、主を求
めてしまうとは。これでは彼のサーヴァントとして面目が立たない。

「む、呼んだか――メディア」
「あっ、宗一ろ、けほっこほっ!」

 廊下側、初夏の生暖かい風とともにやってきたのは、彼女の主である葛木宗
一郎だ。その身を包む雰囲気は、初夏の季節に似つかわしくない真冬の鋭い冷
たさを思わせる。
 葛木の姿を確認したメディアが、ぱっと表情を輝かせた。

「無理をするな、昨夜から熱が引いていないのだろう」
「あ、は、はい……」

 葛木の言葉に撫でられるように、起こしかけた身体を戻すメディア。
 魔術師としての彼女を知っている者が見たら、これほど素直な彼女に目を見
開くことであろう。それほどまでに、今のメディアはキャスターとしての彼女
との激しいギャップが存在していた。
 だが、それを言うならば彼女のマスターである葛木宗一郎にも言えることで
あった。
 周囲から鉄面皮と言われている葛木であったが、メディアを心配する態度を
彼の生徒たちが見れば、幾分か和らいだその様相に絶叫しながらひっくり返る
に違いない。

「どうだ、調子は?」

 幾分か和らいだ、とはいっても葛木宗一郎は葛木宗一郎であった。その和ら
ぎは微細なもの。よっぽど彼を知る者でないと変化には気づかないだろう。そ
う、例えば常に彼と寝食を共にする者などがそれにあたるに違いない。

 無駄も抑揚も無い声音で、端的にメディアへと問いかける。
 だが、その冷たい鉄のような声も熱を帯びた思考には心地よい。

「ええ、昨夜の熱が未だ引かないらしく、喉の調子も芳しくは……正直に言い
まして大丈夫とは言えません」
「そうか……食欲はどうだ?」
「そうですね……昨日よりかは幾分かあります――けほっけほっ」

 喉の奥から込み上げて来る咳の衝動。
 押し留めることも我慢することも出来ず、ただただ渇いた喉に鞭を打つよう
に咳き込み続ける。
 と、不意にメディアの視界を影が覆った。
 それが何かは言うまでも無い。彼女にそっと寄り添っているのは葛木だ。無
言でメディアの肩を抱いてやり、開いた片手で冷えた水の入ったコップを差し
出す。

「あ、ありがとうございます……宗一郎さま」
「気にすることはない」
「いえ、気にします……宗一郎さまに風邪がうつってしまったら……」

 柳眉を下げるメディアに、葛木は事も無げに言い返した。
 さも当然といった風に。

「お前が治るのなら、俺はそれでも構わん」
「そ、宗一郎しゃまぁ……」

 おそらく葛木は本気でそう言っているのであろう。冗談という言葉は、彼と
はおおよそ対極に位置するものなのだから。
 えぐえぐ。メディアは感激の涙を――半ば鼻水混じりで――流しながら、葛
木に身を沈める。病気を患わせると、どうも精神面が弱々しく萎えてしまいが
ちだ。
 風邪を患い火照った身体を葛木に預ける。汗ばみ僅かに髪の毛が張り付いた
艶っぽいうなじ、それが彼に見えるように彼女の肢体が傾く。

「あ……すいません、お身体……寄りかからせていただいています」
「いや、構わぬ。風邪を患っているのだから、無理はしないほうがよい」

 委ねられた身を、無骨な胸板が受け止める。身体の力を抜き、胸中だけで笑
いながら、熱っぽい思考を働かせた。

 ……何だか恋人同士みたい、と。
 
 そもそも葛木とメディアは柳洞寺に夫婦として厄介になっているが、夫婦に
至るまでの過程を数段階一気に飛び越えてしまっていたために、恋人同士とい
う過程が存在しない。
 彼女と葛木の特殊な出会いと置かれた特殊な状況下を考えれば仕方の無いこ
となのだが、その欠けた過程に対してメディアの胸中では消えることのない憬
れが存在していた。

 夫婦である現在に不満は無い。
 だが、夫婦であるが故に欠けた過程に羨望を覚えてしまう。

 そんな茫洋とした思考を働かせて、どれくらいの時間が過ぎただろう。
 預けていた身体を葛木が優しく、しかし強引に戻すと、

「席を外す、その間に熱を測っていろ――メディア」
「あ―――」

 吐息のような呟きは小さい。
 それ故に葛木には聞こえていなかったらしく、立ち上がり踵を返した彼の後
姿をメディアは呆けたように眺める。
 もうしばらく、そばにいてください。
 その一言が紡げない。
 葛木を引き止めておきたかった、数刻の間だけでもよかったから先程のよう
に身体を重ねていたかった。

「はぁぁぁぁ。駄目ね……わたし」

 重く、そして深い溜息。それには自嘲にも似た感情の込められている。
 どうしてこうも上手く意思を伝えられないものか。さっきは、いい感じの雰
囲気だったというのに、自分はどうも詰めが甘いらしい。
 甘えたいとは思っているが、一つ一つの要求の度に彼に対する気負いが生じ
てしまう。
 こんなことを頼んで迷惑ではないだろうか。
 つい、メディアはそう感じてしまい、望む恋人のような甘えには未だ遠い。

「何を今更。恋人なんて、高望みね」

 口にして、自然と笑みを刻む。
 そもそも自分と葛木は聖杯戦争を勝ち抜くためのサーヴァントとマスターの
関係だ。それが何の因果か許婚として寺の面々に紹介され、嘘から出た真を体
現するように二人は結婚した。
 無論、メディアはそれを望まぬはずがない。
 そうだ。
 ただのサーヴァントに過ぎない自分が、葛木と出会い共に暮らすことで得ら
れぬ幸せを得られたのだ。
 それならば。

「それでいい。それでわたしは………」

 ふと、彼女の思考に葛木の声が過ぎる。
 彼の硬い表情をそのまま音に変えたようなそれ。自分の名を呼ぶ葛木の声。

「メディア―――か」

 いつからだろう。
 葛木が自分のことをキャスターではなくメディアと呼ぶようになったのは。
 思い出そうとメディアは己の過去を顧みた。ぼんやりとは意識できるが、明
確な映像としては脳裏に焼きつかない。
 だが、それでも彼女には確固たる確信があった。キャスターからメディアと
呼ぶようになったのは、自分をサーヴァントとしてではなく一人の女として見
てくれているからだ。
 彼が名を呼んでくれるたびに、胸の奥に暖かい何かが灯るのを覚える。

「ふふ、宗一郎さま」

 嬉しくなって彼の名を呟き、ふとメディアは思う。
 彼に対して自分は未だにサーヴァントであることを引き摺っているのではな
いか、と。その証拠に自分は先刻も葛木を様付けで呼んでいたではないか。
 自分がこれでは、溜息をつく結果なのも無理はない。
 一人頷き、拳を握り締めるメディア。
 彼は歩み寄ってくれているのだ、自分も歩み寄らねば。

「とすると、やはり様付けは改善しなくては。いくらなんでも、他人行儀です
し……」

 例えば様を外してみて、呼び捨てに。

「宗一郎―――って、これは駄目駄目!」

 呟いて、ぶんぶんと大きく頭を振る。呼び捨てというのは自分にはどうもし
っくりこない、セイバーなど他のサーヴァントは普通に自分のマスターを呼び
捨てにしているが、失礼だとは思わないのだろうか。

「やっぱり、呼び捨てはいけないわよねっ。もっと柔らかく……そうよ、夫婦
なんだから。もっと夫婦っぽい感じに―――あなた、とか?」

 自分の言葉を思考で反芻し、彼女の表情は蕩けてゆく。脳裏に浮かんだ情景
は、帰宅した葛木を正座で迎える自分の姿だった。慎ましやかに頭を下げ、そ
っと彼に囁く。

 あなた、ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも、わ・た・し?
 
 はっと正気に戻るメディア。じたばたと両手を振るわせ、己の脳内で垂れ流
していた桃色の妄想を霧散させる。

「なあんちゃって、なあんちゃって、なあんちゃってぇぇぇ―――って、何を
考えていたのかしら、わたしはっ! ほほほほほほ………!!」

 気恥ずかしさを隠すように布団をかぶるメディア。
 あなた、と呼ぶにはまだ自分には刺激が強すぎる。
 夫婦といえばこの呼び名だったが、さすがに飛躍させすぎだったかもしれな
い。とりあえずは、宗一郎さま、という今まで使っていたものに近い呼び方か
ら考えてみるべきだろうか。
 そう、例えば。
 元の呼び方を残しつつ、少し気軽な感じに。

「………宗ちゃん、とか?」

 刹那。

「くっはああああっ! 駄目っ駄目っ、恥ずかしすぎるうぅっ―――そ、そう
ちゃ、かはああっ!」

 ぷしゅぅぅぅ―――っ、とかなんとか、そんな音を立てながらメディアの頭
から物凄い勢いで湯気が噴出し、掛け布団を巻き込みながら勢いよくのたうち
回る。あの葛木宗一郎をちゃん付けで呼ぶ自分を想像してみた。
 無理無理絶対無理。
 メディア自身が思い至ったとはいえ、こればかりはさすがに出来そうに無い。
持てる限りの魔術の粋を使っても無理だろう。

「そ、宗ちゃんって……うわー、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい、どうしま
しょどうしましょどうしましょーっ!!」

 つい先程まで、葛木に見せていた粛々とした姿はどこへやら。気兼ねする相
手がいないからか、反転したように彼女は活き活きとし始めた。想像力逞しい
性格がさらに拍車をかけてゆく。
 だが、いくら活きのある様子だからといってメディアが病人であることには
変わりない。恥ずかしがって転げ回るだけでも、彼女の身体には強い刺激とな
るのだ。

「けほっ――ごほごほごほごほっ!!」

 脊髄を駆けるような咳の衝動にメディアの身が震える。一つ咳で身体を揺ら
すたびに頭の中も一回掻き回されるような感覚。視界がぼやけ、後頭部下に響
くような痛痒。

「ぁ――っ、はぁっ、けほっ!」

 やはり無理はするものではない。
 葛木が看病して心地よくはあるが、それは風邪が治ったこととはイコールに
ならないのだ。

「そうだ、熱……測らないと」

 去り際の言葉を思い出し、メディアは身を起こして周囲を見回す。探す、と
言い表すほどでもなくそれは見つかった。十五センチほどの一般的な体温計。
タオルと一緒に持ってきたのだろう、その隣に置かれている。それを手にとっ
て。

 体温計の先端を己の額に当てた。

 上目遣いで額に当てた先端を見やる、それがこの上なく間抜けな光景だとは
気づかずに体温計を見やるメディアの表情は真剣そのもの。
 額は未だ熱を帯びていて湯を沸騰させた鍋を髣髴とさせる。頭の中はもう充
分以上に煮立っていたが。

「これで……体温を測るのですよね?」

 さすがに、今まで一度も風邪を引いたことがないとは言わない。だが、メデ
ィアには体温計を使用した経験がまるっきり無かった。生まれてこのかた一度
もだ。もっとも彼女はサーヴァントなのだからそのことに関しては無理もない。
 いわば彼女は体温計初心者。
 ビギナーというやつだ。
 この棒のような器具でどうやって体温を測るというのか。
 細くなった先端、液晶の画面、見れば見るほど不思議で仕方が無い。彼女の
感覚では熱を確かめるというのは、先刻に葛木がやったように掌を額に当てる
方法くらいしか思い浮かばなかった。
 故の額に体温計という構図。
 しかし、本当にこんなことをして熱が測れるのだろうか。
 メディアは額に体温計を当てている自分の姿を思い、ふと不安にかられる。
 傍から見れば、どう考えても珍妙な様相だ。この上なく間抜けな光景だ。

「ひょっとして、間違えているとか?」

 呟いてみるとその可能性が現実感を増してゆくのを感じる。
 そういえばこの体温計、先端が窄まっている。尖っているとまではいかない
が、刺突用の短剣に似ていなくもない。
 と、そこでメディアは頭を振る。
 随分と物騒な喩え方をしたものだ。そんな風に考えてしまうあたり、自分が
まだサーヴァントとして振舞っていることを感じさせた。いや、実際に彼女は
サーヴァントなのだからそれはそれで問題はないのだが、葛木の妻という立場
としてはどうかと思う。

「………ふぅ」

 難しい兼ね合いだ。
 風邪をひいていもお構いなしな、思慮深い自分の性格が少し恨めしい。

「―――けど」

 刺突というのは案外と正鵠を射ているのではないだろうか。
 窄まった先端の形状を考えると用途はそれくらいしか考えられない。だとす
れば、これは体外ではなく体内の熱を測るものではないだろうか。
 そこまで考えてメディアは頷く。
 さすがに、額に当てるのはどうかと思ったのだ。しかし、体内温度を測るた
めだというのならば形状にも納得がいく。
 先端は針のように鋭くないから直接肌に刺すというわけではないだろう。
 だとすれば、必然的に体温計を入れる場所は限られてくる。
 そう例えば。
 この窄まりの細さ、長さ、そして体温を測るという目的、それを考えると。


「お尻に入れる、とか――」

(to be continued)