夜想曲

                                    しにを




 暖かい陽射しを浴びながら秋葉は田舎道をゆっくりと歩き、自然の草花が色
鮮やかに広がる様にうっとりとした溜息をもらす。
 何という事もない光景ではあるが、普段の喧騒を忘れ心が癒されるような気
がする。
 名も知らぬ白い花を摘もうと手を伸ばし、躊躇して止める。
 ここにいくらでも咲き誇っているものを、わざわざ摘み取る事もないだろう。

 しゃがんで小さな花が風に揺れるのを、穏やかな笑みを浮かべて眺める。
 こうしていると世界に自分一人のような錯覚すら覚える。背後から音を立て
ないように近寄って来る足音に、気がつかないふりをすれば。

「だーれだ」
 後ろから目隠し。

「えーと、誰かしら」
 お互いに真面目ぶった調子のやり取りだが、語尾に笑いが混じっている。
「兄さん……かしら?」
「あたり」

 振り向くと志貴の微笑み。
 今、この地には自分達二人しかいないのを承知の上でのゲーム。

「兄さん、あたったんだから、ご褒美を下さい」
「そうだな」

 志貴がしゃがんだ秋葉に顔を寄せ、秋葉も顎を少しもたげるようにして、そ
れに答える。
 二人の唇が合わさり、しばし時が止まる。
「こんなもので、どうかな?」
「……充分です」
 秋葉はにこりと微笑む。

「ご飯出来たよ」
「兄さんはそんな事なさらなくていいのに」
「交替でやろうって約束しただろ。秋葉に休んでもらいたくて、こんな処に来
てるんだから、本当は朝昼晩、俺がやったって構わないんだぞ」
「あら、私は兄さんのお世話するほうがずっと嬉しいですけど。それとも私の
作った料理じゃご不満なんですか?」
「そんな訳ないだろう。さあ、冷めない内に戻ろう。ちょっと自信作だぞ」

 秋葉が立ち上がるのに手を貸して、もう一度軽く唇を触れさせる。
 昨夜の濃厚なそれとはまた全然違った感触に、秋葉は陶酔となる。
 腕を絡めてコテージに戻る二人。少し高くなった陽が二人を暖かく照らす。
 ・
 ・
 ・

 視界がぼやけ、秋葉の目が覚める。
 幸福そうな二人の恋人の夢。かつて存在した事はなく、未来においても訪れ
ないであろう、目覚めれば消えるただの夢。
 夢の中でさえ、それがつかの間の幻だと気づいている自分が存在する、泡沫の夢。
 最近、こんな夢を秋葉は良く見る。

 志貴との結婚式を迎えた自分、二人で一緒に登校している光景、湖畔で二人
佇んでいる休暇、雨の街を一つの傘に入って歩く二人の姿、それがどんなに精
緻な姿であっても、その幸福そうに微笑む自分の姿を見ている時点で、夢だと
悟ってしまう。
 時折見る悪夢、兄の死体にすがって泣き叫ぶ夢、互いに血みどろになりなが
ら殺し合う夢、喜びを覚えながら兄の心臓を止める夢、そんな夢に対しては、
汗をかいて跳び起きるまで、まったく夢という意識は生じないのに。

 夢の中でさえ、兄との幸せを我が事と感じる事も出来ないのか。
 眠りから覚めたばかりの無防備さ故に、こらえようもなく涙が浮かんでこぼ
れた。
 言葉にならぬ声で「兄さん……」と呟く。

 ふと、人の気配を感じて、横に目をやる。
 七夜……。
 いつからいたのか、七夜が立っている。
 素早く、目尻を手でぬぐう。

「七夜、いつ入って来たの?」
「あ、秋葉さま、おはようございます。まだお眠りかと思ったので……」
 そう言って七夜は頭を下げる。

「着替えはこちらに」
 秋葉はベッドを降りかけ、七夜の視線に首を傾げる。
「どうかしたかしら」
「いえ、何でもありません」

 何でもない顔ではない。
 曇った、何か言いたい事を呑み込んでいる表情、どこかで見たような……。
「なら、いいけど」
 一礼して七夜は下がった。

 いつから部屋にいたのだろう、七夜は?
 夢の残滓は既に秋葉の中から消えていた。
 
 
 
 長い入浴を終えて部屋に戻り、秋葉は窓を開けた。
 夜風が肌を撫ぜて行く。
 もう秋というより冬に近かったが、穏やかな陽気を受けた今日の空気は、風
呂上がりの火照った体には心地よかった。
 髪はすっかり乾いているから、夜風に少しくらい当っていても湯冷めする心
配もない。

 アルコールが欲しいな、とふと思った。
 少し辛みのある白あたりで喉を潤したかった。

 琥珀の血を飲まなくなってからしばらく経つ。正確には飲まなくても体が支
障無くなってからしばらく経つ。
 それは、兄のシキが死に、志貴と秋葉との生命力の共有・連鎖の関係が無く
なったからであり、そして……。
 ……そして、翡翠の力で志貴が癒されているからだった。

 窓から、覗けば兄の部屋の明かりがまだ灯っているのが分かるだろう。
 いや、そんな事をしなくても、翡翠の様子を見れば何が行われているのか見
当がつく。

 兄が翡翠を抱く日、翡翠は秋葉を見る目に、怯えとも罪悪感ともつかぬ色を
浮かべる。
 普段の様子と本当に微かな違いでしかないが、秋葉には間違えようが無くそ
れが見て取れる。
 その事に関して翡翠を問い詰めた事は無いし、翡翠が秋葉に何を告げる事も
無い。
 ただ、朝に兄を起こしに行った時、夕方出迎えに向った時、何かの折に志貴
と会話をした後に、目にみえて翡翠は変る。
 その時に逢瀬の約束が交わされたのであろう。
 翌日の朝にはさらにそれは露わになる。さり気なく目を合わせぬようにする
翡翠の仕草。
 秋葉は何も気づかぬ振りをするし、翡翠もいつもと変らぬ体を装う。
 
 今日は、朝から約束をしていたらしい。
 くっ、と唇を噛んで窓を閉める。そのままパタリと寝台に倒れ込む。

 今、兄さんは翡翠と抱き合っているんだ。

 じっと動かない秋葉の体の中から澱が立ち上る。
 知らず手が動き始める。
 指が清めたばかりの自分の体の敏感な部分に潜り込む。

 兄が他の女を抱いている姿を想像して、情欲を覚えているのだ。
 最低……。

 正確には、性衝動を覚えている訳ではない。そうと知っていながら、何も出
来ずに此処にいる自分の惨めさに浸っているだけ。慰めているのではなく、さ
らに底に堕ちようという行為。
 つかのまの陶酔すら他人事の様に感じ、果てても満足感などなく落ち込みを
感じるだけの、一人遊び。
 むしろ、体は傷つかない自殺行為の代替に近い。心をずたずたに切り刻み、
流れる血と痛みに酔う行為。

 そうと知りつつも、指は止まらない。
 下着の上からなぞるように上下に行き来し、つかの間の肉の悦楽を生み出し
ていく。
 左手は起伏に乏しい胸を弄る。
 単純なその動きだが、体は次第に反応し高まっていく。
 下着が湿り、かすかに感触が変るのが分かる。

 頭の中は愛しい兄の姿。
 優しい表情で愛を語る志貴。
 その手で髪を撫ぜ、胸を太股を愛撫する志貴。
 体中を隈なくくちづけで埋め尽くす志貴。
 果てに、力いっぱい抱きしめ、とろとろに溶けた体を貫く志貴。

 ただし志貴に愛されている相手は秋葉でなく……、翡翠。

 見た事など無いその光景に同調するように、秋葉の体に快美感が稲妻のよう
に走る。
 荒々しく胸に触れ、硬くなった乳首を摘まんでいるのは志貴の指。
 下着の中に潜り込み、もっとも恥ずかしい部分を遠慮なく弄んでいるのも志
貴の指。
 銀色の糸を引く指を淫らに見せつけ、奇麗にするよう命じて秋葉にしゃぶら
せているのも、志貴の指。

 高まり、もう引き返せぬ処に行き着く寸前、その志貴の指は動きを、止めた。
 体は軽い痙攣の如くピクピクと動き、昇天寸前で途切れた刺激に不満を示す。
 不完全燃焼なモヤモヤの中、別種の喜びが秋葉の心に湧いていた。
 想像の中で悦びの声を上げていた翡翠の陶酔をも、絶頂に至る前に自分の手
で無理矢理止めたのだという、倒錯した昏い喜びが……。
 
 病んでいる……。
 翡翠の顔を脳裏に浮かべる。
 そして放心状態のなかで、唐突に気がつく。
 朝、目に留まった七夜の表情、それは翡翠が時折見せる表情に酷似したもの
だったと。
 
 

 何をしているのだろう、自分は。
 夜の庭に出る事自体は、夜間外出禁止の規則に目をつぶれば、そうおかしい
行為ではない。だが外から兄の部屋を伺う為となれば、明らかな変質的な行為だ。
 どこか、おかしくなっているのかな。
 真顔で秋葉はそんな事を呟いてみる。

 昔の自分であれば、そんな行為を決して自分には認めなかった。ただの強が
りだったかもしれないが、自分を律する強さと誇りがあった筈だ。
 今も理性はそんな惨めな恥ずべき行為をやめるよう命じている。
 でも心は、その行為を唆している。
 迷いも無く秋葉は、心に従った。
 
 外に出ると、さすがに寒さが身に這い寄って来る。
 しかし秋葉は何ら気にする事無く、風に髪をそよがせながら、歩いていた。
 月光の下にいると、自分の行為が何故か自然に思えてくる。
 すっと視線を上げると、兄の部屋の窓をを見つめる。

 灯かりがついていた。
 普通に部屋に戻った事を考えれば、普段であればとうに眠りに就いている時
間だ。
 だらしの無いところがある兄の事、本でも読みながら眠ってしまったとして
も、翡翠か七夜が見回った時にでも明りを落としている筈。
 と言う事は、こんな遅くまで起きているんだ。

 部屋を出るまでに承知していた事実であるが、現実のものとなると秋葉の心
に重いものが落ちる。中には恐らく兄と一緒に翡翠がいる。
 ギリ、と唇を噛む。
 何がしたくて、わざわざこんな事をしているのか……、自嘲するしかない。

 !!!!!

 今、目に入ったもの。
 薄いカーテンは引かれていたが、兄の部屋の様子は人影くらいは見て取れる。
 今の、誰かは分からないが。
 兄と翡翠は分かる、でも……。

 もう一つの人影は、何だったのか。

 はっきりとは分からない。でも絶対に見間違いではない。
 気づいた時には走って、屋敷に戻っていた。



「お休みなさい、志貴さま」
「お休みなさい、志貴さん」
「うん、翡翠、七夜さん。お休み。遅くまで、その」
「志貴さまに喜んで頂けたなら、私は嬉しいです」
「あんな事までなさるとは思いませんでしたから、私も翡翠ちゃんも吃驚しま
したけど、怒ってはいませんよ。でも、いきなりでしたから」
「えーと……、ごめんなさい」
「それでは、ゆっくりとお休み下さい。明日は普段通りでよろしいのですね?」
「うん。取り敢えず起きるよう努力するよ」

 夜分を意識しての、ひそひそとした口調。
 志貴は音を立てぬ様に部屋に引っ込み、翡翠と七夜は、口を閉じて部屋に戻って行く。
 
 物陰から兄の部屋の扉をじっと覗っていた秋葉は、今、見たものの衝撃で身
動き一つ取れなかった。
 目で見て、耳で聞いたものを秋葉の理性と心とが必死で否定している。
 体は悪感でもあるようにがたがたと震え、血の気が完全に引いている。
 壁に体を預けているが、ズルズルと崩れ落ちそうになる。
 今のは何……?
 
 しばらく、その場から身を起こす事すら秋葉には出来なかった。
 兄の部屋の扉を叩けば答は得られたのだろうか、そんな事は考えられなかった。
 


 まだ薄暗い早朝。
 七夜は、扉をノックするやいなや「入りなさい」と掛けられた主人の声に、
少し首を傾げながら部屋に入った。
「おはようございます、秋葉さま」
 丁重に頭を下げ、視線を上げ……、息を呑む。

 目の前には幽鬼の如き気を纏った秋葉が立っていた。
 半ば睨む様に、半ば畏れる様に、目が鈍い光を放っている。

「……秋葉さま?」
 何とか主人の名を口にするが、秋葉の蒼褪めた顔は反応しない。
 沈黙がしばらく場を凍りつかせる。

 心の葛藤を全て打ち払うように、絞るように秋葉は言葉を口にした。
「昨日の夜、七夜と翡翠は何をしていたの?」

 七夜は息を呑む。秋葉と同じようにみるみるうちに血の気が引いていく。
「答えなさい。兄さんの部屋で何をしていたの」

 蒼褪めた七夜を目の前にして、逆に秋葉の中に剛が満ちてくる。
 目に強い光が宿る。
 怯えた様子で、七夜は口を開きかけ、しかし何も言う事が出来ない。

 業を煮やして秋葉が叫ぶ。
「兄さんに抱かれたのね。そうでしょう」
 七夜は、追いつめられたまま、ただ肯定を示し首を微かに縦に振る。

 秋葉の顔が驚愕と絶望に彩られる。
「……本当なの。なんで、なんで翡翠だけじゃなくて、琥珀まで。本当に兄さ
んに抱かれていると言うの。嘘よ、そんなの嘘よ」
 最後は悲鳴だった。琥珀という名を呼んだ事にも気がついていない。
 七夜は、何も出来ず立ち竦んでいる。

 なんて事だろう。
 朝の訪れをずたずたになった心でじっと待っていた時は、答え次第によって
は激昂のあまり七夜を殺してしまうのではないかとすら思っていた。
 しかし、七夜が肯定を示した時、秋葉の内に怒りはまったく起きなかった。
 これほどの裏切りを受けたというのに。
 あまりに衝撃が深すぎたから。
 ただ、秋葉を形作る全てががバラバラになっただけ。

 凍りついたままの体から、すーっと、涙が頬を伝う。
 それが最初で、ポロポロと涙が溢れて来た。
 泣いているという意識は無い。
 感情は無く、ただ虚無が広がっている。
 ただ、雫がとめど無く、頬から滴っている。

「私は、秋葉さまを悲しませてしまったのですね」
 七夜が悲痛な声でポツリと言う。
 自分が痛みを感じている表情。
 かつての琥珀とは違う表情。

「出て行きなさい」
 それだけを言うと、背を向けた。
 七夜は黙って扉を閉め立ち去った。

                                          《続く》