出逢いの庭で

                       押野真人

 

 

天上には銀の円盤。冴え冴えとした冷たい光の雫は、殺人貴の守護する姫君
の眷属に大いなる力を与える。豊穣の大地に望まれた存在である姫君に最大の
加護をもたらすのが、無慈悲な天体の輝きであるなど、一体どんな皮肉か。

 ただ、その事実は姫君の正体を雄弁に物語る。彼女は結局のところ人類とは
相容れない存在でしかないのだ、と。所詮人に仇成すだけの存在と糾弾したシ
エルの言葉は全く正しいものだと、殺人貴は深い懐かしさと共に回想する。

 殺人貴にも、莫迦な事を考えていると言う自覚はあった。姫君には姫君の役
割があり、その存在を責める事は誰にも出来はしないのだから。
 むしろ責められるべきは自分だとも考える。人の身でありながらその種を裏
切り、友も血族も捨て去った自分こそシエルの糾弾の的に相応しい、と。

「あー、志貴ってばまたなんか悪い事考えてるっ」

 脳天気な声を響かせたのは件の姫君。吸血種の最高位に位置する真祖の一人
でありながら、その眷属を狩る事を存在意義とする意味では彼女もまた叛逆の
徒だった。
 そう考えて、殺人貴は唇の端を吊り上げた。

「その笑い方、わたし好きじゃない」

 途端に姫君は眉を顰めて殺人貴を睨め付ける。何処か拗ねたようなその仕草
は、かつての彼女を知るものならば驚愕したであろう可憐さ。けれど、その表
情も、捧げられた殺人貴の瞳には映らない。

 瞼の上に厚く巻かれた灰色の包帯が、姫君の姿を覆い隠している。
 殺人貴は盲いているわけではなく、細かな文様の描かれた布地は傷を癒すた
めのものではなかった。そこに込められた役割は封印の業、全ての宿命を見透
かす彼の瞳を闇に閉ざす為に。殺人貴は今もその視界を閉ざしている。

 故に、姫君の無防備な姿を眼にした人間はいない。風吹く城の中庭に二本の
足で立つ者は殺人貴と姫君くらいだったから。

 それでも、姫君の行為は無意味ではない。殺人貴は正確に姫君の姿を思い描
く事が出来る。そして、その包帯の下の澄んだ瞳を知っているから、姫君は安
心して殺人貴に身を委ねられるのだ。

 ――だから、その瞳を曇らすような自虐的な笑いは意に染まなかった。

「なんか、やだ」
「そうか?」
「むー……えい!」

 全ての理由を込めた言葉を無視された姫君は、その細い指先で殺人貴の頬を
強くつねり上げた。それは幼稚ともいえる報復。そこまでさせておいて、それ
でも殺人貴の顔からは嘲笑が消えない。
 業を煮やした姫君が爪を立てる。その気になれば万物を貫き通す魔爪を。

「いたたたたっ! ……何すんだアルクェイドっ!」
「よし、いつもの志貴に戻った」

 悲鳴と共に、殺人貴――遠野志貴は、アルクェイドを怒鳴りつけた。
 けれど、アルクェイドはまるで怖れた様子も無い。それはそうだろう、言葉
こそ乱暴になっているが、志貴の周囲からは先程までの気配が消えている。

 志貴の年齢にそぐう、すなわち青年と呼ぶには少し早いくらいの雰囲気。そ
の暖かな気配を感じてアルクェイドはにんまりと笑う。
 逆に志貴は不機嫌なまま、アルクェイドに背を向けた。やはり気になるのか、
アルクェイドは少しだけ神妙そうな声色でその背中に声をかける。

「志貴……怒った?」
「いや、呆れただけ。オマエって本当に脳天気に出来てるんだなって」
「もー、またそんなコトいう。そうじゃなくて、志貴が後ろ向きなだけだよ」

 頬を膨らませてアルクェイドは抗議する。
 時折、志貴はこうして塞ぎ込む。死徒を葬った後、埋葬機関と事を構えた後、
そして人が死んだ時。アルクェイドには理解できない理由で志貴は暗い感情に
身を浸し、彼女に構ってくれなくなるのだ。

 それがアルクェイドには気に食わない。
 そんな思いとは裏腹に、大きな欠伸が一つこぼれた。アルクェイドの中で張
り詰めかけていた緊張が、文字通り一息に抜ける。

「わたし、寝るかも」
「……そっか」
「ちょっと長く掛かりそうだから、志貴も気晴らしに出掛ければ?」

 アルクェイドの誘いに、志貴はそっと首を振った。
 長い眠り、それは時折アルクェイドに訪れる。血族の摂理に反した生き方が
その眠りをもたらしていた。それはつまり、アルクェイドが血液を摂取してい
ないという単純な事実を示す。
 そして、眠りの間隔は次第に短くなってきている。
 
「何なら俺の血を吸うか?」
「やだ」

 意を決して訊ねかけた志貴の言葉を、しかしアルクェイドは反射的に、そし
てにべも無く切り捨てる。
 その台詞は、今一番聞きたくなかったものだったから。

「志貴の血なんて吸いたくない」
「……何?」

 かつてアルクェイドは言った。
 志貴の事が好きだから、血を吸わないのだと。
 今の彼女とはまるで違う真っ直ぐな瞳で、志貴を見つめたのだ。

「今の志貴、無理してる。そんな血なんて飲んでも、きっと美味しくない」
「アルクェイド?」
「わたしは全部欲しいの。血だけが目当てならきっととっくに吸い尽くしてる。
志貴の心も体も視線も欲望も、全部わたしに向けてよ。そんな風に血だけくれ
ても全然嬉しくないっ!」

 最後は叫び。そこに込められていたのは怒りと、そして強烈な愛情。
 気圧されたように立ち尽くす志貴を眺め、アルクェイドは冷たく微笑む。そ
の瞳から零れる涙の雫が志貴に見つからない事を祈りながら。
 偽りは欲しくないから、アルクェイドは志貴に手を差し伸べる。

「ねえ志貴、かつて魔法と呼ばれた技を見せてあげようか?」

 唐突に、アルクェイドはそんな事を口にする。
 話題の転換に乗り損なって、志貴は戸惑いをその頬に浮かべた。

「今じゃこんな技、恥ずかしくて全然魔法なんて呼べないけど。それでもきっ
と志貴の役には立つと思うから」

 普段の自分なら、絶対にこんな提案はしない。
 そう思いながらもアルクェイドはこの地に満ちる魔力を掌に集める。

「おい、アルクェイド」
「じゃあね、後で迎えに行くから」

 月光が凝集するように、志貴の姿を包む。それは蛍のような柔らかな光とな
り、志貴の体を覆い隠した。その存在が大気に溶けるように、消える。
 一人残されたアルクェイドは、小さく微笑んだ。

「いやだって言っても、絶対に連れ戻すから」

 誰がなんと言おうと、志貴はアルクェイドのもの。
 彼女の血を受け入れた唯一の人間ならば当然のこと。逆にそこまでして繋ぎ
止めた志貴をたとえ一時でも解き放った自分の行為の理由を求めて、アルクェ
イドは小さく首をかしげた。

「なんていうかな、けじめ、みたいな感じ」

 誰に言うでもなく、そう呟く。
 その言葉を聞いたのは多分、ひとりだけ。
 アルクェイドの我が侭を恨めしそうに眺めている一匹の仔猫だけ。



「アルクェイドっ!」
 
 叫んだ声は届かない。ただ、自分の存在が希薄になる。
 それは、まるで生命が消えて行く様。志貴にとって馴染み深いその感覚は、
何度味わっても慣れることの無い忌まわしいもの。

 取り乱したように放った声に応えもない。
 それどころか、今まで感じていたアルクェイドの気配も、中庭の隅でこちら
を伺っていたその使い魔の息遣いも、ここにはない。

 途方に暮れる志貴の頬を、冷たい風が撫でた。
 鼻腔に流れ込む、何処か懐かしい緑の香り。それはブリュンスタッドの広大
な中庭に広がる草原とは別種の木々のもの。ただ蒼い月の光だけが降り注ぐ肌
触りだけは同じ。

「まさか、ここは」

 その香りから、自分の立っている場所が理解される。アルクェイドの意図を
推し量る思考が、震える手をその瞼を覆う包帯に掛けさせた。
 けれど、確かめるには包帯を外すまでもなく。

「兄さん、なの?」

 懐かしい声が志貴を呼んだ。
 自分が何処に立っているのかが明確になる。もっとも彼女がいる、それだけ
で志貴には場所なんて意味がない。それでもここがあの中庭であることを、志
貴は確信を持って断じる事が出来る。
 
 包帯を外すわけにはいかない、再び訪れるとは思えなかったこの庭で秋葉の
想い出を破壊する事は決して許されない罪だから。
 だから、志貴は努めて優しい声で呼び掛けた。

「……ああ、秋葉か」

 小さく、けれど鋭く息を吸う音が志貴の鼓膜を震わせる。
 続く懐かしいあの怒声を予想して、思わず耳に手をあてがう。
 けれど衝撃は志貴が考えた場所ではなく、彼の腹部を急襲する。

「なっ……!」
「兄さん! 兄さん兄さん兄さんっっ!!」

 それは、志貴の知る秋葉が取り得るはずも無い行動。完全な不意打ちに志貴
の身体がバランスを失う。絡み合った影を、落葉の絨毯が優しく受け止めた。
 
「ちょっと待て。いきなりどうした、秋葉」
「どうしたもこうしたもありませんっ、こんなに長い間一体何処をほっつき歩
いてたんですか。それとも、私がどんなに心配していたか兄さんはわからない
って言うんですか?」

 力任せに。秋葉が拳を固めて組み敷いた志貴の胸をひたすらに打つ。
 褥とした紅葉の色に染まった髪を振り乱し、泣きながら無抵抗の志貴を殴る
姿はまさに鬼気迫るもの。何者にも反論を許さない迫力があった。

 志貴の耳にも秋葉の嗚咽は届いていた。
 それが聞こえてしまえば、志貴に抵抗の術など無い。ただ自らが犯した罪の
重さに耐えることだけ。それだけが志貴に許された行動の全てだったから。

「兄さんが死にそうな目に遭う、その度に私がどんな思いをしていたか!」

 いつしか、秋葉は志貴を地面に押し付けるように手を止めていた。
 志貴の頬に落ちる、熱い雫。
 
「……悪かった」

 志貴は知っている。自分という歪んだ生命がどれほど危い均衡のもとに現世
に留まっているか。その為に、どれだけの反動が発生しているか。
 そして志貴の目の前にいる少女は、最も長くその生命を支え続けてきたのだ。
その意味で、秋葉は自分に対して所有権を主張する事だってできると志貴は考
えていた。それが、アルクェイドに引っ掛かりを与えていた。

 それは同時に、秋葉にとっての蜘蛛の糸でもあった。
 志貴の生命を共融する事で、秋葉は志貴の生存を知っていたのだから。

「もう、二度とこんな思いはしたくありません」
 
 秋葉の口から紛れもない本音が漏れた。
 志貴が消えて、寂寞とした屋敷の中でひたすらに帰りを待ち続けていた幼子
のような秋葉が心情を真っ直ぐに突き出す。それは、志貴の長い不在が終わっ
たのだと確かめるための言葉だった。

「秋葉、すまない」

 その意図を正確に理解してか、志貴はもう一度頭を下げる。
 二度目の謝罪は、未来に向けてのもの。
 その意図を感じ取った秋葉の瞳が剣呑な光を宿した。

「そうですか。また、姿をくらますつもりですか」

 冷え冷えとした声色が、この一年足らずで鍛え上げた殺人貴の精神を蝕むに
充分な鋭さをもって切込んでくる。動揺を表に出さぬよう、志貴は努めて平静
を装う。いや、装ったつもりになって立ち尽くした。
 志貴とて元は人間、そう短期間で変わるものでもない。

「今度こそ本当に出て行くと、仰るんですね」

 それが嬉しくて、秋葉はゆったりと微笑みを浮かべた。
 姿は変わり果てていても、確かに兄であるという確信を抱いて。
 
「ああ、もう帰っては来ない」
「随分と、勝手な言い草じゃありませんか?」

 そっと体を倒せば、それこそ夢にまで見た志貴の顔がある。秋葉は愛しげに
その頬に口付ける。そしてそのまま頬擦りする秋葉の様子に戸惑いながらも、
志貴は彼女の成すがままに身を委ねている。
 否、委ねさせられていた。

「……あき、は……」


 志貴を襲っていたのは全ての体液が凍りつくような悪寒。体の自由を奪われ
て、それでも志貴は動揺する素振りも無く、ただ穏やかに秋葉を見つめていた。
 その、包帯に閉ざされた双眸で。

「許しません。兄さんは私のものです。今も、以前も、そしてこれからも」

 秋葉の爪が志貴の頬に薄い傷痕を刻む。
 そこから零れる真紅の雫に、秋葉が唇を重ねた。

「兄さんの血の一滴も、全部私のもの。その事を教えこんであげます」

 それが、秋葉の宣戦布告だった。

                                          《続く》