終われない夢

                                    押野真人

 秋葉が、階段から転げ落ちたシキを冷たく見据えている。
 実のところ戦闘が始まる前から勝敗は決していた。
 秋葉の編み上げた格子にして結界「檻髪」は、その実用性で実兄である遠野
シキの「不死」を凌駕している。彼にとって「檻髪」を構成する糸は不可視の
もの。またその糸の有効範囲は秋葉の視界全て。
 そう、これでは戦闘が成立しない。まして動きの制限されるこの場所では秋
葉の勝利は疑うまでもない。そして為す術もなくシキの生命の炎は略奪された。
 それは、戦闘経験の差では埋められない優越性。

「覚悟しなさい。もう逃がしはしませんから」

 既にシキの足は熱量を奪われて、既に萎えきってしまっている。
 両手をばたつかせて、それでも逃れようともがく姿はまさに無様。
 その様子に眉をひそめ、高みから秋葉はシキを見下ろす。

「おまえは邪魔です、おとなしく消えなさい」

 視線に力を込める、それだけでシキの生命力は略奪される。
 それはきっと想像を絶する苦痛を伴う。意味をなさない声がシキの口から漏
れ、力を失った四肢が断末魔の痙攣をはじめる。
 見守る秋葉の口元に超越者の笑みが浮かび上がった。けれど、シキとて仮に
も「不死」と名乗る能力を持つ存在、そう簡単に死に至ることはない。
 その生存能力を目の前で実証されて、秋葉の顔が不機嫌そうに変化する。

「なんて、しぶとい……見苦しい、シキっ」

 茶番は終わり、そう秋葉が断じた。シキの全身を貫く、視線。
 無風の校舎の中で、赤い髪が生き物のように波打った。
 その瞬間。

「……秋葉か?」

 訝しげに、問い掛けるように、闇の中から声がした。
 はじかれたように秋葉が振り返る。その顔が驚愕に彩られている。
 それは、気配を悟る事ができなかったからではない。それだけならばこんな
に驚きはしない。問題なのは、廊下の先に立っているその気配の主そのもの。
 秋葉は、その声の主を知っていたから。
 その双眸に宿すのは、廊下の大きな窓から降り注ぐ月の光などより鮮やかな
蒼い光。先程までこの世界の皇帝のように君臨していた秋葉が、まるで雨ざら
しの彫像のようにぎこちなく、そしてくすんでしまう。
 格が違う、それほどの存在感。静かな志貴の気配が秋葉を圧倒する。

「に、兄、さん……ですか?」

 秋葉の喉から発せられる、ひび割れた声。
 そんなはずない。志貴がここにいるはずない、知性はそう繰り返すだけ。
 けれど、それで目の前の志貴が消えて無くなるわけでもない。
 
「本当に秋葉か。なんだか随分と、感じが変わって見える気がするんだけど」

 志貴の声に秋葉は髪を押さえた。長く艶やかな、自慢の髪を。
 それは今、志貴にだけは見られたくなかった色に染まっている。
 まるで、鉄に浮かぶくすんだ錆のような色。せめて明るい光の下ならば夕日
のように鮮やかに映えるはずなのに。
 秋葉が青白い月を呪い、一歩後ろに退いた。

「どうして……どうして、ここに」
「どうしてって、そりゃ俺の台詞じゃないか」

 志貴はまるで自分が愉快な冗談を口にしたかのように頬を緩める。
 どこか病的な熱っぽさと、冷たい嘲りが同居する奇妙な笑い声。
 秋葉の知っている志貴ならば、決してしないはずの響き。

「だってここは俺の学校だろ?」
「それは、そう、ですけど」
「何か忘れものをする事だってある。少なくとも、秋葉がここにいることより
は不思議じゃないと思うんだけど」

 確かに理は通る。けれど、秋葉には志貴の言葉を素直に信じることはできな
かった。それは自分の髪の色にまるで動揺していない様子もその一因。
 だが、なにより秋葉の不信感をかきたてるのは。

「どうした? おまえ、なんか変だぞ?」
 
 志貴は子供をあやすように優しく話し掛けて来る。あの奇妙に歪んで見える
微笑のまま。それがこの人間を兄だと認識できない元凶だろうか。
 違う。いつもは無条件で信じることのできる、あの暖かな兄の気配を今は感
じないのだ。もっとも、それが己の浅ましい姿を見られたという負い目による
感情ではないか、という疑いもまだ拭いきれない。
 そんな、混乱した思考をまとめるように秋葉が口を開く。

「忘れ物って、何を忘れたと言うんですか」
「ん? ああ、眼鏡だよ。うっかり忘れてきちゃってさ」
「眼鏡? ……ああ」

 そう言われて、はじめて気が付いた。
 志貴の顔からあるべきパーツが欠けている事に。
 あの無骨な眼鏡が、そこには存在しないのだと。
 かつて、秋葉の知っていた志貴は眼鏡をかけていなかった。だから見逃して
いたのだろうか。それとも、あの鮮やかな青い眼が余計な付属物の必要性を感
じさせなかっただけなのか。
 いずれにしろ、それは違和感をもたらすには十分な差異だった。
 少なくとも、秋葉はそう納得できる。ならば、それが彼女にとっての真実。
 途端に理性が戻る。同時にこんなタイミングで顔を出した志貴に対する怒り
と、その事態を予測しなかった自分に対する呆れとが湧き上がった。

「ああ、そうでしたか。なんて、迂闊なんでしょうね」

 そんな思いを胸に抱えて、秋葉は溜息を吐く。
 眼鏡がなければ、この明かり、この距離ではまともに秋葉を視認することは
難しい。という事は、自分の心配は全くの杞憂だったのか。
 考えかけ、秋葉は何を今更と自嘲する。
 既に動きを止めてしまったこの殺人鬼を、シキをどうするつもりなのか。
 ……こんな大きなモノ、隠し通せるはずもない。
 志貴がここまで歩いてきたら。いや、月がもう少し明るく照らしたなら。
 そう考えて秋葉は身震いする。破滅がすぐそこに迫っていた。
 落ち着いた振りを装い、言い訳を考えながら、秋葉は歩き出す。階段の踊り
場に打ち棄てられたシキの遺体は琥珀が処理してくれると期待して。
 その事だけは、なんとしても志貴に悟られるわけにはいかなかった。

「さっきすごい音がしてたけど、お前、何かしてたか?」
「え?」

 けれど、のんびりとした志貴の台詞に、秋葉は再び言葉を失った。
 振り返った秋葉の視線を、海原のように穏やかな志貴の瞳が受け止める。
 
「知りませんけど……」
「そっか。まあ、いいけど」

 近寄ってきた秋葉を、不意に志貴が軽く抱擁する。
 自分を包み込む硬い感触に秋葉の瞳がゆれた。

「え? に、兄さん」
「さっき、琥珀さんに会った」

 その言葉は、確実に秋葉の心臓を冷たく握り締めた。
 海、それも真冬の波に晒されたかのように、心が縮み上がるという感覚を秋
葉は感じていた。志貴の腕の中にいるという事実すら凍えてしまうほどに。

「そこに転がってる、シキを殺しに来たんだって、な」
「……っ!」

 ぱくぱくと、秋葉は溺れ、喘ぐように呼吸を乱した。
 琥珀が完全には信用できないことは知っていた。彼女が遠野の家に恨みを持
っていたことを誰より理解していたのは自分だったから。遠野の家に復讐する
つもりでいたことも、うすうす感じ取っていた。
 けれど。
 こんなやり方は酷い、そう思わずにはいられない仕打ち。

「俺とは違う、お前の本当の兄貴だって」
「ちが、違う、違います。あの人は兄さんなんかじゃ、ない!」

 きつく志貴の胸元を握り締めて。
 あくまで必死に首を振る秋葉に、志貴は秋葉を抱く力を少し強めた。
 
「兄さん?」
「わかってる。もういいんだ、琥珀さんから全部聞いたから」

 その声の中に罪を責める色合いはまるでない。
 だがそれだけに、志貴が知った事柄の大きさが伝わる。
 もはや諦める他は無くて、秋葉は全身から力を抜く。そうすると、当然なが
ら志貴の抱擁にただその身をゆだねることになる。そんな自分の置かれた状況
をおぼろげに認識して、秋葉の顔に血が上る。

「あああの、兄さん。どうして?」
「俺は秋葉の兄貴じゃないんだ。秋葉も知っていたんだな」

 少し哀しそうな声。抱きしめられていてはその表情を見ることも叶わない。
 けれど間近に迫った破局の瞬間を前にして、秋葉の胸は高鳴る。
 今は、志貴の顔をしっかりと見ていたかった。これ志貴の事で志貴を諦める
くらいなら、最初から無理を通して彼を遠野家に呼び戻したりはしていない。

「と、とにかく離してください、兄さん」
「そっか」

 その言葉の響きには、深さが増している。
 けれど、秋葉は抱擁から逃れた自らの鼓動を押さえる事に必死で、そこまで
気を回すゆとりはない。

「……だったら……」
「え?」
 
 その瞬間、秋葉は志貴の姿を見失う。

「オレの取るべき道は一つ、だな」

 気付いた時は、志貴の抜き手が深く秋葉の腹部を貫いていた。
 気が遠くなるほどの強い衝撃を覚え、秋葉は奇妙に納得する。
 
「琥、珀……っ」

 琥珀が最後の一手を託したのは、よりにもよって最愛の人間だったのだと。
 そう、七夜が自分のような化物を狩る血筋であることを彼女は知っていたの
だろう。だから、志貴に手を下させるのは自然な流れかもしれない。
 そしてそれは、秋葉に対してはこの上もなく効果的で、鮮やかな復讐。
 秋葉に文句のつけられようはずもなかった。
 志貴に殺されるならそれも構わないと、秋葉は穏やかに意識を手放した。

 けれど、意識を失った秋葉に振り下ろされるはずの一撃は訪れなかった。
 志貴は優しく秋葉の身体を抱きかかえる。そして階段を降り、踊り場に転が
るシキの身体を一瞥すると、そのまま階下の闇の中へと消えた。
 そんな二人を見送るように、虚ろだったシキの瞳が僅かに縮んだ。



 自分の「能力」はつくづく生産的ではないな、と志貴は苦笑する。
 獲物を目の前にして、今も彼の両眼は秋葉の身体を走る幾筋かの「死線」を
あぶり出しのように見せている。けれど、そんなモノ何の役にも立たない。
 志貴に秋葉を殺すまでの覚悟がない以上、そこには何の意味もない。
 だから、代わりに志貴が取り出したのは革の手錠と、首輪。
 どこか沈痛な、だけど愉しげな表情で、滑らかな感触を確かめる。
 そうして、今も瞼を閉じたままの秋葉に近づく。

「ん……」

 目覚めた秋葉は、自分がひどく不自然な格好で固定されている事に気付いた。
 揃えて差し上げられた両腕は、革の枷で動きを封じられている。その先に伸
びる鎖が、目覚めた秋葉の動きに合わせて耳障りな音を上げた。
 さらに、喉に感じる違和感はなんだと言うのか。
 周囲を見まわす。天窓から漏れる月光だけが光源の、殺風景な教室。

「な、な、な」

 見覚えのない場所。拘束された身体。時間はそれほど経過していない。
 なによりここは、あの世ではない。
 自分の置かれている状況が理解できなくて、秋葉は呆然とする。
 やがて、力任せに腕を引く。革の感触が痛みとして手首に届いた。

「どういうこと? 誰かいないの?」

 狭くはない部屋の中に人影を求めて、秋葉は首を巡らせる。
 けれど、答える声はない。
 檻髪の力を発動させて、拘束を解こうと天井を振り仰いだ時。

「お目覚めか、秋葉」
「兄さん! 一体これは何の真似ですか」

 不意に背後から聞こえた志貴の声に向けて、秋葉は鎖ごと身体を捻る。そう
して身を伸ばして噛みつかんばかりに志貴に怒鳴りかかった。
 その頬に触れる、ひんやりとした感触。志貴がまるでそのために捧げられて
いるかのような格好の秋葉の唇に自分のそれを重ねた。
 目を見開いて、秋葉が抗議の声をあげようとした。それが志貴の舌を迎え入
れる事になるなどとは、まるで考えずに。

「ん! んーっ、んっ!」

 じたばたと暴れる。けれど、しっかりと後頭部を押さえつける志貴の抱擁は
秋葉を逃れさせたりはしない。思いのままに秋葉の口中を犯しつくすだけ。
 その滑らかな歯を舐め上げ、僅かにざらつく舌に巻きつく。そして届く限り
の粘膜を味わい、唾液を飲み下した。やがて、秋葉の腕から力が抜けたことを
見計らうと、名残を惜しむように薄い唇に柔らかく噛む。

「兄さん……どうして?」
「俺は秋葉の兄さんにはなれなかったんだよな」

 秋葉の質問には答えることなく。
 ぽつり、唇を離した志貴がそんな言葉を漏らした。
 その蒼い瞳が秋葉を静かに見据えている。

「なっ……!」

 志貴の表情はこの上もなく哀しげで、その姿そのものが儚い幻のよう。
 ゆっくりと手を伸ばすと、志貴が少しほつれて口元に張り付いた秋葉の髪を
整えた。それは志貴が確かにこの場に存在している事の証明。
 その手付きは秋葉の知る優しい志貴のまま。けれど、今の志貴が持つ雰囲気
は恐ろしく現実感を欠落させていた。

「俺は秋葉の兄貴じゃなかった。秋葉のシキはちゃんと別にいた」
「そ、それは……」
「だからさ、俺はこのままじゃ遠野の家にはいられない」
 
 言いながら志貴は両手で秋葉の身体を抱きしめる。
 目の前に広がった赤い髪に顔を埋めて、志貴は微笑んだ。

「秋葉の兄貴でない俺は、また屋敷から出て行かないといけないだろ?」
「そんな、そんなコト、ないっ!」

 その台詞は、この異常な状況に置かれている秋葉の認識を吹き飛ばした。
 爪先立ちの不安定な体勢で、それでも必死に秋葉は首を振った。
 志貴の言葉こそ、秋葉の最も恐れていたものだったから。

「貴方は私の兄さんです! たとえ誰が認めなくても、私が許すんだから!」

 それこそが秋葉の本心。志貴を兄と定めた偽りの裏に隠していたちっぽけな
真実の結晶。じわり、と涙が頬を伝う。

「こんな俺の事を兄貴と認めてくれるのか?」

 ここ数日、さんざん遠野家には相応しくないと志貴を罵倒していた者の言葉
とは思えない響き。志貴は小さく首を傾げて苦笑いを浮かべた。
 その、何かを諦めたような表情が秋葉の癇に障った。

「当たり前ですっ! 兄さんは……私の兄さんはもう貴方だけなんです! だ
から、お願いですから出て行くなんていわないで下さい」
 
 そう言って秋葉は不自由な身体を捻り、振り向いこうとする。
 けれど、志貴がやんわりと秋葉を抱く力を強めてその動きを封じた。
 首筋に吐息を感じて、秋葉は小さく鼻を鳴らす。せめて、伝えておかなけれ
ばならない言葉があった。

「一緒に、いたいんです」 

 それは、どんなに鈍感な人間にも通じるほどに真摯な告白。
 志貴が僅かに目を見開いた。
 けれど、志貴は軽く首を振って湧き上がった想い……独占欲とでも呼べそう
な感情……を追い払う。
 そして、そこに浮かんでいたのは残酷なほどに冷たい蒼の輝き。
 志貴は、そっとその両手を伸ばして、秋葉の胸を手中に収めた。

「それなら、このまま大人しくしていてくれるかな?」
「え……」

 呆けたような、秋葉の声。


                                              
                                            《続く》