わたしは志貴様のお部屋の前にいます。 時刻は午前7時前。 居間でかけていたクラッシックも終わり、たぶん秋葉様が紅茶をたしなまれている時刻です。 本来であれば、秋葉様は6時には出発していなければなりません。 しかし志貴様が戻られてから、志貴様の起きられる時刻に会わせて出発するようになられました。 扉の前に立つ度にわたしは緊張します。 手にはアイロンかけした学生服とワイシャツ、そして靴下。 今日志貴様がお召しになられる服です。 皺にならないようにそっと運んで。 わたしはここにくるだけで体温が1度あがるようです。 まずは軽くノックします。 返事はありません。 「……志貴様」 ご主人様のお名前をお呼びします。 でも返事はありません。 今度はノックをして、お呼びします。 やはり返事はありません。 「――失礼します」 わたしはノブに手をかけ、そっと志貴様のお部屋に入ります。 机と椅子、そして暖炉とベットだけといういたってシンプルな造りの部屋は、毎朝訪れるなじみ深いところでした。 ベットには身動き一つしない志貴様がまだ深い眠りにつかれています。 わたしはまずカーテンを開けます。 朝日が入ってきて、部屋が明るくなります。 朝焼けもきれいで、あんなに薄暗かった遠野の森が美しい緑色に華やいで見えるのです。 そして窓を開け、空気を入れ替えます。 少し寒いけれども心地よい、肌を引き締めるような朝の新鮮な風が入り込んできます。 そして――。 とくん と、心臓がひとつ鼓動をうちます。 ベットへ視線を戻しますと、そこには志貴様が寝ておられます。 白い陶磁器のような肌、引き締まった口元、布団から出ている肩はいやがおうでも男性であることを思わせました。 「……志貴様」 わたしはお呼びします。 しかし目覚めません。 (――綺麗) しばし見とれます。 そこにいるのは、『無垢』なるものでした。 深く眠られる志貴様は、あまりにも深く寝ているため、最初は死んでいるのではないか、と不謹慎に思ってしまったこともあります。 そっと胸をみると、浅く、でも規則正しく呼吸されています。 この浅い呼吸のため、最初、呼吸が止まっているのか、と不謹慎に思ってしまったこともあります。 ここに眠っている方は、わたしのご主人様。 なにを夢見ていられるのでしょう。 その深い眠りでまどろんでいる志貴様を見るたびに、思ってしまいます。 そして今度は声を出さずに、誰にも聞こえないように、口の中でそっと囁いてみます。 ――志貴ちゃん。 昔の呼び名。 昔、わたしに笑みをくれた志貴ちゃん。 この遠野家という、重く陰鬱な世界の中、明るく朗らかに遊んでくれた男の子。 わたしたちは、前当主槙久様が反転しないように、引き取られた生け贄の子羊。 巫浄の血を引き、共感者としての能力を持つわたしたちは、遠野家に住むただの贄でした。 でもそんなわたしに明るく笑いかけてくださったのは、志貴ちゃんでした。 秋葉様と四季様、そして志貴ちゃんとわたし――この4名で、よく、あの遠野の森で遊んだのです。 わたしはついていくので精一杯でした。 でも、ついていくだけで良かったのです。 子供のころは、なんでも夢が叶うと簡単に信じていて、だからころげるように走り回る志貴ちゃんと一緒にいるだけで、一緒に走れるだけで、一緒に遊べるだけで、わたしは羊であることを忘れることができたのですから。 姉さんは、ただ、窓からこちらを見ているばかりでしたが――。 でも、八年前。 あの事件から、志貴ちゃんがお屋敷から離れてから。 わたしは夢は叶わないのだということを知ったのでした。 わたしの中の無機質な『何か』。 それがわたしを殻に包み込んだのです。 夜は明けない。 ずっと闇が続く。 夢など叶わない、と――。 ないものねだりはしてはならないのだと――。 わたしは走ることをやめ、遊ぶことをやめ、そして笑うことをやめ、ないものねだりをするのはやめたのでした。 いえ、やめたというものではありません。 多分、忘れたのだと思います。 笑うということを忘れたのです。 そしてこの遠野家に仕えるようになり、やはりわたしは人形になることが定めであることを知ったのでした。 姉さんがわたしをかばって、あのような不潔な行為を無理強いされていることをしった時――わたしは吐きました。 体の中にあるすべてを吐き出したくなったのです。 巫浄の血を、そしてそんな目にあう女性であることを、すべて吐き出したかったのです。 それからです、怖くなったのは。 姉さんが受けた辱めを、わたしが受けるのではないか、と。 せっかく姉さんが体をはって守ってくれた体です。 わたしも守らなければならない、と自然に思いました。 気がつくと、他の人に触れられるのがとても怖い、と感じるようになっていました。 お屋敷でしか過ごしてしませんから、知っている方など限られていますし、ある程度は顔見知りになっているというのに。 男性の方の視線が怖かったのです。 姉さんが守ってくれたこの体を辱められるのではないか? そう思うだけで怖くなります。 また、生理の時は、気分が本当に悪くなります。 下腹がずきりと響くのです。 内蔵がぎゅっと収斂するような痛み――。 その痛みがずっと何日も、下腹と脊髄に残って――。 姉さんは、翡翠ちゃんは重い方なのねー、と笑って薬を調合してくれましたが。 そのにニブく重く響く痛みは、薬を飲んだとしても、下腹を圧迫し続けるのです。 そして匂いがするのです。 気のせい、なのかもしれません。 しかし耐え難い匂いが、わたしから漂うのです。 血も粘りのあるどろりとした黒く澱んだものがながれ、何度もナプキンを取り替えなくてはなりません。 それは、わたしを女性だ、といっているようで。 姉さんのような、辱めをうけるのだ、といっているようで。 巫浄の血だから、そのためにいるのだ、といっているようで。 そんな時に男性の方の視線を受けると、もどしそうになります。 そのためにこの家にいるのだと、なにをされるのかをみなさんはご存じで、その辱めをうけるために自分がこの世界に存在しているのだと、いっているのです。 ――だから、わたしは人形になったのです。 人形になれば、人形になれれば、わたしはそういったものが無視できるようになりました。 人形には性別はありません。 わたしは虚ろな人形でよいのです。 笑うことなどいりません。 わたしは、人形、なのです。 (――あ) 志貴様の頬にうっすらと血の気が戻ってきました。 陶磁器のようなそれが、人間の肌に――。 とくん また心臓がなります。 ゆっくりとスローモーションで花が開いていく様を見るように、志貴様の頬に血が通い始めます。 呼吸もより深く、正常になっていきます。 そこにいるのは、志貴ちゃん。 わたしに昔笑みをくれた男の子。 そこにいるのは志貴様。 わたしが仕えるご主人様。 ううん、といって志貴様は目を開けられました。 どくん 今度は大きく心臓がなります。 そしてその目がひらき――大きなそしてまん丸い目をわたしに向けて、そっと笑うのです。 「おはよう――翡翠」 その言葉を聞くと、わたしの心臓はまた大きくなります。 体をゆらしてしまうぐらい大きく。 わたしはそれを隠すため、 「おはようございます、志貴様」 と挨拶し、深々とお辞儀します。 「――今日もいい天気だね」 はい、と答えながら、わたしは着替えをそっとベットに置くと、 「秋葉様は下でお待ちになっております」 と伝え、 「では失礼します」 再び深々とお辞儀して、部屋を出ていこうとしました。 「あ、待って」 振り返った途端、呼び止められて、ビクンと体が動いてしまいます。 気づかれてしまいます。 「はい、何でしょうか?」 うわずりそうになる声をなんとか誤魔化して返事をしました。 振り返ると、朝日の中、志貴様はにっこりと、笑っていました。 目を細め、本当にまぶしそうに。 「いつもありがとう、翡翠」 「いえ……」 わたしは俯いてしまいます。顔が火照ってくるのが解りました。 「わたしは志貴様にお仕えしていますから」 ひんやりとしたものがわたしの額にふれたのです。 それは 志貴様の手 でした。 それはひんやりと心地よく、安心できるものでした。 「翡翠、顔が赤いけど――熱はない?」 そういってのぞき込んでくるのです。 あの優しい瞳が、眼鏡越しにわたしに微笑んでいるのです。 さらに顔が熱くなります。 その火照った顔を志貴様の手が冷やしてくれるというのに、触れているところがさらに熱を持ち出すようでした。 「いえ、大丈夫です、熱などありません――志貴様」 わたしはなんとか志貴様の手を振り払うと、再びお辞儀をして、部屋から出ていこうとする。 「でも、翡翠」 志貴様の声がわたしの体を縛り付けます。 「は、なんでしょうか?」 「なんかよいことがあった?」 そうにっこりと笑いかけてくるのです。 わたはいぶかしげに、眉を寄せました。 「いや――翡翠が笑っているから、さ」 ドキン 心臓が大きくなります。 なにか適当に返事をしたと思います。 多分、粗相はなかったと思います。そう信じたいです。 わたしは急いで、部屋を出ました。 扉を閉じて、わたしは思わずため息を吐きます。 体中にある熱いなにかを吐き出すように。 両手で自分の頬に手を当ててみます。 熱く火照っているのがわかります。 (いや――翡翠が笑っているから、さ) 今さっきの志貴様の言葉を思い出します。 わたしは笑っていたのでしょうか。 わたしは笑えたのでしょうか。 わたしは人形です。人ではない『何か』――。 だから笑う必要はないし、笑うことを知らない。 でも―― わたしは志貴様が戻ってこられてから、忘れていたものを思い出した気がします。 遠野家では、わたしは人形でよかったというのに――。 そうであればわたしは視線に曝されることはないというのに。 でも、志貴様は男性であるというのに、見つめられても、怖くありません。 触れられても怖くなく、吐き気もしません。 ただ心臓が大きく鼓動し、熱くなるだけで――。 どうやら、わたしは志貴様の前では人形ではいられないようです。 なぜでしょうか? そのことを考えていくと、ないものねだりしてしまいそうになります。 ないものねだりはしてはならない――そのことは十分知っているのですが、あえて志貴様にねだってもよいのでしょうか――。 志貴様だけが、たぶん、わたしのないものねだりをしても許してくださる方で――。 わたしを人形でない、翡翠に戻してくれるのでしょうね。 人形ではなく女の翡翠に。 わたしを包む無機質な『何か』から出してくれるのは志貴様だけ……。 志貴様だけが、女でいいよ、と言ってくださるのです。 そしてわたしはおまじないである名前をもう一度だけ呼んでみることにした。 「――志貴ちゃん」 そのおまじないだけが、わたしを人形から戻してくれるのです。 ないものねだりをしていい、女の翡翠に――。 了 |
あとがき |
阿羅本さんの寄稿作品を読みまして、あんな翡翠書いてみたいな、と思ったのがウンのツキ(笑) これが瑞香の翡翠です。 というよりひさしぶりにあの淡々とした地の文で書いているSSです。 あーうー、なんかラストよければすべてよし、で、明るいのか、暗いのか――はっきりわかりません。 翡翠って何考えているの? わからないところが多くて多くて。 だから、それを自分なりに掴みながら書いてみました。 そのため、起床から志貴を起こすまでを追ってみたわけです。 追ってみると、翡翠って、志貴以外何にも興味がない、ということになっていって……。 恋する乙女は無敵、というパターンです。 敵は無し、と書いて無敵と読む、みたいな(何が言いたいの?) 恋は盲目といいますか、それしか見えなくなるといいますか。 まぁ。 翡翠っぽく書けていたらいいかな、と思っていますので。 当初は「わたしは……」という題名でしたが、改題しました。 「わたしは……」もよかったのですが、どうしても無い物ねだりの話になっていったので。 じゃあこれは無い物ねだりの話かな? なんて思ったので。 「わたしは……」もよいタイトルなんですけどねぇ。 ……に人形、あるいは女の子、を入れれば、入れることができる、といゆータイトルで。 でも。 まぁ作品が違うタイトルを要求したので。 だから改題したのです。 それに合わせて、細部をちょこちょこと修正して1.5倍増量と(笑) ではまた別のSSで。 27th. March. 2002 #010 「わたしは……」から改題 |