いず いこーる とぅ
阿羅本 景
承前
創造に関する理念だけはある。
ただ、あるのは理念だけだ。骨子も、材質も、設計も未だ存在しない。ただ
その理念だけが心の中で蟠り、形を成すことだけを望む飢えた混沌となる。
背中に通った熱い筋。閉じた瞼の中に浮かぶのは、無数の回路模様。
それが俺の全ての魔術回路のイメージであった。これの全てに力を宿らせば、
すなわちそれは力の在る心理具象が現出する。回路の下にあるのは俺の抱える
セカイ――命無き剣の荒野。
だが、そんな剣製の世界には今ばかりは縁がなかった。
殊に衛宮士郎という魔術の行使者はこの能力に特化している。鋼の刃を見れ
ば、どのような骨子と理念から成り、如何なる材質と設計と技法を経てこの形
になったのかを理解できる。それがこの投影という魔術の、開始の地点である。
だが、今は違う。
理念はあるがそこから導き出される筋道はない。そう、これは投影などでは
ない、敢えて言うなら創造――それはあまりにも高度で形而上的で、俺の使え
る魔術の範疇ではないのかも知れない。だが、いまこの時ばかりは禁断の創造
の手法を取ってでも、形を成さねばならなかった。
刻限は近い。今為さねば在るのはただ敗北のみ。
「――――投影、開始」
始動の韻を喉に乗せる。それは自己の回路にこの魔術の始まりを告げる……
スパヵーン!
「なにやってんのあんた!」
――えーっと、何だ?
俺の意識が身体からずれた。力一杯の怒号が浴びせかけられても、俺の耳と
いうか意識というか、そういう物がずれているので聞いている分かっていると
いうのもなんとしたものか難しい、って。
人が魔術鍛錬しているのに殴る奴があるかっ!死んだらどうするんだよ!遠坂!
魔法使いは呪文詠唱中に、変身ヒーローは変身中に、合体ロボは合体中に攻
撃しちゃいけないってお父さんから教えて貰わなかったのかお前は!
「ああもう一体士郎がなにかか変なことやってると思って駆け付けてみれば、
いつもの鍛錬じゃなくて馬鹿やってるし!そんな豚が空をマッハ2で飛ぼうと
するような無理無茶無謀の三無主義の所業をへらへら笑いながらしてるのよ、
頭良くないことは知ってるけども大概にしなさい!」
しかし、ここまで一方的に言われても、ズレてるから言い返せないのが辛い。
……いや、こいつは俺が言い返せないことを知って言っているんだろう。こ
のままだときっと俺の両親から始まって子々孫々と先祖代々まで延々と罵り続
けるかもしれないし、もしこのまま死んだらきっと原稿用紙100枚分の罵声
を俺の墓碑銘に刻むだろう。
そ、それがちょっと素敵な墓碑銘の予感がしてしまうのが悔しいけど。
なんとか心息を落ち着け、発動し掛けた回路を消散させる。無駄で不効率だ
と分かっていても、魔術回路を明示的に刻むような真似が出来ないので仕方な
い。
身体がまた軸がずれている様な気がする……のは遠坂に叩かれたからか。人
の魂をずらす武器というのは一体どんなものなのか気になる。ほとんどそれは
概念武装と言うに――
――ハリセン?
「なによその目は、豆鉄砲で撃ち殺された鳩みたいな顔してるわよ、衛宮くん?」
遠坂はハリセンを片手に腕組みして、挑発的といえるほどに口元をつり上げ
て笑っている。遠坂は豆鉄砲だというけども、それは熊を倒す44マグナムを
撃つような豆鉄砲なんだろう、きっと。
遠坂はいつものツーテールのリボンの髪型じゃなくて、ストレートに下ろし
ている。それにその格好も……パジャマの上にレザージャケットというなんと
いうのか、妙な格好。ぞれに薄暗いから自信がないけど、メイクもしてないだ
ろう。まぁそうでなくても十分すぎるくらいに美女なんだが……
問題は。
今が深夜で、ここが俺の家の蔵の中だと言うことだ。なぜ忽然と遠坂が現れ
るのか?
それに、それ。そのハリセンはナニ?
「……つつ、なんでハリセンなんだよ、遠坂」
「決まってるじゃない、いつかあなたが馬鹿なコトをしでかしたら叩いてやろ
うと用意してたのよ。単なる関西芸人の突っ込み道具じゃ面白くないから、特大
サイズの熊野牛王誓紙で作ったの」
えっへん、と胸を張って説明する遠坂。そんな熊野の烏を落とすような代物
で殴ったのか――ってか、それよりも重大な問題がある。
軋む首で左右を見回す。外から月の微かな光が差し込むけど、間違いなくこ
こは俺の家の蔵、物置の中だった。で、どうして遠坂がここにいるのか。
俺にとっては遠坂はいきなり空間転移してきたとしか思えない、それもハリ
センを抱えて。もしかしてハリセンがそれを可能にする宝具なのか?パラメー
ターがつっこみEXとか、妖精界の向こうまでつっこみが入れられるとか。
「しかし、驚いたな遠坂。まさか空間転移が出来たなんてキャスター並の……」
「は?何言ってるの士郎。そんなこと私が出来るわけ無いじゃないの」
ハリセンでぽんぽん、と手を打ちながら答える。なにか、俺がこれ以上不穏
なコトを言うと脳天唐竹割りに打ち抜くぞ、と言わんがばかりに硬い笑みで―
―まだ怒ってるのか。
遠坂のハリセンが動き、振り返って彼女の背後を差す。それを見ろ、と言う
ことだろう。
…………
「士郎が馬鹿なこと始めたから飛び起きて慌てて来たのよ、あれで」
「……………いや、そーなのか」
蔵の出口には、なぜかマウンテンバイクが鎮座しましている。
なにか、遠坂は深夜に起き抜けでその格好であのマウンテンバイクに跨って
俺の家まで疾走してきたと言うことか……確かに下り一方向のダウンヒルだか
らスピードは出るだろうな、とか思う。で、そんなもん持ってたと初めて知っ
たが。
つうか、門閉まってたはずだけど、どうしたんだ?ジャンプか?ジャンプな
のか?謎だ。
いろいろあって簡単に納得は出来ないけど、遠坂の口元がひくひく引きつっ
ているのでなんとなく頷く。
「いやまぁ、なんだその、いきなり遠坂が現れたからびっくりしたぞ」
「士郎も没頭してたから気が付かなくて当然かも知れないわね、で――」
遠坂のハリセンが、すっと俺の鼻先に突きつけられる。
なんというのか、あれだ。セイバーに剣を突きつけられたり、ランサーの野
郎の刺撃を喰らう寸前というか、ああまずいなこのままだと死ぬな、という硬
く雹のように降り注ぐ危険を感じる。遠坂は顔は笑っているが、なまじご立腹
を表面に出されるよりこっちの方が怖い。
女が笑ってるときは良かれ悪しかれ男の危機だ、とは誰の言葉か……
「何をしていたのかしらね?衛宮くん?」
呼び名が衛宮くん、になるときは大概俺がぴんちであり、今もご多分に漏れ
ない。
えへんえへん、と空咳をする。まだ3月で温かくないのに夜分に駆け付けて
きた遠坂のことを思うと悪いが、その、本当のことなんか口に出来る訳がない。
「見れば分かると思うけど、いつもの鍛錬を欠かさずに……」
「嘘おっしゃい、この遠坂凛様を魔術の面で謀れると思ったら大甘よ、え・み・
や・く・ん?」
鼻先でふんふん、とハリセンが上下する。嘘つきのペナルティーでまず一発
叩かれるかと身を固くすると……ハリセンが上がり、凛が憤懣やるかたなしと
ばかりに腕組みする。
いや、いっそコテンパンに気が済むまで殴って頂いた方がこっちも心やすい
のですけども、と提案したくなるのを堪える俺。凛はなにを言いたいのか、キ
リキリと歯ぎしりをしそうな塩梅で……すぅ、と大きく息を吸うのが分かる。
まずい、怒鳴る。間違いなく怒鳴る。
首を縮めてその衝撃に――
「士郎!」
「はいぃぃぃぃぃぃ!」
「喋る前と後にいぇっさーまいますたーと付けなさいこのうすらとんかち!」
「いぇっさー!まいますたー!」
……海兵隊?パリスアイランド?
「士郎!あなたの得意分野は投影の筈よ!それなのに何を造化なんかしようと
してるのよ!それも理念だけで概念まで創造しようとしてるなんて舐めてるに
も程があるわ!」
「……え?その、なんでさ?」
「――――――!」
「い、いぇっさーまいますたー!」
ハリセンの暴力に屈したわけでも、遠坂の言葉の暴力に膝を屈したわけでも
ございません。
ただ膝を折らないと次に折れるのが俺の首であるという確信があれば、膝に
一つや二つや三つさっくりと折るわけで。おまけに遠坂の苛立ちがマキシマム
だから。
それになにか、ひどく複雑なことを言ってるような……
「ああもう、士郎、あなたがしようとしているのはあなたが知らないかも知れ
ないけど概念、すなわち場の形成なのよ?木を切るために斧を作ることがあっ
ても、斧が作られてから木を切られることが誕生する訳はない、つまり因果の
逆剋を可能とするようなコトをひょいひょいやられてたまるものですぁぁぁか!」
「いぇっさー、まいますたー……いや、でも普通理念から設計思想が生まれて
それから素材が選定され手法が編み出されて具象に結実するから、こうするの
が普通じゃないかと……ま、まいますたー」
遠坂の怒鳴り声と俺の答えで頭の中がぐんにゃりと曲がるようだった。なに
がどうなってこうなのか、口に出しながら、纏めるのが精一杯というか。
遠坂凛ますたー殿はむ、と腹立たしげに唸る。
「それは士郎が剣という概念を持ってるからでしょう。で、士郎は剣製の投影
をしてた訳じゃないわよね?それだったら創造特性のアマノサカホコでも作ろ
うとしない限り駆けつけはしないわよ」
「……い、いぇっさー」
たらたらたらたらと冷や汗が流れる。遠坂に何もかもお見通しだったと言う
ことなのか?
こまる、それは困る。どこがどう困るかと言われるとテーブルを叩きながら
困る!と叫ぶしかないほどに……
「そ、れ、で?聞かせて貰おうじゃないの、衛宮くんはどんな概念を作ろうと
していたの?」
「が、が、概念というか……その」
「じゃぁ、何を投影しようとしていたのか、目的で良いわ。それを教えてくれ
ないかしら?」
鬼教官の遠坂どのはこの、あくまの笑いを浮かべて俺を見下ろす。
それも片手にハリセンを握ったままで腰に手を当て、言えるもんなら言って
みなさいこのあんぽんたん、とオーラでギンギンに主張しながら。
額に流れた汗が頬を流れ、ぽたりと顎から滴る。
それは魔術の鍛錬による疲労ではなく、遠坂に問いつめられているという精
神的な発汗で、この状況から抜け出さない限りそれは止むことはない。
さらに悪いのは、秘密でも何でもなく、こんな聞き方をすると言うことは遠
坂はその答えをきっと知っていると言うこと。
つまりは俎板の上の鯉も同然で、遠坂にいたぶられ嬲られ弄ばれるままにさ
れるしかないということで――おまけに俺が無茶をして遠坂が止めてくれたと
いう負い目もあるもんだから、逃げようが、ない。
身体がふるふると震えるけども、遠坂はまるで実験動物を眺めるサディステ
ィックな研究者みたいに細い眼差しで……
「……どうしたの?衛宮くん、黙っていて物事が解決するだなんて素敵な日本
情緒はこの私には通用しないわよ?」
「だ、だだ、だからその……」
「ふーん、それじゃぁ私が当てていい?ね?」
ぽったぽったと落ちる汗がまるで秒針の刻む音のように感じる。
当てていい?じゃなくて知ってるんだろお前……と憎まれ口の一つも叩きた
いが、遠坂の目の前で俺は動くことも適わない。
遠坂がすっと指を立てる。これが落ちたら俺の死刑宣告なんだ、と直感で分
かる。
それなのに生殺与奪を支配する遠坂は嬉しそうに、なんだってこんなに嬉し
そうなんだと思うほどに嬉しそうに聞いてくる――
「昨日は何日かしらね?衛宮くん」
「……3月13日であります、まいますたー」
「じゃ、今日は何日で何の日かしら?」
「……………………そ、そ、それはその……3月14日は……」
なにか素敵な記念日でも思いつけばいいけど、頭の中が空っぽ。
そんな困窮する俺をいたぶる遠坂の尋問は終わらない。魔術師って秘密警察
官が適職なのか?そんなの嫌だー!俺の少年時代の夢を返せー!
「じゃぁ、一ヶ月前は何日かしら?」
「2月14日であります……さー」
「その時、衛宮くんは私から何を貰ったかもちろん覚えてるわよね?」
「……………もちろん……」
「じゃ、こっちの世界の一般常識を覚えているかどうか、試させてもらうわ、
衛宮くん?」
「ま、魔術師は等価交換……」
よくできました、と満面の笑みを浮かべる凛。
――くっと立ったその人差し指が、俺に落ちる。ああ、終わった。
「ふふん、ふふふ……士郎ったらホワイトデーのプレゼントで困っていたのね
ぇ〜。世間の相場は三倍返しだけど、士郎なら師弟の縁で等倍にしてあげまし
ょう」
……終わった。何もかも。
俺の中で歌うような遠坂の声が玉音放送となって流れる。蝉の鳴く油照りの
正午に、首を垂れて真空管ラジオから聞こえるノイズだらけの声がついに来た
敗北の日を告げるように――って、そのころには生きていないけども、こうも
的確に指摘されちゃぁそんな比喩が思い浮かぶ仕方ない。
そう、魔術師の世界は等価交換。俺が遠坂から貰ったのは口移しのチョコレー
ト。
それを一ヶ月後にお返しするにはいったいどうしたらいいのか。一月悩み、
そして今夜追い詰められて絶望的な魔術に一縷の望みを託した。失敗するなら
いい、その現場を遠坂に押さえられおまけにその根本を指摘されるというのは、
もはや腸のちぎれる恥辱屈辱と言うしかない。
腕を土蔵の床に着く。もう終わった、許してください遠坂様、この哀れな衛
宮士郎は一生あなた様の奴隷でございます、と土下座したくなる。
だけど――
すっと凛は俺の前でしゃがみ込む。薄闇の中で髪が舞うのが分かって、俺と
遠坂の視線が並ぶ。遠坂は勝ち誇ったような笑い……ではない、いや、むしろ
出来の悪い弟を見ているような温かい表情で、俺を見る。
「士郎?」
「……なんだ、遠坂……」
「――私が何が欲しいか、教えて上げてもいいんだけど――」
俯き加減だった顔を上げる。そんな、遠坂がそれを教えてくれる?
そうだ、それを遠坂自身から聞けば確実で、明快な答えだ。この一ヶ月それ
を何で思いつかなかったのか、コロンブスの卵だ。それさえ聞けば明日にでも……
「……………」
でも。
それ、だめ。やっぱりこいつ、にやにや笑いに戻ってるし。
優しい顔をしていたのは一瞬だけで、また俺をいたぶりたくて堪らない遠坂
あくまフェイスに戻っていた。あれだ、おんなはあくまだ、純真無垢なおとこ
のこである俺の骨の髄までいたぶりたいに違いない。
もしここで教えて貰ったとしても、それは遠坂の憐憫の掌の上に乗っかって
いることに代わりはない。いやむしろ奴隷の平和というか、屈辱の勝利ともで
も言う物になってしまう。
……いや、それもちょっと悪くないかとおもうんだけど、やっぱり承伏でき
ない。
ゆるゆると、力無くではあるけど首を振る。そして呟くように
「そんなの教えて貰ったらルール、というかマナー違反だろ?それが用意でき
るかどうかはともかく、そういって貰った物を遠坂が喜ぶとは思えないし。そ
れじゃあ、プレゼントは愚か等価交換でも何でもない」
「ふぅん、そこだけは分かるんだ……ま、そこの所は合格点を上げても良いかな?」
遠坂はほんの少しだけ、俺を認めてくれたような顔をする。
そして膝をぽんと叩くと立ち上がる。結局は教えてくれないのか――でも、
これは俺が考えなきゃいけないことだ。時間は僅かで、頭がねじれても構わな
いからホワイトデーになにを贈るかを考えないと……
「この答えは明日までの宿題ってことで、いいわね?」
「ああ……期待せずに待っててくれ」
「後ろ向きねぇ……士郎、ここはあなたがモノを創る場じゃないわ。それはあ
なたが一番分かっているはずよ?」
え?
今、何を言った?遠坂?
だけど顔を上げた俺が見たのはひらひらと手を振ると、遠坂は出口に向かっ
て歩いていく凛の背中だけだった。俺は取り残され、その言葉が耳の中でがん
がんと鳴り響く。
「じゃ、夜分遅くごめんなさい。セイバーも心配してるわよ」
「シロウ?それに凛もそのような格好で……どうしたのですか?」
「ん?たいしたことじゃないわよ。セイバーも戻ってていいわ、士郎もそう望
んでると思うし」
戸口からひょっこりと顔を覗かせるセイバーと、手を振って別れを告げる遠坂。
でもそんな光景は俺の中で意味を成さない。ただ俺の中を占めるのは、何気
ない遠坂のヒント。
――士郎、ここはあなたがモノを創る場じゃないわ
そうだ。ここじゃない。俺がモノを創るべき場所はもっと別の所にある。
それはどこだ、俺は知っているはず。それはあの焼ける剣の荒野でもない、
俺の意識の中にほとんど無意識に刷り込まれ、それが存在していることは空に
空気が、世界に太源があるがことく自然であり、そこで俺は絶えず何かをツク
ッテいる。
口に流れ込んだ、チョコレート。
ホワイトデー。
等価交換。
温かい日差しの注ぐ、俺の空間。
それが俺の中で無限に融合され、一気に答えに昇華する――――!
「そうか!分かった!」
「どうしました!?シロウ?」
「いや、わかったわかった、そうだそうだ、うん、そうと分かれば時間が惜し
い!セイバーも楽しみにしてろよ!」
笑いが自然に漏れる。そうだ、悩むことはなかったんだ、答えは手元にあった。
え?とセイバーの心底仰天している顔を眺め、手をぐいぐいっと握って振っ
て、ぽかんとしている彼女を残して俺は小走りに駆ける。
そうだ、そこだ、ここじゃなくてあそこで作らきゃいけないから……
§ §
春休みの冬木の町を走る。
長い冬から冬木と名付けられたこの街にも、春の気配は迫っていた。春一番
はもう吹き、紅梅は咲いたが桜にはまだ早い、そんな微かな寒さと日差しの暖
かさを感じる空気の中を。
それを抱えて小走りに坂を上がる、息が弾むのは肺が酸素を求めるだけじゃ
なくて、高鳴る鼓動が俺の中のリズムを早めていた。アスファルトの坂から石
畳の坂に代わり、あの丘の上の洋館に向かう。
春が近いのに、その鱗の外壁を持つ館は巌の如くに構えていた。知らなけれ
ばここに足を踏み込むことを躊躇せずにいられない、陰に秘めた威圧感を感じ
させる――遠坂の屋敷。
でも、ここに住む彼女にこれを、今日、届けなければいけない。
「遠坂?居るんだろう?入るぞ!」
とりあえず大声を上げて門を押す。それで自動的に門が開く訳じゃないけど
も、礼儀というモノだった。もっとも中の遠坂が俺を入ることを許さなければ、
この門は開かないのだが。
鉄格子に手を掛けて押した。こんな重そうな門なのに軋み一つ無く、まるで
良く油の入った鋼の蝶番を開くみたいに開く。
西洋庭園、というより家庭菜園然とした庭を通り、ポーチを上がって玄関に
辿り着く。真鍮のノッカーを鳴らしてマホガニーの大扉を開けた。ひどく不躾
なようだけど、人の家の門を自転車で乗り越えるあいつに比べれば可愛いとい
うか。
玄関のホールに人気はなく、白いプラスター塗りの壁に浮かぶ重々しい調度
品と肖像画、それに枯れない花と天井から下がるランプがいかにもなお屋敷に
来ていることを分からせる。ホールを脇目に俺は、それを握って階段を上がる。
「遠坂――昨日の宿題、答えに来た」
遠坂の部屋のドアをノックすると、そう告げる。
俺の家はまるっきり和風だが、遠坂の家はこれ見よがしに古風な洋風で……
室内なのに靴を履いて絨毯を踏んでいるのでむずむずするが、そんな違和感を
押し殺して答えを待つ。
「ん?意気込んでやってきたわね、士郎。どうぞ――」
短く開錠の言葉が続くと、戸が内側に勝手に開く。
目をつぶり、鼓動を押さえる。声が裏返らないように喉を確かめ、俺は一歩
進む。
目蓋を開くと――いつものミニスカート姿で、膝に分厚い書物を横たえた遠
坂が座っていた。部屋の真ん中まで、まるで面接を受ける生徒のように進む。
「――さぁて、士郎?」
遠坂はふっと、人を試すような笑いを浮かべる。まぁ、昨晩さんざん弄んで
くれたあくまの顔に比べると随分と穏やかだったけども、こんな遠坂の目の前
にいると思うと――そしてこの答えが本当に正しかったのかと思うとどうして
も緊張する。
遠坂が、囃すように話しかけてきた。
「今日は何の日かなー?」
「もちろんホワイトデー。だから、これを……遠坂に」
後生大事に抱えていたそれ、を遠坂の前に差し出す。
手が微かに震えるけど、仕方ない。両手を添えた差し出すのは、綺麗な紙に
つつんだ小箱。リボンがなかったのが惜しいけど、我が家にそういう便利なモ
ノを持ち合わせていなかったから仕方なくはある。
遠坂は胸の前で手を組み合わせ、ほう――と感心したように声を漏らす。
手を伸ばして遠坂がそれを受け取る。一瞬だけ、遠坂の細くて長い指が俺の
指に触れる。俺はこの箱を差し出しながら、文字通り息も出来ない。
脈拍が早く、目の前が真っ赤になるような。
こんな女の子にプレゼントすると言うこと自体もともと無くて、その相手が
こんな高嶺の花で理想の美少女そのものの遠坂で、憧れていたけど今は恋人同
士で、バレンタインだとかホワイトデーだとかそんなことでこんなに夢中にな
れるだなんて、身に余る幸福と、本当にこれが正しかったのかという不安で、
くらっと倒れそうになるけども。
いかん、本当に膝が震える。
「…………」
掌から箱の重みが無くなる。もともとあまり重量のあるものではない。
遠坂は椅子に座ったままで、本を除けると箱を膝の上にのせる。軽く揺すっ
て中の物音を聞いていたようだけど、俺はそんな遠坂をじっと黙って見守るば
かり。
試験官の前に立たされた生徒のように身体も息もがちがちで。
遠坂がぱりぱりと包み紙を解いていく。遠坂の顔に浮かぶのは、ふーん、と
いう何かを噛みしめるような表情。彼女の問いと俺の答えが正しかったのか、
採点する瞳だったというか。
包み紙を解き終わると、箱の蓋を開ける。
そして、その中を遠坂が覗き込む。ぐ、と心臓が喉まで迫り上がってくるよ
うな――
「……………ふふふ、なんだ士郎、分かってるじゃないの」
「………………はぁぁぁ……」
そう優しい声がして、凛は破顔する。俺を見上げる眼差しは暖かくて、その
瞬間に今まで止めていた息がどーっと俺の中に流れ込む。はぁはぁと、ここに
走ってきたときよりも却って荒い息をするほどに。
かさかさと軽い音を立ててつまみ上げられる、こんがりときつね色に焼けた
クッキー。
それは名だたる菓子店で作られたモノのように、綺麗に形が揃っている訳じ
ゃない。当たり前だ、だって……
「これ、士郎の手製よねぇ?」
「そ。クッキーなんか初めて焼いたからな、洋菓子は専門外だからなかなか苦
労したぞ」
オーブンはあったけども桜がときどきシェパーズパイとかグリルに使うくら
いで俺はあまり使わないし、おまけに寒天とあんこではなくバターと卵黄と小
麦粉を多用する菓子なんか初めても良いところだった。
夜中、昔に藤ねえが置き去りにした洋菓子の本を眺め、ああでもないこうで
もないと苦心惨憺し、不出来なクッキーを食べているセイバーを脇目に研鑽を
重ねた挙げ句、出来上がったクッキーであった。
そう、俺がモノを作るのはあの土蔵の中じゃなくて、キッチンだった。
それを気付かせてくれたのは遠坂の言葉だった。あの時にはさんざん考え抜
いたが、この結論にだけは一瞬で辿り着く事が出来た。そう、これで間違いで
はない筈。
バレンタインのチョコレートには、ホワイトデーのクッキーで返す。
これが正しい法則であり、正しい等価関係の交換だった。難しいことは何に
もないのに、俺はそれを考えすぎ穿ちすぎていた。だから、何のことはなく本
道にもどった、それだけのこと。
遠坂は指に摘んだそれを興味深そうにくるくる表裏を眺める。小声でまった
く士郎ったらこういうのばかり作るのが上手くなるわね、主夫っぽいんだかな
んだか……と囁く声が聞こえたけども。
遠坂の切れ長の瞳が俺に再び据えられる。ルージュを引いた唇が動くと――
「良くできました。宿題の意味を理解できたようね……ま、これは魔術の師と
して不出来な弟子を試した意味もあったんだけど」
「そ、そうなの?なんでさ?」
「魔術はしかるべき時にしかるべき技がしかるべく使われねばならない。なん
だって魔術魔術と頼り切ると使わなくて良いものまで魔術に頼ろうとする。掃
除をしたければ掃除機を使えばいい時代に、悪魔を召還したり箒を勝手に走ら
せる事は無駄も良いところ」
遠坂が茶化すような喩えを口にするけども、根っこの所は真摯な声で言う。
「だから、士郎には分かって欲しかった訳。魔術馬鹿は馬鹿魔術師であって、
そんなのは有害無益も良いところだわ。ま、士郎は馬鹿になれるほど多芸な人
間とは分かっているけど」
「わるかったな、どうせ一芸だけの三流魔術師ですよ、俺は」
もはや一流魔術師という風格を漂わせている遠坂の前ではつい卑屈になって
しまう。
でもそんな拗ねる俺に遠坂はさりげなく笑って答え続ける。
「とにかく、士郎を啓蒙の道に導けたので私は満足してるけど――でも、これ
じゃまだ足りないから不合格よ?」
え?
間違いなく百点満点の合格が貰えたはずなのに――そう確信していたので、
遠坂の言葉にはがっくりと肩を落とす。これだけじゃ、ということはまだ足り
ないモノが何かあったのか?俺が考える限りだとこれ以上のモノはないはずだ
けど……
「ふふふ……士郎?」
遠坂はクッキーをくわえる。
でも噛まずに、唇に挟んだまま。紅い唇が艶めかしく思ってしまう。
なに?と思っていると遠坂はくっと顎を突き出すようにして、唇とクッキー
を俺に向けて……
それって、もしかして?
「……………――――――!!!!!」
そうだ、足りない。
等価交換だ。遠坂から俺がチョコレートを貰ったときは口移し。
だから、俺は、俺は遠坂に口移しでクッキーを――
「なっ、なっ、なぁあぁぁぁぁ………」
ぐわんぐわんと心臓が爆発し、血液がどかんどかんと頭に噴射する。
その素振りは遠坂がキスしてくれっていってるような、というかまさにそれ
そのもので、そうしないとホワイトデーのお返しは等価交換で成立しない、っ
てわかってても。
遠坂は目を閉じる。あ、ああ、ああああ……
その場に卒倒しないのが精一杯だったけども、や、やっぱり、俺の全部の意
識は遠坂の唇と、その上のクッキーに注がれている。き、キスしなくちゃ、し
てもいいのか?でもしなかったら駄目だろ、ああああああー!
「遠坂……この、そういうのは反則だって言ってるのに――っ」
腰を屈めて遠坂の肩を掴んで、ぐっと唇を奪う。
焼き菓子の甘い味と、それよりも甘く柔らかい遠坂の唇の感触。
息を止めてキスをして――
「……はい、合格。不出来だけど分かりの良い弟子を持って幸せだわ」
「遠坂――いや、凛。師匠と弟子はここまで。ここからは女と男の関係だぞ」
「望むところ……ふふ、好きよ、士郎」
遠坂の腕が首筋に絡みつく。
俺はその身体を抱き上げ、そして――
〈fin〉
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