『Calling…』.txt
                                   一樹

「ふう……」

 軽くついた吐息には、昼間さんざん飲んだアルコールの残り香りが含まれている。わたしは衛宮家の客間でベッドに寝ころびながら、天井をぼんやりと見上げた。

「やっぱりまだ、疲れが残ってたのかなあ」

 留学先であるロンドンからの帰路。旅費をケチったせいで、思いの外疲れ果ててしまった。昨日はゆっくりできたので体力を取り戻したつもりでいたが、まだ万全ではなかったらしい。
 桜と士郎とライダー、そしてわたし――遠坂凛の4人で花見に出かけたのだが、衛宮家に着いた頃には両肩にどっぷりと疲れが溜まってしまっていた。

 ……まあ、いい。こんなに楽しかったのは久しぶりだし、桜もわたしが留学に行く前と比べて、笑顔が自然になっていたのが嬉しかった。

 聖杯戦争――あの欲望と偽善に塗りたくられた儀式の、その歪みを押しつけられ、大勢の人を傷つけ、そして自らも癒せぬ傷を負った、わたしの妹。彼女が少しづつとはいえど立ち直りつつあることを、素直に感謝した。

「まあ、これもライダーと……あとは、あのバカのおかげかな」

 わたしとて、何もしなかったわけではない。壊れてしまった「あのバカ」の身体を保証するべく尽力を払ったり、教会や魔術師協会と渡り合って火消しに奔走したりと、まさに東奔西走しまくった。だからこそ、今こうしてゆったりとくつろいでいられる、わたし達がいる。

 それでも、やはり彼女が笑顔を浮かべることが出来るようになったのは、士郎のおかげだろう。あの底なしの馬鹿さ加減こそが、桜の傷を徐々に癒してくれているのだろう。

 半ばうつらうつらしながら、そんなことを考える。

(ああ………寝るなら、とりあえず着替えだけはしないと)

 重い瞼と格闘しているわたしの耳に、『コン、コン……』と、少し控えめなノックの音が聞こえた。
 今この家にいるメンバーを考えれば、こんな感じのノックをしそうな人間は、簡単に的が絞れた。

「ああ、桜? いいわよ、入って」

「おじゃまします、姉さん」

 やっぱり。思った通り、ドアを開けて入ってきたのは、桜だった。手に、ティーセットとお菓子が乗ったお盆を持っている。

「よければ、ちょっとおしゃべりがしたいと思って……あ、もし姉さんが疲れているのなら、また明日にしますけど」

「ああ、いいわよ、大丈夫。ちょっとだけ、うとうとしてただけなんだから」

「そう、よかった。せっかくだから、お茶を持ってきたんですよ。セイロンの、いい葉があるんです。それと、『ルクセンブルク』のお菓子と」

「あ、懐かしいなあ。あの、大通りから、ちょっと入ったところにあった洋菓子店よね。まだ、あったんだあ」

『まだ』、などと口にしてから、ハッとした。わたしが日本を離れてから、まだ1年程しか経ってはいないのだ。なのに、懐かしく思えるなんて。
 少しだけ、寂しかった。

 桜がテキパキと、お茶の準備をしだす。考えてみれば、この衛宮家でティーパック以外の紅茶を飲むのは初めてなのだが、少なくとも桜の動作は無駄が無く、手慣れていた。

「はい、姉さん。どうぞ」

「あ、ありがと」

 差し出されたティーカップを受け取る。カップを口元に近づけると、ふわりと、柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。息をかけて冷ましながら、口を付ける。温かい、それでいてけっして熱すぎない、絶妙な温度。軽くすすると、芳醇な香りとすっきりとした苦みが、舌に広がる。

「ん〜、美味しいわね、これ。お茶の葉もいいんでしょうけど、桜もずいぶん紅茶の煎れ方が上手になったみたいね」

「そりゃあ、もう。先輩は日本茶中心で、あんまり紅茶は飲まないんですけど、そのぶんわたしがこり始めたら、止まらなくなっちゃって……」

 そういって嬉しそうに笑う桜。

(ああ……こういうのって、ほっとするよなあ)

 ここのところ、ロンドン塔でギスギスした対話ばかりを繰り返してきたわたしにとって、ここの空気は、とても落ち着く。正直、自宅である遠坂の屋敷よりも、居心地がいいくらいだ。

 そんなこんなで、あれこれと他愛のない会話を続けるうちに、桜が訪ねてきた。

「ところで姉さん。ちょっと聞きたいんですけど」

「ん〜、なに?」

 今日は少し疲れた。疲れているということは、身体が甘いモノを欲するということである。わたしは菓子皿の上に並べられたクッキーを口に運ぶことに意識をとられながら、そう適当に返事をした。

「向こうでは、誰かいい人とか、できたんですか?」

「む……」

 クッキーを咀嚼する顎が、思わず少しだけ止まる。

 やっぱり女同士となると、避けては通れない話題なのだろうか? とはいえ、あんまりにも芸がない話題ではないか。――いや、べつにわたしは、戦績を上げていないことをひがんでいるわけではない。……ひがんでなど、当然、いない。

「藤村先生といいアンタといい、なんでそういう話に持ってくかなあ」

「だって、それは興味があるじゃあないですか。遠くで生活してる姉妹がいるなら、当然、関心を持たざるを得ないというか」

「ま、残念ながらね。出来そうというか、出来ないというか……」

 昼間、藤村先生にいったのと同じ台詞を、そのまま繰り返す。頭に浮かび上がりそうになった、いい人とやらが出来ない『原因』のアホ顔は、慌てて脳裏から振り払った。
 冗談ではない。断じて、そんなことは無いっ……のだから。

“トクンッ……”

 ――無いはずなのだが、心臓が勝手に自己主張するような大きさで脈打つ。

(な……なに? これじゃあまるで、ホントにわたしが、あいつに……)

 胸が、クッと締め付けられるような感触。

“トクンッ、トクンッ――”

 内心のつぶやきが余計にそうさせたかのように、心臓が自己主張を繰り返す。
 もしかしたら、今のわたしの顔は、赤くなっているかもしれない。だとしたら、桜の前で、それはあんまりにもみっともない。意地でも、何でもない顔をしてみせないと。

“トクンッ、トクンッ”

 だが胸の鼓動は、いっこうに落ち着く気配を見せない。それどころか、心臓から送り出される血流に乗って広がるように、身体が熱を持ちつつある。痺れるような、どこか躰の奥の方を揺り動かすような、そんな熱さ。

 いくらなんでも、これはちょっと――

「え……?」

 やはりわたしは疲れていたらしい。この期に及んで初めて、わたしは自分の身体に変調が起きていることに気がついたのだ。
 わたしの内部、血液に混ざって凄い勢いで血管を流れる違和感を、こんなになるまで感知することが出来ないなんて。

 身体は徐々に、それでも確実に熱を持ちつつある。だが思考は、それとは逆に、冷水を浴びせられたかのように速やかに醒めていった。

「桜……これ、アンタがやったの?」

 そう、この異常な体調の原因。それは外部から進入した、他者による魔術が、毒のようにわたしの全身に回ることで起きているのだった。
 間違いはないだろう。目の前に置かれた、紅茶とお菓子。これらの中に混入された何らかの薬物を、わたしは摂取してしまったのだ。

(まさか……何で、桜が……)

 混乱する頭。
 なのに原因である桜は当たり前のような顔をして、わたしに言う。

「はい。間桐の家に伝わる薬ですね。妖虫の分泌する体液をちょっとだけ加工したものですけど、ほとんど自然化合物で、妖力はほんの僅かに含んでいる程度のものです。
 だから姉さんも、気づくのが遅れたんですね」

 そう。純粋に魔術的な薬物であれば、口を付けた瞬間にそれと気づいたろう。魔術的要素は、あくまで微量。そして軽くとはいえ酔ってしまっている頭と――なにより頭から信頼していた妹によって仕掛けられたものであるが故に、身体への浸透を許してしまった。

 ……だが、

「あんた、いったい、なんのつもりなの?」

 質問には、二つの意味がある。

 ひとつには、なぜこんな事をしたのか。桜が、なぜわたしにこんな薬を盛ったりするのか。その理由への問い。

 そしてもうひとつには、なぜこんな無駄なことをするのか。だ。
 一般人であればいざ知らず、わたしは魔術師だ。自らの中に進入されたとはいえ、これほどに弱い魔術的要素など、大した手間もなく分解可能である。つまりこんな薬は、わたしにはいつでも解毒できるし、桜もそんなことは百も承知のはずなのだ。

「もちろん、姉さんならすぐにそんな薬なんて無効化できることは、知ってます。
 ――でも、それでいいんですか?」

「……? それは――」

 どういうことか、と口を開き書けた矢先、ドアの向こうに、人の気配を感じた。
 カチャリと音がして、扉が開けられる。ビクリとして振り向くと、そこには見慣れた二つの人影があった。

 士郎と、ライダー。

「なんで……」

 このタイミングで二人が現れたのは、当然のことながら、あらかじめ打ち合わせがあってのことだろう。桜と三人で、わたしに対する何らかの計画を立てたということか。

「……」

 じっと黙って、床に置かれたクッションの上に座るわたしを見下ろす、士郎とライダー。
 生身を感じるには整いすぎている顔に、何の表情も浮かべていないライダー。それに対し士郎の顔は、同じ無表情なのにもかかわらず、別の雰囲気を感じさせる。妙な緊張を感じさせる、引きつったような口元。

(あ……?)

 わたしをじっと見つめる彼の目を見た瞬間、背筋に震えが走ったように感じた。身体が勝手にすくみ上がり、その瞬間、胸の先と腰の奥の部分に、『ジン……』と、熱が増した気がする。
 恐怖と、そして正体の知れない期待を感じさせるような、熱。

 そしてこのときになって、わたしはやっと、自分が盛られた薬の正体をを理解した。
 この感触は、知っている。わたしとて、それなりの年齢に達した女だ。例え『未経験』だとしても、これが何なのかは理解している。生物の、生物として持っている、当然の、本能的な持ち物。

 これは……

「桜、あんた、なんでわたしに、こんな薬を……っ!?」

 身体を縛る、痺れと熱。下腹部でうずくように拍動する、女性としての器官。
 間違いない。桜がわたしに飲ませたのは、人間の三大本能のうちの一つを刺激する薬――『媚薬』だった。

「この――っ!」

 突発的に、頭に怒りの血が駆け上がるのがわかる。しかしそれを爆発させるより一瞬だけ早く、桜が口を開いた。

「大丈夫ですよ、姉さん。わたしは姉さんが望まない限り、姉さんに何もするつもりは無いです。その証拠にその薬だって、姉さんが言った通り、いつでも解毒ができるものでしかないでしょう?」

 彼女の台詞に、わたしの混乱は、ますます強まる。
 ならば桜は、わたしにこんな薬を飲ませてまでして、いったい何をしようとしているのか?

(ダメだっ。桜にどんな思惑があるかは知らないけど、ゆっくり考え込んでいては、ますます薬が効いてきて、対応ができなくなってしまう)

 そうだ。ここはまず、急いでこの侵入した魔術を解呪するべきだ。難しいことでも、それほど時間がかかることでもない。
 意識を集中させ、魔術回路の『スイッチ』に手をかける。

 ――だが、わたしがスイッチを入れることは出来なかった。

「ライダー」

「はい……士郎、失礼します」

 ライダーは桜に向かって一つうなずくと、スラリとした足を折り曲げ、なんのつもりか、その場に跪いた。綺麗な長い髪の先が、床に触れる。
 そして、

「え……?」

 あろうことか、彼女はほっそりとした指を士郎の腰元に伸ばすと、カチャカチャと小さな音を立てて、彼のベルトを外し始めたのだ。

「な――っ」

 驚き、呆気にとられたわたしは、集中させかけた意識を拡散してしまう。
 声を出すことさえできないわたしの目の前で、ライダーの動作は続く。ズボンのボタンを外し、チャックを下げ、彼女の白い指先は戸惑う様子もなく動き……そして男の下着の中から、彼の欲望の象徴を露わにした。

「――――っ!」

 現れたモノを目にして、思わず息を飲む。
 今の士郎の身体は、ある魔術師によって創られた素体がベースにされたものだ。その素体をいじくり、士郎の外観と魂に合ったものに精製したのは、このわたしだ。だから当然の事ながら、この身体のその部分は、何度でも目にしている。

 だけど、ライダーの手に捧げ持たれるようにして現れたそれは、記憶にあるソレとは全く違った姿をしていて。
 ……要するに、わたしが調節していたときには休止状態にあったソレは、今ではわたしも知識ではあるが実際には初めて見る、起動した状態を示していたのである。

(あんな……)

 妙に生々しい肉の色をした、男性の器官。赤黒く張りつめたそれに、わたしは目を奪われ、視線を離すことができない。

“ドクンッ、ドクンッ……!”

 心臓の音が、うるさい。その拍動はあまりに大きくて、全身に響き渡り、脳や、そして下腹部のどこか奥の方を、ますます大きく震わせてさえいるようでさえあった。

 ちらり――と、ライダーがこちらを見た。人ではあり得ない、美しい正方形の瞳孔。
 しかしそれは、ほんの少しだけ。彼女は再び士郎に向き合うと、彼の顔を見上げて、さも当たり前のように言った。

「ん……士郎。立派です……」

 ライダーの綺麗な顔が、士郎の赤黒い色をした肉塊に寄せられ、赤い唇から差し出された舌先が、静脈を浮き上がらせる表面に押し当てられた。

「ふ……んん……」

 ライダーが、頭と、そして口元を動かす。彼女の舌は、士郎の欲望の象徴をまるで敬うかの如く、何度も、何度も、その猛る幹をなぞり上げる。舌が這った後の張りつめた表面には、まるでナメクジが這った後のように、てらてらと彼女の唾液の痕が残された。

“ぴちゃ……、ちゅ……”

 二人が、常識や良識では考えられないような形で触れ合っているその場所からは、小さな、それでいて強く存在を主張するような、そんな水音が聞こえてきた。

(な……っ、あ……)

 もちろん、わたしも現代を生きる平均的な日本人少女だ。その行為がどんなものかは理解しているし、そういう知識に好奇心を持って触れたことも、何度だってある。
 だが、現実としてのそれに遭遇するのは初めてだし、ましてや他人に見せつけられる心構えだって、なにも出来ていなかった。

“じゅ……、ちゅく……”

 女性が男性の性器を、口で愛撫する、その行為。
 あんまりにも現実感を欠く光景を前に、わたしの鈍った頭はまともに動かない。

(このままじゃあ、マズイ……っ!)

 それでも、顔を背けるどころか目を閉じることさえ出来ずに、わたしはその光景を見守るしかなかった。まるで何者かに、わたしの心と体を縛られてしまっているかのように。

“ぴちゃ……、ちゃぷ……”

 醜く力強い肉の茎に、慈しむかの如く頬を寄せ、口づけるライダー。舌を、華奢な綺麗な指を、止まることなく蠢かせ、撫でさする。男である士郎の足下に跪き、その欲望に仕えるかのように続けられるその振る舞いは、まさに『奉仕』という言葉がふさわしいものだった。

“ドクンッ、ドクン――ッ”

 ドッと、下腹部に揺らめいていた熱が、その質量を増した気がした。腰が、太股が、勝手に締め付けられるように縮動し、それがまた痺れとなってわたしの脊髄を駆け上がろうとする。

(イ、ヤッ……こんなのは、わたしの……)

 そんな自分の身体を否定し、なんとか立て直そうと、再び神経を集中しようとしたその矢先。床にへたり込んだわたしの後ろから腕が伸ばされ、わたしの身体を抱きしめた。

「あ……って、ちょっと、桜っ。止め……っ」

 この状態は、やばい。本格的に、やばすぎる。
 何がといって、触れあう躰、重なった場所から伝わってくる彼女の体温が、わたしの心をグズグズにしてしまいそうな、そんな恐怖心と、そして――

「ねえ、姉さん。おかしいと思いませんでした? なぜライダーが、邪眼の拘束具を外しておけるようになったのか」

 耳元で、桜がささやく。後ろから抱きかかえられるようにされた今の体勢では、彼女がどんな表情をしているかはわからない。しかし耳介をくすぐる熱い吐息と共に紡がれる桜の声には、間違いようのない『震え』が潜んでいた。
 そう――ちょうどいま、わたしの全身を支配している『震え』と、まったく同じそれが。

「姉さんがロンドンに行ってすぐ、ライダーはすごく不安定になったんです。
 考えてみれば、当たり前のことですよね。わたしは彼女に魔力を与えることはできますが、ただ、それだけ。
 令呪のバックアップもなくサーバントがこの世界で安定した存在としてあるには、ただ魔力があればよいというものであるはずは、なかったんです」

 わかる。桜も、わたしの肩越しに、士郎とライダーの姿を見ているのだ。あんまりにも淫らで、退廃的で、そして甘美にして腐敗した魅力を漂わせた、あの光景を。
 だから彼女の震えと、わたしの震えとは、こんなにもリンクする。

「もっと、この世界とライダーの間に、何か直接的な、しっかりとした繋がりなくては、彼女をきちんとした形で留めることはできない。
 だからわたしは、先輩にその『繋がり』を作ってもらったんです」

「それ、は……?」

 もう、分かり切っている答え。それでも口にしないではいられない、問い。

「はい。先輩に、彼女を抱いてもらったんです」

「――っ!」


(To Be Continued....)